マルクス社会理論の生成と構造(メモ)
渡辺憲正・関東学院大教授 経済2018.5 の備忘録。
本稿のテーマは「44年以前のマルクスの形成した社会理論のもつ独自性と今日的意義を論じる」というもので、あまり触れていなかった分野であり、なかなか興味深かった。、
【マルクス社会理論の生成と構造】
渡辺憲正・関東学院大教授 経済2018.5
■はじめに
・マルクス 1843~46年に、市民社会批判、資本主義批判の理論家たる、独自の理論形成をはたした。
・その社会理論 ①土台=上部構造論。イデオロギー批判含む、②変革理論〔共産主義〕、③唯物論的歴史観、などの要素からなる理論--「ドイツ・イデオロギー」〔45-46年〕で措定。
・初期マルクス それ自体の固有の野論敵位置を持つ。また、社会理論の生涯にわたり発展を理解するためにの本質的価値をもつ。
・本稿は、44年以前のマルクスの形成した社会理論のもつ独自性と今日的意義を論じる
■1 (土台=上部構造)論の生成
・(土台=上部構造)論 ヘーゲル法哲学批判をとうして形成したもの/理論形成において決定的なもの
(1)ヘーゲル法哲学批判の2段階
・1843年 草稿「ヘーゲル国法論批判」
→ ヘーゲルの「普遍的自由の実現態」-市民社会と政治的国家の一体性-という国家理念を前提に、国家理念とヘーゲルの示す政治体制=君主制の構成との矛盾――政治的国家が君主制として自立化し市民社会に対立的に現れる政治的「疎外」ないし二元主義――を衝いたもの
→マルクスの論理 ① 国家の根拠をなす現実的人間の政治的関与をとおして「民主制」を実現(→政治的解放)、同時に、②市民社会の私的原理-私的所有・エゴイズム-をも廃棄するという「民主制」理論を構想
・「民主制」理論を成立させる根拠~政治的解放の拠って立つ理性が、市民社会の私的原理を本質的に超えるという認識/ それゆえ、フォイエルバッハの宗教批判と同じように「意識の改革」によって政治的に「民主制」を実現しようとした。
・「独仏年鑑」(44年)では、近代の政治的解放の限界を語り始める
→ 政治的解放は ①「公民としての人間の解放」として、②「私人としての人間の解放」「市民社会の解放」として理解
①は、国家に対するあらゆる特権の廃止、万人の同等の権利(公民権)の実現—政治的「疎外」の廃棄、「政治的超出」を意味する
→が、政治的解放が市民社会の私的所有等を前提としており、その完成は、国会と市民社会との二元主義(公民と私人への人間の分裂)の完成でしかなく/しかも、市民社会で人間は自己喪失、疎外に陥っているというもの
②について、マルクスは、ジャコバン派の「人および市民の権利宣言」(1793年)を分析。「いわゆる人権(平等、自由、安全、所有)のどれ1つとってもエゴイスト的な人間、市民社会の成員であるような人間を超えない」こと/つまり、政治、法律等の核心に私的所有という経済的基礎が存在していることを発見
→「政治的革命は、市民的生活をその構成部分に解体するが、これらの構成部分そのものを革命し批判に付することはしない。それは、市民社会、すなわち欲求と労働と私的利害と私的権利の世界に対して、己の存在の基礎、それ以上に基礎づけられることのない前提、したがって自己の自然的土台に対する態様で、関係するのである」
と、(土台=上部構造)論的視角を提示
・マルクス あらゆる政治と法(権利)が市民社会を土台としており、このあり方を超えないことを確認
→ 以前に構想したような「民主制」はありえず、せいぜいのところ近代の「政治的解放の完成態」たる「民主制」に過ぎない、と判明
→よって、マルクスは「独仏年鑑」で、「民主制」概念を消失させ、この段階で、ヘーゲル法哲学も、近代諸国家の政治的解放一般と関連づけ、その限界ゆえに決定的な否定(メモ者 弁証的否定)にいたる
(2) (土台=上部構造)論の生成
・宗教についても、(土台=上部構造)論的視覚を獲得~当時、宗教は政治と並ぶ主要課題
→「ユダヤ人問題によせて」 バウアーの政治的解放論を批判しつつ、政治的解放と宗教を関連づけて論述
→政治的解放…国教を廃止し、国家を宗教から解放。が、宗教からの政治的解放は、徹底した矛盾のない解放ではない。人間〔市民社会の構成員〕は宗教そのものからは解放されない
