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個人の意識の問題ではない。「ダークペダゴジー」による支配構造

 「シメる」「干す」…追い詰め、個人の尊厳を破壊し、恐怖と不安に陥れ、『条件付きの愛情』を与え、相手の精神を支配し、特定方向に誘導する。日大アメフト事件でかたられたのは、こうした環境設定である。
 それを被害者もその親御さんも理解し対応していると感じている。言ったか言わないとかでなく、「指導方法」の構造的な問題にメスをいけなければならない。
 以下は、ダークペダゴジーを「暴力・服従・うそ・賞罰・欲求充足の禁止・条件付き愛情・操作・監視・屈辱などを用いたしつけ、教育」を紹介している教育社会学者の山本宏樹さんのインタビュー記事。
教育論として正面から行政に提起する必要を痛感している。

【なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?――社会に蔓延する“ダークペダゴジー(闇の教授法)”】

【なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?――社会に蔓延する“ダークペダゴジー(闇の教授法)”】

教育社会学・教育科学 、山本宏樹氏インタビュー

学校の教室や部活動における、教師からの体罰が問題視されている。生徒を怒鳴る、脅迫する、見せしめにする、「飴と鞭」を使い分ける……など、子どもたちを恐怖で支配しようとする指導テクニックを指南する教育実践本も多く出版されているという。なぜ今、このような教育方法の需要が高まっているのか。理想の教師像を抱いて教壇に立った教師たちが、なぜ子どもの意見を無視した方法論に手を染めてしまうのか。そして求められる実践について、東京電機大学助教・山本宏樹氏に解説していただいた。(構成/大谷佳名)

◆恐怖支配、“飴と鞭”による指導は何が問題なのか

――最近、学校の先生の忙しさが問題となり、メディアなどでもよく取り上げられていますね。一方で、「子どもをどうコントロールするか」「子どもをシメる指導方法」などといった内容の、教員向けマニュアル本が売れているとも聞きました。昨今、学校における体罰が問題となっているにもかかわらず、なぜこうしたパワーハラスメント的な指導テクニックが注目を集めているのでしょうか?

・パワーハラスメント的な指導方法が学校現場で求められること自体は今に始まったことではなく、たとえば1980年代には「管理教育」と呼ばれる抑圧的な指導方法が猛威を振るっていました。1985年には高校の修学旅行にヘアドライヤーを持参した生徒が教師の体罰によって死亡する事件が起きましたし、90年には朝8時30分のチャイムと同時に勢いよく閉められた校門に生徒が挟まれて死亡するという痛ましい事件が社会問題になりました。
 ただ、そうしたパワハラ的な指導方法は「こころの時代」と呼ばれた90年代にいったん影を潜めていきましたし、体罰もまた度重なる社会問題化のなかで量的には減少していきました。たとえば、NHK放送文化研究所の「中学生と高校生の生活と意識調査」を見ると、1982年調査においては高校生の4割に教師に殴られた経験があったのに対し、2002年調査ではその割合は1割にまで低下していたのです。

しかし、2000年代半ば以降、体罰に代わる即効的指導法が求められるなかで、体罰以外のパワハラ的指導法がふたたび活性化しているようです。それがなぜなのか、以下で順を追って説明していきたいと思います。

まず、「管理教育」にみられるようなパワハラ的指導方法ですが、ドイツの精神科医アリス・ミラーらはそれを「ダークペダゴジー(闇の教授法, Schwarze Pädagogik)」と呼んでいます(注1)。ダークペダゴジーには生徒を怒鳴りつけたり「保護者を呼ぶぞ」と脅迫したりといった露骨な方法だけでなく、クラスメイトが見ているなかで叱責して一罰百戒をうながしたり、学級に連帯責任を課すことでトラブルメイカーの生徒を孤立させたりなど様々なバリエーションがあります。


――見せしめにされるのも、生徒にとっては非常にストレスになりますよね。具体的にはどのような手法があるでしょうか。

・模倣される恐れがあるため、あまり具体的に述べることはできないのですが、初歩的なダークペダゴジーは、叱りつけたり、威圧したり、脅したり、時には暴力を振るったりなど、動物の威嚇攻撃行動や類人猿のマウンティング行動の延長線上にある行動統制方略だといえます。その実質は学習心理学でいう「恐怖条件付け」であり、脳の恐怖中枢を刺激するため人を選ばず即効性を発揮します。ダークペダゴジーは高度化するにつれて単なる恐怖支配ではなく「飴と鞭」を使い分けた巧妙な人心掌握技術の様相を帯びていきます。


◆ダークペタゴジーが用いられる要因

――どのような状況においてダークペダゴジーが用いられやすいのですか。

・ダークペダゴジーは、他者の行動や人格をコントロールする必要性と、外部からのまなざしの届かない密室的環境の両方のあるところでは、常に用いられる可能性のあるものです。虐待研究の大家であるJ・ハーマンも指摘するとおり、こうした手法は誰に教わるでもなく繰り返し発明され、学校だけでなく家庭の児童虐待や家庭内暴力の文脈で使用されてきました(注2)。ダークペダゴジーは監獄、捕虜収容所、入院病棟、あるいは企業などでも同様に行動統制や人格改造のために使用されます。

