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2/20 小林多喜二の命日~ 日本政府が拒否し続ける「治安維持法犠牲者への謝罪と補償」

戦前のプロレタリア文学作家、日本共産党員だった小林多喜二が特高警察に捕まり虐殺されたのは1933220日。

国家が総動員体制で遂行し、破滅への道をたどった日本の戦争--- 、犠牲となった民間人は80万人。戦後、国家補償を求めた民間被害者の訴えは一貫して退けられてきた。治安維持法の犠牲者に謝罪も補償もしていない。一方、ドイツ、イタリアは、国家による弾圧などの犠牲者に謝罪し補償をしている。

それどころか、戦争を遂行した大将経験者の遺族には、戦犯であっても、兵の6.5倍の補償を実施。閣僚経験者に対しては、現在の貨幣価値で年1000万円前後が支払われていた。が、旧植民地出身の将兵は、恩給の対象から外された。

 「歴史戦」とかいうバカな言葉が出てくるのは、戦争遂行勢力が温存(アメリカの都合で、復権してもらった)されたからで、ここに戦争美化とアメリカいいなりのルーツがある。

また、コロナ禍に対しても、国民の命を粗末にする対応はかわっていない。 

 

◆国会請願の中身から

「治安維持法が制定された一九二五年から廃止されるまでの二十年間に、逮捕者数十万人、送検された人七万五千六百八十一人、虐殺された人九十人、拷問、虐待などによる獄死千六百人余、実刑五千百六十二人に上っている。戦後、治安維持法は、日本がポツダム宣言を受諾したことにより、政治的自由の弾圧と人道に反する悪法として廃止されたが、その犠牲者に対して政府は謝罪も賠償もしていない。」

「ドイツでは連邦補償法で、ナチスの犠牲者に謝罪し賠償している。イタリアでも、国家賠償法で反ファシスト政治犯に終身年金を支給している。アメリカやカナダでも、第二次世界大戦中、強制収容した日系市民に対し、一九八八年に市民的自由法を制定し約二万ドルないし二万千ドル(約二百五十万円)を支払い、大統領や政府が謝罪している。韓国では、治安維持法犠牲者を愛国者として表彰し、犠牲者に年金を支給している。」

請願の項目は・・・

一、国は、治安維持法が人道に反する悪法であったことを認めること。

二、国は、治安維持法犠牲者に謝罪し、賠償を行うこと。

三、国は、治安維持法による犠牲の実態を調査し、その内容を公表すること。

小林多喜二が虐殺されたのは なぜ? 09/2/18 赤旗

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-02-18/20090218faq12_01_0.html

「受忍」 忘れられた戦後補償 NHK 20201022

https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20201021/index.html

「受忍」 忘れられた戦後補償 NHK 20201022日 (画像はカット)

 国家が総動員体制で遂行し、破滅への道をたどった日本の戦争。犠牲となった民間人は80万人。戦後、国家補償を求めた民間被害者の訴えは一貫して退けられてきた。国策を推し進めた国家は、その体制に組み込まれ被害を負った個人に、どのような責任を果たすべきなのか。膨大な資料と当事者の証言から、戦後史の空白を検証する。

人生を大きく変えられた“あの夏”

6歳の時に、空襲で左足を失った安野輝子さん

安野輝子さん、81歳。当時6歳だった終戦の年の7月、米軍による空襲で左足を失った。近くに落ちた爆弾の破片が直撃し、左足の膝下が一瞬でもぎとられた。

「翌日か翌々日くらいだったかな、処置室行って赤チンつけるだけなんですよ、治療って。そのときに、このぐらいのあれ(容器)にね、私の足が浮いていたんですよ、アルコールに漬けた。ああ、私の足やって、そのときわかった」(安野さん)

傷を負った時の処置が悪く、75年たった今も切断面にマメができるため、数日間歩けなくなることもあると言う。

下半身が黒く塗りつぶされた卒業写真

自分の下半身を黒く塗りつぶした卒業写真。安野さんのアルバムには、笑顔の写真が1枚もない。家族は空襲で家と財産を失い、娘のために義足をつくる余裕もなかった。

「戦争やからしようがないやんって言う人、結構多いんですよ。いまだにありますよ。『気の毒やったね、残念やったね』とかは、言うても…」(安野さん)

民間人の被害 その補償は?

