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東日本大震災7年 安倍政権の被災者切捨て

 公文書改ざん、虚偽データ…真実を隠す政権の姿勢は、7年をむかえる大震災・原発事故の被災者をも「消し去ろう」としているようだ。
 政府は5年と一区切りと語り、そり後、災害公営住宅の家賃軽減の縮小、福島の避難指定の解除と賠償打ち切り、自主避難の住宅支援うちきり〔避難者数からの削除〕、生活再建資金や事業再建資金の返還も開始と・・
【サンドウィッチマンが震災風化に「震災5年で一区切りにしたのがよくなかった」…安倍政権も節目を超えたと被災地切り捨て  リテラ】
【福島原発事故「消えた避難者3万人」はどこへ行ってしまったのか 3・11後の「言ってはいけない真実」 青木美希 現代ビジネス3/11】
【東日本大震災7年・福島/帰還進まず膨らむ危機感 河北新報・社説】
【東日本大震災7年・宮城/住まいと借金 復興の重荷に 河北新報・社説】
【東日本大震災7年・岩手/水産資源減少浜の再生阻む  河北新報・社説】

【サンドウィッチマンが震災風化に「震災5年で一区切りにしたのがよくなかった」…安倍政権も節目を超えたと被災地切り捨て  リテラ】

2011年の東日本大震災から7年。この国はもはや震災が起きたことを忘れてしまったかのようだ。いまも7万人を超える人たちが避難生活を強いられているのに、政府は復興よりも東京五輪の工事を優先し、被災者を完全に置き去りにしている。
 それはマスコミも同様だ。被災地の現状を伝える報道は年々減少し、毎年、3.11前後に放送される震災特番も、昨年くらいからは極端に少なくなっている。

 震災の風化。そんな状況に危惧を表明したのが、お笑いコンビ・サンドウィッチマンの伊達みきおと富澤たけしだ。2人は河北新報(3月9日付)のインタビューに登場、その思いを語っている。
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 サンドウィッチマンは仙台市出身で、震災当日にも気仙沼市でテレビ番組のロケ中に被災、実際に街を飲み込む津波や火災を目撃した。また、この震災で多くの友人や知人を亡くしている。決して他人事ではなかったのだろう。震災直後から“生き残った者”として、被災地を訪れ、義援金を呼びかけるなど被災地支援を行っており、地元メディアに積極的に出演。東北各地の観光大使なども数多く務めるなど、現在でも本気の復興支援を続けていることは有名だ。
 そんな2人は河北新報のインタビューで、復興支援を続けている理由についてこう語っている。
〈伊達 地元があんな被害を受けて、たまたま海沿いで被災して、身内や友達を何人も亡くすという経験をしてしまった。あのときあそこにいた人間として何かしたい。だから、こうして取材を受けるときにちゃんと被災地の現状を話せるようにしたいし、東北を紹介して人を呼びたいんです〉
 そして伊達は、被災地の風化についてこんな指摘をしたのだ。
〈メディアのせいもあるけど、震災5年のときに世間が一区切りっていう雰囲気をつくっちゃった。でも地元の人で区切りたいと思っている人は誰もいなかった。あれはすごくよくないことだったと思いますね〉

■5年をすぎて「節目を越えた」と記者会見を取りやめた安倍首相

 たしかに伊達の言うように、「5年で一区切り」というムードが“震災の風化”に拍車をかけたのは事実だ。前述したように、メディアも6年目から極端に報道量が減った。
 しかしその“区切り”は自然発生的なものではなく、意図的につくりだされたものだ。
 昨年2017年3月10日、東日本大震災6年を目前にして、政府は野田佳彦首相時代から続けられてきた毎年3月11日に開く首相記者会見を、政府がとりやめると発表した。その理由は、こうだ。
「一定の節目を越えた」
 これに対し、官房長官会見で記者から「記者会見を行わないことで、復興に対する政府の姿勢が後退したと受け止められないか」との疑問も呈されたが、しかし菅義偉官房長官は「それはまったくない」とそっけなく答えただけだった。そしてこの年、実際に安倍首相の会見は開かれることはなかった。
 だいたい「一定の節目を超えた」という言葉が出ることじたい、現実を直視しない、被災地と被災者切り捨てに他ならない。2017年は未だ12万人を超える人が避難生活を送り、約3万4000人が仮設住宅で生活していた時期だ。さらに被災地では人手不足に加え、東京五輪関連の建設ラッシュのせいで工事費が高騰し被災地での公共工事の入札不調が相次ぐなど、五輪優先で復興の遅れが指摘されてもいた。そして福島第一原発事故で、撒き散らされた放射能の除染も進まないなか、その危険性を無視し、徐々に避難指示を解除した時期とも重なる。
 つまり、政権にとって“お荷物”となった震災や原発事故の被災者たちを、たった5年で一区切りとすることで、切り捨てた。震災の風化などと言うが、それは政権が推し進めた、あまりに身勝手な自己都合の産物なのだ。

