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超人への志向と弱者の否定~「パラリンビック」と「やまゆり園事件」 「能力主義」への深い問い

 スポーツ、受験、就活など、身分や家柄によらない自由な競い合いを支え、自己実現に導いているのが能力主義。一方、能力の優劣で生殺を決めたのが津久井やまゆり園19人殺害事件。被告は今も「能力が劣る障害者に生きる価値はない」と主張し続け、かたや、能力が優れた「超人」を称揚している、という。

「能力主義」に慣れすぎた私達が、知らぬ間に、期せずして、誰かを傷つけてはいないだろうか・・・パラリンピックを実例にその暗部に迫った神奈川新聞の特集は、簡単に答えのでない深い問をつきつける。

なお、学者の竹内章郎さんが紹介する進歩的な思想家が、一方で「能力主義が支える優生思想」をふつうに持っていたことには、改めて衝撃をうけた。

【超人への志向と弱者の否定、表裏の善悪  カナコロ8/26

【能力主義の陰で 上】パラリンピックが格差助長?異論も 超人化するアスリート カナコロ0826日】

【能力主義の陰で 中】障害は「言い訳」か 克服求める熱狂、陰で傷つく人たち カナコロ0830日 】

【能力主義の陰で 下】優劣の葛藤、周囲からのレッテル…パラアスリートに学ぶ「生きづらさ」の先 カナコロ9/4

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【超人への志向と弱者の否定、表裏の善悪  カナコロ8/26

  スポーツだけではない。受験も、就活も、身分や家柄によらない自由な競い合いを支え、自己実現に導いているのが能力主義だ。一方、能力の優劣で生殺を決めたのが、津久井やまゆり園19人殺害事件だった。能力主義の得体(えたい)が知れない。哲学者の竹内章郎さん(65)を訪ねた。(聞き手・川島 秀宜)

  ―能力によって比較したり、評価したりすることに、わたしたちは余りに慣れすぎているような気がします。


「既得権益に縛られず、平等に競争の機会を与えているのが能力主義です。この社会を支える『善』の側面ばかりに慣れ親しみ、能力主義が差別や偏見を生み、さらに命にまで優劣をつける優生思想につながり得るという『悪』の側面には容易に気づけない。能力主義においては、善悪が表裏一体であることに注意しなければいけません」

 ―善悪の両面性は、思想史にも残されていますか。


・「能力主義が支える優生思想は、大げさに言うと、人類史をずっと貫いてきました。オリンピック発祥の古代ギリシャのプラトンもそう。『身体の面で不健全な人は死ぬに任せる』(※1)と書いている。ルソーは児童教育のバイブルとされる『エミール』で障害者に言及し、『社会の損失を2倍にし、1人で済むところを2人の人間を奪い去る』(※2)と言った。ホッブズも平等思想をうたうと同時に『リヴァイアサン』で契約能力がない『先天性の白地(はくち)、狂人』は獣と一緒(※3)、と指摘している」
 「平塚らいてうや福沢諭吉を挙げれば、わたしたちが能力主義の『悪』の側面にいかに鈍感であるか、わかるはずです。平塚は女性解放運動の『善』なる印象が強いですが、『普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、大きな罪悪である』(※4)と公言している。福沢は『人の能力には天賦遺伝の際限ありて、決して其(そ)の以上に上るべからず』と述べたうえで、人間の産育を家畜改良のようにせよ(※5)と提言しました。ほかにも切りがありません。結局、『悪』の側面は歴史のさまつな問題として扱われてきたのです」

 ―能力主義の極致は「超人」。超人思想を説いたニーチェも、一方で弱者を「畜群」と呼び、残酷なまでにさげすむ記述がたくさんあります。

 「ニーチェも優生思想丸出しですね。例えば『権力への意志』にこうあります。『不出来な者どもにも認められた平等権は、最も深い非道徳性である』(※6)と。耳心地のいい言葉だけを抜き取ったニーチェの名言集は、ベストセラーになりました。それは本質的なニーチェ像ではありません」

 ―やまゆり園事件の植松聖被告(29)も記者に寄せた手記で「私は『超人』に強い憧れをもっております」と書いていました。

 「社会の底流にある能力主義が表面化した事件だと感じました。起こるべくして起きた、と。能力主義に基づいた社会構造上のモデルを、わたしは『垂直的発展』と呼んでいます。スポーツもそうだが、低いから高くとか、遅いから速くとか、少ないから多くとか、結局は下から上へという発想です。ただ、高く跳ぶためには、踏み台を強く踏み込まなければいけない。超人に対する憧れは、現状の強烈な否定と裏腹な関係にあります」

 ―能力主義のアンチテーゼはあるのでしょうか。


 「『垂直的発展』のモデルに対し、『水平的展開』を大事にしたい。能力が低いとか、死に近い生という境遇において、横に伸びる世界があると思います。例えば、コミュニケーション。垂直的発展のモデルでは、言語による意思疎通を指しますが、果たしてそれだけでしょうか。福祉の現場では、水平的展開が実践されている。職員は、言葉が話せない障害者の気持ちを目つきやうなり声から読み取り、コミュニケーションを成立させています。手話のように、相当に専門的な技量を伴う。でも、能力主義の社会では、なかなか評価されません。概念化して世間に打ち出していくべきでしょう」

 ―この国は経験したことのない超高齢化社会を迎えています。現状の「垂直的発展」モデルでは限界がありそうです。

 「健康至上主義が徹底されれば、病気や障害を治癒するという観点が、いつの間にか排除にすり替わる。ナチスの健康政策と排除政策は一体でした。ナチスは高齢化社会を見通し、いかに健康的に老いるかを構想していた。高齢化が緩やかだった戦後ドイツには結局は当てはまらなかったが、『人生100年時代』をうたう日本はこれからどう進んでいくのでしょう」
 「認知症患者は2040年に800万人になると推計されています。おのずと水平的展開モデルが求められてくるはずです。そうなれば、能力主義を外側から包囲できる」