アジアや太平洋諸国に甚大な被害を出し、日本人だけで310万人が犠牲となった先の戦争。国は戦場で命を落とした軍人軍属やその遺族などに対し、これまで60兆円の補償を行ってきた。

空襲で亡くなった人びと

しかし、戦況の悪化にともなって大きな犠牲を払うようになった民間人を、国は補償の対象にしてこなかった。

戦時中、米軍が日本の200か所以上の都市を狙った空襲。民間人の被害の全貌は未だに明らかになっていない。
多くの命が奪われた沖縄戦。戦後、国が戦闘に参加したとみなした民間人の一部は、補償の対象とされたが、4万人は枠組みから外された。
広島と長崎に投下された原爆で亡くなったのは、その年だけで21万人に上り、多くの人々が後遺症に苦しめられた。

大東亜共栄圏の建設をうたった戦前の日本。外地(当時、日本が領有していた本土以外の地域)では、戦争や終戦後の混乱のなか30万人が死亡。320万人が引き揚げを余儀なくされ、財産を失った。

被害を補償されなかった民間被害者

国家総動員体制のもと、総力戦に参加したのは軍人軍属だけではなかった。老若男女問わず民間人も様々な形で、戦争への協力を求められた。しかし、国は民間被害者への補償を一貫して避け続けてきた。

東京大空襲 家族の足取りを探して

10万もの人々が、一夜のうちに犠牲となった東京大空襲。海老名香葉子(えびなかよこ)さんは、両親を始め家族6人を失った。

東京大空襲で家族を失った海老名香葉子さん

「ここはもう、焼死体で山のようになっていたらしい。だから、(家族は)身元不明者のなかに入っているか。…親の骨ぐらい拾いたいな」(海老名さん)

11歳で孤児になった海老名さん。家族は自宅近くで命を落としたと言われているが、詳しいことはわかっていない。敗戦後の混乱のなか、周囲が止めても家族の足取りを探し続けた。
同じ被害者たちと、遺骨の調査だけでもしてほしいと国や東京都に訴え続けてきたが、受け入れられることはなかった。

「お役人様はダメだって、諦めました。ここだって所は自分で掘り起こしてでも探そうって気持ちでいたこともありました。『ばかなことしてるな』って言われましたけど、夢中でしたから」

なぜ民間被害者への補償は避けられ続けたのか?

今回NHKは、終戦直後から1980年代にかけて、政府が民間被害者への補償を検討した膨大な記録を入手。そのひとつが「在外財産問題審議会」の議事録だ。

今回入手した戦後補償に関わる政府の内部資料

資料によると、民間被害者への国の姿勢の起点になっているのが、外地からの引揚者に対する補償問題だった。

サンフランシスコ講和条約で、海外で暮らしていた日本人の財産「在外財産」を連合国の手に委ねることを認めた日本。それに対し引揚者は、新憲法で定められた「財産権」を根拠に補償を要求。在外財産問題審議会では、1954年から10年以上にわたり、国に補償の義務があるかどうか、検討を重ねていた。

「全体としての国の財政能力にはそう大きな余力はない。現実には国民11人が負担するもの」(河野通一 元大蔵省理財局長)

「敗戦という非常事態で起こった問題。憲法や平和条約の個々の規定でもって法律問題にしようということ自体、無理がある」(河野一之 元大蔵事務次官)

「平和条約そのものが強制的にのまされた条約なのであるから、このような事態による損害の補償を国に対して要求することはできない」(森永貞一郎 元大蔵事務次官)

審議会では、日本の独立のための講和条約は、憲法の枠をこえる処理だと結論づけた。財産権を根拠にした引揚者の訴えは認められず、「国に補償の義務はない」としたのだ。

元大蔵官僚で、この審議会の事務局にいた秋山昌廣さん。引揚者に補償を行えば、他の民間被害者にも補償の扉を開くとして、一線は譲れなかったと証言する。

秋山昌廣さん 元防衛事務次官(大蔵省出身)