・人間は、政治的国家と市民社会の二元性を生きている。マルクスはそのありかたを宗教との関連づけて指摘
→民主制国家こそ「完成されたキリスト教国家」~この国家において「キリスト教の人間的基礎」が実現されるから/フォイエルバッハにしたがえば「キ・・基礎」は、愛と信仰/「愛」は共同性という普遍的要素を、「信仰」は、自己救済、すなわち心情の全能を求める利己的要素を表するとすれば/それは近代の二元主義—国家における普遍性と市民社会における私的立場の分裂――に適合する
・宗教は、近代民主制の二元主義に現世的根拠をもって存在するだけでなく、現実には各要素が実現されないという欠陥の現象でもある
・マルクスは宗教批判を、「意識の改革」によって宗教の普遍的要素を実現しようとしたフ氏と異なり、現実批判に転化。
・哲学・道徳においても同様。マルクスは、哲学と世界を関連づけ、哲学そのものがこの世界に属し「この世界の補完物」であったという把握をした
→ 道徳が市民社会の私的あり方を土台とする/ヘーゲは、が市民社会を「道徳固有の場」と捉える
・マルクス 政治、宗教、哲学、道徳という近代の社会理論を構成する主要な意識形態が、市民社会を現実的土台としていること。そして、これらの意識形態によっては市民社会の原理は超えられないことが判明。
★(土台=上部構造)論の原理は「独仏年鑑」キに形成/この意味を捉えることが重要
①「土台」概念によってマルクスが市民社会を人間の「本質」的領域、再生産領域としてとらえたこと
→再生産領域/生産―所有に基づく経済的次元と、婚姻-家族等の社会的次元を包括した領域/これまでの「理論」では「二次的」領域とされていたもの。マルクスは、その逆、「本質」的領域という認識を獲得
②従来のあらゆる理論構成を廃棄し、イデオロギー批判の基礎を築いたこと
・政治・法律の意識、哲学・道徳・宗教を「上部構造」と規定しうるなら、それだけでは、土台に存在する自己喪失、貧困・隷属という諸問題は解決しない、という結論が導きだされる
→ これにより、マルクスは、従来の理性的理論構成―啓蒙主義的理論構成を廃棄/近代の理論的パラダイム全体が変容されるべきものと把握
→政治的解放の理性に基づく「民主制」理論の最終的破綻の確定/肝要なのは、(土台=上部構造)論によれば、代案〔メモ者 あらたな別の「理性」〕は存在しないということ/マルクスは、理論的に依拠すべき根拠をすべて失い「理性的空白」におちいる~(土台=上部構造)論は、衝撃的な意味をもった
■2.初期マルクスの理論的転換
〔1〕市民社会批判のための新しい問題設定
・「理論的空白」との関連での確認点…マルクスが問題とした市民社会の分裂性〔人間の自己喪失、貧困と隷属、あるいはヘーゲル市民社会論の指摘したような富と貧困の両極分解〕という事実は、政治的理性によっては原理的に解決されない問題として顕在化すること
・マルクスの問題解決への挑戦
→ 自己喪失等の問題を解決するとは、欲求・能力・感覚等を実現すること/ これを「政治的解放」とは区別し、「人間的解放」と規定
→また、直感としては、自己喪失等が市民社会の原理=私的所有に問題であること〔本質的関係は未解明だか〕は明白であった〔このことは基本的にヘーゲル市民社会論にも示唆されていた〕
→よって、求められるのは「人間的解放」と市民社会の原理〔私的所有〕の廃棄を結び付けること
この解明は如何にして可能か?/そのためには、解明するき課題は、市民社会において、なぜ人間は自己喪失等に陥るのか、人間は市民社会の原理〔私的所有、私的権利〕を如何にして超えることができるか、その根拠はどこに存在するか、の問いを設定。
〔2〕市民社会概念の歴史的相対化
Q 「人間的解放」は、私的所有の廃棄を要請する。他方では、私的所有こそ人間存在の前提〔メモ者 人権宣言など〕であり、それを否定しうるのか/という問い
・マルクス「ユダヤ人問題によせて」…ユダヤ人が「実践的欲求、エゴイズムこそ市民社会の原理」という自己の実践的なあり方を「空無なもの」と認め、これを廃棄しようとするなら、ユダヤ人は「端的に人間的解放そのものに力を傾けることになる」と述べる/が、なぜユダヤ人は、自己のあり方を「空無なもの」と否定しえるのか?