■サンド伊達「地元で区切りたいと思っている人は誰もいなかった」

 それは最近の安倍首相の言動にも如実に表れている。
 サンドウィッチマンのインタビューが掲載された翌10日、同じく河北新報に安倍首相のインタビューが掲載された。 
 そこで安倍首相は「(現在は)復興の総仕上げ」などと、あたかも復興が終盤戦を迎えたような印象操作、現在でも避難を余儀なくされている7万を超える被災者の現状を無視したかのような発言を行い、原発事故の廃炉も「東京電力が最後まで責任を持って判断すべきだ」と責任転嫁までしたのだ。
 だが、それも当然なのかもしれない。いまから4年半前の13年9月、安倍首相は東京五輪招致のIOC総会で「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御(=アンダーコントロール)されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」といわゆる“アンダーコントロール”発言を笑みをたたえながら平然と行っていたからだ。
 東京五輪の成功のお荷物は、未だ“区切り”をつけようとしない被災地と被災者。震災の影響などあるはずがないし、原発事故にしても同じ。──そんな安倍首相の本心が透けて見えるようだが、未曾有の大震災の傷跡や家族や親しい人を失ってしまった人びとの心に対する共感性のかけらもないのが日本のトップ、安倍首相の本性なのだ。
 きょう11日、昨年に続き安倍首相の震災会見はおそらく開かれない公算が高いだろう。被災地を軽視する安倍政権には、改めて、震災風化を危惧するサンド伊達の言葉を突きつけたい。
〈地元の人で区切りたいと思っている人は誰もいなかった。あれはすごくよくないことだったと思いますね〉
(編集部)

【福島原発事故「消えた避難者3万人」はどこへ行ってしまったのか 3・11後の「言ってはいけない真実」 青木美希 現代ビジネス3/11】

3.11から丸7年。避難指示解除が進んだ福島第一原子力発電所近隣地域で進む恐るべき事態とは?  見せかけの「復興」が叫ばれる一方、実際の街からは、人が消えている。 メディアが報じない「不都合な真実」を、新聞協会賞三度受賞の若手女性ジャーナリストで、『地図から消される街』の著者・青木美希氏が描いた。

■「帰らない」ではなく「帰れない」

福島第一原子力発電所事故のため、原発隣接地区では大小数百の集落が時を止めた。
2017年春には6年にわたった避難指示が4町村で解除された。3月31日に福島県双葉郡浪江町、伊達郡川俣町、相馬郡飯舘村、4月1日に双葉郡富岡町で、対象は帰還困難区域外で計3万1501人。
だが帰還した人は、解除後10ヵ月経った18年1月31日、2月1日時点で1364人(転入者を除く)と4.3%にとどまる。
いま現地で何が起きているのか、人々はどうしているのか。
2017年11月中旬、筆者は浪江町の中心街を訪れた。風が強くて寒い。海側の建物が津波で根こそぎ失われたため、風がより強くなったといわれている。

福島の地方経済を支える東邦銀行浪江支店の旧店舗が静かにたたずんでいる。本屋や酒屋だった店舗の軒先には雨をしのぐ青いテントが破れて垂れ下がり、何の店だかわからなくなっている。「撤去作業中」という青いのぼり旗も立つ。更地になっている場所も目立った。

この中心街の一角に、以前、救助活動の取材でお世話になった消防団の高野仁久さん(56)の看板店がある。
高野さんには、4月に自宅兼店舗を見せてもらっていた。静まりかえった街で、店も息をひそめているかのようだった。店舗奥の玄関の戸を横にガラガラと開ける。土とほこりのにおいがする。床に散らばる箱や食器……。床が見えないほどだ。ところどころが黒い。土も見える。居間の日めくりカレンダーは、2011年3月11日のままだ。

