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コロナ禍が寸断する 「ヒト」が「ヒト」である環境 ~ゴリラ研究・山極氏から学ぶ

山極寿一・京大総長「スマホを捨てたい子どもたち」(ポプラ新書)から学ぶ。以前学んだロビン・ダンパー氏の「人類進化の謎を解き明かす」での脳の発達と集団の規模、祭りの意義などの解明、その関連も興味深い。とにかく刺さる内容。

 なぜか熱帯雨林のジャングルからサバンナで出ていった人類の祖先。弱い動物である人類がその中で生き抜くために、体を大きくすることでも、牙を持つことでもなく、共感力を高め、共同・チームワークを発展させた。

 コロナは、ヒトの共感力・想像力と信頼の前提である身体的な同調行為、遊び、共同作業、会食などにクサビを打ち込む。それがオンラインだけで代替できるのか・・・ という問いを投げかけている(教育の本質にも迫る話)

≪人類進化のスケッチ≫

700万年前 チンパンジーらと分岐、二足足歩行   (チンパンジーの脳容積400cc)

200万年前 脳の巨大化の開始

(300-200万年前アウストラロピテクス・アフリカヌス450cc230140万年前のホモ・ハビリス550cc15020万年前のホモ・エレクトス1000cc402万年前ホモ・ネアンデルターレンシス1500cc、現在まで続くホモ・サピエンス1350c

・火の使用 12万年前、自然火はさらに古い)  

・7万-12万年前  言葉の獲得

≪人と他の類人猿との違い≫

・二足歩行で手に入れたもの・・・・①長距離移動でのエネルギー節約 ②両手の自由 ③発声の自由(肺、咽頭部の圧迫からの解放)と踊る身体の獲得

  • 〃 で生まれた制限  産道の狭さ、小さいまま産まれ、誰かの介助(集団)がないと育たない/乳離れが早い。

→ 共同での子育て。共感力と信頼の形成/一年に一回出産する多産 他の類人猿3-7年に一回

→ 赤ちゃんが泣くのは人間だけ。大人への合図、大人の声かけ/他の類人猿はずっと親と一体化。乳離れが遅い

・脳の巨大化 産道の制限から、頭の大きさに限界。生れてから大きくする戦略、体脂肪を蓄えた比較的大きな新生児の体も脳のエネルギー源(他の類人猿は小さな体、体脂肪も少ない)・

・脳の発達は生後1年が最も大きく、5歳で成人の90%に到達、12-16歳で停止(身体的急成長へ。思春期スパーク)/脳は最もエネルギーを消費する器官 成人で20%、生後は40-80% /体全体の成長は、他の類人猿と違い遅い

  • 獲物を持ち帰り、共に食事をするのは人だけ/共同の子育て ・・・ 共感力をもとにした想像力の発達   

→言葉がない長い時代 音、音楽、踊りなど身体的な同調から生まれる信頼関係、共感力

・火の使用 /捕食、消化の効率化 → 身体的同調に使える時間を増やした(集団の規模拡大 ロビン・ダンパー)

【コロナ後もウェブ会議だけで満足? 山極京大総長が語る「人間が対面を求めてしまう」深い理由6/26

【京大総長が「コロナ禍で影響を受けた子どもたち」に今伝えたいこと  スマホを捨てたい子どもたち①つながり】

【ゴリラと一緒に暮らした京大総長が、人間に覚えた「ある違和感」  スマホを捨てたい子どもたち②言葉の罪】

【コロナ後もウェブ会議だけで満足? 山極京大総長が語る「人間が対面を求めてしまう」深い理由6/26

 ――ZOOM疲れ(Zoom fatigue)。

 

 アメリカのメディアでは、最近こんな造語を見かけるようになった。

 

 新型コロナウイルス対策として在宅勤務が推奨される中、ウェブ会議をはじめとするオンラインのコミュニケーションに負担を感じる人が徐々に増えているのだ。

 

 ZOOMだけでなく、グーグルやアップル、フェイスブックなどもオンラインツールを提供し、各社がしのぎを削っているが、私たちの暮らしは果たして本当に快適になっているのだろうか。

