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自己責任論から「ケアのロジック」へ  新しい社会への想像力を 保団連のHより

自己責任論から「ケアのロジック」へ  新しい社会への想像力を 保団連のHより

“コロナ禍でこれまでの社会が覆い隠していた脆弱性が浮き彫りになっている。現代社会を文化面から分析する文化理論家の清水知子氏(筑波大学准教授)に解説してもらう。今回はコロナ禍で見えた課題、それを乗り越える展望を次回で聞く”としたもの(以下のウェブのタイトルはメモ者)

 「新自由主義的な競争社会では、数値に換算された金銭的交換が支配的になります。個別化、分断化され、他者と競い、他者を合理性や有益性によって功利的に測定するよう人々を培ってきた社会は、私たちから他なるものに対する想像力を剥奪してしまったのではないでしょうか。

空気、水、大地といった自然の富や、情報、言語などの社会的な富です。医療や介護などのケア労働とその仕組みもそうですし、すでに私たちの日常のなかで行われる相互扶助的な人間関係もそうです。新自由主義は数々のコモンズを搾取して「商品」に変換してきました。コモンズの領域を取り戻し、共有するしくみをつくっていくことが重要だと思います。」と強調する

 【自己責任論から「ケアのロジック」へ①  コロナ禍で見えた課題】

【自己責任論から「ケアのロジック」へ②  課題を乗り越える展望】

 

【自己責任論から「ケアのロジック」へ①  コロナ禍で見えた課題】

 ◆社会のない社会で

 ―ご著書では新自由主義以後のイギリス社会を文化面から分析されていますが、現代日本にも通じる特徴はあるでしょうか。

 〇 はい、新自由主義が世界を席巻して30年以上が経ちました。その本家ともいえるイギリスのサッチャー元首相は社会保障など福祉政策を大胆に縮小し「社会というものはない。あるのは個人としての男と女と家族だけだ」と言いました。

 2018年にカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を獲得した是枝裕和監督の『万引き家族』、昨年カンヌパルム・ドールを受賞したポン・ジュノ監督の『パラサイト』、そして昨年末に日本で公開されたケン・ローチ監督の『家族を想うとき』など、貧富の差が拡大し、苛酷な生存条件に追い込まれるなかで、新自由主義の顛末として「家族」をテーマにした映画が注目を浴びています。

 いずれも「社会のない社会」で浮き彫りになった人々の苦境を可視化しながら、脆弱な社会のしわ寄せとして必要最小限のセーフティーネットの役割を課された「家族」を問い直しているように思います。「家族」は、もはやその重責に耐えきれず、決壊しつつあるのではないでしょうか。不安定な雇用状態のなかで「家族」のために苛酷なシフトを背負い込んで負のスパイラルに陥ってしまうのが『家族を想うとき』なら、『万引き家族』は行き場のない社会のなかで、血縁とは無縁に支え合う共同体とその居場所をつくる、これまでとは別の「家族のかたち」を描き、既存の制度に挑戦するドラマだと思いました。

  ◆「神話」が隠すもの

 ―コロナ禍で医療をはじめ公共政策の重要性が明白になり、新自由主義の脆弱さが浮かび上がったという指摘が目立ちます。イギリスのジョンソン首相でさえ「社会は存在する」と発言して話題になりました。

 〇 コロナ禍はそれ以前からあった社会の脆弱性を浮き彫りにしたと思います。新自由主義社会は「不安定さ」を不均衡に配分し、「生きるに値する生」とそうでない生を区分する生政治/死政治の光景を可視化しました。

  営業自粛で経済活動が停滞していたなか、医療や介護、教育、保育など、人間の生そのものを支える営みあるエッセンシャル・ワークの重要性が明白になり、そこに感染リスクや低賃金長時間労働などが集中している実態も問題化しました。自粛生活のなかで家事・育児負担の多くが女性に集中している実態も炙り出されました。

  1970年代のイタリアでは「家事労働に賃金を」というキャンペーンがありました。その目的は単に家事労働に賃金を支払えということではなく、人間が生きていくうえで不可欠な膨大な繊細な仕事、その多くは女性が担っていますが、それらが無償であることの意味を可視化することでした。というのも、その構造を支えていたのは、「母性」や「無償の愛」といった「神話」によってコストを覆い隠す資本のロジックだったからです。

  ―医療や介護などの現場の負担は深刻です。これも無償の献身性の陰に隠れていた部分があります。

 〇 そうですね。患者や高齢者、子どもをケアする仕事も多くは低賃金で、また、ジェンダーや人種が偏っています。

 コロナのさなか、イギリスのアーティスト、バンクシーが「ゲーム・チェンジャー」という作品をイギリス南部のサウサンプトン総合病院に寄贈しました。過酷な長時間労働に耐え、最前線で新型コロナウイルスと闘う医療従事者への敬意を示すと同時に、その横のゴミ箱にはバットマンやスパイダーマンが放置されていました。

  これを見ると、作品のなかで子どもが手にする看護師の人形も同じように使い捨てにされてしまうのではないかという危惧を抱かせる構図になっています。福祉の予算が大胆にカットされ、圧迫された医療現場の現状は、現政権のみならず、それを容認してきた国民にも責任があります。

