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悪しき伝統、この無責任  昭和の戦争・平成の自衛隊

林信吾(作家・ジャーナリスト)氏の「西方見聞録」より。
兵站、衛生、情報を軽視し〔加えれば、情勢を無視した「大鑑巨砲主義」「高価な火の出るオモチャ嗜好」〕、隊員の命を顧みない・・・ この勇ましい言葉で覆い隠すこの指導部の無責任さは何? 
*写真は、オリジナルのページを見てください。
【兵站軽視という悪しき伝統  昭和の戦争・平成の戦争 その1】
https://japan-indepth.jp/?p=41467
【ゴーストップ事件をご存じですか? 昭和の戦争・平成の戦争 その2  8/14】
https://japan-indepth.jp/?p=41559
【「情報敗戦」を見直そう 昭和の戦争・平成の戦争 その3 8/23】
https://japan-indepth.jp/?p=41673
【「兵隊は消耗品」で国滅ぶ 昭和の戦争・平成の戦争 その4 8/25】
https://japan-indepth.jp/?p=41682

【兵站軽視という悪しき伝統  昭和の戦争・平成の戦争 その1】

【まとめ】
・自衛隊は基本的な部分の個人装備や兵站を軽視する傾向があった。
・ロジスティクスの差こそが前線における物量の差に直結する。
・今の自衛隊は政争の具になっている。

2011年に『デカワンコ』という刑事ドラマが放送された。トップクラスの警察犬に負けない嗅覚の持ち主ながら、いわゆる「空気を読まない」タイプの女性刑事を、多部未華子が演じた。たしか「怪演」ぶりが評判になったはずだ。

再放送で見たのだが、第1回で銃撃戦が起きる。結果、見事に犯人逮捕となるのだが、上司の係長が、「弾は高いんだから。あとで経理にチクチク言われるのは俺なんだから」などと愚痴を言うシーンがあって、笑ってしまった。もう少し考えて撃ってくれ、というのだ。

もともと刑事ドラマと言ってもコメディだし、日本の警察官はまず発砲しないから、こんなものは笑って済まされる話なのだが、昭和の戦争の総括、そして現在のわが国の防衛を考えると、急に笑えなくなる。

◆「たまに撃つ 弾がないのが 玉に瑕」

自衛隊では昔から有名な狂歌なのだが、彼らの言う娑婆、つまり一般社会ではほとんど知られていない。たしかに自衛隊は、弾薬が豊富だとはお世辞にも言えず、訓練での弾薬消費量も厳しく規制されていた。税金が節約できて結構ではないか……という話にはならないと思う。

「訓練で流す汗が多ければ、実戦で流す血が少なくなる」と言われるが、これはどちらかと言うと、新兵に対するスパルタ式のしごきを正当化する意味合いがあるようだ。もちろん一面の真実は語っているのだが。一方、

「射撃の腕前は、訓練で消費した弾薬量に比例する」という言葉こそ、真理であると私は考える。

ある程度の社会経験を積んできた読者には、多くを語るまでもないのではあるまいか。仕事であれスポーツであれ、才能以上に大事なのは経験値と練習量なのであって、射撃も例外ではない、というだけの話なのだ。

一見すると、自衛隊は最新鋭の兵器を揃え、世界屈指の精強な実力組織(憲法上の問題があるので、軍隊という表現はここでは避けておくが)であるが、実のところ、もっとも基本的な部分である個人装備やロジスティックスを軽視する傾向があった。

写真)パラシュートで地上部隊に提供される米軍物資 アフガニスタン 2010年6月
出典)U.S. Department of Defense photo by Staff Sgt. William Tremblay

ロジスティックスという言葉は、民間ではもっぱら「物流」の意味で使われるが、軍事用語では「兵站」と訳されている。具体的な内容は、物資の調達・支給・修理、給食、ゴミや排泄物の処理(前線の陣地では、これが結構大変)、傷病者の後送・治療・入院、さらには郵便など各種のサービスまで、要するに戦闘以外のほとんどの軍事活動が含まれているのだ。


昭和の戦争=アジア太平洋戦争について、「物量の差で負けた」で済ませてしまう人が今も少なからずいるが、ロジスティックスの差こそが前線における物量の差に直結することは言うまでもない。そもそも国民が「欲しがりません、勝つまでは」などという窮乏生活を強いられていたら、前線の兵士に豊富に食料が行き渡るはずがない。