 

◆意外と好評だった「ウェブ会議」

 

「文藝春秋」7月号に掲載されている三菱ケミカルホールディングスの小林喜光会長と京都大学総長の山極壽一氏が「コロナ後の世界」をテーマに語った対談でも、企業、大学のそれぞれの現場で活用されているオンラインツールについて話が及んだ。

 

 今回のコロナ禍で、政府の規制改革推進会議議長としてオンラインによる初診診療を推進した小林氏は、企業におけるウェブ会議に好意的な見解を示している。

 

「ここ2カ月、私のほうはほとんど自宅での生活で、ウェブ会議ばかり増えてやたら忙しいんですけれど、自分が話す番でない時は外を見てボケッとしたり、自分の映像を消しておいたりといろいろ学びました(笑)」

 

「企業のウェブ会議のほうは、『空気を読まないで喋れる』と好評ですよ。どうも、対面だと場の雰囲気を読んだり、相手の顔色をうかがったりして自由に喋れないんですね。ウェブだと、愛想笑いやゴマすりが通用しないのもいい(笑)」

 

 一方、小林氏と対談した山極氏は「観客の反応が見えにくい分、プレゼンテーションの練習にもなる気はしています」と一定の評価をしたうえで、オンラインツールの限界を指摘している。

 

◆わざわざ集まって食事をするのは人間だけ!

 

「今回の外出自粛によって明らかになったのは、集まったり、移動したりすることを禁じられると、こんなにも人間は落ち込んでしまうものなのかということでした。スマホもインターネットもあるわけだから常に会話はできている。だけど、それだけでは人間は満足できず、孤立感を感じてしまう」

 

 人間が孤立感を感じるのはなぜなのか。40年以上ライフワークとしてゴリラを研究する山極氏は、それは対面のコミュニケーションを求める「人間らしさ」に理由があると分析する。

 

「例えば、対面してものを食べる行為は、人間だけにある習慣で、ゴリラもチンパンジーも食べる時は分散し、あまり顔を合わせないようにして食べます。でも、人間は食べる時にわざわざ集まって、お互いの顔色を確かめながらその場を楽しんで食べる。そういった機会がなくなると、人間は日々の豊かさを失った気分になってしまうんですね。そういうことを思い返してみると、言葉を介さない、人間同士のつながりが人間社会を作るうえで重要なのだと改めて理解できた気がするんです。そしてこれほど情報社会が進み、様々なコミュニケーションツールが生まれても、代替できるものがない

 

 山極氏の指摘は、オンラインツールの否定ではない。デジタル一辺倒では、人間が「人間らしさ」を失うのではないかという危機感からくる言葉だ。

 

 14世紀のペストの大流行のあと、ルネッサンスが起きてヨーロッパが蘇ったように、コロナ後の世界で「デジタル・ルネッサンス」が起きたとして、それが果たして万人にとって豊かな社会につながるのだろうか――小林氏と山極氏は、「 デジタル独裁vs.東洋的人間主義 」(「文藝春秋」7月号及び「文藝春秋digital」にて公開中)の中で、徹底的に議論している。

 

 

 

【京大総長が「コロナ禍で影響を受けた子どもたち」に今伝えたいこと  スマホを捨てたい子どもたち①つながり】

 

新型コロナウイルスの影響を一番受けたのは、子どもたちかもしれません。長期にわたる休校や外出自粛のなか、学校の友達にも会えず、孤独感や不安を訴える声が各自治体の相談窓口に相次いだといいます。

6月に入り多くの学校が再開しましたが、時差通学、短縮授業など、異例の事態は続いています。これまで「当たり前」だった、他人とのコミュニケーションの様相が大きく変化しているのです。

先が見えない時代、人間にとってもっとも大切なことは何か。自然の脅威、テクノロジーの進化をどう受け入れ、どう豊かに生きるか。山極寿一さんの新著『スマホを捨てたい子どもたち』(ポプラ新書)から一部抜粋でお届けします。京都大学総長でゴリラ研究の第一人者である山極さんと、「未知の時代」の人とのつながり方を考えてみましょう。