学校にはダークペダゴジーを引き寄せる事情があります。まず、生徒たちのなかには、授業中に立ち歩いたり、私語をしたり、決められた服装を守らなかったりと、教員側の望むような秩序に従った行動をとらない子どもが少なからず含まれます。もちろん校則自体がおかしい場合もあるでしょうが、それでも公式のルールである以上は教師の側に「ルール違反の取り締まり」という職務が発生し、教師たちは生徒側の抵抗を排して指導を押し通すための強権を求めがちになります。

しかも、学校には、子ども同士の間で頻繁に人権侵害や他害行為が生起するために緊急対応的な制圧行為が正当化されやすいという事情があります。子どもたちは自生的秩序のなかでいじめ関係を形成してマイノリティ生徒に牙を剥いたり、徒党を組んで学級崩壊を引き起こしたり、派閥を作って抗争を行ったりすることがありますし、時には集団的力学のなかで一生徒が教師を圧倒する権力を保持することもあります。

学校の教職員集団はそうした生徒たちに対峙する統治機構としての側面を持つため、教育の前提となる秩序管理技術として、ダークペダゴジーに対する潜在的な需要が常に存在するのです。政府が暴力を独占することで治安を維持するという「リヴァイアサン」構想が近代国家の基本原理ですが、学校もまた国家と同様に基本原理のうちに「暴力による治安維持」という要素を含んでいるのです。


――学校において、特にダークペダゴジーが用いられやすいのはどのような環境でしょうか。

・小学校の「学級」と中学高校の「部活動」です。日本の小学校は学級集団のまとまりが強く、連帯責任を負わされがちで学級内の情報も外部に漏れにくいという密室環境となりがちです。また小学生は、教師のダークペダゴジーに対抗するためのソーシャルスキルを獲得していない場合が多く、ダークペダゴジーがはびこりがちです。

中高の「部活」もまた、自主的活動とされてはいるものの実際には途中離脱や内部告発の難しい密室的環境がありますし、そうしたなかで部活顧問は、生徒の反発やズル休み、チームメイト間のトラブルを防ぐための強権を求めがちです。また、勝利を目指すあまりに保護者や生徒がダークペダゴジーを黙認したり共犯関係になりやすいという事情もあります。

発達段階論的に言うと、ダークペダゴジーは小中学校で採用されやすい傾向があります。中学生の半数以上はまだ叱られている理由が「他者の人権を侵害するから」「クラスのみんなの迷惑になっているから」などであることを正確に理解することが難しく、「先生が怒っているから」「罰を受けるのが嫌だから」など素朴な道徳理解に留まっているという調査結果があります(注3)。

温和かつ論理的に説得しようとしてもなかなか手応えを感じられず、逆にシンプルな一喝や制裁の有効性が目立つことが誘因となっているのでしょう。特に生徒の自意識が活性化しやすい小学校高学年から中学校にかけては、指導に対する反発を抑えるためにダークペダゴジーが召喚されがちです。

高校生以上になるとダークペダゴジーに対抗するソーシャルスキルを獲得するようになりますし、論理的な説得も通りやすくなりますので、ダークペダゴジーの出番は少なくなりますが、教育困難校などでは、生徒間で自生的な暴力秩序が形成されやすいことなどから、教師側に対抗的暴力のニーズが生まれやすくなります。

――教師の過酷な労働環境も、要因の一つとしてあるのでしょうか。

・はい。教師が多忙で精神的に消耗していればいるほど、ダークペダゴジーに頼る危険性は高まります。すでに有名な話ですが、日本の教員には「世界一多忙」と呼ばれる勤務実態があります。OECDの世界規模教員調査TALIS 2013によると、日本の中学校教員の勤務時間は1週約54時間で、調査参加国平均の約38時間を大幅に上回っています。

2017年4月に公表された文部科学省の全国調査でも平日の勤務時間は小学校教諭で11時間、中学校教諭で11時間半を超えていました。これは民間労働者の平均在社時間(2007年現在)である9時間15分と比べて相当に長いといえます(注4)。土日の勤務時間も増加傾向にあり、「過労死ライン」とされる週60時間労働超(残業時間月80時間超)の状況にある教諭が小学校で約3割、中学で約6割に上ります。

さらに、前述の文科省調査によると、この10年で1日あたりの勤務時間は30分〜40分増加しています。他の調査によると勤務時間の増加にともなって減少しているのが睡眠時間で、平均で5時間台となっています(注5)。2002年からは完全週休2日制が実施されましたが、他方で年間授業時間数が増加するなどで授業時数確保のために平日が超多忙化し、夏休みなどの長期休暇期間も短縮され、休みであるはずの土日も部活動指導が入るなど、多忙化状況は相変わらずです。いじめ問題や学校事故などに対する意識の高まりにともなって校務の量も増加しています。

そうしたなかで教員の精神的健康に関しても非常に厳しい現状があります。我々が2014年度に行った全国10地域の教員調査では、7割以上の教員が「問題をかかえている子どもに手を焼くことがある」と答えています。「自分の教育・指導の効果について疑問や無力感を感じる」と答えた教員も4割を超えており、精神的に疲弊して仕事への熱意を失う「燃え尽き症候群(バーンアウト・シンドローム)」の危険域に達していると判断される教員も4割に上りました。

この結果は他の7つの教員調査でも確認されている日本の教員の一般的傾向です(注6)。前述のTALIS調査においても「指導に対する自信」は参加国の中で最低となっており、自己研鑽に対する意欲は高い一方、校務に束縛されて研修に参加できていない現状があります。