写真)「ぜいたくは敵だ」と書かれたポスター(1940年) 出典)パブリックドメイン

たとえ食料・弾薬が豊富にあっても、それを前線に届けるための輸送手段や、その能力が貧弱ではどうにもならないわけだが、この問題ひとつ取っても、第二次世界大戦中、地上部隊の物資輸送を100パーセント自動車化し、馬匹にまったく頼らなかったのは、実は米軍だけであった。

車があっても運転する人間がいなければ、やはりどうにもならないわけだが、この点でも大戦中の米軍は、17歳以上の兵士全員に運転技術を習得させる方針をとり、そのためにイラストを多用したマニュアルまで作成していた。

対する日本陸軍はと言えば、車の運転は「特殊技能」とされ、今となっては信じがたいことだが、陸軍の第一線部隊でさえ、トラックの運転ができる者は全将兵の5パーセントに満たなかったという。

その、運転者育成の教育がまたひどいもので、教則本の最初2ページは「貨物自動車とはなにか」という御託が書き並べてあり、それを一字一句暗唱できないと、運転を教えてもらえないどころか、張り倒されたのだ。
昭和から平成の世となってすぐに、イラク戦争が始まり、日本も「人道支援」の名のもとに自衛隊を派遣したわけだが、実戦を前提とした参加でなかったのは幸いであった。

写真)イラク人道復興支援特措法に基づく活動 出典)陸上自衛隊 

憲法上の問題をあえてひとまず置いて話を進めるが、当時の主力戦車であった74式には、エアコンがない。砂漠に持って行ったらどうなるか、ということを考えていなかったのだろうか。

旧ソ連軍は、全ての戦車に安価にエアコンを取り付けるべく、日本製のカーエアコンを無断コピーし、大量生産するということまでしていた。もちろん誉められたことではないが、自衛隊が「限られた電力を消費し、調達価格も高くなる」などという理由でエアコンなしの戦車を使い続けていたに比べ、はるかに軍事というものを理解していた、とは言えるだろう。

高校球児でさえ、炎天下の甲子園球場で、脱水症状で足をつらせたりして問題になっている。「災害レベルの猛暑」に苦しめられている今年の日本人ならば、エアコンなしの戦車で砂漠に乗り込むというのが、どれほど無茶な話か、理解できるのではあるまいか。

もちろん現実には、自衛隊が戦車をイラクに持ち込むことはなかった。しかしこれは、憲法論争が盛り上がるのを回避するためであって、砂漠での使用に耐えられないから、という理由ではない。

「命がけで任務を果たす自衛隊員が、憲法違反の存在でよいのか」などという論理でもって、憲法9条そのものを変えないまでも自衛隊の存在を明記しよう、というのが昨今の内閣の姿勢だが、これまで自衛隊員の命を危険にさらしてきたのは、歴代自民党内閣の安全保障政策に他ならない。

昭和の旧日本軍において、下士官兵は「消耗品」という扱いを受けてきた。今の自衛隊は政争の道具になり果てている。歴史は繰り返す、と言われるが、繰り返してはならない歴史もある。


【ゴーストップ事件をご存じですか? 昭和の戦争・平成の戦争 その2  8/14】

【まとめ】
・ゴーストップ事件後、警察が軍隊に及び腰になり2・26事件が起きた。
・戦後、自衛隊は警察の支配下に置かれているが、信頼関係が築けていない。
・憲法改正論議前に、国民の生命財産を守るとはどのようなことか社会全体で議論していく必要がある。

今や国民的ドラマと呼んでよいであろう、TV朝日系の『相棒』だが、私が手を打って喜んだシーンがある。もうだいぶ前の話、ということになるのだが、非公然に稼働していた細菌研究施設から、危険なウィルスが盗み出され、その裏で実は自衛隊が暗躍していた、という設定だった。

水谷豊演じる主人公・杉下右京警部らの活躍で、真相が暴かれて行くのだが、あくまでも末端の暴走だ、とシラを切ろうとする防衛省幹部に対し、岸部一徳演じる警察庁幹部が、こう言ってのける。
「一言いい?省に格上げされたと思って、少し調子に乗ってない?」
警察と自衛隊は定期的に情報交換をしているのだが、その席上、防衛庁が防衛省となり、今までは警察庁の風下に立っていたが……などと嫌みを言われるシーンがあって、それが伏線になっていたのだ。

