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ノーベル賞科学者の怒り 「創造性奪う入試」、先生が気の毒「教育最貧国」

 これまでも多くのノーベル賞受賞の科学者が警告してきた。目先の利益、成果に固執してはイノベーションはうまれないと・・・最近でもクラゲ、微説物を追い続けた研究がもたらした成果…目先の利益追求では生まれなかった。

 異端を排除し、国の定める価値観に抑え込もうとする今の「教育行政」、その中で、双方向翻訳機器の飛躍的発展で、外語学習は、文化の相違、深みを学ぶ学問に変容したのに「英語教育」をカリキュラムに入れ、早期化させる愚。それもこれも「教育」産業を富ますため。日本人の社会、子どもの未来は視野の外。これが安倍政権。

 【ノーベル賞・野依博士「本気で怒っている」日本の教育に危機感 6/25

 

 【ノーベル賞・野依博士「本気で怒っている」日本の教育に危機感 6/25

 

 「教育の究極の役割は、人類文明持続への貢献だ。加えて、わが国の命運もかかっている。私はいまの教育と世相に大いに怒っている」――。2001年にノーベル化学賞を受賞し、現在は科学技術振興機構の研究開発戦略センター長を務める野依良治博士は、日本の未来、そして教育への危機感をあらわにする。令和の時代が始まったいま、ノーベル賞受賞者には日本の教育がどう見えているのか。教育新聞の小木曽浩介編集部長が聞いた。

◆学校教育は「金持ち」になるためではない

 

――日本の教育はいま、大変革期を迎えています。先生が座長を務められた教育再生会議(※1)から干支がほぼ一回りし、令和の時代に入りましたが、いまの教育をどう見ていますか。

 私は教育の専門家ではありません。だが、この硬直化した教育の状況について言いたいことはたくさんある。本気で怒っています。本来、なぜ教育があるのか。まず、個々の人々が豊かな百年の人生を送るため。国の存立と繁栄をもたらすため。さらに人類文明の持続に資することが最も大事で、この根幹を忘れてはならないと思うわけです。

 問題は、じゃあ、どういう人生、あるいは国、あるいは人類社会であるべきか――ということ。そこに理念あるいは構想がなければ、とても教育はできませんね。

日本は戦後、欧米から民主主義や人権など多くのことを学んできたものの、残念ながら受け身であり続け、自らが考えた「国是」、英語で言うナショナルビジョンが共有されていないことに、根本的な問題があると思っています。

―― 学校教育については、どうでしょう。

 学校教育は、社会のためにある。個人が自由に生きる権利は大切だが、決して入学試験に合格するためだとか、あるいは金持ちや権力者になるためにあるのではない。教育界というのは日本であれ、あるいは世界であれ、あるべき社会を担う人を育まなければいけない。健全な社会をつくることが、国民それぞれの幸せにも反映するわけです。

 日本は他国並みではなく、格段にしっかりした次世代を育てなければなりません。行政にも現場にも、その覚悟が求められる。

 そして、多様な文化を尊重する文明社会をつくっていかなければいけない。

(※1)教育再生会議=教育改革を検討するために第1次安倍政権が2006年に設立。各界有識者16人がメンバーに選ばれ、野依氏が座長を務めた。第2次政権発足を受け、2013年に教育再生実行会議として復活した

時代を生き抜く若い世代をつくるのが教育

―― 多様な文化とは何かを詳しく。

 私は、文化は4つの要素から成ると思っています。「言語」「情緒」「論理」、そして「科学」。

 言語は地域によってものすごくたくさんあり、他方で科学は一つしかない。情緒や論理の多様性は、その言語と科学の間にある。これらの文化的な要素をきちんと尊重しなきゃいけない。決して軍事力や経済力で踏みにじってはならない。

 私は科学者ですが、将来を考えると科学知識や技術だけでは、人々は生きていけないと思います。やっぱり文化に根差す思想がないと、未来を描くことも、実現することもできない。