→要するに、人間は「人間解放」のために市民社会の原理を否定しなければならないが、それは原理なるがゆえに否定されえない――ここに1つの「二律背反」があらわれる。
→市民社会を「欲求と労働と私的利害と私的権利の世界」と規定/このように規定し固定する限り、すべての人間は市民社会の原理〔私的所有〕に立つ。よって二律背反は解くことができない
・そこから…市民社会を「本来的に私的所有の原理にもとづく領域」とする抽象を廃棄し
→市民社会を歴史的に相対化して、一方で、人間の「本質」的領域=再生産領域 /同時に他方で、人間の「本質」(欲求・能力等)を否定する私的原理をもつ歴史的領域、として把握する必要が生じる
・実際、マルクスは、市民社会のうちに/「貨幣と教養を有する」市民社会の一階級たる「ブルジョワジー」と、市民社会の原理の解体(メモ者 無所有、隷属)された存在としての「プロレタリアート」の発見を通して、歴史的相対化をはたす。
・市民社会…すべての構成員が私的所有者として自由かつ平等に関係を形成する領域ではない/内部に私的所有と無所有を包括した階級社会
→ 市民社会には、市民社会の原理を前提にできない階級が存在する/この発見により「二律背反」を解く事が可能となる。
・この認識は、「政治的解放」についても新しい知見をもたらす
・「ヘーゲル法哲学祖半序説」段階のマルクス/「全社会が同じこの階級(ブルジョワジー)の立場にあるという前提の下でのみ全社会を解放する」という視角から、政治的解放をブルジョワジーによる解放として把握
→ ここで、これまでの市民社会の抽象的規定は、ブルジョワ社会の規定であったことが判明する
・他方、市民社会には「市民社会のいかなる階級でもない市民階級の1階級」「あらゆる身分の解体としてある1身分」として、私的所有の原理を否定されたプロレタリアートが存在する。
→ プロレタリアートは「人間の完全な喪失」/市民社会は、分極化される
(3)「人間的解放」の現実的可能性
Q「市民社会の歴史的相対化」を前提として、「人間的解放」の現実可能性は何にもとめられるか
→ 普遍的理性等に基づくものでない以上、市民社会の構造的矛盾(自己喪失、貧困と隷属)のうちに生まれる他はない。/マルクスにとって依拠すべきものは、自己喪失等、市民社会に存在する事実そのもの
→以前は、「自己喪失等」は、外部に「解決されるべき」事実として存在するにすぎなかった/ いまや、それだけが現実を超える根拠をなすものとしてとらえ返される
・人間の持つ欲求・能力が私的所有という市民社会の原理の下において、無所有ゆえに実現しえないとしたら、この矛盾は、再生産領域において再生産を否定されるという原理的な対立であり、それゆえ現実的に原理を否定しうるのではないか。
→ 自己喪失等は、自己否定をもはらむ動態的な現実として、主体的矛盾として現れる
・かくしてマルクスは「人間解放」を、市民社会に生成する現実的要素(欲求)と結び付けるに至る
~「ラディカルな革命はラディカルな欲求の革命でしかありえない。/ラディカルな革命…「私有制否定」に基づく「人間的解放」(それはプロレタリアートの解放としてなしどけられる)。「人間解放む理論は、「人民の欲求の現実化」の脈絡で捉えられる。
・プロレタリアートは「特殊的な権利を要求するのではなく、…ただ人間的な権原しか拠り所にできない」階級であり、人間の完全な回復によってしか自己自身を獲得できない階級
→ この階級は「その直接的状態、物質的必然性、その鎖そのもの」によって「普遍的解放の欲求と能力」を形成しうる。
☆マルクスの「プロレタリアートの発見」は、この形成可能性の発見を意味する(メモ者 「物質的存在条件」)
→「独仏年鑑」期に(土台=上部構造)論に基づいて市民社会の内在的変革を課題として立て、「人間解放」理論――事実上の共産主義への理路的転換を果たした。(理論上のパラダイム転換を実現)
(4)経済的研究の課題設定
・「人間的解放」において、マルクスは貧困を「人為的に生み出された貧困」、プロレタリアートを「社会の急速な解体、とりわけ中産階級の解体から出現する人間大衆」と指摘…が、なお直感の域を超えないもの
→ その事実の解明をなしえるのが経済学