 ―ダウン症の長女と暮らす父親として、日本の障害者福祉をどう考えますか。

 「ダウン症の程度も人によってさまざまです。芸術に打ち込めたり、語学に堪能だったり。ダウン症でもこんなにできる、というメッセージがメディアを通して強調されがちです。娘は重い方です。できないことがあることに、もっと目を向けてもいいのではないでしょうか」
 「WHO(世界保健機関)の障害分類は、インペアメント(機能障害)、ディスアビリティ(能力障害)、ハンディキャップ(社会的不利)の三つがあります。日本語はしかし、『障害』しかありません。直訳すればハードルという言葉を転用している国は、ほかにないでしょう。人間に対する視野が狭いのかもしれません」

 ★ たけうち・あきろう 1954年生まれ。岐阜大教授。専門は社会哲学、生命倫理。ダウン症の長女、藍さん(38)と暮らす。岐阜県内で共同作業所やグループホームを運営する社会福祉法人「いぶき福祉会」に設立から関わった。著書に「いのちの平等論」「『弱者』の哲学」など。

 〈編注〉
※1 「身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし、魂の面で邪悪に生まれつき、しかも治療の見込みがない者たちはこれをみずから死刑に処するだろう」(プラトン/藤沢令夫訳「国家」『プラトン全集11』岩波書店、P238~239)
※2 「ひよわで病気がちの生徒を引き受けた人は、教師の職務を、看護人の職務にかえてしまう。無益な生命の世話をすることに、生命の価値を高めるために当てていた時間を使い果たしてしまう。…わたしは、病弱な、腺病質な子供は引き受けたくない。…そんな生徒にむだな労力をかけたところで、社会の損失を二倍にし、社会から一人ですむところを二人奪うだけ」(ルソー/戸部松実訳「エミール」『世界の名著30 ルソー』中央公論社、P373)
※3 「生来の愚か者、子ども、狂人に法がないのは獣についてと同様である。また彼らには、正・不正を主張しうる資格もない。なぜなら彼らは、契約を結んだり、契約の帰結を理解する能力を持ったことがなく」(ホッブズ/永井道雄、上田邦義訳『リヴァイアサンⅡ』中公クラシックス、P11)
※4 「一般はなお無制限の多産について自らは何の責任も感じていません。ことに下層階級のとうてい多くの子供を養育してゆくだけの力のないのが明らかであるにもかかわらず、…無知な、無教育な厄介者を社会に多く送り出して、いよいよ貧困と無知と、それにともなう多くの罪悪の種子とをあたりにまき散らしています。…アルコール中毒者であったり、癲癇(てんかん)病者であったり、癩(らい)病や黴(ばい)毒患者であったり、はなはだしきは精神病者でありながら、子孫をのこしています。…普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、社会に対し、大きな罪悪である」 (平塚らいてう「母性の主張について」『平塚らいてう著作集2』大月書店、P336~337)
※5 「人間の婚姻法を家畜改良法に則(のっ)とり、良父母を選択して良児を産ましむるの新工風あるべし。…強弱、智愚、雑婚の道を絶ち、その体質の弱くして[心の]愚なる者には結婚を禁ずるか又は避孕(ひよう=避妊)せしめて子孫の繁殖を防ぐ」(福澤諭吉「福翁百話」『福澤諭吉著作集第11巻』慶應義塾大学出版会、P214~215)
※6 「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や神経衰弱症にかかっている者の場合である。…不出来な者どもにもみとめられた平等権――これは、最も深い非道徳性であり、道徳としての反自然そのものである!」(ニーチェ/原佑訳「権力への意志」『ニーチェ全集第12巻』理想社、P217)

  

【パラリンピックが格差助長?異論も 超人化するアスリート 神奈川新聞  20190826日】

  神奈川県立障害者施設「津久井やまゆり園」(相模原市緑区)で入所者19人が殺害されて、7月で3年がたった。起訴された植松聖被告(29)は神奈川新聞の取材に「能力が劣る障害者に生きる価値はない」と主張し続け、かたや、能力が優れた「超人」を称揚する。翻って問うてみたい。互いの能力を自由に競い合い、比較や評価することに慣れたわたしたちは、知らぬ間に、期せずして、誰かを傷つけてはいないだろうか。そして、競争の渦中で、自分自身が苦しんだ経験はないか。東京大会開幕まで1年を切ったパラリンピックを実例に、能力主義の暗部を見つめた。(川島 秀宜)

  車いすや義足のアスリートが背中から翼を生やし、神々しく輝く。国際パラリンピック委員会(IPC)が制作を発表した初の公式ゲームのキャラクターだ。タイトルは「ザ ペガサス ドリーム ツアー」。人気ゲーム「ファイナルファンタジー15」でディレクターを務めた田畑端さん(48)が手掛ける。

  制作元のJP GAMES社によると、プレーヤーはパラスポーツに挑み、秘められた「エキストラパワー」(特殊能力)を引き出しながら成長していく。パラアスリートのペガサスのような「進化」を、オーラをまとうように翼で表現したという。若者を取り込み、東京大会を盛り上げる狙いだ。

  IPCのアンドリュー・パーソンズ会長は「傑出したパラアスリートたちの能力がどのように表現されているのか楽しみにしている」とコメントした。

 ◆競技高度化、オリンピアンの誕生

  競技が高度化したパラリンピックは「超人の祭典」と呼ばれる。

  270万枚の入場券を完売し、「史上最高の成功」とたたえられたロンドン大会(2012年)。英テレビ局は、障害を乗り越えようと躍動するトップアスリートをCMに起用し、「スーパーヒューマンに会いに行こう」と呼びかけた。南アフリカの「ブレードランナー」と呼ばれた両脚義足の選手が、オリ・パラ両方の陸上種目に出場した快挙もあった。

  パラ陸上・走り幅跳びの芦田創選手(25)=トヨタ自動車=は、東京大会で「金メダルしかいらない」と公言する。17年に7メートル15を跳び、日本記録を更新した。メダルをうかがえる7メートル超えは、6メートル52で予選敗退したリオデジャネイロ大会(16年)の「ふがいない自分」を克服した転機だった。さらなる高みを目指し、豪シドニーに練習拠点を移した。

  芦田選手が見据えるのは、アジア記録の7メートル53、さらに世界記録の7メートル58だ。「そのレベルに到達できれば、健常者とそこそこ渡り合える」。健常者の国内トップが競う大会への出場が「障害者と健常者の壁をぶち破る手段」と信じる。「ブレークスルーを起こしたいんです」