◆“理想の教師像”を捨て、ダークサイドに転落する

――精神的な疲れによって、先生たちの指導のモチベーションや教師としての自信が低下しているという状況が、ダークペダゴジーの需要が高まるひとつの背景としてあるのですね。

・はい。疲弊や精神的不安は、攻撃性や自己中心性、不寛容や形式主義的志向性など、理想的教員像にとって致命的な欠点を昂進させるということが、社会心理学の各種実験で明らかになっています(注7)。前述した我々の2014年の教員調査でも、ベテラン教師のほうが強権的指導法に対して賛意を示す傾向にあることが示されました。

瑞々しい感性をもって教壇に立ったはずの教師の雛鳥たちが、年を追うごとに理想を手放しダークサイドに転落していく現状が存在するのです。みずからの教育実践に自信がもてず、その日一日を乗り切るために必死になっている教師が、藁にもすがる思いでダークペダゴジーに手を伸ばすという構図がそこには存在します。日本の学校現場は強権的教師を育てる温床になっているのです。

学校でダークペダゴジーが求められるもうひとつの社会的要因としては、教師が教師というだけで無前提に信頼されていた「教師の黄金時代」が70年代に終わり、現代の教師たちは希薄化した権威と慢性的な教師不信のなかで生きているという点が挙げられます(注8)。教職という職業自体にかつて付随していた輝かしいカリスマ的オーラが剥落し、生身の人間として子どもと向き合わないといけなくなっているのです。子どもから軽蔑や攻撃をされれば教師も人間である以上傷つくわけで、そうしたトラウマや恐怖心が教師をダークペダゴジーで武装する道へと駆り立てる要因になっているのでしょう。


◆ダークペダゴジーが引き起こす“道徳の忘却”

――ダークペダゴジーは、子どもの心理や学習にどのような影響を及ぼすのですか。

・ダークペダゴジーの実質は前述のとおり学習心理学でいう「恐怖条件付け」ですので、「立ちすくんで問題行動を中断する」「言われるままに動く」といった子どもの反応は期待できます。しかし、当然ながらデメリットも多く、精神的に萎縮して罰の回避を最優先とするため創造的な行動や複雑な行動もまた抑制されます。そのことは自発的で活発な学習活動の息の根を止めることになります。

また、ダークペダゴジーは常用することによって被害者の側に耐性の獲得が起こりますし、子どもは大人を自身の役割モデルにしますので、罰せられる経験を通じて「罰せられた理由」を学ぶだけでなく「罰を与えること」を学びます。実際、攻撃的・命令的な大人の振る舞いが子どもに模倣学習されることは多くの実験で明らかになっています。

時には指導を受けた本人やそれを目撃した周囲の子どもが「足手まといの奴には何をしてもよい」「強い者に従え」といった過剰学習を起こしていじめが発生することになる場合もありえます。また、弱者への攻撃転移、嘘や取り繕い、不登校といった行動の発現も危惧されています(注9)。

近年では脳への悪影響も指摘されています。体罰や暴言虐待(バーバル・アビューズ)に長期的に曝された子どもの脳に萎縮や発育不全が認められるとの医学的調査報告があるのです(注10)。心身にショックを与えられたり、長時間にわたって過緊張状態を強いられることで、副腎皮質で大量に分泌されたコルチゾールというストレス物質が脳に侵入して脳細胞を死滅させたり、細胞の再生産を阻害します。そのため思考がまとまりにくくなったり、短気や情緒不安定、唾眠障害、鬱、社会的不適応状態など多様な問題の要因になると考えられます(注11)。

民間の教育実践家のなかには「体罰や飢餓、海で溺れかけるなどの危機を通じて脳幹が鍛えられ、本能の力が呼び覚まされる」といった独自仮説を吹聴する者もいるようですが、これは実証的に支持されません。

さらに言うと、体罰をはじめとするダークペダゴジーを受けて育った子どもが、長じてダークペダゴジーの熱心な擁護者になるという現象もあります。たとえば、偶発的な事故や災害に遭遇すると、少なくない人がそこに「運命」や「神の思し召し」を読み取ってみずからを慰めます。人間は理不尽な事象に遭遇すると、世界に対する基本的信頼を損なわないように、なんとか理不尽さのなかに合理的に理解可能な契機を見出そうとする心理的傾向を持つのです。

ダークペダゴジーもまた基本的に理不尽な経験ですから「あれは愛の鞭だったのだ」「自分はあれによって成長できたのだ」「自分の苦悩は無駄ではなかった」といった形で事実のほうを都合よく再解釈するように無意識的な圧力がかかります。これは長期間監禁状態に置かれた被害者が加害者に過度の好意を抱くという「ストックホルム症候群(トラウマティックボンディング)」の一種とみなすこともでき、非常に根の深い問題であるといえます。

ダークペダゴジー肯定派が少数の成功例や個人的体験を普遍化しがちなのは、単なる不勉強を超える潜在的な自我防衛反応の一種かもしれないのです。かれら自身が、いわば虐待状況を生きのびたサバイバーであり、ダークペダゴジーを擁護することによって、みずからの人生を護ろうとし、それによってダークペダゴジーが世代継承されていくという回路が存在するのです。