~“なぜ私的所有は、一方に富の蓄積、他方に貧困の蓄積をもたらすか”“人間は市民社会の原理のもとでなぜ自己喪失等におちいるか”
→マルクスは、(土台=上部構造)論にたち、ここで経済学研究--市民社会の分析--を自らの課題として設定/「人間的解放」の究極的根拠を与えるべき領域の分析/経済学研究は、こうした包括的な意味を与えられてこそ設定される
■3.「経済学・哲学草稿」疎外論の性格
・「独仏年誌」期に、私的所有を廃棄し「人間解放」を実現する理論への転換を果たすも、私的所有と貧困・隷属の関連の内在的把握になされておらず、その結果、変革理論も抽象的に規定されたにずきなかった。
→ この課題は、パリ時代の「経哲草稿」(44年)等により果たされる/それが、疎外論と共産主義論
(1)疎外論的構成の前提
・疎外論は、資本主義的私的所有を前提とした議論
・「国民経済学の諸前提から出発」/前提とは「資本と土地所有者と労働の分離」/これが、労働者にとってのみ「致命的」であること、労働者が商品となり、しかも「最も惨めな商品」となること。/そして「土地所有者の大部分は資本家の手中に落ちて」、ついには「資本家と土地所有者の区別」が解消し、「所有者の支配が私的所有の、資本の、純粋な支配として」現れる。/全社会は、所有者「資本家」と無所有の労働者という2階級に分裂する
・資本と労働の分離を前提としたとき、「労働は商品を生産するだけではなく、労働それ自身と労働者を商品として生産する」のであり「事物(物象)世界の価値増殖に正比例して、人間世界の価値喪失が増加する」
~ これこそが「国民経済学上の現に存在する事実」
・国民経済学は、私的所有の主体的本質として労働をとらえ、人間〔労働者〕の労働を承認するという見せ掛けの下で、人間を私的所有に従属せしめ、自立性を奪う、労働者において経験される「分裂性」のこの現実(自己喪失、貧困と隷属)こそ、国民経済学の原理にはかならない。
→マルクスが「経済哲学草稿」でとらえゆうとしたもの/私的所有の下における労働のこの分裂性=「疎外」
(2)現実的矛盾としての「疎外」の概念
・私的所有の関係を前提として、それを生産する労働者が自己の本質諸力・「個体性」を確認できない、という主体的矛盾をあらわすということ
・私的所有のもとでの労働/労働が結合される対象は、労働者に属さない/生産物は、労働者にとって「疎遠な存在」、かつ生産者から独立した威力をもって対立して現れる
→①「対象の疎外」=「事物の疎外」②「労働の外化」=「自己疎外」③「類的本質」の疎外④「人間の人間からの疎外」として現れる
☆肝心な点/なぜ、これらが「疎外」なのか
労働の疎外…労働が「労働者の本質に属さない」~ /本質に属する⇔存在にとって不可欠の要素
→「ミル評注」/ 「私が事物に対して欲求をもとこつ」は「事物が私の本質に属する」ことの証明。他方、私的所有のもとでは、この事物に対する欲求を、人間(労働者)は実現・確証できない/また、欲求等として現に存在する本質諸力「個体性」を確証できない
⇔「疎外」とは、現実の二重の、矛盾した事態のこと
(3)疎外された労働による私的所有の再生産構造
・「疎外」された関係は「他の人間に対する労働者の関係をとおしてはじめて対象的現実的でありうる」
→「確証」されるのは、疎外された労働が前提としての私的所有そのものの再生産 /「私的所有者は、外化された労働の、すなわち自然および自己自身に対する労働者の外在的関係の、産物であり、成果であり、必然的な帰結である」
→疎外された労働が「私的所有の運動からの結果」として得られたならば、私的所有は疎外された労働の1帰結に他ならないことが判明する/私的所有は外化された労働の産物であり、他方で労働を外化させる手段
/私的所有と疎外された労働とは、相互に反省関係をなしている。
・マルクスは、この関係を「労働=所有形態」論として規定し/現実的疎外のひいては私的所有の再生産構造を、あるいは私的所有と貧困・隷属の内的構造を、把握した。
・以上の把握にもとづき、以下が課題となった
①私的所有の普遍的本質=あり方を、真に人間的かつ社会的な所有との関係において規定すること
②いかにして人間は自己の労働を外化し、疎外するようになるのか、いかにしてこの疎外は、人間的発展の本質のうちに基礎付けられるのか」