 ◆リハビリ目的が一変、転機はシドニー大会

  パラリンピックの発祥は、1948年に英ロンドン郊外の病院で開催されたアーチェリーの大会にさかのぼる。もともとの目的は、戦争で負傷した兵士のリハビリだった。

  下半身まひを意味する「パラプレジア」と「オリンピック」を組み合わせた「パラリンピック」の呼称は、第2回の東京大会(64年)が起源だ。当時はパラアスリートは存在せず、箱根療養所(現・箱根病院、神奈川県小田原市)に入所していた傷病兵らが選手に選ばれた。

  IPCと国際オリンピック委員会(IOC)が連携協定を結んだシドニー大会(2000年)以降、選手のエリート化が進んだ。障害の程度に応じてクラスが分かれるパラリンピックは、オリンピックより種目が多い。IPCはこの大会後、メダルの価値を高めようと、クラスを統合して種目を絞った。

 ◆妙技に脚光、かすむ福祉の視点

  競技の高度化に呼応するように、パラリンピックに対する国内の世論にも変化が生じるようになった。NHKの調査によると、「オリンピックと同様に純粋なスポーツとして扱うべき」とする意見が増えている。障害者スポーツに対する印象についても、6割が「感動する」、3割近くが「すごい技が見られる」と答えた。一方で「競技性より障害者福祉の視点を重視して伝えるべき」とする回答は、5%にとどまる。

  パラアスリートの強化費は、厚生労働省から、オリンピックと同じ文部科学省に移管された14年度から大幅に増額され、練習環境も充実するようになった。

 ◆熱狂の2020年東京大会 発せられた警告

  メダル量産を狙う東京大会は、開幕までカウントダウンのさなか。「水を差すな、と言われるかもしれません」。18年7月に東京大先端科学技術研究センターで開かれたシンポジウムで、熊谷晋一郎准教授(42)=当事者研究=が異論を唱えた。パラリンピックは能力格差を助長しかねない―。

  大会は「夢と感動、勇気」(スポーツ庁)をもたらす半面、「わたしはなんて能力がないのだろうと、自分を責めてしまう一般の障害者が現れないだろうか」。

  熊谷さん自身も脳性まひで電動車いすを利用し、「運動能力にコンプレックスを抱えてきた」という障害者だ。熊谷さんは、やまゆり園事件にも言及した。能力至上の偏見が福祉現場に持ち込まれた事件だったからだ。

  成熟したこの社会は、能力による自由な競い合いで成立している。だから、「能力主義自体は誰も否定できない」。そう前置きして熊谷さんは警告した。「事件後を生きるわたしたちは、否定しきれない能力主義と、うまくつき合っていかなければいけないのです」

  シンポから3カ月後、その不安は的中する。

 

【能力主義の陰で・中  障害は「言い訳」か 克服求める熱狂、陰で傷つく人たち 神奈川新聞  20190830日 】

  障害は、克服すべき対象なのだろうか。パラリンピック史上「最高の成功」と語り継がれるロンドン大会(2012年)は、障害を乗り越えようと躍動するアスリートの超人性を際立たせた結果、一般の障害者との分断を生んでいた。東京大会まで1年。この国でも、熱狂の陰で、傷つく人たちがいる。(川島 秀宜)

  JR東京駅に張られたポスターに、大学職員の男性(41)はたじろいでいた。そこに、パラアスリートの競技写真と、こんなキャッチコピーがあった。

  〈障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ。〉

  東京都が制作した東京パラリンピックのキャンペーン広告だった。男性は思わずツイッターに投稿した。〈東京都庁で障害者雇用されると、障害を理由にできないことがあっても、「言い訳だ!」と上司に詰められるわけですね〉

  ポスターは選手が自らを鼓舞するせりふで、主義主張を他者に強いる意図はなかった。ただ、男性の投稿は共感を集め、都に批判が集中する。都は「不快な思いをした方々におわびする」と、掲示から1週間余りで撤去を決めた。昨年10月の騒動だった。

  男性は取材に、統合失調症を患っていると明かし、勤務先の大学に障害者雇用枠で採用されていた。幻覚や幻聴を覚え、周囲に中傷されているような被害妄想に陥ったのは19歳。疲れやすく、集中力が長続きしないのも特有の症状だが、「怠け者」と誤解されやすいという。

  ポスターは「別世界にいるパラアスリートのストイックな美学を押しつけられたようで、傷ついた」と振り返る。「やろうと頑張っても、できないことがあるから困っているのに」

 ◆「超人」に置き去りにされる障害者

  障害の克服を美徳とする発想は「できる者とできない者の分断を生む」。日本財団パラリンピックサポートセンター(パラサポ)の小倉和夫理事長(80)は、そう考えていた。ポスター騒動は「その実例ではないか」。パラサポは、パラアスリートを安易に「超人」と呼ばないようにしている。小倉さんの信念だった。

  日本パラリンピック委員会は、東京大会で最多22個の金メダルを狙うと表明した。「メダル最優先でよいのだろうか。元来はもっと人間味にあふれ、和やかな大会だった」と、小倉さんは1964年の前回東京大会を振り返る。

  中東の衛星テレビ局アルジャジーラは、2016年の津久井やまゆり園19人殺害事件があぶり出した日本の能力主義について、パラアスリートにも取材し、昨冬に報道した。レポーターのドリュー・アンブローズさんは「障害をめぐる議論は、東京大会に向けて一層激しくなるだろう」と占う。

 ◆偏見助長、心のバリアフリー教育にも原因

  競技が高度化した結果、「パラアスリートは障害者の象徴でなくなった」。パラリンピックの社会的影響を調査する一般社団法人コ・イノベーション研究所代表理事の橋本大佑さん(39)は指摘する。

  橋本さんは、現状の「心のバリアフリー教育」は障害者に対する評価の二極化を招く恐れがある、とみている。一方はパラアスリートのように「特別な能力がある」という過大評価。他方は、目隠しや車いす体験で印象づけられる「大変で気の毒」「かわいそう」といった過小評価だ。