――教室の中でダークペダゴジーが日常的に繰り返されることによって、生徒と教師の関係はどのように変わっていくのでしょうか。

・恐ろしいのは、常用するなかで教師の側が指導効果を過大評価するようになるという点です。長期間にわたる離脱不能な権力関係のなかでは、ダークペダゴジーの被害者が身を守るために巧妙に好意を偽装するようになりますし、前述のとおり、被害者側に「ストックホルム症候群」が発生する場合もあり、それらによって教師の指導は常軌を逸していきます。実際、体罰教師が後から事件当時を振り返って「生徒は指導を理解してくれていると思っていた」などと述べることも少なくないのです。

異常心理学の領域では、ルシファーエフェクトと呼ばれる現象が指摘されています(注12)。ルシファーエフェクトは、捕虜収容所や監獄、精神病棟のような抑圧的な密室状況下において、ごくふつうの人間が一般的な道徳を忘却し、サディスティックな看守に豹変するという現象です。学校はルシファーエフェクトの効きやすい条件の多くを満たしていますし、ダークペダゴジーの使用自体がそうした「道徳の忘却」を引き起こし加速させてもいきます。ダークペダゴジーはそれを用いる者の正常な認識を浸蝕していく麻薬のようなものなのです(注13)。

◆「汚れた手のジレンマ」

――ダークペダゴジーに手を伸ばしてしまう教師の心理とは、どのようなものなのでしょうか。

・教師がダークペダゴジーに依存する誘因のなかには、単なる精神的疲弊だけでなく、教師という仕事につきまとうモラルジレンマがあると考えられます。現場の学校教師たちの直面するモラルジレンマは、政治哲学における「汚れた手のジレンマ」の一種と考えることができます(注14)。

「汚れた手のジレンマ」とは、自分の役割責任を果たすことと清廉潔白に生きることの両方を同時に満たすことができないという葛藤状況を指します。政治家であれば「有権者の代表として政治家を続けるために地域の有力者と取引すべきか否か」「市街地に仕掛けられた時限爆弾の在処を知る捕虜を拷問すべきか否か」などがその例となります。現実の政治家が政治的職業責任を引き受けるために道徳や法に反しなければならないように、現実の教師も、教職の責任を引き受けるなかで、教職倫理である「すべての子どもの最善の利益の保障」を手放さなければならなくなる場合があります。

多くの教師にとって自身の役割責任の根源は「子どものため」であり、子どものためを思って最善を尽くし、それで確かな手応えを感じられていればモラルジレンマは起こりません。しかし、現実の学校現場は容易ではありません。子どもを叱るという行為は「指導とケアのモラルジレンマ」を孕んでいますし、授業中に騒いでいる子どもを放置すれば他の子どもの学習権の侵害になりかねません。「いじめ問題」であれば被害生徒の人権を守りつつ加害生徒の人権も守る高度な判断が必要になります。複数の子どもの利害対立をどのように調停するかは常に難問で、教師たちは慢性的な自己不全感に苛まれがちです。


――ただでさえ多忙な校務を抱える中で、さまざまな立場にある生徒たちをまとめるのは大変ですよね。

・そうなのです。教師の場合、日々の実践のなかで、意図せず子どもの心を傷つけたり、子どもから恨まれることがあります。あるいは介入すべき問題を看過してしまったり、現実的制約のなかで妥協してしまったり、子どもから軽んじられたりして薄汚れた気持ちになることもあるでしょう。それらは自身の職業的アイデンティティを揺さぶられる危機的体験であり、教師自身も深く傷つきます。現実の教壇に立ち続けることは常に役割葛藤を含むわけです。

この苦しいモラルジレンマから抜け出すためには、実践力を磨いて汚れなき理想的教師像に向けて自己実現を進めていくか、認知のあり方を変えて「自分は十分にやっている」と自分を認めてあげるか、あるいはその両方が必要です。さもなければ葛藤に耐えきれず職を辞す他ないかもしれません。

「快刀乱麻を断つ」ということばがありますが、ダークペダゴジーには白黒つけにくい問題状況をシンプルに一刀両断にする明解さがありますし、ダークペダゴジーが支配する空間では子どもが萎縮する分、子ども同士のトラブルも減少します。小難しい理想論を捨てることでクヨクヨと悩まずに済みますし、満点ではありませんが、学級崩壊やいじめのような最悪の状況を防いでいるという点では自分を誉めてあげられるのです。前述のとおり教師は過酷な労働環境に置かれていて、世間からの風当たりも強く、もはや社会から見捨てられているも同然の状況ですから、自分で自分を許すほかなくなります。

ダークペダゴジー系の教育実践本が売れる理由もここにあります。ダークペダゴジー本は「悪いのは子どもであり制裁を加えてよい。それが子どものためになる」と宣言して教師の満たされない思いを承認してくれますし、「小難しく考えず、これだけやればOK」という要点を提示してくれます。そのことばは教師を続けるべきか辞めるべきか追い詰められている教師にとっては福音になるのです。

ダークペダゴジーに手を伸ばすこと、それは「清廉潔白であり続けるために手を汚さないようにする」という理想的状況から「日々を生き延びるために手を汚す」状況への転落であり、さらにその先には、前述の「認知整合」機能による「清廉潔白であり続けるために手を血に染める」という価値転倒が待ち構えています。それはたとえば「悪い生徒から善い生徒を守る正義の番人」という形での自己実現です。