~①は、第三草稿の共産主義論で論述(後述) ②は、私的所有、疎外された労働の歴史的根拠を問うこと
・私的所有はなぜ歴史的に成立したのか。資本主義的私的所有の起源が疎外された労働に求められるなら、人間はなぜ歴史的に労働を外化し疎外するようになるのか ⇔ 疎外された労働は、資本と労働の分離、生産諸条件と労働力との分離にもとづく/この分離はいかなる歴史によって成立するのか
→ ここに、マルクスは歴史への問いを切り開く=;歴史の変動要因の解明
■4.変革理論(共産主義)の形成
・疎外論にもとづいて形成した変革理論(共産主義)
→資本主義的私的所有の前提――資本と労働の分離――を廃棄し、①対象的富の領有、②自己確証の実現 ③個と類との対立の廃棄、④人間の人間からの疎外の廃棄
を実現するものであり、「私的所有の積極的廃棄」「現実的疎外の廃棄」として規定される
【マルクスの疎外 整理のめめのメモ】
ヘーゲル、フォイエルバハの両者を批判的に継承して、疎外の概念を完成させ、そこに彼のヒューマニズムの基点を据えた。彼の初期の論文「経済学・哲学手稿」(1844)に疎外論が展開された。ここでは疎外は四つの側面から把握されている。
(1)労働の対象化されたものが人間主体から自立し、対立的に現れる(労働の成果からの疎外)、
(2)労働は生の目的でなく手段となり、人間らしい生活が労働以外の場に求められる(自己疎外)
(3)人間の存在を個人的な現存の手段にしてしまう人間の普遍性の疎外(類からの疎外)
(4)人間の人間からの疎外(人類の結合を確保するものであった労働が、私的所有のもとでは分裂、対立を生み出す)
この疎外された労働は、労働過程が資本家的生産過程として行われることから生じることを明らかにした。ここからマルクスは、人と人との関係が物と物との関係として表される商品世界における疎外と、労働力が商品となり労働がその使用価値となる資本主義的生産における疎外とを問題にしていった。
疎外(Entfremdung)とは「世の中から疎外される」といった日本語とは無関係のヘーゲル的な概念で、「労働の生産物が、労働にとって疎遠な存在として、生産者から独立した力として登場してくる」という意味だ。これは人間の能力が労働によって商品に対象化(外化)された結果であり、マルクスは疎外そのものを否定しているわけではない。
・共産主義について、本稿のテーマの関連において2点を指摘
(1)「歴史変革」の論理
・共産主義の運動において「歴史の変革」の論理を把握した
・疎外の構造的側面…私的所有の運動を疎外としてとらえ、疎外を資本(私的所有)と労働の対立という前提の下に、労働が私的所有を再生産する構造において把握 (「労働=所有形態」論)
・が、私的所有の運動の結果は、それだけでなく/ 私的所有は「発展を遂げた矛盾関係」として「解体へと駆り立てるエネルギッシュな関係」
⇔ 私的所有の運動において、人間(労働者)が、一方では自己の本質諸力に必要な対象的富を作り出すとともに、他方ではそれに照応する欲求・能力・感覚等の本質諸力「個体性」という主体的富を作り出し、/労働と資本の対立の下で、両者の対立・矛盾、すなわち疎外を拡大再生産し、自己のうちに主体的富を形成し、疎外という矛盾に生きる労働者として、この疎外を廃棄せずにはいないから
→ 疎外の主体的側面。ここにマルクスは「歴史の変革」の論理をつかむ
マルクスが、全革命運動は私的所有の運動のうちに「その経験的土台をも理論的土台をも見出す」というのも、労働者が対象的富および主体的富――生産諸力――を生産することにより、現実的疎外という矛盾を深化させ、廃棄せざるをえない、という意味/この廃棄が、共産主義
⇔共産主義は、対蹠的富と主体的富のいずれの形成をも必要(メモ者 生産力の発展、労働者階級の成長)とし、かつ両者を統合するところに基礎づけられる/それは、各個人の本質諸力「個体性」を確証する運動(メモ者 階級的任務を把握した自覚的労働者の誕生と、そのもとでの自らの「個体性」への反省をつうじた成長)
・マルクスには/現実から自立した理論は存在しない/現実を越える理念があるとすれば、現実のうちに生成する――疎外において確証されない――欲求・感覚等の本質諸力「個体性」/それは、世界史のうちに形成されることが想定される