 

◆多くの高校生がスマホを手にしながら、「スマホを捨てたい」と言った

 

この頃、大学生ばかりでなく、高校生や小中学生と話をすることが多くなりました。大学の総長として大学の経営に取り組むことが本務ですが、これから大学に入ってくる若い世代のことをもっと理解しないと、将来の大学像は描けないなと思ったからです。

そこで、意外な反応がありました。ぼくが「スマホを使っている人は?」と聞くとほぼ全員が手を挙げるのですが、「スマホを捨てたいと思う人は?」と聞くと、結構多くの子どもたちが手を挙げるのです。生まれたときからインターネットがあり、スマホを身近に使って、ゲームや仲間との会話を楽しんでいるように見える若い世代も、スマホを持て余しつつあるのではないか、と感じたのです。

 

今、人々をつなげているのは情報です。情報を取り損ねたら、読み間違えたらつながりが切れてしまう。そういう不安に駆られている人々はスマホに頼ります。だけど、人々はそうしてつながっていることに安心感や充足感を覚えているんだろうか、と気になります。

 

◆スマホでつながる人は何人?

 

スマホへの漠とした不安の正体は何なのか。この問いについて考える前に、まず皆さんに質問をしたいと思います。

 

1)日常的におしゃべりをする友だちは何人くらいいますか?

2)年賀状やSNS、メールで年始の挨拶を発信しようと思うとき、リストに頼らず、頭に浮かぶ人は何人くらいいますか?

 

いかがでしょう。ぼくが今まで学生などに聞いた限り、(1)は10人くらい、(2)は100人くらいまで、というのが標準的な答えです。これは、おそらく全国どこでも同じだと思います。

 

ぼくが、なぜこのような質問をしたかというと、今、「自分がつながっていると思っている人」の数と、「実際に信頼関係でつながることができている人」や「信頼をもってつながることができている人」の数の間にギャップが生まれているのではないか、そして、このギャップの大きさが、現代に生きる人たち、特に生まれたときからデジタルに囲まれた世界に生きる若者たちの不安につながっているのではないか、そう思うからです。

 

◆人間の脳はなぜ大きくなったのか?

 

人間は、進化の歴史を通じ、一貫して付き合う仲間の数を増やしてきました。これは、人間の祖先が熱帯雨林からサバンナという危険な場所に進出したことが関係しています。

 

長い歴史のある時点において、おそらく地球規模の寒冷・乾燥化が起こり、それによって熱帯雨林が分断され、そこで暮らしていた動物たちはサバンナに出て行くか、森が残る山に登るか、低地に散在する熱帯雨林に残るかの選択を迫られたのでしょう。結果的に人間は熱帯雨林を出ました。

 

そこで、いくつかの特徴を発達させたのです。その一つが集団の大きさです。危険な場所では、集団の規模は大きいほうが有利です。数が多ければ、一人が狙われる確率は低くなるし、防衛力も増します。危険を察知する目がたくさんあれば、敵の発見効率も高まります。

実際、森林ゾウとサバンナゾウでは、サバンナゾウのほうが、身体も大きく、集団規模も大きい。人間も、危機から自分の命、そして仲間の命を守るために、集団の規模を大きくしなければなりませんでした。

 

ただし、集団を大きくすると、食物や安全な休息場所をめぐってトラブルが増えます。仲間の性質や、自分との関係をきちんと頭に入れておかないとうまく対処できなくなります。そのためには脳を大きくする必要がありました。皆さんの中には、人間の脳は、言葉を使い始めたことで大きくなったと思っている人がいるかもしれませんが、人間が言葉を発したのは7万年ほど前にすぎません。一方で、脳が大きくなり始めたのは、それよりずっと以前の約200万年前に遡ります。言葉を使ったから脳が大きくなったのではないのです。

 

◆ラグビーチームの人数はなぜ15人?