◆求められる実践――「ホワイトペダゴジー」

――先生たちがダークペダゴジーを用いず、「汚れた手のジレンマ」から脱するためには、具体的にはどのような方法があるのでしょうか。

・ダークペダゴジーの代替案としていくつかの案がすでに提案されています。そのなかで広範に有効性が認められているのは、教師が強権によって問題行動を制圧し続けるかわりに、平和的に話し合うことでトラブルを乗り越えられるような「仲間づくり」を進めていくという方向性です。欧米には「ジャスト・コミュニティ・アプローチ」(注15)や「修復的対話アプローチ」(注16)と呼ばれる方法論がありますし、日本では全国生活指導研究協議会の「学級集団づくり」(注17)が有名です。教育科学研究会やその他の民間教育研究団体にもたくさんの蓄積があります。

共通するのは「子ども一人ひとりの声を聴くこと」「全員でしっかり話しあってルールを決め、それを守るために一致団結すること」「トラブルが起こったら丁寧に当事者の話を聞く機会を作り全員でその解決に向き合うこと」などです。こうした理念を実現するためには大変な時間と労力がかかりますが、即効性はないものの効果は徐々に蓄積していきますし、最終的には生徒自治という高みへ到達することができます。

日本の教育行政はアクティブラーニングにせよゼロトレランスにせよスクールスタンダードにせよ、舶来の方法論を有り難がります。しかし、日本の教師たちは、世界一「ブラック」な教育環境のなかで、「汚れた手のジレンマ」を昇華するために質の高い臨床技法と実践例とを編み出してきており、日本の教育実践のなかには、世界的に見ても極めてハイクオリティなものが多く含まれます。

散発的に現れては消えるいい加減なダークペダゴジーの言説ではなく、そうした良質な教育実践の蓄積を多くの教師に知っていただければ状況は変わるだろうと思います。たとえば民間教育研究団体の老舗である教育科学研究会の発行する月刊誌『教育』は2017年4月現在で856号、全国生活指導研究協議会の雑誌『生活指導』も731号を数えます。それだけ民間の教育研究団体には良質の蓄積がたくさん存在するのです。

しかし、大変残念なことに、多くの民間教育研究団体では、若手への世代更新がうまくいかず高齢化によって学校現場への影響力が失われつつあります。諸団体の発行する雑誌も廃刊や年間刊行回数の縮小が相次いでいるなど悲惨な状況です。多忙すぎて自主研修どころではないという労働環境が、教育の文化を根絶やしにしつつあるわけです。


――日本でも教育科学の領域では、すでに有効な方法論がたくさん蓄積されているんですね。どうすれば、そうした子ども同士の関係を作っていけるのでしょうか。そのための具体的な方法を紹介していただけますか。

・前述のような「仲間づくり」の実践は、即効性においてダークペダゴジーに劣るという弱点があり、「仲間づくり」と言われても「何から手を付けて良いか分からない」という声も聞かれます。また良識的な教育実践論は、良識的であるがゆえにダークペダゴジーに対してはかなり冷たいまなざしを向けることが多く、悩める教師に紹介しても「なんとなく責められているようで読む気になれない」という声も幾度と聞いてきました。ダークペダゴジーを捨てて「仲間づくり」に手応えを感じられるまでの間を取り持つような何かが必要なのだと思います。

そのため、ここではホワイトペダゴジーというコンセプトを提案したいと思います。ホワイトペダゴジーとは「教職倫理にかなった教授法(ペダゴジー)」のことであり、たとえば「短所や失敗を叱るより長所や成功を誉める」「威圧による服従の代わりに献身によって協力を引き出す」といったコミュニケーション方法が該当します。ホワイトペダゴジーの内容は決して新しいものではなく、良識的な教育実践運動のなかで蓄積されてきた暗黙の臨床知を蒐集したものに過ぎません。前述のとおり日本の教育界は舶来の品を珍重する傾向があるので、暫定的に、横文字のコンセプトにしました。

ホワイトペダゴジーの一例としてピグマリオン・メソッドがあります。元々は教育心理学の有名な実験で、教師に対して「検査によって一年後に成績の伸びる可能性の高い生徒のリスト」(実際はランダムに生徒の氏名を掲載したもの)を渡すと実際にリストに名前の載った生徒の成績が上昇するという現象から生まれたものです。教師の思い込みが子どもに対して予言的に機能するわけですね。これを応用し、問題を起こした生徒に対して「だからお前はダメなんだ」と頭ごなしに人格否定をするかわりに「どうした、君らしくないじゃないか。何か理由があるの?」などと尋ねて、生徒の問題行為を貶しつつ、その尊厳を守り励ますことで生徒の問題行動を治めていくという方法です。いわば、教師の信じる「本当のあなた」の側に現実の生徒を引き寄せていく方法といえます。


――褒めて伸ばす、というようなスタンスですね。

・おっしゃるとおりです。ピグマリオン・メソッドの真髄は、叱るコミュニケーションの背後にも常に褒めるコミュニケーションが働いている点にあります。この方法は特に自己肯定感が低く荒んだ気持ちになっている子どもにとって有効に機能します。日本の子どもは世界的に見ても自己肯定感が著しく低い状況にありますから、有望な方法に数えられます。