もともとこのドラマは、犯罪だけでなく、警察内部の不正も容赦なく暴いてしまう面白さがあったのだが、ついに防衛省まで切り捨てたか、と個人的にウケたのである。

同時に、ゴーストップ事件のことが、ちらと頭に浮かんだ。1933(昭和8)年6月17日、大阪市北区の天神橋筋6丁目交差点(大阪の人はテンロクと言われればすぐ分かるらしいが、東京人の私はまったく不案内)で、陸軍歩兵第8連隊に所属する兵士が信号無視をした。この日は非番で、急いで市電に乗りたかったらしい。
それを見とがめた巡査が、派出所まで連行しようとしたのだが、はからずも公衆の面前で取り押さえられる形となった兵士が、「軍人を身柄拘束できるのは憲兵だけ。巡査の命令になど従わぬ」などと抗弁したことから、ついには派出所前で殴り合いのケンカになってしまった。

見かねた通行人の通報で、憲兵が駆けつけて兵士の身柄を引き取り、ひとまず騒ぎはおさまったかに思えたのだが、現場の責任者である連隊長と警察署長が、いずれも不在であったことから、話がややこしくなった。それぞれ上級官庁(陸軍省と、戦前は警察の監督官庁であった内務省)に報告が上がってしまったのである。
まずは陸軍側が、制服の兵士を拘束しようとしたのは不穏当である、などと警察に抗議し、これを受けた警察も、「軍人が陛下の軍人だと言うなら、警察官も陛下の警察官である」として、謝罪など論外だと応じた(22日)。
その後、大阪府知事と陸軍幹部の会談も物別れに終わるなど(24日)、対立はエスカレートし、警察署長が過労で倒れたかと思えば、ついには目撃者の一人が自殺するという事態まで起きた。警察と憲兵隊から交互に呼び出され、双方から、こちらに有利な証言をするようプレッシャーをかけられたせいであると、衆目が一致している。

結局、半年近くも泥仕合が続いたのだが、昭和天皇が心配されているとの情報を得た陸軍側が、急に矛を収める形で和解に至った。11月20日、当事者の兵士と巡査がともに検察に出頭して(兵士が巡査を告訴していた)、互いに謝罪した後、握手して別れたという。

世間の目には痛み分けと映ったのだが、法曹界においては、警察権力を含めた法の支配も現役軍人には及ばない、という解釈が根付く結果を招いた。と言うより、警察や裁判所といった司法執行機関までが、軍隊に対して及び腰になったのである。

この3年後、1936(昭和11)年2月26日に、2・26事件として有名なクーデターが起きるわけだが、実は警察は、憲兵隊より先に「一部青年将校の間に不穏な動きあり」との情報を得ていた。しかしながら軍部と再度のトラブルになることを嫌った上層部の判断で、この情報を黙殺したのである。

▲写真 昭和11年2月26日、芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊。 出典:シリーズ20世紀の記憶 『満洲国の幻影』 (毎日新聞社)

昭和の日本は、ある日突然「軍部独裁」になったわけではなく、様々な事件が、物語の伏線のような役割を果たしていたのだ。
そして戦後の自衛隊は、警察官僚の支配下に置かれるようになった。

シビリアン・コントロール(文民統制)のもとで、俗に背広組と呼ばれる内局が実権を握って、部隊の移動や実弾の支給など、たとえ緊急時でも現場の判断だけではできないようになったのである。

もちろん、自衛隊のルーツは「警察予備隊」なので、別に戦前への反省から警察の優位が保たれていたわけではない。また、有事即応という観点から疑問視する声も多い。
とは言え、警察官僚による支配が「軍部の暴走」に対する抑止力として機能していることもまた事実で、このことは、1970(昭和45)年に、作家の三島由紀夫が自衛隊にクーデターを呼びかけた後に割腹自殺した、世に言う三島事件を検証する過程で明らかになった。

ただ、警察にとっての自衛隊が、表現はよくないが一種の監視対象で、信頼関係が築けていないということは、やはり問題だろう。オウム真理教が危険視されはじめた当初、山梨県上九一色村の、第7サティアンと呼ばれた「宗教施設」で、実は化学兵器の開発が進められているのではないか、という疑惑が浮上した。その際に、警察上層部が自衛隊の化学防護隊に密かに協力を仰いだと言われている。現地に赴いた自衛隊員は、問題の施設を一別するなり、ダクトの数と規模だけで、「これは研究所なんかじゃない。れっきとした工場だ」と断じたという。