 

人間の脳の大きさには、実は集団規模が関係しています。チンパンジーとの共通祖先から分かれた約700万年前から長らくの間、人間の脳は小さいままでした。この頃の集団サイズは1020人くらいと推定されています。これはゴリラの平均的な集団サイズと同じ。言葉ではなく、身体の同調だけで、まるで一つの生き物のように動ける集団の大きさといえます。

 

サッカーが11人、ラグビーが15人など、スポーツのチームを考えるとわかりやすいでしょう。これは、皆さんが、互いに信頼し合っておしゃべりをする友だちの数、2ページで言及した(1)に当たります。200万年前、脳が大きくなり始めた頃の集団サイズの推定値は3050人程度。ちょうど先生一人でまとめられる一クラスの人数ですね。日常的に顔を合わせて暮らす仲間の数、誰かが何かを提案したら分裂せずにまとまって動ける集団の数です。

 

その後、人間の脳は急速に発達します。今から約6040万年前には、ゴリラの3倍程度の1400ccに達し、現代人の脳の大きさになりました。そして、この大きさの脳に見合った集団のサイズが、100150人。これが前述の(2)に当たる数です。

これは、ロビン・ダンバーというイギリスの人類学者が、人間以外の霊長類の脳の大きさと、その種の平均的な集団サイズの相関関係から導き出した仮説に基づく数字です。ダンバーは、平均的な集団サイズが大きければ大きいほど、脳に占める大脳新皮質、つまり知覚、思考、記憶を司る部分の割合が大きいことを明らかにしました。

 

そして、現代人の脳の大きさに見合った集団の人数を示す、この「150」という数字は、実に面白い数字であることがわかりました。文化人類学者の間で「マジックナンバー」といわれているのはそのためです。

 

◆真につながれる人の数の限界は150人?

 

食料生産、つまり農耕牧畜を始める前まで、人間は、この150人くらいの規模の集団で狩猟採集生活を送っていました。天の恵みである自然の食物を探しながら移動生活をする人々には、土地に執着したり、多くの物を個人で所有したりといったことがありません。限られた食料をみんなで分け合い、平等な関係を保って協力し合いながら移動生活を送るためには、150人が限度なのでしょう。そして、現代でも、このような食料生産をしない狩猟採集民の暮らしをしている村の平均サイズが、実に150人程度なのです。

 

言い換えれば、150人というのは、昔も今も、人間が安定的な関係を保てる人数の上限だということです。皆さんの生活でいえば、一緒に何かを経験し、喜怒哀楽を共にした記憶でつながっている人ということになるでしょうか。ぼくにとっては、年賀状を出そうと思ったとき、リストを見ずに思いつく人の数がちょうどこのくらいです。互いに顔がわかって、自分がトラブルを抱えたときに、疑いもなく力になってくれると自分が思っている人の数ともいえます。

 

今、ぼくたちを取りまく環境はものすごいスピードで変化しています。人類はこれまで、農耕牧畜を始めた約12000年前の農業革命、18世紀の産業革命、そして現代の情報革命と、大きな文明の転換点を経験してきました。そして、その間隔はどんどん短くなっています。その中心にあるのがICTInformation and Communication Technology/情報通信技術)です。インターネットでつながるようになった人間の数は、狩猟採集民だった時代からは想像もできないくらい膨大になりました。

一方で、人間の脳は大きくなっていません。つまり、インターネットを通じてつながれる人数は劇的に増えたのに、人間が安定的な信頼関係を保てる集団のサイズ、信頼できる仲間の数は150人規模のままだということです。

 

テクノロジーが発達して、見知らぬ大勢の人たちとつながれるようになった人間は、そのことに気づかず、AIを駆使すればどんどん集団規模は拡大できるという幻想に取り憑かれている。こうした誤解や幻想が、意識のギャップや不安を生んでいるのではないか。ぼくはそう考えています。そして、子どもたちの漠とした不安も、このギャップからきているのではないでしょうか。

 

【ゴリラと一緒に暮らした京大総長が、人間に覚えた「ある違和感」  スマホを捨てたい子どもたち②言葉の罪】

 

山極 寿一  霊長類学・人類学者

 

先が見えない時代、人間にとってもっとも大切なことは何か。自然の脅威、テクノロジーの進化をどう受け入れ、どう豊かに生きるか。山極寿一さんの新著『スマホを捨てたい子どもたち』(ポプラ新書)から一部抜粋でお届けします。