  心のバリアフリー教育は、やまゆり園事件を契機に進み、東京大会が残すべきレガシー(遺産)とする「共生社会の実現」への行動計画に盛り込まれた。「誤った評価が形成されれば、レガシーは破綻する」。橋本さんは17年、そう政府に提言した。

 ◆「大成功」のロンドン大会、レガシーは破綻

  レガシーの失敗例とされるのが、パラアスリートの超人性を際立たせたロンドン大会だ。

  英政府による大会直後の調査で、健常者の8割が「大会によって障害者に対する印象が改善した」と回答したが、障害者の反応は正反対だった。民間調査によると、大会1年後の健常者の態度が「変わらない」「悪化した」と答えた障害者は8割に達した。2割近くは「敵対的な行為や恐怖を感じる行為」を経験していた。

  英コベントリー大のイアン・ブリテン准教授は「『障害は乗り越えるべきもの』とするパラアスリートの能力主義が浸透し、一般の障害者が負い目を感じてしまった。大会レガシーの柱だった『共生社会』は、結果的に遠のいた」と読み解く。

  英国はロンドン大会前、リーマン・ショックの余波に見舞われ、政権交代後の緊縮財政で障害者支援は縮小された。一方でパラアスリートの強化費は増額され、4年後のリオデジャネイロ大会(16年)でメダルの上積みに成功している。国連はこの年、緊縮政策を人権侵害と指摘し、広がる格差に対して「深刻な懸念」を表明した。

  英ケント大のサキス・パップス准教授の調査によると、ロンドン大会は一般の障害者のスポーツ参加を促す原動力にならなかった。パップスさんは「当時の緊縮財政と障害者福祉に否定的な報道が弊害になった」とみる。東京大会はいかにしてレガシーの成否を判断するのか、ロンドン大会を教訓に「明確な指標が必要だ」と忠告する。

  

【能力主義の陰で 下】優劣の葛藤、周囲からのレッテル…パラアスリートに学ぶ「生きづらさ」の先 9/4 神奈川新聞】

  障害を乗り越えた「超人」とたたえられるパラアスリートたちも、勝敗が明確に決する能力至上の世界で、悩み、苦しんでいた。津久井やまゆり園19人殺害事件があぶり出した、逃れられない能力主義と、わたしたちはどうつき合っていけばいいのだろう。「障害者」と「アスリート」の両方に帰属し、「生きづらさ」と向き合うパラアスリートに学びたい。(川島 秀宜)

. 「水の女王」は、横浜市のスイミングスクールで黙々と練習に打ち込んでいた。パラ競泳の成田真由美選手(49)。9月の世界選手権と来年3月の選考会に、東京パラリンピック出場が懸かる。

  1996年のアトランタから、シドニー、アテネの連続3大会で、15個の「金」を含むメダル20個を獲得し、いつしかその称号が定着した。困難を乗り越える成田選手の「意志の力」は、安倍晋三首相の2013年の所信表明演説で、たびたび言及された。

  13歳で脊髄炎を発症して下半身がまひし、車いす生活になった。脚が勝手に震える症状が練習中に表れると、中断してコーチが制止させる。交通事故による頸椎(けいつい)の損傷で左手もまひし、後遺症で体温調整がうまくできないという。激しい練習で体温が上がるたび、バケツに張った冷水で首筋を冷やさなければならない。

  練習は「楽しくない。苦しいですよ」と明かした。ゴーグルに涙がたまるほどだ。「でも、楽しかったら競技者じゃなくなっちゃう」

 ◆受け入れる、できないこと

  海外のパラアスリートも、苦悩はさまざまだ。「パラリンピックの平等は一般の障害者の平等とかけ離れている」(英国の元陸上選手)、「『悲劇の障害者』像が利用されている」(カナダの元女子バスケットボール選手)、「競技パフォーマンスのみが強調されている」(カナダの元陸上選)といったように。

  近年の障害者福祉は、克服すべき障壁が「個人でなく社会にある」とする観念に基づく。一方、アスリートの美学は克己心に支えられている。「だから、パラスポーツはややこしい」と、右腕の成長が難病の治療で止まったパラ陸上の芦田創選手(25)は明かす。

  「願っても右腕は戻らない。できないことはありのまま受け入れる。でも、障害を事実以上の意味にしてはいけない。そこから可能性を伸ばすんです」。アスリートとして、障害に向き合い続けた芦田選手の結論だった。

.熊谷晋一郎准教授は「やまゆり園事件後を生きるわたしたちは否定しきれない能力主義とうまくつき合っていかなければいけない」と指摘する

 ◆「強さ」の対極も 照らす多様性

  「世界で一番を決めるだけだったら、オリンピックだけで十分。成果至上のパラリンピックなら、やる意味がない」。花岡さんは、パラ固有の価値を発揮してこそ、オリ・パラ一体運営の真価を見いだせると信じている。

  例えば「生きづらさのコーピング(対処法)」を提案する。「パラアスリートは障害によるストレスにうまく対応している。その方法を一般化できたら、障害者の生き方が健常者の生きる手引きになり得る」

  東京大先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎准教授(42)=当事者研究=は「能力主義が先鋭化する熱狂の渦中だからこそ、わたしたちはあえて、強さの対極を見つめるべきではないだろうか」と問う。

. パラリンピックの聖火の起点は、ギリシャに限定されたオリンピックのようなしきたりはない。東京大会は、発祥地の英ストーク・マンデビルと47都道府県で採火される演出が決まった。聖火リレーの理念は「Share Your Light(あなたは、きっと、誰かの光だ。)」。多様性を照らす。

 ◆「弱者」と「強者」 共存するレッテル

  「できないことがある弱者」と「身体機能を高めた強者」。「障害者」と「アスリート」に帰属するパラアスリートは、周囲からの矛盾する印象が共存していると、日本パラ陸上競技連盟副理事長の花岡伸和さん(43)は考える。「健常者から勝手に張られるレッテルに、生きづらさを感じてしまうんです」

  花岡さんは車いすマラソンでアテネ(04年)、ロンドン大会(12年)に出場し、最高5位に入った。強くなければ、期待に応えなければ――。パラリンピックが注目されるようになると、現役当時、そうした重圧に苦しめられるようになる。自律神経を乱し、胃腸炎になった。ただ、世界と戦うトップとして「しんどければ、しんどいほどいい」と気にとめなかった。