一連のオウム事件から20年以上が経ち、幹部のほぼ全員に死刑が執行された今、こんなことを言っても詮ないことかも知れぬが、もっと早く、国民に広く情報が開示される形でこうした査察が行われていたならば、地下鉄サリン事件(1995年3月20日)などは未然に防げたかも知れない。少なくとも、松本サリン事件(1984年6月27日)に際して、警察庁から自衛隊に、「長野県警の見立ては、第一通報者の会社員が農薬の調合を間違えたか、故意に有毒ガスを発生させたせいだということだが、本当にそんなことが起こりえるのか」との照会がなされていれば、無実の、それも被害者が長期間拘留されるという事態はあり得なかった。

憲法改正論議の前に、日本の治安を守り、国民の生命財産を守るとは具体的にどのようなことなのか、政治家、そして警察・自衛隊の関係者には、ここでもう一度、真剣に考え、議論してもらいたい。


【「情報敗戦」を見直そう 昭和の戦争・平成の戦争 その3 8/23】

【まとめ】
・アジア太平洋戦争で、日本は物量の差ではなく、情報戦で完敗した。
・「作戦重視・情報軽視」の傾向は戦後の日本でも見られる。
・本来の「戦争を語り継ぐ意義」は反省を重ねていくことである。

前にも述べた通り、アジア太平洋戦争については、「物量の差で負けた」とだけ考える人が、今でも多い。不幸なことである。これはもちろん嘘ではないが、そもそも当時の日米は、GDPの差が20倍以上もあった。こんな相手に戦争を仕掛けようという判断が、どうしてなされたのか。今となっては信じられないような話であるが、正解は、戦前は日米の国力差について、「よく分かっていなかった」というのが理由のひとつだったのだ。

つまり現在の我々だから、たとえば北朝鮮のGDPは鳥取県と同じ程度、と聞けば、それで核開発だミサイル実験だということを繰り返していたならば、国民が貧苦にあえぐのも当然だ、と感覚的に理解できる。しかし、戦前は鉄鋼生産高とか、意外と大雑把なデータでしか国力差というものをイメージできなかった。

この結果、「パナマ運河を通れないような巨大戦艦を揃えれば、アメリカも日本に戦争など仕掛けられまい」などという戦略を立てるに至ったのである。現実の戦争では、開戦劈頭、ハワイを空襲して、戦艦に対する航空戦力の優位を実証したのだが。

そのハワイ空襲=真珠湾攻撃に際して、米軍が日本側の暗号電報を解読していたことが戦後明らかとなり、ここから、ルーズヴェルト大統領は参戦反対(ヨーロッパではすでに戦争が始まっていた)の国内世論を転換させるために、「攻撃計画を知っていて、わざとやらせた」などという、一種の陰謀論が出現することとなった。

残念ながら(?)この時点で破られていたのは外交暗号のみで、そこには真珠湾攻撃を示唆する文言すら出てこない。海軍が何を考えているのか、外務官僚はまったく知らない、という状況であったために、宣戦布告文書を米国側に手渡すのが、真珠湾攻撃の後になるという不手際が生じ、この「だまし討ち」に米国民が激怒し、「リメンバー・パールハーバー」の大合唱となって、結果的にはルーズヴェルト大統領の思惑通りに事が運んだというのが事実である。


いずれにせよ、真珠湾攻撃を皮切りに、開戦当初の日本軍は連戦連勝であったのだが、その裏では、開戦前から情報戦で後れをとっていたというわけだ。
その日本軍に対して、米軍が一打逆転に成功したのが、1942年6月のミッドウェー海戦である。この時も、日本軍はまず情報戦で完敗した。

この時点ではすでに、軍事電報の暗号も破られていたのだが、いわば二重暗号になっていて、電文自体を解読しても、肝心の攻撃予定地点が「AF」としか記されていないため、特定できなかった。そこで、米軍は一計を案じ、ミッドウェー島の守備隊が使っている海水蒸留装置が故障、という電報を、わざと暗号化しない平(ひら)文(ぶん)で打電したのである。数時間後、「AFは飲料水不足の模様」という日本軍の暗号電文が傍受され、解読された。攻撃予定地点が分かれば、待ち伏せも容易である。この結果、日本軍は虎の子の正規空母4隻を沈められる惨敗を喫し、以降、戦局はついに好転することがなかった。

連合艦隊司令長官・山本五十六大将の戦死も、情報が関係している。

1943年4月に、激しい航空消耗戦が続いていた、ソロモン諸島の前線を視察・激励に出向いたわけだが、この時の長官のスケジュールが、米軍に筒抜けになっていた。結果、待ち伏せ攻撃によって、日本海軍は事実上の最高指揮官(制度上の最高指揮官は、統帥権を持つ昭和天皇)を失ったのである。

