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マルクスと自由・共産主義と自由 メモ

 「共産主義と自由」が取り上げられているので、科学的社会主義の「自由論」について遅まきながの学びのメモ。

その前に、最初に、この間の「講義」についての感想的意見。その後にメモ。

 ・今回メモしたのは、マルクスの自由論について、少し前に出た「いまここにある社会主義」の著者である松井暁さんの2011年の論稿 https://core.ac.uk/download/pdf/71785313.pdf そして、ヘーゲル研究に詳しい広島労教協の高村是懿氏の「科学的社会主義の自由論 『資本論』「三位一体的定式」の自由論 」からは自由と必然の関係を中心に・・・

 

議論になっているマルクスは『資本論』第三部第四八章の「三位一体的定式」の記述

  「自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。野蛮人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会諸形態において、ありうべきすべての生産諸様式のもとで、彼〔人〕は、そうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに、諸欲求が拡大するため、自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって——盲目的な支配力としてのそれによって——支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、すなわち、最小の力の支出で、みずからの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうこと、この点にだけありうる。

しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の王国である。この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が——といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるが——始まる。労働日の短縮が根本条件である」

  ≪ 志位講演 「共産主義と自由」 について ≫

〇マルクスの言う「自由」は、共同体での自由である。今ある「自由」とは質的にことなる。が、その言及がない /自由論の「そもそも」論が欠落している。

 → 労働時間の短縮・自由時間の拡大 だけでは「コスパ」「タイパ」的な新自由的価値観にからめとられる危惧をもつ

 

 *現在 一番短いのはデンマーク29時間  北欧など週休2.8日(金曜は個人の判断で休み、半日、出勤)

 また、年金生活者は「自由に処分できる時間」を持てるようになっている(国や制度で給付額の多寡の課題はあるが)

 

〇物質的生産(「必然の国」)の範疇 ケア労働の不在。

  たしかに「使用価値の生産」の時間は短縮されるかもれないが、ケア労働は全面的に拡張されるのではないか(社会保障制度のなかったマルクスの時代と違い、ケア労働が、社会を維持する労働が定着している現状との齟齬/フェミニズムからの批判の焦点の1つでもある)

  歴史の前提条件として「生の生産と再生産」について ドイツイデオロギーでは「生の生産、すなわち労働のおける自分自身の、生殖においては他人、生の生産・・・」と述べられている。社会の物質的土台は、ケア分野を含むと考えるべきと思う。

 

「三位一体的定式」ののちに書かれた「資本論Ⅰ部」では、「真の自由の国」の記述 (志位・資料集「1819)7/.4追記

・ 「人間的な教養のための、精神的発達のための、社会的役割を遂行するための、社会的交流のための、肉体的・精神的生命力の自由な活動のための時間」

・「社会的労働日のうちで物質的生産のために必要な部分(必然性の国)がそれだけ短くなり、したがって、諸個人の自由な精神的および社会的な活動のために獲得される時間部分(真の自由な国)が、それだけ大きくなる」

ここでは、「社会的役割の遂行、活動・交流」という、共同体の強化・発展に必要な活動が視野に入っている。/生活を維持するための労働し対立して「彼岸」に「真の自由の国」がある、という当初の図式的なきりわけから明らかに発展している。/取り上げるとすれば、より深められた資本論Ⅰ部の記述を使うべきである

 

〇「生産力の発展」の現在的位置との関連

  生産力が発展し、労働時間が短縮。その彼岸である自由時間で「人間の全面的な発達」(後述)が、さらなる生産力の発展をもたらす・・と、いわゆる「加速主義」的な経調がなされるが、今や、地球環境から略奪が、深刻な「物質代謝の亀裂」をもたらしている。そのもとで「工業的農業・畜産」にかわる食料生産が「短時間」でおこなえるのか。プラチック・PFASなど化学物質に依拠しない「生活」とは、ただ単に「利便性」のよい生活と言えるのか・・・どういう解決がまっているか、予測不能であるが・・・

 ここでも、人類が手にすべき自由とは何か、が鋭く問われると思う。

 