  引退して指導者に転じ、同じように不調に陥る選手を目の当たりにしてから、客観的にその深刻さに気づいた。「アスリートは超人ではない」とも。「言ってみれば、自分は超がんばってきた凡人ですよ」。障害は乗り越える対象ではない、という。「つき合っていくものです」

  

【インタビュー  アスリートに学ぶ「生きづらさ」の先  カナコロ9/4】

  日常に根付き、一人一人が当然のように受容している能力主義。津久井やまゆり園19人殺害事件は、福祉現場に能力至上の原理を持ち込んだ。事件を否定して生きていくわたしたちは、逃れられない能力主義とどうつき合っていけばいいのだろう。当事者研究を専門とする小児科医の熊谷晋一郎さん(42)は「アスリートの世界にヒントがある」と語る。 (聞き手・川島 秀宜)

 ―熊谷さんは昨年7月、高度化したパラリンピックは障害者の能力格差を助長すると指摘し、その3カ月後にパラアスリートのポスター騒動(※1)がありました。

  「マジョリティー側は、ポスターはいいことを言っていると思ったでしょう。マイノリティーの運動で昔からよく指摘されるのが、『名誉○○』という概念です。『名誉健常者』もその一つ。例外的に努力によって健常者並みかそれ以上のパフォーマンスを発揮した障害者を、健常者コミュニティーはそう呼んで褒めそやす。『名誉』の称号を与える、という意味です。半面、できる人がいるのなら、特別なサポートは必要ないというメッセージも送ってしまう。つまり、自助努力で能力を発揮しろ、と。あのポスターからは、そんな危うさを感じました」

 ―ポスターをツイッターで最初に批判したのは、統合失調症の男性でした。

  「見えやすい身体障害より、見えにくい精神障害のほうが怠けていると勘違いされやすい。見えやすい障害者は、あのポスターのスティグマ(偏見による烙印)を絶妙に回避できたが、見えにくい障害者はものすごく有害な影響を受けたはずです」

  ―ポスター騒動のように、傷つけられている人がいることに気づきにくいときがあります。

  「いまの社会のデザインとミスマッチを起こしている度合いが強い人を『障害者』と呼びます。障害の『社会モデル』(※2)です。社会が変わると、ミスマッチを起こす人の範囲まで変わる。多くの人が潜在的に生きづらかったり、将来に不安を抱いていたりします。全員がすでに障害者になっているといっても言い過ぎではない。それは社会が包摂力を失っているからです」

  「やっかいなのは、身体は健常で、自分がミスマッチを起こしていることに気づかない場合です。発達障害と診断される人もいますが、何の名付けも当てはめられない人はたくさんいます。同じ障害者だから連帯して社会を変えようという方向にいけばいいが、健常者だと自認して、より弱い立場の人たちに牙をむく場合もある」

 ―やまゆり園事件の植松聖被告(29)は、自分の容姿にコンプレックスを抱えていました。一方で能力主義の極致である「超人」を称揚(※3)しています。

  「依存症の当事者研究の知見に立ってみましょう。依存症者は、他者に頼らなくてもやっていけるほどの強くて美しい自分、つまり超人を目指さざるを得なくなる。それは、心を開いて頼れる隣人がいない代償です。その代償によって超人への志向性が高まり、なおかつ、超人になれない自分を受け入れられないというジレンマに陥る。わたしは、植松被告は依存症的であるとみています」

  「依存症からの回復の分かれ道は、愚痴をこぼせる仲間がいるかどうか。依存症にならない人たちは、解決もしない愚痴を延々こぼし続けられる隣人がいる。依存症者は崇高な言葉でそれを埋めようとします

  ―事件後を生きるわたしたちは、能力主義とどうつき合っていけばいいでしょうか。

  「アスリートの世界にヒントがあります。彼らは能力主義の舞台から降りるわけにはいかず、そのなかで生きなければならないという難しい距離の取り方をしている。スポーツは社会の縮図。アスリートだけでなく、すべての人は大なり小なり、似たような世界のなかで暮らしているはずです」

  「オリンピックに出場した元女子バスケットボール選手は、アスリートの立場は兵士に似ていると表現していました。自分の人生、健康、命を度外視して国のために尽くす。もともと、オリンピックはその価値観を否定する理念があったはずですが、いつの間にか戦争の構造と似てしまった」

 ―アスリートの当事者研究の成果を教えてください。

  「アスリートは、スポーツがその人の依存先の全てになってしまいやすい。スポーツ心理学では、『ユニディメンショナル・パーソン』と呼ぶそう。単一の次元になった人という意味で、現役引退後にクライシスを起こしやすいのです。ユニディメンションな状態に追い込まれ、弱音を吐けない立場に置かれたとき、どうやってそこから回復し、自分の人生を紡ぎ直すか。アスリートは実践しています」

  「平昌冬季五輪(2018年)のカーリング女子で銅メダルを獲得したロコ・ソラーレから学ぶべきことは多い。カーリングは『氷上のチェス』と呼ばれます。知性と身体能力が求められる競技に、和気あいあいとした雰囲気を持ち込んできました。日本ではアイドル視されていますが、海外では違う。洗練された組織マネジメントが注目されています」

  「一人一人のウェルビーイング(心身の健康)を損なわず、チームとしてのパフォーマンスを落とさない。吉田知那美選手によると、そこに到達するのに相当な模索や衝突があったそう。弱さをシェアして、全体で底上げをしていくことを、自分たちで練り上げてきたのです。アスリートのノウハウや知恵が、一般社会に応用できるはずです」

 くまがや・しんいちろう 1977年生まれ。東京大先端科学技術研究センター准教授。新生児仮死の後遺症で脳性まひになり、車いすを利用する。病気や障害がある当事者が、原因の所在を同じような困難を抱える仲間とともに探る「当事者研究」を専門とする。

 〈編注〉

※1 東京都が制作し、昨年10月に都内に掲示された2020年東京パラリンピックのポスター。パラアスリートのせりふとして、〈障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ。〉とのキャッチコピーが添えられていた。SNS上で都に批判が集中し、1週間余りで撤去された。