京都大学総長の山極さんは、長きにわたりアフリカで野生のゴリラの研究を続けてきました。ゴリラを通して見えてきた「人間の姿」とは何だったのでしょう――。

 

◆ゴリラの社会から人間社会へ

 

サルやゴリラの世界で長く生活して、人間の世界に戻ってくると、人間がなんだか不思議な生き物に見えてきました。二足で歩く姿も不安定だし、泰然自若としたゴリラに比べて、落ち着きがありません。人間同士の関わり方も不自然に感じます。

ルワンダの森で2年ほど調査をした際も、毎日ゴリラとばかり会って、ほとんど人間と付き合わなかったので、日本に帰ってきたときに大いに戸惑いました。成田空港から乗ったのが満員電車。人間同士が身体をくっつけ合っているのに誰も挨拶せず、みんな無視し合っている。ぼくの身体は「なんかやばいぞ、これは」と反応していました。

 

なにせ、ゴリラの世界では、挨拶もなしに身体をくっつけ合っているなど、信じられないことです。身体を寄せ合ってきたときには、もう仲間として気持ちが通じ合っている状態ですから、そばにいて安心感があります。ところが、人間社会では電車でも駅のホームでも、みんな近くにいるのにまったく安心感が得られない。居心地が悪くてたまりません。

ゴリラの世界から戻ると、それまで当たり前だと思っていた人間の暮らしが、当たり前のことではなく見えてきます、その一つが言葉です。ゴリラの世界に長らくいて自分が言葉をしゃべらなくなっていることに気づいたとき、言葉というのは、もともと意味のあるものではなく、ひょっとしたら「対面」を長引かせる手段だったのかもしれないと思いました。

 

◆言葉があるから距離を保ってつながれる

 

動物たちは、さまざまな方法で心を一つにします。チンパンジーは、「フーホーフーホー」という遠距離コミュニケーションに使うパントフートという声を出したり、抱き合ったりして興奮を分かち合います。ゴリラは、近くで同じものを食べていて楽しい気分になるとハミングで同調し合います。ゴリラはお腹が大きいので、休んでいるときにはお腹をくっつけ合ってじっとしていることも多いのですが、これも心を一つにする方法です。

そのとき、目が合ってもお互いに平気です。覗き込み行動もそうです。でも、見つめ合っているのはせいぜい数十秒で、1分に及ぶことはありません。この間に相手の心に入り込んで、自分と相手の心を合わせ、誘ったりケンカを仲裁したり、何かを思いとどまらせたりする。相手をコントロールして、勝手な動きをさせない方法なのでしょう。

 

このように、ゴリラやチンパンジーは一体化して関係性をつくります。人間も、親子の間では、赤ちゃんが泣いているとき、お母さんはなんとかしようと、赤ちゃんの顔を見ながら身体を揺すったりしますね。赤ちゃんも、お母さんの顔をじっと見つめ、包み込まれている安心感で泣き止む。人間にとっては、顔と顔を合わせるこの行為が一体化です。これによって不安や喜びや楽しさが伝わります。「自分は一人ではない」「つながっている」という感覚を得られるのがその効果です。

ただ、人間の場合、親子以外でこうした一体化ができるのは、通常、恋人同士など特別な関係に限られます。人間は、ゴリラやチンパンジーのように一体化することはせず、少し離れて互いの自立性を保つ道を選びました。こうして、安易に一体化するのを避けた過程で生まれたのが、一定の距離を保って向き合うという状態です。

 

言葉を交わすだけなら対面する必要はないのに人は対面します。でも、対面したまま黙ってじっと見つめ合っていたら気味が悪い。この状態を持続するために生まれたのが言葉なのではないでしょうか。最初は、意味のある音声ではなかったかもしれません。しかし、やがて意味のあることを共有し合うコミュニケーションの道具になりました。人間は、言葉を話し始めたことで、距離を保ってつながれるようになったともいえるわけです。