〇文化・芸術、スポーツなどの位置づけ 「真の自由の王国」だけのものか

 これは高村氏の批判的考察(自由と必然を統一的にとらえる科学的社会主義の自由論から逸脱し、「必然」の彼岸に「自由」をおいている )に関することだが、人の生産は、意識的に共同的に行う点。共同体の結束をたかめることは、重要な生存戦略であり、世界各地で太古から、踊り、うた、祭り、神話などものがたりが、共通して生まれているのは、そこに必然性があったからではないか。ゴリラ研究で著名な山極寿一氏は、言葉よりさきに、踊りなど身体的な共鳴が絆を深める役割をになった、と示唆している。

 「真の自由の国」では、個人の能力を思いのままに発展させる、ことが強調されるが、それらの行為は、共同して生きてきた人類の必然性が土台にあるように思う。

 「三位一体的定式」でも、必然性の国が土台であることが強調されている。この部分は、1865年に書かれた第一校であり、マルクスが完成させていれば、科学的社会主義の自由論を踏まえて、物質代謝、共同体の研究を踏まえ、より豊かに展開されていたと思う〈個人の感想だが〉。

 

〇「個人の能力の全面的発達が目的となる」という規定

 三位一体的定式では「能力の発展じたいが目的となる」という表現で、「全面的発達が目的となる」とは言っていない。また25日の学習会の資料でも「完全で自由な発達」という表現である。

  機械の附属物とされた状態から、経済の発展の中で、様々な能力がもとめられるとして「全面的発達」の可能性について触れた部分はあるとおもうが、「全面的発達が目的」という規定委は、どこで展開されているのだろう。

  だいたい歌が苦手、スポーツが苦手とか、文学が好きとか、宇宙の研究が・・とか、人さまざまである。それぞれが思いのままに能力を伸ばせるというのと、「全面的発達が目的」として、すべてのことに挑戦が求められる社会とは異質なものと思う。

 この言葉には、ずっと違和感がある。

 

〇なにより重要なことは 「今ここにある社会主義・共産主義」

 「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれに向けて形成されるべき何らかの理想ではない。われわれは現状を止揚する現実の運動を共産主義と名付けている」 (「ドイツイデオロギー」)   

  

 労働時間の短縮、社会保障制度(いきていくためにどんなひどい条件でも働かざるを得ない事態に対し、「失業する権利」の保障)、教育、子どもの権利、女性差別禁止・・・バリ協定、「ビジネスと人権」規定、最低法人税の合意(「底辺への競争」の制限)など、新自由主義の暴走とともに、資本の横暴を規制するルール、制度づくりも大きく進歩してきた。

 これらは労働者階級、人民大衆の運動が築き上げたものである。

  それらは、未来社会への道であるとともに、この現実の運動の結果の積み重ねが決定的だと思う。

どういう仕組みにより未来社会が運営されるかなど、新しい価値観の中で育った世代が、それまでの取り組みの到達点を引きついで創造していくだろうと思う。だから「今ここにある社会主義・共産主義の運動」がなにより大切である。

 

「講義」の最後に、現在のたたかいと地続きというくだりがあったのはよかったと思うが・・・ 「講義」全体は、意図が不明だし、一面的に理解される危うさも感じる・・・ 

科学的社会主義は人類の共通財産であり、大いにオープンに議論されていべきものであり、そのことを期待したい。

 

≪マルクス 資本論第3巻 佐々木隆治≫より

 ・人間的で持続可能な物質代謝を実現するための取り組みは階級闘争そのもの~ 気候危機への対処も生産システムの根本的変化が必要。階級闘争とエコロジー闘争は一体。同様のことはジェンダーの領域でも言える

・私達が再建するのは「社会的」生産における物質代謝だけではない~そもそも生産を「社会的」なものと「プライベート」な生活領域に分割したのは資本主義的生産関係。すなわち物象化による社会的生産領域の特権化 (メモ者 ジェンダー規範による「公的領域」と「私的領域」の分断、「私的領域」の軽視)

→ 私達は、物象化の克服をつうじて生活領域における労働の軽視の克服( メモ者 ケア労働 )しなくてはならない。また、生活領域における物質代謝の合理的かつ人間的な制御にも取り組まなければならない。