日本陸軍に至っては論外で、ガタルカナルやインパールがどのような場所なのかさえも知らずに、多数の歩兵部隊を送り込んだ、その結果が、本来の意味での戦死、すなわち敵の銃砲弾によって斃れた兵士より、餓死者の方がはるかに多いという事態だ。これがどうして「戦争の目的は正しかったが、物量の差で敗れた」という話になるのか、私にはまったく理解できない。

このような「作戦重視・情報軽視」と言えば聞こえはよいが(よくもないか)、事前の情報収集に力を入れずに、手前勝手な計略に基づいて行動を起こすという悪癖は、戦後の日本にも見られると述べたら、驚かれるであろうか。

事実である。バブル崩壊の時のことを考えてみればよい。あの時の「バブル退治」という発想自体は、経済政策として「大東亜共栄圏」よりはまともだった、という評価はあり得るかも知れない。しかし、あのタイミングで不動産取引の総量規制、という荒療治を断行して、どれほどの副作用が考えられるか、事前によく調べていたと考える人がいるであろうか。

さらに言えば、外国のスパイを国内法で処罰する制度が未だできていないのに、市民が政治を監視するような行動に、逆に縛りをかけるような特定秘密保護法案だけを急いで成立させるというのも、情報と国家戦略の関係性が、よく理解できていないからではないのか。

昭和の戦争に話を戻すと、戦局が悪化していよいよ駄目だ、との認識が広まりはじめた頃、具体的には1944(昭和19)年の暮れから、終戦の年・1945(昭和20)年の初頭にかけてだが、当時の国家上層部はそれでも、ソ連の仲介による「無条件降伏ならざる講和」とか、米軍に出血を強いた上での「一撃講和」などに望みをかけていた。

ヨーロッパで米英ソの駆け引きや、水面下で始まっていた米ソ対立などについて、もっと情報収集に力を入れていたならば、沖縄戦や中国残留孤児の悲劇を伴わない形で、まともな「出口戦略」を立案することも可能だったのではないか。

今そんな話をしてなんになるのか、と言われるかも知れないが、私は、本来の意味で「戦争を語り継ぐ意義」とは、こういう反省を重ねて行くことであると信じている。


【「兵隊は消耗品」で国滅ぶ 昭和の戦争・平成の戦争 その4 8/25】

【まとめ】
・第二次世界大戦中、旧日本軍は人員を消耗品と見なしていた。
・一方米軍では「エリートが突撃の先頭に立つ」という伝統があった。
・今の日本のエリートは“人間には日々の生活がある”ことさえ理解していない。

『戦争論』の著者カール・フォン・クラウゼヴィッツは言った。「戦争遂行能力とは、戦争資材(物資と人員)の量と、意志の強さの積である」嘘か本当か知らないが、戦時中、この言葉を引用して、「意志の強さという点では日本兵は世界一なのだから、資材=物量の差は十分に補える」などと、大真面目に講演した将軍がいたという。

事実は、第一次世界大戦で国家総力戦という概念が確立されて以来、燃えるような愛国心だの忠勇無双の強兵だのといった要素をいくら並べたところで、物量的な優劣の前には意味を持たなくなってしまったのであるが。

ただ、旧日本軍が人員=将兵を単なる戦闘資材と見なし、生身の人間にふさわしい扱いをしてこなかったことは、これまた事実である。いや、将兵という表現では正確さに欠けるかも知れない。「消耗品」と見なされたのは、もっぱら徴兵制度で集められた下級兵士で、天保銭(陸軍大学校の卒業生記章のこと)とか恩賜の軍刀組(陸大の成績優秀者)などと呼ばれたエリートたちは、後方の安全なところから命令を下すばかりであった。

特攻隊ですら、職業軍人からは「学生上がり」などと呼ばれた、学徒動員組の速成搭乗員や、予科練(海軍飛行予科練習生)出身の、いわゆるたたき上げの搭乗員をどんどん突っ込ませ、海軍兵学校出身のエリートは最後まで温存されていたほどである。

一方の米軍はどうであったか。第二次大戦当時の米軍においては、独立戦争を担った民兵以来の、「エリートが突撃の先頭に立つ」という伝統が守られていた。なにしろ、後に大統領となる青年士官が二人も、最前線で九死に一生を得るという体験をしている。