「サンフランシスコ平和条約を締結するという公共の目的のために、自分たちの財産が、日本の政府・国家のために犠牲になったんだ、というような議論は、成り立ち得るわけですよ。政府とか大蔵省としては、この問題が他の戦後処理問題に波及するというのは相当懸念したと思う。注意したといいますか、恐れたと思いますね。国家が補償する、そういう義務はないという結論は、しょうがなかったんじゃないかと思います」(秋山昌廣さん 元防衛事務次官・大蔵省出身)

「国に法律上の補償義務はない」というこの時の結論が、その後も民間被害者の訴えを阻む高い壁となっていく。

軍人たちの遺族への補償

戦時中の日本は、民間被害者に対して「戦時災害保護法」による金銭的な手当てを、軍人や軍属へは「軍人恩給」という年金のような補償制度を設けていた。しかしこの補償制度は終戦後、GHQ・連合国軍総司令部に「軍国主義の温床になっていた」としてどちらも廃止された。

広島県に残されていた公文書

補償を絶たれ、苦境にあえぐ軍人軍属の夫や息子を亡くした「戦没者遺族」。補償を復活させるため、行政が大きな役割を果たしていたことが広島県に残されていた公文書から分かった。

その公文書とは、広島県がGHQの占領下だった1949年に各市町村に出した通達だ。戦前、軍人やその家族への補償を担っていた行政が、GHQの方針の影で戦没者遺族を組織化。財政的支援まで行っていたことが明らかになった。各地で結成された遺族会は補償を求め、国へ強く働きかけていった。

1952430日、日本が独立した2日後。戦没者遺族を支援する「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布。翌年には軍人恩給も復活した。

厚生省の内部文書

さらに、厚生省の内部文書から、「戦犯」への補償の制限が覆されていった過程も分かってきた。
当時、旧軍の流れを汲む厚生省には、陸海軍の士官クラスが横滑りし、強い影響力が温存されていた。軍出身の官僚が「世論工作」を行い、戦犯の名誉回復や支援活動を後押ししていたのだ。復活した恩給制度には、戦前の陸海軍の階級格差も反映されていた。

戦没者遺族に支払われた公務扶助料の階級別平均額 出典:公務扶助料統計表(19553月末)

大将経験者の遺族には、戦犯であっても、兵の6.5倍の補償を実施。閣僚経験者に対しては、現在の貨幣価値で年1000万円前後が支払われていた。その一方で、旧植民地出身の将兵は、恩給の対象から外された。

退けられ続けた民間被害者の声

国家補償を一貫して阻まれてきた、民間被害者たち。空襲被害者の全国組織が結成されたのは、終戦から27年が経った1972年だ。多いときで750人いた空襲被害の会(全国戦災傷害者連絡会)の会員たち。厚生省などに、軍人軍属と同様の補償を実現する法律や、被害の実態調査を求めた。

当時の日本は、GNP・国民総生産で世界第2位になるなど、財政的にも余裕が生まれていた。しかし、後遺症を抱えた被害者たちが活動を広げていくことは容易ではなかった。

浜松空襲で受けた傷の後遺症に苦しむ、木津正男さん。活動には手弁当で参加し、何度も上京して官庁へ陳情したと言う。

空襲被害者 木津正男さん

「大蔵省も行きましたよ。一発で断られましたね。厚生省も玄関払い。皆さん、遅すぎたと。もう時効じゃない、早く言えば」(空襲被害者 木津正男さん)

当時、厚生省で戦後補償問題に関わっていた植村尚史さん。財政規模は高度成長で拡大したものの、被害者への補償を検討する機運はなかったと言う。

植村尚史さん 元厚生省 援護課長補佐(現 早稲田大学教授)

「被害をひとつひとつ救済していくというよりも国全体が豊かになり、人々の生活が良くなっていくことで、被害はカバーされていくんだろうという、そういう考え方で進んできたことは確かだと思うんです。法律的な意味で補償する責任は、直ちにあるわけではないというのが、ずっと戦後からの認識だったというふうに思う」(植村尚史さん 元厚生省 援護課長補佐(現 早稲田大学教授))

行政だけでなく司法も、民間被害者の訴えを退けていった。1983年、名古屋空襲訴訟に対する高裁の判決。

1983年 名古屋空襲訴訟 高裁判決文

「戦争は国の存否にかかわる非常事態」であり、「その犠牲は国民が等しく受忍しなければならなかった」として、被害者たちの訴えを棄却。後に最高裁は、戦争被害への補償は「憲法が全く予想していないもの」と結論づけた。

 

ドイツとイタリアの戦後補償

先の戦争で、同じ枢軸国だったドイツとイタリアでは、どのように戦後補償が行われたのか?