もっとも、これを小手先のテクニックとして使うことは悪しき操作主義と言うべきかもしれません。暴力的でない分だけより巧妙なコントロール技法だと言えなくもないわけです。ホワイトペダゴジーに対する評価に関しては賛否両論があると思いますし、実際、月刊誌『教育』(2015年12月号)で「シメない教育のすすめ」を特集した際も隠れた争点の一つになっていました。しかし操作主義を批判する聖人君子的なカリスマ教師もまた実際には自分でも気づかないうちにホワイトペダゴジーを活用しているという現実もあります。ホワイトペダゴジーは、ダークペダゴジーを拒絶しながら子ども集団による健全な学校自治を生み出すための過渡的な必要悪(lesser evil)なのかもしれません。

さらに言うと、実はピグマリオン・メソッドは教師自身にとっても有効に機能します。共感的なカリスマ教師でありたいと願い、常に理想的な教師像と一体化して子どもの良いところを見つける努力を続けるうちに、前述の「認知的整合」が起こっていつしか心の底から共感的なカリスマになっていくのです。理想的教師像と一体化するに連れて子どもへの感銘力は高まりますし、ダークペダゴジーの誘惑に対してもタフになれます。心理学ではそうした成長過程を「セルフ・ピグマリオン・プロセス」と呼びますが、ホワイトペダゴジーはそうした意味で単なる小手先のテクニックに留まらない希望があります。

繰り返しになりますが、ホワイトペダゴジーには危険性や限界性があることも忘れてはならないと思います。たとえばこれは教育社会学者の吉田美穂さんが「お世話モード」と呼ぶものですが、校則が厳しければ厳しいほど「締め付けから生徒を守る」という役割を教師が負うことで生徒との信頼形成もしやすいのです。警察の尋問などでも強面の鬼刑事と人情味のある仏の刑事の二人で挟み撃ちにする「マット&ジェフ」テクニックという技法が知られています。ホワイトペダゴジーは実はブラックな環境であればあるほど光り輝くという側面があるわけで、そこにはある意味での共犯関係がありえます。

また、生徒を指導室に呼んで罵声を浴びせ、生徒が泣いた頃合いを見計らって急に慰めはじめるといったようにして「飴と鞭」を使い分ける教師もいます。いわばダークペダゴジー側によるホワイトペダゴジーの濫用も常にあるわけです。

究極的には教育といういとなみ自体に他者介入にともなう暴力性が宿っているという原罪認識が必要です。とはいえ、多くの教師が短期的な手応えと引き替えに理想を捨ててダークペダゴジーを採用するこの難局にあっては、まずは、子どものために疲弊しながらも笑顔を絶やさない教師たちをねぎらいつつ、教育現場を生き延びるノウハウや、理想的教師像へ近づくための実践的叡知を蒐集提供することが必要とされているだろうと思っています。

学校教育のいとなみを手放しで「善きもの」とみなすことのできた時代は、学術的にも現実的にも、とうの昔に過ぎ去っていますが、さりとて学校教育を拙速に全否定することが賢明ではないという点も、近年は認識されつつあるように感じます。最近では通信教育やフリースクールなどを舞台とした多様な公教育のあり方が模索されていて、そこにはダークペダゴジーやいじめから逃れるための希望が宿っているとも思いますが、制度化にともなうメリット・デメリット両面について未知な部分も多く、慎重かつ実証的に議論を進めるべきだと思います。

今後、公教育がどうなっていくにせよ、学校教育をリスクや改善点の多い「必要悪」とみなしたうえで、如何にして過不足なく適正に使用していくかという論点は残り続けるでしょう。ダークペダゴジーをホワイトペダゴジーに置き換えていき、やがては公教育自体をよりよい対人援助のあり方へと置き換えていく、そのような漸進主義のなかの一つの布石として、ホワイトペダゴジーというコンセプトは有益だと思うのです。


◆学校からダークペダゴジーを駆逐するには

――教師が子ども中心の授業に取り組めるための社会側の改善策として、どのようなことが挙げられるでしょうか。

・教員のストレスを下げるとともに、子どものために使える時間を用意する必要があります。そのためには当然のことながら「教員の労働環境」を改善する必要があるでしょう。この間メディア等でも前述したような教員の多忙状況に注目が集まっており、教員の労働時間に上限を設ける署名運動も行われています。朝から晩まで働かないと間に合わないような仕事量は減らされるべきですし、教師本人が望まない部活動顧問を強制されるといった状況は改善されなければならないと思います。

その意味では、労働時間に上限規制を設けたり「午後6時以降の在校禁止」などのような一律禁止による労働習慣の改善も過渡的には必要かもしれません。ただ、敢えて言えば、それらは問題の本質からするとやや一面的というか、あくまでもセカンドベストの方法かもしれません。

教育社会学者の久冨善之が興味深い指摘をしています。「教員の多忙」はブラックな社会構造によって強制された部分ももちろんありますが、それだけでなく教員文化に深く根付いた倫理的な行動様式としての側面を持つと言うのです。昔も今も尊敬される教師は「私生活を犠牲にして子どものために尽くす献身的教師」であって「定時で帰るサラリーマン教師」は軽蔑の対象になります。教師はそういう社会からの期待のまなざしを知っており、そういった価値観の内面化もしているため、なかなか多忙状況を手放すことができません。つまり多忙であることは教育者としての正統性の源泉としても機能しているのです。