→「五感の形成はこれまでの世界全体の仕事である」
→よって、私的所有の積極的廃棄は「あらゆる人間的感覚および性質の完全な解放」であり「人間としての人間」を生み出すこと
「全歴史は『人間』が感性的意識の対象となり、『人間としての人間』の欲求が欲求となるための準備の歴史、発展の歴史である」
(2) 「理論と実践」に関する旧来の了解の転換
・転換がもたらしたイデオロギー批判の基礎
・マルクス、現存する産業の存在(疎外という形態の下にあるとはいえ)、「人間的本質諸力の開披された書物」とし「人間の変質との関連において」捉える
→ この認識は、「理論と実践」に関する旧来の了解一般を転換する
・これまでの理論…物質的産業を「有用性」の関連においてのみ捉え、それに対する人間の「普遍的散在」を、宗教や政治等を「人間の本質的諸力の現実として、人間的な類的行為として」捉え、これを根拠に啓蒙主義的な理論を築いてきたから
→マルクスは、従来は哲学的思想的次元で論じられてきた対立――人間と自然、人間と人間、現存と本質、等――を理論的にのもとらえた哲学を批判
「理論の諸対立の解決さえも、ただ実践的に仕方でのみ、人間の実践的なエネルギーによってのみ、可能なのであり、したがってその解決は、けっして認識の問題にすぎないのではなく、一つの現実的な生活上の課題である。この課題を哲学が解決できなかったのは、まさにそれを理論的課題としてのみとらえたからである」
☆実践によって現実的存在を変革することこそが理論上の課題を解決をも包括する
→理論と実践に関する了解の転換の現れるのか
・哲学等の普遍的理性を前提として、現実を批判し実践的に変革しようとする場合(啓蒙主義的理論構成)/理論は実践に先立ち、自立的に存在する普遍的理性――現実には、近代になって可能となったブルジョア的支配理性――などであり、実践はこうした理性の実践でしかない
・マルクス/理論は実践から自立しない。むしろ理論は現実(生活)において存在する疎外-本質諸力「個体性」が実現されないという自己関係における矛盾—を解決する運動(実践)の表現である(自己関係視座)/一旦理論が形成されれば、理論にもとづく実践が存在しうるとしても、この理論は常に現実に存在する実践の表現でしかない。
・これにより、マルクスは、最終的に啓蒙主義的理論構成の批判を成し遂げる—イデオロギー批判の生成
■ まとめ
・初期マルクス/44年までに「土台=上部構造」論にもとづき、土台に関する「労働=所有関係」論と疎外論から「歴史の変革」の論理をつかみ、変革理論「共産主義」を打ち立てることによって「ドイツ・イデオロギー」に示された社会理論の基礎を据えた
⇔ この場合、現実的疎外および「歴史の変革」の論理を成立させる根拠となる要素は、欲求・能力・感覚等の本質諸力「個体性」。/それゆえ、万人の「個体性」の確証こそ、マルクスの変革理論「共産主義」の確信、その根拠、目的をなしている
・本質諸力「個体性」の確証は
→ 資本主義的私的所有と無所有の下で本質的な制約を帯びている
→ が、今日では、政治的解放の前進により、資本主義に対する法的規制が一定の効果を上げ、本質諸力「個体性」を確証する滋養時間も、限定的にせよ実現可能になっている
→が、これは資本主義そのものを肯定するものではなく、貧困と格差の拡大など「資本主義終焉」にあって
①資本主義的私的所有に対抗する闘いが基礎的課題として存在していること
②同時に、本質諸力「個体性」-各個人における無限の多様さとして存在する本質諸力「個体性」-の確証を求めることが、現存の社会のうちに「新しい要素」を形成する闘いとして存在する。
・労働者階級のなすべき仕事――「崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものに孕まれている新しい社会の要素を解放すること」「フランスにおける内乱」
~マルクスの社会理論は、この核心において、今日の運動にも示唆をあたえている。
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