―― そのためにも、教育しなければいけない、と。

 その通りです。同時に人は時代と共に生きているわけで、その時代が求める知は何かということです。教育は教条的ではいけない。昔の教育と今の教育は違うはずで、近未来も含めて時代を生き抜く若い世代をつくることが、個人のためにも、社会のためにもなるのです。

 

◆科学教育の本質は「無知の知」

 

―― 科学者の立場から見て、科学教育とは何でしょう。

 科学とは、真理追究の営みです。ポール・ゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という絵がありますよね。この問いにまっとうに答えるのが科学だと思っています。

 科学は客観性の高いものですが、人々の営みとか自然観、人生観、死生観などの、まっとうな主観を醸成します。いたずらに経済的利益追求に貢献するだけではなく、これが本当の意味での科学の一番大事な役割なのです。

―― 非常にスケールの大きい命題ですね。

 そうです。科学は森羅万象に関わるからです。とはいえ、そんな大きな命題にはなかなか答えられない。だから個々の人は身の丈に合った科学的課題を選び、研究をし、ささやかでも人類共通の資産をつくるのです。そして誰かが、その知識を使うことになる。

 ソクラテスは「無知の知」と言っていますが、科学教育の本質はまさにここにある。人々は謙虚でなければいけない。つまり、何かを発見したら、その背後にはまた、大きい未知が残っていることが分かる。

 ニュートンは「私がかなた遠くを見渡せるのだとしたら、それはひとえに巨人の肩に乗っていたからです」と言っています。ニュートン自身もすごい科学者でしたが、ガリレオやケプラー(※2)の業績の上に乗っていたからこそ「遠くが見えた」と。科学の本質は知識の積み上げです。だから、いつの時代にも若い人が未知に挑む。最高水準の研究をして、新しい知に挑んでいる。

(※2)ニュートン(16421727)は「万有引力の法則」を発見した英国の物理学者。ガリレオ(15641642)は「地動説」を主張したイタリアの物理学者。ケプラー(15711630)は惑星運動の「ケプラーの法則」で有名なドイツの天文学者

 

◆「科学者に必要なもの」野依博士の答えは?

 

―― 次代を担う若者たちですが、学力についてはどうでしょう。

 その話をするには、まずこちらから質問しましょう。科学者として成功するには、何が必要なのか分かりますか。

―― 観察眼やセンスでしょうか。

 それらも必要でしょうが、違います。ものすごく単純なんです。自分でいい問題を見つけて、それに正しく答えるということです。この生き方を貫くのです。

―― そう言われますと、新聞記者も同じですね。自分でいい問題を見つけることが一番重要です。

 もちろん、そうでしょう。それで日本の青少年の基礎的な学力ですが、PISA(※3)やTIMSS(※4)などの国際調査結果などを見ると、割と頑張っています。

 ただ問題は、学びが消極的な点。積極的に定説に対して疑問を投げ掛けたりすることがない。教科書などに書いてあったら、「ああ、それはそうですね」で済ませ、自分で考え「そうじゃないんじゃないか」と、工夫して挑戦しないのですね。

 創造性のある科学者に必要なのは、いい頭ではなく、「強い地頭」。自問自答、自学自習ができないといけない。

 それから、感性と好奇心。これが不可欠です。そして新しいことに挑戦しなければいけないから、やっぱり反権力、反権威じゃないと駄目ですね。年配者や先生への忖度(そんたく)は無用です。先生や社会は若者のこの自由闊達(かったつ)な挑戦を温かく見守る必要がある。

 今の大きな問題は、好奇心を持って自ら問う力、考える力、答える力。これらが落ちているということ。なぜそうなるのかというと、社会全体を覆う効率主義、成果主義のせい。しかも実は本当の成果を求めていない、形だけの評価制度は許せない。評価は本来、人や物の価値を高めるためにあるのですが、そうなっていない。問題の全体像をつかみ、自ら考えて、答えを得るというプロセスがなければ、知力を培うことは絶対にできません。