別の言い方をすると、心配性の母親がお節介によって子どもの心身を束縛するように、教師もまた粉骨砕身して生徒に献身するその姿勢によって生徒や保護者に対する権威や信頼などの統制力を維持している側面があるのです。心理学では暴力や命令などによる統制をサディスティック・コントロールと呼び、お節介や献身による統制をマゾヒスティック・コントロールと呼びます。悲しいことですが「教師の多忙」は、ダークペダゴジーのようなサディスティック・コントロールを強化するだけでなく、抑制するためにも機能しているのです。

もちろん余暇を心置きなく楽しめることは労働者の権利として極めて重要であって、教師がその高度な専門職性を社会から認められ、授業準備や研修、部活指導など諸々を含めて1日8時間労働が守られる状況こそが理想的だと思います。しかし教員の権威や社会的信頼を維持増進する別案のないところで労働時間だけを抑制しようとすると「休めと言いつつ休んだら軽蔑する」というダブルバインド(二重拘束命令)となって、教師をかえって追い詰めることになりかねないのです。
 
教師が安心して労働時間を守れるように制度保障を進めていくためには、拙速なかたちで労働時間だけを枠にはめようとするだけでなく、事務処理や会議などに追い回されて授業準備や子どもとの接触交流の時間がとれない現状を変えて、それぞれの教師の理想的な教育実践を可能にすることも同時に進めていかないといけません。実際、職務ストレスに関する研究でも、「労働時間の長さ」は重要なストレス要因ではありますが、数あるストレス要因の一つに過ぎないとも言えます。「責任の過重さ」「やりがいの不足」「自己決定権の不足」など改善すべき点は他にもあるわけで、ストレス要因間のバランスをとりながら改善を進めていったほうが効果的だと思います。

そのためには「教員一人あたり生徒数」を現行の20人からTALIS調査参加国平均である12 人程度、いずれは優れた教育環境として有名な北欧諸国の平均水準である8人程度まで引き下げ、教師1人あたりの義務的労働負担量を減らす必要があるでしょう。そのうえで、良識的な教師たちが培ってきたホワイトペダゴジーを普及させる教師教育体制を作っていく必要があります。

また、我々の調査結果では、小中学校の区別なく学校の状況が困難であればあるほど強権的な校風になりやすいという結果も出ています(注18)。ダークペダゴジーを駆逐したければ、困難校に重点的に資源投入を行うことも有効だろうと思います。


――「一人一人の理想的な教育実践を可能にする」というのは面白いですね。単に労働時間を減らすだけではなく、一人が受け持つ生徒を減らすという施策も、ぜひ実現してほしいです。

・はい。ただ、ダークペダゴジーを駆逐するためにはそれだけでは足りません。「元気になった教師がやる気を出してダークペダゴジーを活用して子どもの人格改造へと邁進する」という場合がありえるからです。教育への飽くなき情熱がダークペダゴジーを呼び起こすという側面もあるわけですね。

「教育の欲望」が暴走することを防ぐためには、学校運営に保護者や地域住民など外部の風を入れることが有効です。先ほどルシファーエフェクトを紹介しましたが、逆にいえば抑圧的な密室状況を開放することによってダークペダゴジーを抑制することが可能なのです。

もちろん「学校を開放しさえすれば万事うまくいく」というわけではありません。保護者や地域住民のなかにも体罰を礼賛したり、「トラブルメイカーの子どもを学校から排斥せよ」と言う者が含まれますし、教師が監視されることによって見栄えがよいだけの浅薄な指導が跋扈する可能性もあります。学校をどの程度外部に開放するのがよいのかは、各々の学校において教職員集団の精神的なゆとりや学校の人権意識などが最大化される条件を個別に模索していくほかないのではないかと思います。

ただ、前述の我々の教員調査では保護者が教育活動に積極的に参加していたり、保護者同士で活発に交流している学校ほど、教員の教育信念は協調的かつ発達支援的でしたし、教員の精神的疲弊もいくぶんマシでした。児童生徒の授業や学校行事への積極性も高くなる傾向があります。単なる監視強化の結果であれば、教員の精神的疲弊が高まるはずですが、実際はそうなっていないのです。

一概には言えませんが、保護者や地域住民を積極的に学校に呼び込むことは、教員の仕事の大変さや家庭の状況について相互に理解を深め信頼関係を結びなおす好機となったり、教師の手の届かない生徒指導を家庭や地域で分担してもらえるようになるなど、好ましい効果をもたらす場合のほうが多い可能性があります。

もうひとつ、学校に「外部の風」を入れるという点で注目すべき事例として「子どもオンブズマン」制度があります。オンブズマン(ombudsman)はスウェーデン語で「代理人(護民官)」を意味することばで、体罰やいじめ、虐待などの人権侵害に対して自分で声を上げづらい子どもの救済を行うための実行力を持った公的第三者機関を指します。

オンブズマンは国連「子どもの権利委員会」が設置を勧告している制度で、日本でも志のある自治体ではすでに10年以上の歴史があります(注19)。今後すべての基礎自治体に対してこうした機関の設置を義務化して有効に機能させることができれば、学校や家庭をはじめとする社会の各所に棲息するダークペダゴジーに対する市民の側の「切り札」のひとつになると思います。