 ※2 障害は個人でなく、社会にあるという観念。例えば、エレベーターがない施設の2階に移動したい車いす利用者の困難について、身体機能でなく、施設側の設備に原因を求めるという考え方。国連の障害者権利条約や、16年に施行された障害者差別解消法も、この考え方に基づく。

 ※3 植松被告は記者に寄せた手記に「悔しいですが、人間は『優れた遺伝子』に勝る価値はありません。…私は『超人』に強い憧れをもっております。私の考える超人とは『才能』+『努力』を重ねた人間ですので、凡人以下の私では歯が立ちません」と書いた。

  

【『24時間テレビ』を障害者はどう見る? 「バリアフリー研究所」代表に聞く サイゾー8/2

  現在、放送されている『24時間テレビ 愛は世界を救う』(日本テレビ系、82425日)。嵐をメインパーソナリティに起用し、ジャニー喜多川氏への追悼企画や、嵐・相葉雅紀主演ドラマなど、ジャニーズファンを喜ばせるような内容がそろっているが、この番組の目玉は、障害者や難病患者などのチャレンジ企画だ。今回も、義足の少女や、ろう学校の生徒を“応援”する企画が放送される。

  しかし近年、同番組における障害者への演出に対し「感動ポルノ(健常者に勇気や希望を与えるための道具)ではないか?」という声も寄せられている。

 2016年に放送された裏番組『バリバラ』(Eテレ)では「検証!『障害者×感動』の方程式」がテーマに掲げられ、本家を「感動ポルノ」と皮肉に扱った内容が大きな話題を呼んだ。今年も、同番組では「2.4時間テレビ 愛の不自由、」というテーマで放送している。

  はたして『24時間テレビ』は「感動ポルノ」なのだろうか? サイゾーウーマンでは、17年にバニラ・エア搭乗拒否騒動で話題になった「バリアフリー研究所」代表の木島英登氏に、同番組の障害者の取り上げ方について聞いている。再掲するこの機会に、ぜひ読んでいただきたい。

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◆ “募金する人が正しい”とされる、押しつけ感のある雰囲気が好きでない

 ーーご自身も過去のけがで下半身不随になり、車いすで生活する障害者のおひとりですが、『24時間テレビ』はご覧になりますか?

 ・木島英登氏(以下、木島) 自分が障害を持つ前から、『24時間テレビ』は見ていません。もともと、ファンタジーよりリアリティーが好きなので、『24時間テレビ』のように作られた演出で涙を誘うものよりも、リアリティーあるドキュメンタリー番組のほうが好きですね。

 ーー『24時間テレビ』のような番組を放送することについて、どう思いますか?

 ・木島 見る人がいるから番組が放送されていると思うんですが、個人的には「皆、なぜ見るのかな?」という思いです。私も、たまたまテレビをつけたら『24時間テレビ』が放送されていて、見たことはあるのですが、どうも心地悪いというか……リアリティーがないんですよね。私が、怪我で車いすの生活になったのは高校3年生のときでした。当時は「もしかしたら、『アルプスの少女ハイジ』のクララのように、奇跡が起きて歩けるようになるんじゃないか」と考えたこともありましたが、そんな奇跡は絶対にありえない。リハビリすれば歩けるようになる病気もあるんでしょうけれど、私のように脊髄損傷で下半身不随になった場合、歩くことは絶対に不可能なんです。

  『24時間テレビ』も視聴者からしたら、「かわいそうな人が頑張るストーリー」がわかりやすいから、受けているのかもしれませんね。事実、視聴率も高いから放送しているんでしょうけど、個人的には残念という思いはあります。また、募金もあまり好きではないです。アフリカやアジアで、募金がひどい使われ方をしているのをたくさん見ています。募金しても政治家が半分持っていったりとか、寄付した洋服が流れ流れて露店で売られているとか、使われ方を末端まで管理するのが難しいんですね。とはいえ、寄付自体を全否定しているわけではなく、“募金する人が正しい”とされる、押しつけ感のある雰囲気があまり好きではないです。

 ーー近年ますます批判が高まっているにもかかわらず、番組を毎年放送することをどう思いますか?

 ・木島 批判が高まっているといっても、テレビを見ている人たちは、批判されていることすら知らないかもしれません。確かにネット上では批判されているかもしれませんが、今の世の中、テレビを見ているほとんどが高齢の方ばかりで、ネットを見る人たちはテレビを見ていないのでは、と思います。また、『24時間テレビ』に限らず、ネットの評価って基本批判が多いじゃないですか。良い評価ってあまり書かれないので、一概に批判が高まっているとも言い切れません。ただ、障害当事者の中では、あまり評判がよくない印象はあります。

 ◆「感動ポルノ」と言われるものについて

 ーーなぜ評判がよくないのですか?

 ・木島 毎年放送される内容は、チャリティーがメインですよね。障害者運動は、世界的にチャリティー(慈善事業)からオポチュニティー(機会平等)へという流れなのに、いつまでもチャリティーをやっているのは時代遅れなのでは、とも感じます。たとえば電車の障害者割引制度とか、そういう割引があるから、(特別扱いされて)障害者の機会平等が進まない。完全な交通バリアフリーが達成されない。もっと障害者に対して普通に接して、社会参画を促せばいいのに、と思います。とはいえ『24時間テレビ』も、障害のある出演者が番組に出ることによって、やりたいことに挑戦できるというメリットはあります。番組だから特別に許可が下りたり、金銭面や人的な周りのサポートがついたりするからです。ただ単純に、やりたいことに挑戦しているだけなのかもしれないのに、取り上げ方が感動ストーリーになるのは、さすがに出演者もわかっていることでしょう。お涙頂戴の番組と感じますが、年に一度ですし、別にいいのではないでしょうか。ちなみに、私のところへ出演依頼が来たことはありません(笑)。

 ーー「感動ポルノ」と言われるものについて、どう考えていますか?

 ・木島 うまく翻訳した、よく言ってくれた、という気持ちです。個人的には感動を煽る番組や映画は好きじゃありません。その感動ものに、障害者が使われるのは、しょうがないのかもしれません。だからといって止められるものでもないので、もっとほかの取り上げ方が増えたらいいなとは思います。最近は、パラリンピックの選手がメディアに出ることが増えましたが、重度な障害を持っていながら企業で働いている人や、結婚して家庭を守っている人、お金もうけで成功した人、さまざまな形で社会参画している人など、スポーツ以外の活動についても取り上げてほしいと思います。就労という部分が、生活の基盤として、最も大切な部分ですから。

 ーー『24時間テレビ』の裏番組『バリバラ』は、ご覧になりますか?