・生産および生活の全領域にわたる-「必然の国」における自由の実現をつうじて、それをこえた「自由の国」における「真の自由」を実現できると考えた。➡ 生きていくために必要なこの活動における自由とは区別される、活動そのものを自己目的とした領域の自由

・この構想は、晩年の研究で、よりラディカルなビジョンに発展する

 ★メモ者の感想

・「必然の国」における自由について、“生産を「社会的」なものと「プライベート」な生活領域に分割したのは資本主義的生産関係”“として、その克服が“生活領域における労働の軽視の克服”と“生活の在り方自体が、合理的かつ人間的に制御”されるとして、人間の「生の生産と再生産」自体が。大きく変容することを解明しているのは重要。以下の点も強調している。

・生産の在り方を根本的に規定するのは労働の在り方であり、人間が私的個人に分裂分断されている労働の在り方の変革がカギとなることを繰り返し強調している。/そそのもとで、「労働そのものが第一の生命欲求となる」(ゴーダ綱領批判)

・物質代謝の在り方の探求は、同時に、世代を継承するための人間と人間の関係・ジェンダー関係の探求につながる(「カール・マルクス」佐々木)

・マルクスの探求のその後の発展を踏まえ「必然の国」「自由の国」の構想を発展的にとらえていると思う

 

≪マルクスと自由 松井暁・専修大学教授≫ より

      

K・マルクスと自由概念の関係はきわめて複雑である。彼は資本主義社会における自由を徹底して批判し,共産主義社会を「真の自由の国」として展望した(MEWBd.25bS.828,訳1051頁)。

・ソ連崩壊~I・バーリンなど自由主義者からの批判が登場(Berlin1969)。マルクスのいう自由は自由主義における自由とは異質であって,必然的に市民的自由の抑圧に結び付くとされる /コミュニタリアンの代表者C・テイラーによる批判 マルクスの自由論は絶対的自由の追求という点で,近代的自由主義と同様の欠陥をもっている

➡問題意識  マルクスの自由論が,自由主義的自由論とどのような関係にあるのか,市民的自由の抑圧を必然的にもたらすのか,そして自由の追求を絶対的な目標とするのかという論点については,十分に解明されたとはいいがたい。これらの論点を解決しない限り,マルクスの思想体系における自由の位置づけは不明確なままである。/マルクス学派が共産主義社会を追求するならば,その社会で自由という価値はどのような地位を占めるのかという根本問題の解決が求められる

 

自由主義的自由論

(1)自由主義と自由

・自由主義の根本価値をめぐってそれ以外の価値、中立性・平等の重要性を求める見解が存在~こうした理解の相違が生まれるのは、究極的には自由主義がそもそも整合性のない思想だという点に存する6)。

→ 自由主義における自由の主体は個人。諸個人が自由に行為しうる社会。が,諸個人が自己利益の最大化をめざし,他者を自らにとっての手段としてしかみなさないような社会は,T・ホッブズの言う,万人の万人に対する闘争,戦争状態に帰着/一切の共同関係も秩序もない状況は,およそ社会とよぶに値しない。つまり自由社会は原理的にはそもそも成立しえない

 

・消極的自由の確保~戦争状態を防ぐために,諸個人に消極的自由を認めるかわりに,他者の同様な権利を侵害しないという,JS・ミルによって明示された危害禁止原理が課される(Mill1859)。のもとでの最大の自由の確保。今日の自由論の原型

 

(2)主体・障害・目的

・自由概念を検討する際に最も多く採用される枠組み~バーリンの消極的自由と積極的自由という二分法(Berlin1969)7)。

→ 自由主義者は前者のみを追求すべき自由概念とする。社会主義者は両者とも達成しようとする。/自由主義者からの批判 社会主義者の企図は失敗せざるをえず、消極的自由さえも保障できない結果に終わる。/社会主義者からの批判 消極的自由の保障のみでは資本主義社会に存する諸問題を解決できないる二つの自由を両立することは可能 /二分法はおおよそこのような含意をもつ。それは,自由主義と社会主義の対立点を明確化するうえでは有効であった。