◆社会全体に広がる悪循環の構造

――ここまで伺ったお話は、学校だけでなく、家庭や職場や医療施設など、さまざまな環境に当てはまりそうですね。

・ダークペダゴジー問題を学校に特有の問題として見るのは問題の矮小化にあたります。詳細は『〈悪〉という希望』(教育評論社、2016年)所収の拙稿をご覧いただきたいのですが、攻撃性や自己中心性、強権志向や不寛容は「ブラック」な社会システムに対する人間の心的システムの側の反応として発生するものです。

社会に抑圧と競争の機運が高まれば、そこかしこで組織が「ブラック」化し、人間のダークサイドへの転落が起こります。ダークサイドに転落した人間は抑圧や競争に対して適応・卓越化しようとしますから、そこには悪循環が発生します。特に学校や家庭での暴力被害は子どもに原体験として刷り込まれ、世代交代の流れに乗って社会の隅々へと暴力を拡散させていきます。

学校からダークペダゴジーを駆逐することは、こうした悪循環を抑制するための重要な一手ですが、悪循環構造全体の潮流に逆らうものだけに、学校内部だけを改革対象としても実現困難です。そもそも教員の多忙さには、家庭や地域で担いきれない子育て役割を無限定的に引き受けることによって生起している側面があるわけで、家庭や地域の子育てに対して手厚い支援を行うことも教員をダークサイドから解放するための方法に数えられます。

そもそも、この「ブラック」な社会環境のなかで苦闘しているのは教員だけでなく民間の労働者や中央省庁の官僚、専業主婦や生活保護受給者、障害者、高齢者、子ども、その他のマイノリティなど(もちろん程度の差はありますが)皆同じです。逆にTALIS調査で優れた教育労働環境であることが示された北欧諸国は、人権意識や社会保障などについても好ましい状況にあることが各種統計指標によって明らかになっています。このように学校と社会のあいだには相同性や循環関係があるわけで、学校からダークペダゴジーを放逐することは人間・社会のダークサイドとの全面的な文化的闘争の一手として位置づけられる必要があると思います。
(2017年4月22日)


【注釈】
(注1)Alice Miller 1980 Am Anfang war Erziehung, Suhrkamp Verlag Frankfurt am Main(=A.ミラー 山下公子[訳]『魂の殺人:親は子どもに何をしたか』新曜社、1983年). なお、Schwarze Pädagogikの訳はブラックペダゴジー、ポワゾナスペダゴジー、闇教育、闇の教育術など複数存在します。
(注2)ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』みすず書房、1999年、p.115。
(注3)荒木紀幸[監修]道徳性発達研究会[編集]『モラルジレンマ教材でする白熱討論の道徳授業―中学校・高等学校編』明治図書出版、2013年。
(注4) 連合総合生活開発研究所「教職員の働き方・労働時間の実態に関する調査」2015年。
(注5)ベネッセ教育研究開発センター「第4回学習指導基本調査」2007年。
(注6)詳細は勁草書房から近日出版される共著の山田哲也論文をご参照ください。
(注7)山本宏樹「政治科学の進化論的転回」宮台真司[監修]現代位相研究所[編]『悪という希望―「生そのもの」のための政治社会学』教育評論社、2016年。
(注8)久冨善之[編著]『教師の専門性とアイデンティティ―教育改革時代の国際比較調査と国際シンポジウムから』2008年。
(注9)牧柾名・今橋盛勝[編著]『教師の懲戒と体罰』エイデル研究書、1982年。
(注10)友田明美『[新版]いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳』診断と治療社、2012年。
(注11)友田の研究は基本的に家庭内の虐待事例を元にしたものですのでやや文脈が異なりますが、小学校の場合は最低1年間にわたって朝から夕方まで暴力的教師と一緒におり、中高でも部活動は土日も含めて長期にわたって指導を受けるため、脳器質に影響が現れる可能性があります。詳細は山本宏樹「体罰を科学する」(『理大科学フォーラム』2016(5)、pp.34-39)をご参照ください。
(注12)フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト―ふつうの人が悪魔に変わるとき』海と月社、2015年。
(注13)これについても、詳細は山本宏樹「体罰を科学する」(『理大科学フォーラム』2016(5)、pp.34-39)をご参照ください。
(注14)マイケル・ウォルツァー『政治的に考える』風行社、2007年。
(注15)荒木寿友『学校における対話とコミュニティの形成―コールバーグのジャスト・コミュニティ実践』三省堂、2013年など。
(注16)山下英三郎『修復的アプローチとソーシャルワーク―調和的な関係構築への手がかり』明石書店、2012年など。
(注17)全生研常任委員会[企画]『生活指導と学級集団づくり―小学校』高文研、2016年。同『生活指導と学級集団づくり―中学校』高文研、2015年など。
(注18)山本宏樹「垂直的注入 vs 水平的発達支援―教師の教育的信念に関する実証分析」日本教育学会 第74回大会[テーマ部会B-2]学校のリアリティと教育改革の課題(a)『日本教育学会大会発表要旨集録』第74巻、および勁草書房から近日出版される共著をご参照ください。
(注19)詳細は、桜井智恵子『子どもの声を社会へ―子どもオンブズの挑戦』(岩波新書、2012年)や、喜多明人・荒牧重人・吉田恒雄・黒岩哲彦[編]『子どもオンブズパーソン―子どものSOSを受けとめて』(日本評論社、2001年)などをご覧ください。



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