動物との出会いでは、受け入れられるか拒否されるかのどちらかです。人間が距離を置いて話ができるのは、言葉がどっちつかずの状況を担保できるからです。情報を共有しているという安心感があるから、拒否もしないし受け入れもしない状況が保てる。その中途の状況を保ちながら、人間は言葉を駆使し、いろいろな人と付き合い、「好き」とか「嫌い」とか「どちらでもないが貴重」といったさまざまな社会的な関係をつくることができるのです。

 

◆人間が手に入れたもの、失ったもの

 

ぼくたち人間は、進化の過程で言葉を得たことで、距離を保ってつながれるようになるとともに、身体を使わず、時間と空間を超え、いろいろな人とつながることができるようになりました。

言葉はポータブルなものです。重さがないので、どこにでも持ち運びができる。言葉を使うことで、過去に起こったことを、まるで目の前で起こっているかのように解説することができるし、目の前で起きていることを、別の場所、もしくは今ではない時間に再現することもできます。自分が行ったことのない場所で起こったことを、あたかも行ったように再現して伝えることもできます。言葉を得た人間はフィクションを生み出しました。

 

一方、言葉をもたない動物は、その場で瞬時に直観で対峙し、解決します。それ以外のオプションをもちません。人間も本来、同じ能力をもっていたはずですが、言葉の力が大きくなるにつれ、その力が減退しました。

たとえば、その場はやり過ごして、あとで考えるといった状況では、言葉が力をもちます。あのときあの人はこう言ったけど、本当はどうだったのだろう、こんな情報を流しているけど、裏では何を考えているのか、ひょっとしたらとんでもないことを目論んでいるのではないか、などと言葉にこだわってしまう。

 

これは、言葉による幻想、フィクションに侵されている証拠です。フィクションが前面に出てくれば、動物のように生の感情のぶつかり合いを通じて瞬時に何らかの解決策を見出す、という人間本来の能力が落ちていきます。

 

◆身体より言葉を信じるようになって

 

こうして今、人間の世界には、身体を通じたコミュニケーションをまったく無視した社会が出来上がっています。

 

人間は、言葉でルールをつくっていきます。たとえば、保育園では、「ねんねの時間ですよ」「一列に並びましょう」と言われて、子どもたちは眠くないけど眠らされ、並びたくはないけど並ぶ。小学校もそうです。「今日は朝礼があるから整列する」「教室に入ったら席につく」。こうした言葉による規則が先にあって、自分がしたいことより、その規則を守ることが先決になります。会社のルールや法律など、すべて言葉によるルールです。

 

ゴリラの場合、何の挨拶もなしに2メートル以内に近づいたら、身体が「えっ、何かおかしいぞ」と反応します。この「2メートル」という距離も、ぼくが感じたことを言葉にして翻訳しただけで、実際の距離は状況によって異なります。でも、その距離はその場にいればわかるし、ゴリラが何かを訴えてきていることもわかる。

「何か興味があるものがぼくの周りにあるんだな」「ぼくと遊びたがっているんだな」「ぼくの隣に座りたがっているな」ということは、目を見ればわかります。何かいたずらをしようというときには、目がキラキラと光っています。ゴリラの行動や表情を受けて、ぼくは瞬間瞬間に理解し、どういう行動をとるかを判断します。こうして僕が身につけた彼らの「行動文法」は、「こういう行動をしたから」「こういう表情をしたからこう」などと言葉だけで表すことができません。

 

ところが、今の人間社会は、不変のルールに従うことが日常生活になっています。言葉が先行しているから、身体が感じていることより言葉を信じる。ルールが合わなくなったときにすぐに調整することができないために無理が生じます。

 

◆言葉が暴力をつくり出す

科学技術には良い面もあれば悪い面もあります。最初は良い面に注目が集まりますが、ある域を超えると今度はネガティブな面が強調されていきます。ダイナマイトを考えてもそうでしょう。最初は人間の力が及ばない物を壊すために非常に役立ったのに、それがやがて社会を破壊する戦争の道具に使われるようになりました。言葉も同じです。

 