一人はジョン・フィッツジェラルド・ケネディ海軍中尉で、哨戒魚雷艇PT109の艇長として南太平洋で作戦行動中、日本の駆逐艦「天霧」と衝突(闇夜で出会い頭の衝突であったとも、故意の体当たり攻撃であったとも言われる)。木製のPT109は船体が二つに折れて沈没し、乗員のうち3名は即死したが、ケネディ中尉は負傷した部下を命綱で結んで6キロ泳ぎ、無人島に漂着した後、オーストラリア沿岸警備隊に救助された。

余談だが、ケネディはハーバード大学時代にアメリカン・フットボールの試合で腰を痛めていたため(相手の悪質タックル!)、海軍への入隊も一度は断念しかけた。そこにこの遭難で、戦後も長く腰痛に苦しめられたという。

もう一人はジョージ・ハーバード・ウォーカー・ブッシュ海軍中尉。息子も大統領になったので、区別のため「パパ・ブッシュ」「ブッシュ・ジュニア」と呼び分けられている。彼は母方の先祖が英国王室の外戚という名門の出だが、高校卒業と同時に海軍に志願し、アベンジャー雷撃機の搭乗員となった。

そのブッシュだが、まず少尉時代の1944年6月、マリアナ沖海戦で日本艦隊への雷撃を試みた際、上空直掩の零戦の銃撃によって、中尉昇進後の同年9月には小笠原諸島・父島沖で地上からの対空砲火によって、いずれも搭乗機を撃墜されたものの、味方潜水艦によって救助されている。

戦後、あらためてエール大学に入学し、政治家への道を歩むこととなった。

将来、国を背負って立つと見なされていたエリート達が、最前線で魚雷艇や雷撃機を駆って戦うという、いわば一番危険な仕事を引き受けていたのである。……米軍を褒め称えるのか、などと言われそうだが、あくまでも第二次世界大戦当時の話である。

時代が下ってヴェトナム戦争の頃になると、たとえばブッシュ・ジュニアのようなエリートの子弟は、テキサス州空軍あたりに志願して、形の上で「国防の任」を果たし、貧しい階級の若者が徴兵されて、ジャングルに送り込まれた。

一般に米軍と呼ばれるのは連邦軍で、米国では各州が独自の法律を持ち、軍隊も組織している。つまり、ブッシュ・ジュニアは連邦軍で軍務に服した経験がない。その後、オバマにトランプと、軍歴を持たない大統領が続いたので、指摘する人も減ってきたが、当時は歴代大統領の中では希有な例だったのである。

ヴェトナムでの戦いは、戦争目的が曖昧なまま戦いが泥沼化したことと共に、こうした差別構造があったことで、今に至るも「史上もっとも不人気な戦争」との評価が定着してしまっている。エリートが、その地位にふさわしい責任感を示さなければ、国が傾くのだ。

話を戻して、ケネディもパパ・ブッシュも「九死に一生を得た」ものの戦場から無事に戻り、大統領まで上り詰めたというのが、もうひとつ注目すべき点である。米軍の潜水艦部隊には、軍医まで乗り組んだ救難専門の艦がちゃんとあったし、地上戦でも、傷病兵の救護には特に力が入れられていた。

兵器は大量生産できるから、壊れてもすぐ新品を支給できるが、実戦で鍛えられた将兵はそう簡単に代わりはきかないということが、ちゃんと理解されていたのである。
日本の同盟国だったナチス・ドイツなど、人命尊重のイメージからはほど遠いのだが、現実には戦車の砲塔側面や車体下面に緊急脱出用のハッチを設けるなど、戦場生存率を高める工夫はちゃんとなされていた。

憲法改正論議と並んで、徴兵制度の復活も繰り返し取りざたされているが、私は、次世代の日本人が徴兵される可能性はごく低いと考えている。

理由は簡単で、今の戦争はドローンを使ってテロリストを追いかけ回すというのがもっとも一般的な戦闘の形態になっているので、兵隊の頭数を増やすことには、さして意味がない。一方では兵器のハイテク化が進んで、兵隊にも理系の学力が求められている。むしろ心配なのは、格差社会がこのまま放置されると、米国で今も言われる「経済的徴兵制」の世になるのではないか、ということだ。

数年前の「派遣切り」の際にも指摘されたが、機械は止めておけばよいけれど、人間には日々の生活がある、といった程度のことさえ、今の日本のエリート(具体的には政治家や官僚、それに大企業のエグゼクティブたち)には、理解されていない。

「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は茶番として」これはカール・マルクスの言葉だが、誤ったエリート主義が国を滅ぼすという歴史だけは、決して繰り返してはならない。

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