G・マッカラムの自由概念~主体が目的を追求するうえで障害から自由,という三項関係が必ず備わる(MacCallum1976)8)

→自由の消極的積極的概念ともに三項関係を有する点では本質的相違はない。主体,障害,目的に何が入るかという点で異なるにすぎない。バーリンの二分法は,両者の相違面のみを強調して,共通面から目をそらせてしまう点で欠陥があると批判

・本論は、マルクスの自由概念を自由主義との対話を通じて練り直し再構築することにある。そこで、主にマッカラムの三項関係説を採用する

 

〇自由主義的自由論の構造を主体,障害,目的の面から概観していく

  • 主体~自由主義的自由論の二つの特色

第一の論点は,個人か集団か ~ 自由主義が自由の主体を個人に限定するのは,集団の自由が許容されると個人の自由と集団の自由が対立する場合があり,後者が優先される結果,個人の自由が抑圧される危険が生じるから10)。

 

第二の論点 経験的自己か本来的自己か~前者は今,存在するありままの自己。後者は本来あるべき理想としての自己

→自由主義では経験的自己から分離した本来的自己という概念は認められない。本来的自己を認めてしまうと,経験的自己がそれに従属させられてしまう危険があるから。

 

  • 障害(からの自由)

 自由主義的自由論~ 障害は個人の私的領域またはその延長としての秩序に外部から加えられる力(ルール、所有権、より良き生活の推奨など)を表す/消極的自由は,このような外部の力から自由

 

  • 目的

 通常,自由主義の推奨する自由は消極的自由/が、自由を語る以上,何らかの目的が想定されているはず。問題はその目的をどのような範囲に限定するか

→ 自生的秩序論は,この秩序を遵守する範囲に目的が限定される。自己所有権原理では,私的所有を侵害しない範囲に限定される。反全体主義では,経験的自己の有する私的選好の範囲に限定される。/逆にいえば,これらの範囲を超える目的を追求することは許されないのであり,自由主義的自由論においてもその目的は無限定ではない

*自由の目的に関する自由主義とマルクスの相違~それが存在するか否か,もしくはいずれの範囲が広いかではなくて,どのようにその範囲を設定するかの相違。

 

(3)市民的自由と絶対的自由

・自由主義を市民的自由という点からみる~ それは国家に権力を譲渡しながらも,それと引き換えに市民的自由に対する保護を認めさせる点で,一応は国家による市民的自由の抑圧を防止することが可能

→ が,第一に,私有財産制と市場経済を前提とした形式的な自由であり,完全な自由放任主義のもとでは,諸個人の生存が保障されず,市民的自由は内実を伴わなくなる14)。

  第二に,自由主義では諸個人に平等な消極的自由が保障されることで十分なのであって,諸個人の間の共同は課題とはならない。その結果,諸個人の間の交流は疎遠になる一方,国家や資本は,諸個人に対して大きな情報量を与えるから,結果的に上からの操作が可能な管理社会に陥りやすい。/特に自由主義では国家と資本の存在は永遠であると前提されるから,この傾向は一層大きい。

 

・絶対的自由という点からみる~ 自由主義者は,そもそも諸個人の絶対的自由の確保という動機をもつ。が,万人が戦争状態を避けるため,絶対的自由を私的領域の中におしとどめた。/私的領域の中での絶対的自由の確保

 

.マルクスの自遊論

・複数の自由概念による構造~ 制御的自由と人間的自由/ 人間的自由は、発展的自由と共同的自由と分析できる

 

  • 制御的自由 

「社会化された人間゛、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に制御し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最少の消費によって、自分たちの人間性にもっともふさしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である」

➡ 「必然性を認識し、自己と外界を支配する」という自由。その主体は、個人でなく「結合された生産者たち」/物質代謝の成果は、諸個人が享受するが、その社会集団の一員という資格によってであり、個人の資格ではない。

・「障害」 科学的知見の未発達、その時点の制限により、災難を防止ではない。大地震、環境破壊

*問題は、制御的自由を、個人の人格的自由とどのように関係づけるか

 