ドイツではベルリンへの空襲などで、およそ120万の民間人が犠牲となった。しかも領土縮小で、財産を失った引揚者が1200万人以上。戦争終結の5年後、西ドイツは「連邦援護法」を制定した。国は、すべての戦争被害に対する責任があるとして、軍人や民間人といった立場に関係なく、被害に応じた補償が行われてきた。

イタリアで犠牲となった民間人はおよそ15万人。戦後、財政不安に陥ることが多かったイタリアにとって、補償は容易なことではなかった。しかし1978年、民間被害者に、軍人と同等の年金を支給する関連法を制定。たとえ補償額が少なくとも、国家が個人の被害を認めることを重視したのだ。

コンスタンティン・ゴシュラー教授 ボーフム大学 歴史学部

「個人の被害に国が向き合うことは、民主主義の基礎をなすものです。国家が引き起こした戦争で被害を受けた個人に補償することは、国家と市民の間の約束です。第二次大戦は総力戦で、軍人だけでなく、多くの民間人が戦闘に巻き込まれ、亡くなりました。軍人と民間人のあいだに差があるとは考えられなかったのです」(コンスタンティン・ゴシュラー教授 ボーフム大学 歴史学部)

日本の戦後補償 軍と民の格差

ドイツやイタリアと違い、軍と民の格差が時代とともに拡大していった日本の戦後補償。
軍人や軍属に対する補償は、物価にあわせた増額や対象範囲の拡大などで、年々積み増しされていった。さらに補償は金銭面だけでなく、遺骨収集や戦没者の慰霊巡拝といった遺族への精神的な支援にも注がれていく。

軍人軍属に対する補償政策を担い、総理府の事務方トップも務めた、海老原義彦さん。日本の戦後補償は、ある一面では、遺族団体の組織力が方向付けたと打ち明ける。

海老原義彦さん 元総理府 次長

「国のために夫を捧げて、戦後の辛いなかを子どもたちをどうやって育てるか。涙ながらの物語があるんです、というようなことをおっしゃるわけです。政治家としては、これは無視できないというか、むしろ積極的に、その要求の趣旨に賛同して動いたほうが、自分のためにもなる」(海老原義彦さん 元総理府 次長)

 

民間被害者に求められた“受忍”

組織力を背景に拡大していった軍人軍属への補償。一方で、民間被害者たちはしだいに社会から忘れられていった。しかし彼らにとって「補償」とは、生きている証を求めることに他ならなかった。

安野さんと片山さん

6歳の時に空襲で左足を失った安野輝子さんが空襲被害者の会(全国戦災傷害者連絡会)で出会った、片山靖子さん。片山さんは5歳のとき、大阪大空襲で顔や手に大やけどを負い、大きな傷痕が残っていた。左足を失った安野さんにとって、同い年で同じ痛みを抱える片山さんは、何でも話せる仲間だった。

「(片山さんは)きれいな字も書けるし、機能性ってあんまり失ってないんやけど、顔もケロイドやし、手もこんなんやから、“世間には出られない”と言っていて」(安野さん)

ずっと人前に出ることを避ける生活を送っていた片山さん。2人が出会って6年目。活動への理解が広がらないなかで、片山さんは自ら命を絶った。40歳だった。

空襲被害者にとって、国会も壁となった。補償を実現させるための法案は、1970年代から14回にわたり提出されたが、すべて廃案。さらにこの頃、空襲被害者たちに向けられた心ない世間の声が、被害者たちの気力さえ奪っていった。

空襲被害者に届いた手紙

『生きているだけでも有難いと思え』
『戦争で苦しんだのはお前たちばかりではない。国家の責任にし、金をせびろうとする浅ましい乞食根性』
『慾ばり婆さんよ。いまさら何を言っている。そんなに金がほしいのか』

終戦から30年以上が経過した1980年代。国は、戦後補償問題に区切りをつけようとした。外地からの引揚者やシベリア抑留者の団体の求めに応じて設置された、「戦後処理問題懇談会」。NHKは、その検討記録を独自に入手した。