(※3PISA(ピザ)=経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査
(※4TIMSS(ティムズ)=国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育動向調査

「目次」に関心のない現代の大学生

 

―― 全体像を把握する力も足りていませんか。

 例えば私たちは一冊の本があったら、まず第1章、第2章、第10章、第15章と、前から目次を順次眺めながら、全体の学問の構造を勉強しました。目次は大事です。

 しかし、今の大学生は目次には関心がなく、索引を見ます。例えば索引で万有引力の部分を読んで、「おお、万有引力とはこういうことか」と。細胞死なら細胞死の記述だけを読んで「これは分かった」と。だから知識が体系化されず、ばらばらで断片的なのです。

 

◆“教育最貧国”の日本「先生が気の毒」

 

―― “巨人の肩に乗る”格好にならないのですね。

 そう、なりません。ドローンでさっと舞い上がって、あらかじめ見たいものだけをピンポイントで見てくるようなものです。

 考える力、答える力が落ちていると言いますが、最も心配なのは「問う力」がほとんどないこと。誰かに作ってもらった問題に答える習慣が染み付いている。幼い子供たちは好奇心を持つが、学校教育が疑いを持つことを許さないのではないか。発展につながるいい問題を作るのは、与えられた問題にいい答えを出すよりも、ずっと難しいのです。平凡な既成の問題に答えてもまったく意味を成さないはずで、なぜこんなことが分からないのか。

 しかし、これは生徒が悪いのではなく、国なり、社会の教育に対する考え方が、科学研究を損なっているのです。

 私は教育再生会議(※4)の座長を務めましたが、やはり「社会総がかり」で教育に取り組まないといけない。その意味で日本は“教育貧困国”なのです。学校だけに任せては駄目です。学校教育だけでなく、家庭、近所、地域、さらに産業界、あらゆるセクターの組織、あるいは人々が教育を支えるという気持ちにならないといけない。そして教える側自身も、そこから多くを学ぶ。

 しかし実際には、今の小学校から大学の教育を見ても分かる通り、教育が学校に偏重している。そして皆、自分の義務を果たすことなく、「学校が悪い、先生が悪い」と言っていて、先生たちが気の毒です。一方でメディア報道によると、身勝手な教育者らしからぬ先生も大勢いるようです。不祥事は根絶しなければなりません。

 学校の先生に全部任されてもね。「親の顔が見たい」という言葉がありますが、家庭でしつけのできていない子供たちを教育できませんよ。学校教育はもちろん大事で、教育の中核を成すものだと思いますが、あくまで教科が中心でしょう。現代、そして将来の社会を支える人をつくる、そして、その個人が幸せに生きるということを、社会全体で考えない限り駄目です。

 

◆若年層の創造性を損なう入学試験の弊害

 

―― 何がひずみを生んでいるのでしょう。そして、教育界はどうするべきなのでしょう。

 わが国の教育界は、個々の若者に新たな社会環境を生き抜く力を与えるとともに、国全体の知的資質と資産の最大化に努めるべきです。あらゆる分野で人材不足で、特に均質性が気になる。

 私は、入学試験の弊害がものすごく大きいと思います。若年層の創造性と感性を損なう非生産的な過当競争は絶対に避けるべきだが、一方、現状を利する守旧派勢力は大きい。教育を取り巻く全てのセクターが世界の変化を直視し、近未来を担う若者を育てるべきです。

 まず入試にある科目しか勉強しないことは大問題だ。確かに学力は合否判定の軸です。しかし、筆記試験の成績が神のご託宣のように思われているが、その「信仰」の根拠は何か。この「神」は一人ひとりの獲得点数を1点刻みで正確に知っているが、人物の内容については何一つ理解していません。

 入学者の選抜においては、子ども、青年たちが、この学校・大学に入ってどのくらい成長するかという観点で、総合的に判断すべきだと思います。筆記試験で今まで詰め込んだ知識の量はそれなりに測れるかもしれないが、それだけでは不確実性に満ちた時代に生きる成長性は全く判断できないではないですか。