  • 人格的自由

 ・「本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。・・・〈必然性〉の国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、はじまるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてそのうえにのみ花を咲くことができるのである。労働日(時間)の短縮こそは根本条件である」 (第三部、三位一定定式)

→  アソシエートされた労働、生産力の高度化 = 生命欲求の充足・浪費の克服/労働時間の短縮

 

  • マルクスが『ドイツ・イデオロギー』 のなかで人格的自由と呼んだ概念に相当

 共同こそが個人がその素質をあらゆる方向 へ伸ばす手段なのである。したがって共同においてこそ人格的自由は可能になる。国家等々のような従来の代用された共同体においては人間的自由はただ,支配階級の境遇のなかで育成された諸個人にとってのみ,そしてただ,彼らが この階級の個人であったかぎりにおいてのみ,存在したにすぎない。……ほんとうの共同体において諸個人は彼らの連帯のなかで,またこの連帯をとおして同時に彼らの自由を手に入れる。…… ……自分たちのあらゆる社会成員たちとの生存条件を掌中ににぎる革命的プロレタリアたちの共同体の場合は,……これには諸個人は個人として参加する。それこそは諸個人の自由な発展と運動の諸条件を彼ら自身の制御下におく諸個の結合(もちろんいまの生産力の発展という 前提の枠内での)にほかならない。……一定の 条件の枠内で妨げられずに偶然性を楽しめ る……権利が,従来,人間的自由と呼ばれたの である」(ibid .Bd.3,SS.745,訳712頁)。

→ 1.人格的自由は「個人がその素質をあらゆる方向へ伸ばす」自由 ~ 発展的自由の側面

   2.「諸個人の自由な発展と運動の諸条件」が、共同体、結構の中でこそ可能 ~人格的自由は、共同の中で初めて可能。その共同関係は、個人として参加する人によって作られる/すなわち人格的自由は、共同関係に個人として参加する自由である・・・ 人格的自由の「共同的自由」の側面

    ★ 共同性=類的本質 ・他者との応答関係の中で「自己実現」するもの/ 資本主義=共同性という社会的関係が物象化し、物と物との関係、金銭関係として表出する

 

 〇 2つの側面を、主体、目的、障害の視点で見る

 ・発展的自由~主体 個人。/ 目的 諸個人が自由な活動の中で自己実現を見出し,自己の潜在能力を発展させること /障害~素質を発揮するための個人的資源が欠乏すること。より具体的には政治権力による市民的自由の抑圧や資本による搾取によって,潜在能力を発揮するための自由時間や資源が欠乏すること

 ・共同的自由 主体 個人 /目的 諸個人が自己の潜在能力を発展させるために,共同し交流すること/障害 共同や交流ができなくなるほどに, 諸個人が分断されること。これは疎外の 状況でもある

  

 *マルクスの共同的自由の概念~ 諸個人が共同する自由であり,諸個人が自発的に共同して 相互に交流することを意味する。共同的自由の 障害は,諸個人が分断された疎外の状況である。 もし,社会を代表すると自称する一部のエリー トが集団の自由の名のもとに,諸個人の自己実現を否定するような事態が生まれたとしたら, それは諸個人の間の交流が遮断され,疎外の状 況におかれているからである

 バーリンは,共同的自由が市民的自由の抑圧 をもたらすと主張したが,むしろ逆に共同的自 由が薄弱であることが市民的自由の抑圧の原因 64 なのである。

*類的本質~ 人間が個別性を超 えて自由に意識し,それを通じて共同関係をとり結ぶ存在であることを指す46)。自由に意識するのはあくまで個々人であり,この諸個人が各人の判断で共同関係を築き上げることによって 類的本質を実現する。7

 

  • 自由論の構造  ~ 有機的な構造連関
    •  制御的自由と人格的自由の関係

・制御的自由~人格的自由の前提条件として,集団的主体としての人間が客体としての自然や社会を制御する自由/力点 は客体の側におかれている。それは客体,また は客体との関係を自由(メモ者 法則にのっとって)に操作すること

・主体は集団~ある社会において人格的自由の追求のために必要な自由時間と資源をどれだけ享受できるかは,生産力の発展の程度に制約される。個々人の相違は相対化されるため、主体は集団であると理解すべきである。

・制御的自由と人格的自由についても, 前者が実現した後に,後者が可能になると理解 してよかろう。

? 制度的自由の獲得の程度におうじて、人格的自由が実現できるのではないか。/「利潤第一」によって歪められた生産力と共同社会における生産力との質的違い、が見えてこない

 

・が、価値の重要度では、人格的自由がうわまわる ➡? 制度的自由のうちにも、個人としての人格的自由の発展・実現が包摂されているのでは?