戦後処理問題懇談会検討記録

当初、懇談会では、あらゆる民間被害者について、補償を検討し直すべきだという意見も出ていた。しかし委員のほとんどが、救済対象を絞る方向に議論を進めていった。

2年半に及んだ懇談会は、民間被害者への補償のみならず、救済措置も、国の「法律上の義務によるものではない」と結論づけた。その理由として、「いま戦後処理をした場合、費用の多くを戦争を知らない世代が負担することになり“不公平”」とする考え方が、新たに付け加えられた。

戦後処理問題懇談会を所管する総理府の事務方トップだった禿河徹映(とくがわてつえい)さん。
当時の判断について初めて証言した。

禿河徹映さん 元総理府次長

「国をあげて国民全体がこの戦争に取り組んだことが事実で、別にそれで国民全体に責任があるという意味じゃありませんけれども。国をあげて総力戦でやって、それで戦争に負けて無条件降伏をやった、そういうふうなことですからね。国民等しく“受忍”をね。“受忍”という言葉はよく使いますけれども、やっぱり我慢して耐え忍んで、再建を、復興をそれぞれの個人個人で、まずそれを基本にして頑張ってもらいたいと。本当に気の毒で、気の毒で気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかったんですね」(禿河徹映さん 元総理府次長)

戦争被害への責任を棚上げしたまま、戦後を歩んできた日本。
1990
年代に制定された「被爆者援護法」をめぐっても、被爆者たちは国の責任を問うために、あくまで「国家補償」を求めていた。しかし、当時、内閣官房副長官を務めていた石原信雄さんらが念頭に置いていたのは、日本に補償を求め始めていたアジアの被害者たちの動向だった。国は救済措置として金銭的手当はしたものの、「国家補償」という形はあくまで選択しなかった。

石原信雄さん 元内閣官房副長官

「政府が一定の範囲の人について補償措置を講ずれば、アジアの人たちが、補償要求をするであろうということはわかっていました。結局、(国内の)戦争犠牲者に対する政府の補償措置というのは、きわめて限定的であったと。特定の範囲の人しか対象になっていないという、これは残念ながら認めざるをえないんですよ。もっともっと、それよりもはるかに広い範囲で、戦争の被害を受けた人がいるわけです。それについては、残念ながら未解決のまま残ってる。これは認めざるをえないですね」(石原信雄さん 元内閣官房副長官)

 

苦しみを強いられ続けた被害者の戦後

今も、あらゆる補償の枠組みから外されたままの空襲被害者たち。軍人軍属やその遺族への補償は厚生労働省が担当しているが、空襲被害者に関しては75年を過ぎた今なお、担当省庁さえ決まっていない。

「政府としては、どこが所管するのがいいんですか。総務省なんですか、厚労省なんですか、内閣府なんですか」(救済法案の実現をめざす議員連盟の参加議員)

「法制局でございます。まあ、あの所管としては、厚生労働省を想定するような(法案の)要綱となっているところでございます」(衆議院法制局)

「(空襲被害者など)一般戦災者の方々については、対象としていないということでありまして。私どもの所掌からはみ出ていると、現状についてはそういうことになっています」(厚生労働省)

「救済法案の実現をめざす議員連盟」は、法案の国会提出をめざしているが、今年(2020年)も実現できていない。被害者たちに残された時間は刻々と失われていく。

海老名香葉子さん

「心の中じゃ、親のことを思うとやっぱり涙出ます。いくつになっても、80過ぎのおばあさんが、夢の中に母が出てくると、『母ちゃん!』って、朝起きて泣いてます」(海老名さん)

安野輝子さん

「なんだったんだろうと自分でも思っているぐらいやから、この75年。日常的にね、ほとんど忙しくしていましたね。まあね、いい人生だったとは言えませんね。ほかに方法はなかったんかな思う」(安野さん)

国家が遂行した戦争。あまりにも多くの人々が犠牲となり、あまりに多くの人々が痛みを抱えたまま生きることを強いられた。国も私たちも、その責任から目を背けたまま、75年目の夏が過ぎ去っていく。

この記事は、2020815日に放送した 「NHKスペシャル 忘れられた戦後補償」 をもとに制作しています。

 

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