言葉は、人間が手にした技術の中で最初にして最大のものといってよいと思っています。人間の認知能力は、言葉の発明によって一度つくり変えられました。これが、「認知革命」と呼ばれるものです。かつて言葉は人々の間のトラブルを調整するための交渉にも使われていたはずだし、集団間の暴力を鎮めるためにも使われていたでしょう。だから人間は集団を大きくすることができました。

ダイナマイトと同様、最初は言葉もよい作用をもたらいました。しかし、やがてその言葉が、暴力をつくり出すために使われるようになると、だんだん人間にとってネガティブな作用をし始めます。

 

言葉を発達させるうちに、文字も生まれました。最初は、石や木に書いていた文字を、紙に書くようになり、やがてそれを印刷するようになる。さらに技術が進み、テレックスができ、ファクスが生まれ、そして今、ぼくたちはインターネットを通じて電子文字でつながるようになりました。

そもそも文字を介した理解には、常に疑いがつきまといます。会って話していれば、発せられた言葉だけの意味ではなく、相手の顔の表情や仕草、声色から裏の意味や背景を同時に感じることができます。

 

 

しかし、文字は読み手本位のコミュニケーションツールであって、対話ではありません。書いた人はその場にいないので、読み手の勝手な解釈が許されます。読み手本位であるために、ときに誤解を生んで書き手が思ってもいなかった結論になったりします。再現する過程で誤解が生じるのは当たり前で、それを避けることはできないのです。

 

◆本当の会話がSNSでできるか

 

ラインなどのSNSがあたかも対話しているかのような使われ方をしていますが、それは、あくまでシンボルを使った文字世界の延長です。ラインを利用している人の中にはすぐに返事が来るから対話と同じような信頼関係をつくれていると反論する人もいるかもしれませんが、その論理には二重の意味で誤解があります。

 

一つは、言葉は抽象化されたものだということ。誰かと話をしていても、それは出来事すべてを表しているわけではなく、出来事をいったん言葉という抽象的なシンボルに集約してそれを再現しているだけのものです。実際には、言葉だけで相手の感情はわかりません。

 

もう一つは、文字化したり、肉声ではないものに変換してしまったりした場合、そこにさらに時間的な要素が加わるということです。言葉を話すということは本来、瞬間の作業でもあります。対話を書き言葉にすると、Aさん「」、Bさん「」というように、時系列に並べることになりますが、実際は、相手が話しているとき、相手の言葉を聴きながら、自分が次に話すことを考えている。それは書き言葉では表現できません。

文字は、相手の言葉を受けて考えた結果出てくるものではあるけれど、その瞬間に自分の胸の中に生じた感情とは違うものです。書き文字の行間を読み取ることはできても、実際に言葉を肉声をもって交わし合っている状況とは違うのです。そこにも齟齬が生じます。

 

◆文字に引きずられている私たち

 

ぼくたちは誰かに会いに行くときには、服装や身だしなみを考えますね。相手によっては敬語も使う。そういうときの緊張感は、身体からほとばしり出るものです。ところが、スマホで言葉を文字でやり取りするだけなら、礼儀も敬語もそれほど気にしなくてもいい。だから相手によって変えることをしなくなります。相手が不特定多数であれば、ますます身構えがなくなっていきます。

さらに、顔も知らない相手から得た情報に対しては、勝手に想像ができる分、実際に会ったときに、文字の情報に裏切られるかもしれないし、それがコミュニケーションの足かせになるかもしれません。だから行き違いも起こるし、それがときに犯罪に結びつくこともある。言葉はもともと緩衝材の役割を果たしていましたが、今は文字に引きずられて、行動を誘発している。

 

会って「殺してやる」と言われたらなら、「バカやろー」と言い返せるし、取っ組み合って解消できることもある。殺すなどという行為はそうそう実現しません。でも、文字は、読み方次第でいくらでも想像が広がります。それが知らない相手であればなおさらでしょう。「殺される!」と恐怖で身がすくんでしまうかもしれません。

 

言葉を生み出し、文字を発明し、今、インターネットの世界を介して言葉をやり取りしているぼくたちは、こうした言葉の負の面にもあらためて目を向ける必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

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