 人には個性と意志がある。学校も個性と意志を持つ。どういう若者を育てたいのか。子供たち、青年たちの過去の経験や、特技、人柄、志を勘案して、法人として自主的かつ総合的に選抜しなければいけないと言っているんですよ。

 「評価」は「分析」と異なり、本来は客観じゃなく主観です。大学はそれぞれに特色があるので、どういう学生が望ましいかは、みんな違うはずです。文学部と医学部、体育大学と外国語大学、芸術大学、みんな同じわけがない。

 もちろん最近の医学部入試のように不当差別があってはならず、公器たる大学が自らの意志で、あらかじめ評価の観点、項目を明確化し、公表することが不可欠であることは言うまでもありません。

 数量的物差しだけでは、事の本質を測れない。人の精神の営みや感性、文化的特質は計量化できないはずです。だから学生を受け入れる学校側が、自分たちのこととして、しっかりと見る目を持たないといけない。一般的な商品の購入には客観データが助言してくれるかもしれない。しかし工芸作品の美しさや文化作品の品格の鑑定は難しい。

 ましてや、人間の面白さや大きさはね。人々の人生にとって最も大切な伴侶の選択は、いかになされるべきか。人を物質化、機械化した客観的数値評価で幸せが得られるわけがないでしょう。

 

◆世界が多様性に向かう中、画一性に固執する日本

 

―― 「客観でなく主観で」は、選抜法の180度の転換ですね。

 「主観は偏見が入るからいけない」「筆記試験は客観的で公平だからいい」と言う。では本当に子供、青年たちの機会均等は保障されているのか。受験技術の習得に多額の費用がかかり、親の経済力が機会獲得の支配因子とも言われる。ならば現行の選抜法は、むしろ「政策的偏見」ではないでしょうか。

 特定の階層の、既得権の再確認であり、国家的には人的資源の大きな損失です。当人が預かり知らない外的要因で、18歳の時にその後の運命が決まっていいはずがない。将来の進路にもよるが、“規格品”が通用しない科学分野にとっては大問題です。ここでは要領の良さは通じません。守りの姿勢ではなく、全く無から有を生む、ひたむきな攻めの姿勢こそが求められるのです。

 世界が多様性の尊重に向かう中で、日本はなぜ、画一性にこだわるのか。民族性が関係するのでしょうが、私は全く理解できずにいます。世界では人材獲得競争が激化する中、英米の学長らに実情を話し、意見を聞いてみてほしい。これで海外の優秀人材を確保できるのか。安易な形式的公平性を排し、責任を持って主観的判断をすべきです。もはや18歳人口はわずか118万人、1992年の205万人からほぼ半減した。私立大学の定員割れ状況をみても、国内の人材枯渇は明白です。さらに大学生については、国内外の「頭脳循環」(英語でいう「Brain circulation」)を欠くため、数量、質ともに危機的状況にある。このままでは座して死を待つのみです。

 さらに言えば、大学院入試における、学部学生の囲い込みもひどい。大学院教授は、同一大学内の学部で教えてきた学生たちを審査する。他大学出身生が太刀打ちできるはずがない。利益相反の極致にあります。米国などでは同一大学生の内部進学を回避するところも多く、全く考えられない状況です。

 学生たちは勇気を持って動いて、武者修行するべきですね。

※本記事は教育新聞に掲載したインタビュー記事を再構成したものです。

《プロフィール》

■野依良治(のより・りょうじ) 19389月生まれ、京都大学卒業。名古屋大学特別教授、工学博士。00年に文化勲章を受け、01年に「不斉合成反応の研究」でノーベル化学賞を受賞

■小木曽浩介(おぎそ・こうすけ) 19731月生まれ。早稲田大学卒業。岐阜新聞記者、ライブドアニュースキャスターなどを経て、教育新聞編集部長

 

 

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