自由論の次元では、、人格的自由が価値的に制度的自由を優越する→制度的自由のために、人格的自由が制限されることが禁止されている ➡? 人格的自由もまた、「人と自然の物質代謝をかく乱」する領域は制限されるはず

 

  •  発展的自由と共同体的自由の関係

・従来の人格的自由は,国家のような代用された共同体において個人が支配階級に所属する限りで偶然的に有する権利にすぎなかった~これは人格的自由が自由主義社会においても不十分なかたちであれ存在した という認識が,マルクスにはあったことを示している。

→従来の 自由主義社会にも人格的自由は発展的自由のみを含んだ形で不十分ではあれ存在した。が, それが真の人格的自由になるためには,共同的 自由の側面を取り込むことで発展的自由を開花させなければならない、という主調

・発展的自由・・自由主義、特に平等自由主義においても、ある程度実現可能。⇔ これに対し、共同的自由は、個人が協働することによって得られるもの。自由主義の枠内では実現できない/ 共同的自由が、マルクスの自由論が自由主義的自由と一線を画するメルクマール

→? 共同的自由とはなにか

 

  •  市民的自由と絶対的自由

・発展的自由と共同的自由の関係を、市民的自由と絶対的自由の観点から捉え直してみる

・マルクスの社会主義 空想的でないのは、自由主義社会に生活する個人とそれを支える諸制度を前提に、共産主義社会により接近できる条件を徐々に創出しようとした点

→ ゆえに、国家による市民的自由の平等な分配という自由主義の方法を採用 /アナーキストによる国家の即時的解体と対峙し、過渡期の国家の必要性を認めたのは、正義・権利を通じた市民的自由の平等な分配を出発点として受容したから。

・重要なのは市民的自由が、発展的自由にとって不可欠と考えた/当初から、出版の自由など市民的自由を擁護したたかった

 

・共同的自由の重要な位置・・・諸個人は他者との共同関係を通じて自己実現の質量を高める。自己実現の自由の拡大

 (メモ 人と交流のない、人から評価もされない孤独な作業が、)

→ そこでは自己所有原理をはじめ私的領域の絶対的保護は社会の基底的概念ではなくなる

→ 絶対的に保護されていた私的領域は、共同的な領域への転化し、そこで維持されていた絶対的自由は低減する

・重要! 絶対的自由の低減は、市民的自由の抑圧を意味しない/共同的自由は「自由な人々の結合体」における自由であり、諸個人が自発的私的領域を社会(人々)に開放することで実現する自由=共同関係と民主主義の強化を通じて、市民的自由の保護と実質化を保障する

➡ 共同は人間の本質。対話を通じ自分の狭さを克服し、みんなから認められ評価されることで自己実現できる

 

 

 

≪ 補論 科学的社会主義の自由論 『資本論』「三位一体的定式」の自由論  高村是懿 広島県労働者学習協議会 

・科学的社会主義の学説・・・自由論は特別重要な意義をもつ。自由論は真にあるべき未来社会論との関係で議論されるから。

→ます、代表的な『空想から科学へ』(1880年)と『共産党宣言』(1848年)でみていく。

(高村 マルクス、エンゲルスの共著に等しい、円熟した晩年における『空想から科学へ』で展開された未来社会論は、科学的社会主義の未来社会論であり、かつ自由論だということができるでしょう。)

 

『空想から科学へ』 の未来社会論、自由論 

「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現れる。……いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによって、いまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの主人となる。……これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(全集⑲223224ページ)。