 ・木島 見ることもありますが、録画してまでは見ていません。先ほどお話しした「障害者の感動以外の取り上げ方」は、『バリバラ』やEテレが、多少なりともその役割を果たしています。ただ、やはりプラスの良いところばかりが放送されることが多いので、現実的なマイナス部分、社会の闇の部分も放送してほしいと思います。マイナス面をテレビで放送しても面白くないのかもしれませんが、実際は悲惨だったり苦労する話、差別を受けたりする場面もたくさんあるので、そういう部分も取り上げて、社会が変わるキッカケ、考えるキッカケを作ってほしいですね。

 ◆「私自身も考えを改めなきゃいけないのか」と自問

 ーー木島さんといえば、6月に格安航空会社「バニラ・エア」の旅客機への搭乗を拒否され、自力でタラップをよじ登って乗り込んだという、一連の騒動が印象に残っていますが、また同じようなことが起きたそうですね。

 ・木島 このインタビューの直前に、中国の大連に1週間ほど出張していました。関西空港で、行きの飛行機に危うく乗れなくなりそうになりました。「(車椅子利用者であると)48時間前までに事前連絡を行わなかった」のが理由です。利用したのはエアチャイナ(中国国際航空)でしたが、過去に45回は搭乗したことがあり、いずれも事前連絡はしなくてもスムーズに乗れていたので、驚きました。翌日の便に変更してほしいと頼みました。バニラ・エアの件があったばかりなのに、「また問題提起しないといけないのか、再炎上してしまうかな」と考えていると、出発25分前くらいに「手伝いは不要です」という文書に署名することで、どうにか乗ることができました。内部でも結構、揉めていたみたいですね。

 ーーバニラ・エアの騒動では、事前連絡をしていなかったことへの批判が多かったですね。

 ・木島 そうなんです。飛行機に乗れなくなりそうな現実を目の当たりにして、「私自身も考えを改めなきゃいけないのか」と自問しました。どうして私が事前連絡をしないかというと、大したことを頼まないからです。機内の通路を通る、小さな車いすを用意してもらうのみ。それがなければ、這って乗ります。車いすもバッテリーなどなく、8キロぐらいの軽いもの。中国国際航空から、「復路の便には、機内用車いすを積むよう手配した」と連絡をいただきましたが、実際には積まれてませんでした。小さな車いすひとつ積むことだけに事前連絡が必要というのは、よく理解できません。病人を運ぶのにも使えるから、ほかの航空会社のように標準で積み込んでおいてほしいと思います。

 ーー木島さんは、なぜ事前連絡をしないことにこだわるのでしょうか?

 ・木島 「事前連絡がないことを理由に、歩けない人の搭乗を拒否すること」は、私は差別だと考えます。そもそも外国で飛行機に乗るときなど、言葉が通じないので、事前連絡が無理なことがあります。飛行機がキャンセルや災害で飛ばなくなって、急に違う便に乗り換えることもあります。世界の主要な航空会社の中には、医療機器や分解が必要な電動車いす以外のときは、事前連絡が必要ないと明言しているところもあります。24年間ずっと、事前連絡なしに飛行機に乗ってきましたが、考え方を改めないといけないのか、一度、国土交通省に問い合わせてみようと思っています。ところで、出張で訪れた中国はバリアフリーが遅れていましたが、急速に改善の兆しが見られ、中国新幹線も車いす利用者がネット予約で簡単に乗れるようになっていました。いまだに電話で長々と手続きをさせられた上で、車いす席を事前予約しないといけない、日本の新幹線より優れていましたね。
  

【「障害者が頑張っています!」という表現をしたくない――身体障害者による劇団「態変」主宰に聞く サイゾー08/25

文=姫野ケイ

 2020年のパラリンピックを前に、障害者への関心が高まっている。「欠損女子」によるバーイベントが話題になり、乙武洋匡さんが、健常者と障害者の垣根をなくすため、パラリンピックを五輪と統合することを提唱して議論を呼んでいる。関西で30年以上活動を続け、12年ぶりに東京で公演を行う、障害者による劇団態変の主宰・金滿里さんに、活動の趣旨や障害者に対する社会の動きについて話を聞いた。

 ◆自然に一番近い自分の身体で表現をしようと思った

 ――金さんは劇団を立ち上げる前、身体障害者のための団体で活動をされていたそうですが、そのような活動と演劇は違うように思えます。もともと、演劇が好きだったのでしょうか?

 ・金滿里さん(以下、金) 私は、母親が韓国の古典芸能の大家という家に生まれた、在日コリアン二世です。母は韓国古典舞踊や琴・パンソリという唄のできる人で、私も物心ついた頃から見よう見まねで踊りなどをする才能があったらしく、母は自分の跡継ぎにしようとしていたらしです。しかし、そんな私が3歳でポリオに罹って障害者になってしまいました。

 韓国人はよく自分の身の上話を人に聞かせるのですが、母はこのことを人生の嘆きのネタとして友達に話しましてね。それを聞いていて、自分は障害者になったことで、芸能とは関係なくなってしまったんだな、としか思いませんでした。

 その後、成人する頃になって、障害者差別をなくす運動と出会って参加しました。それまでの暗かった人生が変わる大きな転機だったのですが、その運動も方針の違いで脱会し、放心状態になってしまった。でも、気休めで何かをするのではなく、やりたいことがなければ、あえて何かをやるのはやめよう、深く静かに沈殿して、二度と浮上しなくてもいいのではないかと思っていました。それが、沖縄に旅行に行ったことで変わりました。

 健常者の友人と沖縄に3カ月間、放浪の旅に行ったのですが、その際、健常者でないと行けない山奥の滝への観光があったんです。彼女たちに「私はここで待っているから行っておいで」と言ったら、本当に行ってしまって、私は一人放置されたんです(笑)。大自然の中に一人取り残され、自分も大宇宙の中のサイクルの中で生かされているのだなと実感したとき、自然に一番近い自分の身体で表現をしようと思ったんです。

 それまでやっていた障害者のための運動は言葉の世界ですから、相手を論破したり、理路整然と説得したりしなければなりません。それは、障害を持っている自分自身が表しているのではなく、言葉自体、脈絡、文法や文体であるので、そこにモヤモヤを感じていました。せっかく障害があるのだから、それを使おう、論より証拠だと。人の考えを一瞬にして変えることができるのが演劇の表現なのではないかと思い、29歳で劇団「態変」を立ち上げました。

 ――劇団員の方たちは、演劇初心者の方ですか?