  新自由主義的な競争社会では、数値に換算された金銭的交換が支配的になります。個別化、分断化され、他者と競い、他者を合理性や有益性によって功利的に測定するよう人々を培ってきた社会は、私たちから他なるものに対する想像力を剥奪してしまったのではないでしょうか。

  そうした社会では、割が合わないと判断された人間は安易に切り捨てられ、孤立してしまいます。ですが、そのようにして切断され、喪失された信頼は、数字に還元できる計算可能なものでも、何かの対価でもない。お金で買うことができる「商品」ではないのです。

  また、今日、各国で「通常」の生活への回帰が求められていますが、24時間7日間「眠らない社会」や不要不急の「ブルシット・ジョブ」に追われた「通常」に戻るべきかどうか、慎重に再考すべきです。

  

【自己責任論から「ケアのロジック」へ②  課題を乗り越える展望】

 ◆蔓延する資本主義リアリズム

 ―前回は、医療や介護などの必要不可欠な仕事の多くが低賃金で長時間過酷労働であるなど、社会を支えるために払われる犠牲が、新自由主義の下で隠されてきた問題などが指摘されました。こうした社会を変えるために、どのような実践が求められるでしょう。

 〇そのひとつとして、既存の社会への違和感や限界、その構造を可視化していく必要があると思います。私たちは、既存の秩序が唯一可能なものであり、代替物を想像することすら難しいと思ってしまう社会に生きています。「他に道はない」と強調したサッチャーがその象徴です。安倍前首相も同じ言葉を残していますね。

  イギリスの批評家マーク・フィッシャーが用いて有名になった「資本主義リアリズム」という言葉があります。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」という意識が蔓延した状況を指したものです。いま必要なのは、資本主義リアリズムを乗り越え、個人主義や自己責任に依拠した経済ではなく、お互いをケアし、ともに生存するための手段として経済を再考し、別の社会を構想する力を取り戻すことだと思います。

  哲学者ティモシー・モートンの言葉を借りれば、自分だけが「生き延びることsurvive」ではなく、「(共に)生きていることbeing alive」、つまり私たちを支えてきた場へのケアの感覚を培うことでしょうか。

  アメリカの政治哲学者マイケル・ハートらが提唱する「コモンズ」に基づく方向性が手掛かりになります。コモンズとは、人類に共有の富を指します。空気、水、大地といった自然の富や、情報、言語などの社会的な富です。医療や介護などのケア労働とその仕組みもそうですし、すでに私たちの日常のなかで行われる相互扶助的な人間関係もそうです。新自由主義は数々のコモンズを搾取して「商品」に変換してきました。コモンズの領域を取り戻し、共有するしくみをつくっていくことが重要だと思います。

  この意味では、最近、菅首相が総裁選で掲げた「自助、共助、公助」という理念は、ベクトルが逆ではないかと思いました。加速する不安定性のただなかにあって、国家は今こそ活用できる公助を整え、公正に富を配分するしくみを構想し直すべきではないでしょうか。

  自己責任という考え方を根本的に変えていく視点も重要です。人類学者のアネマリー・モルによる、医療現場での「選択のロジック」と「ケアのロジック」の対比がヒントになると思います。前者が自律した個人に価値を置き、自己責任に帰せられるのに対して、後者は医療者と患者が何度も相談しながら治療を行っていく様子をモデルに、個人を前提とした「選択」枠組から逃れ、あなた/私、集団/個人のあいだで反復、調整のされるものとして人間の生をとらえる視点です。

 ◆多様な可能性を展開する

 ―例えば、保団連は高すぎる患者負担をさらに引き上げようとする政府の医療政策に反対する署名など、患者さんとともに世論を作る「ストップ患者負担増」のキャンペーンを続けています。具体的なイメージとして、こうした取り組みも貢献できるのでしょうか。

 〇 そうですね。取り組みは多様であり得ると思います。

  署名を一筆書くことは小さな行為のようですが、これまで当然視されてきた医療との関わり方を考え直すきっかけを提供するでしょうし、それを問題視する声を可視化することもできます。

  私が最近注目しているのは、人々の価値観や意識を揺さぶる現代のアーティストたちの実践です。

  例えば、高山明さんのプロジェクト「マクドナルド放送大学」がそうです。街中のマクドナルドでお客さんは「学生」としてハンバーガーやコーラと一緒に、難民が「教授」を務めるラジオレクチャーを注文します。そこでは難民のライフヒストリーや生き抜くための知恵が語られます。マクドナルドはコーヒー1杯で長時間いられて、水もトイレも電源もある。お金がなくても自分の居場所として利用しやすい避難所でもあるんです。

  マスメディアでは個々の顔が失われ、「難民問題」としてニュースの見出しに登場するだけですが、こうしたプロジェクトは、現実社会のなかに組み込んだ「フィクション=虚構」を通じて、人々の視点を変え、人々のコミュニケーションそのものを再起動させる。ありうるかもしれない政治的可能性を展開することで、これまでとは異なる世界の見方、新たな関係を生み出します。

  これもまた、既存の社会で存在をかき消されてしまった人々と出会い直し、目の前の分断と不平等を乗り越えていくための一歩ではないでしょうか。(了)

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