→ 階級社会としての資本主義社会を「必然の国」、社会主義・共産主義の社会を「自由の国」ととらえるもの。/この場合の自由・・・ヘーゲル自由論を継承・発展させた必然性との関係における自由を意味する。社会主義・共産主義の社会は、ヘーゲルのいう概念的自由という意味で「自由の国」ととらえられたもの。

ヘーゲル 概念的「自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」『小論理学』下116頁)

 

 資本主義的生産様式は、剰余価値の生産を規定的目的とするところから生産力を爆発的に発展させながらも、他方で貧富の対立、失業、恐慌を生みだすという必然性をもっています。社会主義・共産主義の社会は、搾取を廃止することによって、この資本主義的生産様式のもつ必然性を揚棄し、生産力の発展を保存しつつも人間が社会の主人公になって、自在に計画的、意識的に社会を組織するところに、「必然の国から自由の国への人類の飛躍」といわれる所以がある。

 

『共産党宣言』1848年)の未来社会論、自由論

 「共産主義の特徴は、所有一般を廃止することではなくて、ブルジョア的所有を廃止することである。しかし、近代のブルジョア的な私的所有は、階級対立にもとづく、一部の人間による他の人間の搾取にもとづく、生産物の生産と取得の最後の、そしてもっとも完全な表現である」(全集④488頁)。

 「階級と階級対立のうえにたつ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会が現われる」(同496頁)。

→ 未来社会が、搾取も階級もない「自由の国」であることを指摘。が、この自由が、必然性との関係においてとらえれているのかどうか、必ずしも明確ではない。/が、以下のように、資本主義的生産様式の必然性を揚棄した自由な社会としてとらえたものと理解することができる

「宣言」以前の 「経済学・哲学手稿」の記述 ・・・人間の類本質は「自由な意識的な活動」(436頁)にもとづき、「肉体的必要から自由な状態で生産」(同四三七ページ)するところにあるが、階級社会においては、「彼の労働は、自由意志的なのではなくて、強いられたもの、強制労働」(同四三四ページ)となっており、「労働の疎外」(同)「人間の人間からの疎外」(同四三八ページ)が生じている。/ 「人間的自己疎外としての私的所有のポジティブな廃棄、したがってまた人間による、また人間のための人間的本質の現実的獲得としての共産主義」(全集㊵四五七ページ)は、「自由と必然とのあいだの、・・・抗争の真の解消である」(同)。

 

*科学的社会主義の自由論~自由な意志から出発し、最初から最後まで自由を必然との関係でとらえるものであり、ヘーゲルの自由論を基礎にして、それを継承・発展させたもの、ということができる。この見地から、真にあるべき未来社会は、「自由の国」としてとらえられている。『反デューリング論』の自由論には、自由な意志を出発点とする見地が欠けていることを指摘しましたが、この点は「経済学・哲学手稿」の自由論とあわせて読まれるべきものでしょう。

 

『資本論』の未来社会論~全体をとおしてみると、必然との関係における自由の国としてとらえられている。

 「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(『資本論』①133ページ/92ページ)。

 「社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿態は、それが、自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれるとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる」(同135ページ/94ページ)。

 「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」(『資本論』④1016ページ/618ページ)。

 

◆「三位一体的定式」の自由論批判  高村氏

三位一体的定式」の自由論(以下に大要)は科学的社会主義の自由論における自由と必然の概念とは異なるものになっている、と指摘する。 

 

“人間は、「自分の生活を維持」するという生活上の必要にせまられて「物質的生産」をせざるをえない。それは「自然的必然性」の王国である。 未来社会において、生産手段を社会化し、人間が社会の主人公となったとしても、それはただ「自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同管理のもとにおく」という点においてだけ「自由」と認められるにすぎず、「これはまだ依然として必然性の王国」である。

 真の自由の王国は、「本来の物質的生産の領域の彼岸」にある。すなわち「事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる」。それは、「必然性の王国の上に」

「労働の短縮」を「根本条件」として開花する。”

 

 これについて高村氏は、「必要にせまらけた物質的生産」と「それを超えたところにある物質的生産」を「必然の国」「自由の国」として述べていると指摘し、批判しているが、マルクスが「労働時間の短縮」を強調している点からも、同じ物質的生産の性格の違いを指摘しているとは考え難い。