 ・金 はい。既存の表現の形をとらないほうが、よりエッセンスが中から湧き上がってきて、表現せねばならないものを素直に感じられるところがあるので。専門教育を受けると、逆に何か曲げられてしまうところがありますよね。

 ◆「障害者が頑張っています!」という表現をしたいのではない

 ――設立当時、身体障害者による劇団はおそらく世界初だったそうですが、態変の舞台を見た観客からはどんな反響が寄せられていましたか?

 ・金 最初の頃は、「危ない! こんなもの見てられない!」と怒って帰った白人のお客さんもいましたね。脳性麻痺で身体が震えている演者が一升瓶を持って「俺の酒が飲めんのか!」と客に飲ませ、また自らも酒を飲むような「挑発芝居」と言われるものをやっていたんです。酔っ払いと同じように震えているけど、脳性麻痺で震えている、酒でも飲まんとやってられへんという逆説的表現ですね。

 でも、怒って帰られるのなんて、私たちにとっては上等ですよ。「障害者が頑張っています!」といった表現をしたいのではなく、いかに健常者が考えつかない障害者の世界があるかを表現したいんです。障害者の多くは、健常者になりたいと幻想を抱いています。でも、自分の足元に根を下ろすと、全然違う見方や考え方がありますよね。それを芸術として出しています。

 ――態変の作品にはセリフは一切なく、身体の動きで表現されていますが、劇団としてはどのような表現を心がけているのでしょうか?

 ・金 うまくなろうとしないこと、健常者のマネをしないことです。良い格好というのはマネから生まれるでしょ? でも、障害者の場合、健常者を見ているうちに自分も健常者だと錯覚してしまうんです。「障害者らしくせぇ」とは言わないのですが、何かやるときの形が健常者の模倣だったらすごくみっともないと、昔から思っていました。

 障害の程度でも、寝たきりと座ったまま、立ち姿勢のとれる、3つの姿勢があるんですね。この中で、寝たきりが一番“表現的”なんですよ。立っているものは制約を加えないと、寝たきりの演技の良さを壊してしまうので、誰がどこを通ってどっちへ行くなどの交通整理をやる必要があります。態変の演技は、“風景”として見ると楽しめると思います。何を言おうとしているのかを考えて見ると、頭がカチカチに固まってしまうので。

 ◆パラリンピックが利用されている

 ――先日、障害のある若い女性の「欠損女子」たちがバーテンダーをするイベントが話題となりました。「欠損」という点にフェティシズムを感じる人がいることや、欠損女子を性的な目で見ている人もいるということを含め、賛否両論を呼びましたが、金さんはどう思われますか?

 ・金 私、1996年から3年間ほど、エジンバラで公演があってイギリスに通っていたんですよ。イギリスでは、身体障害者や、そういう嗜好の人が出会うためのクラブがありました。そういう嗜好の人のための出会いの場が、日本でも出てくるんだろうなとは思っていましたが……。人間の嗜好はいろいろあるので、とやかく言えませんが、本当に出会うというのは容姿ではなく魂同士のふれあい、つまりコミュニケーションなのではないかと思います。容姿ではなく、見えないものを見たいと思っているほうなので、私はあまり関わりたくはないですね。

 欠損女子のイベントに参加しているのは、障害者のほんの一部でしょうね。ほんの一部の人が良いと思っているのと、みんなが良い、と思うのとでは違うでしょ? 例えば、健常者でもホステス業をやりたいと思ってやっている人がどれだけいるか、と同じです。苦労して稼がなダメで、お金のためにやっている人もいるでしょうし、単に労働時間が短いし、オシャレもできるしいいやんと思ってやってるだけの人もいるだろうし、それと同じです。

 障害をウリにできたらラッキーと思っている人もいるだろうけど、消費なので、そのうちに喪失感を感じ、本当の愛を求めたくなるのではないかなと。もともと愛されたいのでしょう。そんなところで障害を消費しなくても、愛されると思います。

 ――20年に東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。先日、乙武洋匡さんの「義足が進化して、このままでは健常者に勝ってしまうので、パラリンピックをなくしたい」という発言が話題になりましたが、金さんはパラリンピックに関してどう考えていますか?

 ・金 私は東京オリンピックもパラリンピックも反対です。一番大事な福島の原発の問題が解決していない、今の日本の状況では、やるべきでないと思っています。問題から逃げないという底力を見せてほしいのに、「違う方向やんそれ、それで満足なんか? と思います。パラリンピックが、めっちゃ利用されているんですね。「パラリンピックがあるから、あんたら黙っとけ」という圧力に使われている。障害者が認められるという幻想を持ってしまう。乙武君のように、「義足を使えば健常者に勝つやん」という、勝ち負けの問題ではないんですね。

 ――次回公演『ルンタ(風の馬)〜いい風よ吹け』は、どのような内容なのでしょうか?

 ・金 チベット仏教、チベット密教とも言うんですけど、非常に洗練されたディープな仏教の世界がテーマです。宗教でなくてもいいんですよね。人間が別の価値観で生活や人間のつながり方を変えていく必要が日本の社会にはあるんちゃうかな、具体的にそれを考えていくきっかけになればいい、物質文明ではないものといった感じですね。


※劇団態変
主宰・金滿里により1983年に大阪を拠点に創設され、身体障害者にしか演じられない身体表現を追究するパフォーマンスグループ。「身体障害者の障害じたいを表現力に転じ未踏の美を創り出すことができる」という金の着想に基づき、一貫し作・演出・芸術監督を金が担い、自身もパフォーマーとして出演する。海外公演も多数行っている。

 

 

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