 

  • 高村氏、不破解釈への高村氏の疑問

1. “科学的社会主義の自由論とは何かを論じないてないこと / 「エンゲルスの自由論」と「マルクスの自由論」として対立的に並置してとらえていること ”を指摘したうえで、「むしろマルクスの「三位一体的定式」における自由論は、自由を必然との統一においてではなく、必然の否定としてとらえるものであり、本来の科学的社会主義の自由論を逸脱するものとしてとらえるべきものだと思われれる。」「科学的社会主義の自由論からすれば、本流には位置しえないものといわねばならない」

と批判している。

 そして“ 科学的社会主義の自由論を本格的に展開した『反デューリング論』が事実上、マルクスとエンゲルスの共同著作であったことからしても、また『資本論』の未来社会論にふれた先の引用箇所との関係からしても、「三位一体的定式」の自由論は、たんに未来社会においては、「労働時間の根本的短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす」(日本共産党綱領)というにとどめるべきであり、自由時間の増大の重要性を強調したいという意図は十分に理解できるものの、あえて「自由の国」「必然の国」という言葉を用いるべきではないと思われる。“”

 

2. “不破氏が「必然性の国」「自由の国」という用語を、マルクスの場合には「社会の発展段階のちがいではなく、同じ社会のなかでの二つの部分の関係」としてとらえている点。”をマルクスと別の「独特の解釈」と指摘する。

高村氏は、“マルクスは、生産力の発展を基準として「本来の物質的生産の領域」と、「本来の物質的生産の領域」を超え、その「彼岸」にある「物質的生産の領域」とを区別して、前者を「必然性の王国」、後者を「真の自由の王国」とよんでいる。”と述べ“マルクスも、「必然性の王国」と「真の自由の王国」とを「社会発展の異なる段階を表わす言葉」として使用しているといわざるをえない(この見地を、高村氏は否定的に評価している)。” 

 

3. 不破氏の「「真の自由の王国」は、が十分に発展し、生活上の必要にせまられた生産から解放されると同時に、労働日の短縮による自由時間の増大の上に成立する、人間が社会の主人公となる社会全体を意味しています。」と述べていいいることを“一つの社会のなかに、「自由の王国」と「必然性の王国」があるわけではありませんし、「人間が物質的生産にたずさわる時間が『必然の王国』を形づくり、それ以外の自由な時間が『真の自由の王国』を形成する」わけでもありません。

 もしそんなことになれば、未来社会においては、一人の人間が一日のうちに、「必然性の王国」と「真の自由の王国」との間を行き来することになってしまいますし、資本主義社会においても、「必然性の国」と「真に自由の国」とが存在することになり、未来社会を論ずる意味はなくなってしまいます。”

 

4 高村氏は“、真の自由を、労働から解放された自由時間に求めることは、必然との対立において自由をとらえ、必然性を否定するところに自由があるとする、「自由か必然かの哲学論争」(第一五節)に立ち戻ることになり、自由を矮小化してしまいます

 ・・・・ 「哲学論争」における自由は、必然性との関係を否定する否定的な自由にすぎません。これに対し本来の自由論の領域は、必然性との関係における自由にあるのであり、ヘーゲルは、その意味の自由を、必然性を無視する形式的な自由、必然性を認識する普遍的自由、必然性を揚棄する概念的自由と、段階的発展の過程としてとらえました。

  『空想から科学へ』における「必然の国から自由の国への人類の飛躍」というのは、必然性を認識しつつも、なおその支配からまぬがれえない普遍的自由の国から、必然性を揚棄した概念的自由の国への飛躍を意味しています。

 

  これに対して、「自由な時間」における自由とは、必然性との関係を否定し、必然性との対立において自由をとらえるものであって、ヘーゲルの言葉でいえば、「否定的な自由」というもっとも低いレベルの自由にすぎないのです。「自由な時間」をもって、「真の自由の国」とすることは、科学的社会主義の自由論のもつ豊かな内容とその優位性を放棄するに等しいものです。” 

(5.6は省略()

 

 

 

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