「……ここ、津波には遭っていないところですよね?」
頭ではわかっていても、思わず口に出た。それぐらい、ぐちゃぐちゃだったのだ。
「みんな動物のせいだ。ほれ」
高野さんが指をさす。居間の床や床に落ちたノートの上に、黒々とした固まりが載っている。土かと思ったのは、動物の糞が山積みになっているものだった。
「あそこから出入りしてると思うんだけど。ハクビシンだと思う」
居間の奥の壁が破られており、穴が空いている。ここから動物が出入りしているため、居間が土だらけなのだ。「もう帰れない。壊すしかないよ」と言いながら、高野さんの太い眉毛の下の目は、じっと家の中を見つめていた。

帰還できない人たちに対し、「ふるさとを捨てる」「勝手に避難している」と非難する声を、霞が関をはじめ東京都内でも福島県内でも聞く。一方で、帰れない人が大勢いるという現実はすっかり報道されなくなった。高野さんは言う。
「子どもたちは放射線量が高いからと帰ってこない。自分一人でも帰ってこようかとも思ったけれども、誰も帰ってこないのに、どうやって看板屋をやればいい?この街で誰か商売をするか?誰が看板を必要とする?お客がいないと誰も商売が成り立たない。子どもたちを食べさせていけない。
2017年に入って同級生が自殺していく。2人目だ。どうしていいかわからないからだ。看板の仕事も来るけれども、できる作業が限られているので外注せざるを得ない。おれもどうしたらいいのかわからない」

浪江町中心街の商店会で元の場所で再開しているのは、2018年1月時点で47事業者中、2業者だけだ。看板店の仕事は、以前は月30~40件だったが、いまは月1~2件しかない。町内の工場を閉鎖しているため、木製看板の彫刻しかできないからだ。東京電力の賠償が切れたら、貯金を食いつぶしていくしかない。
「これからどうしたらいいのか、寝るときに布団で考えて、答えが出なくて、考えているうちに朝になっている……」
高野さんはせつせつと語る。悲痛な叫びは世間に伝わらない。

■時間が経てば忘れていいのか

高野仁久さんは、3月11日が近づくたび、落ち着かなくなるという。彼は浪江町の消防団幹部。あのとき、助けを求める人たちがおり、救助活動に行こうとしていた。
翌朝から捜索すると決まったが、中止になった。原発が危ないという情報が入り、避難することが決定されたのだ。ショックだった。

救助活動に当たっていた消防団員の後輩の渡辺潤也さん(36)も行方不明になっていた。渡辺さんは、「ジュンヤ」と下の名前で呼ばれ、慕われていた。理容師で、野球で活躍していた。家族は母と妻、中学生の長女と小学生の長男がいた。
以来、消防団は毎年3月11日に捜索を行っていた。だが、5年経った2016年3月11日で打ち切られることになった。団員は避難で全国に散らばっている。もう集まるのが難しい、という判断だった。
最後の捜索のニュースがテレビで流れた。ジュンヤさんの母親の昭子さんが「いままで5年間捜索してくれた気持ちに感謝したい」とテレビで語った。

それでいいのか。5年経てば解決するのか──。
2017年3月11日の捜索は、高野さんは自主的に参加した。ジュンヤさんのものを何か見つけて、親御さんに返してやりたいと思った、と言う。ジュンヤさんとは、年も離れているし分団も違う。1、2度、宴席で一緒になったぐらいだ。

しかし、一人の消防団員として、打ち切っていいのかという後ろめたさがあった。捜索に参加すれば、気持ちの中で自分を許せるのかな、と高野さんは思った。捜索に参加したのは50人ほどで役場職員が多い。高野さんは「これまででいちばん少ないな」と感じた。

請戸川や、津波が押し寄せた大平山の間を重点的に捜索した。
鍬や熊手で土を掘る。骨や身元確認につながるものがないか探す。6年の歳月が流れるうちに土をかぶってしまい、10センチ以上掘らないと何も出てこない。掘った土の間からプラスチックのかけらが出てくる。おもちゃのネックレスの一部だった。免許証、アルバムの写真。屋根のトタン。
作業することが高野さんなりの“誠意”だった。

海沿いでは護岸強化やがれき処理、焼却などの復興工事が行われており、重機が入っていて捜索ができない。人間の手でやるのはもう限界がある。本当はトラクターで土を掘り出し、ふるいにかけないと出てこないだろう。そんな思いとは裏腹に、復興工事が進む。
その影響もあって、不明者が見つからないのではないかと思う。
2018年3月、あの日がまたやってくる。参加するかどうか高野さんはまだ決めていない。
「毎年、3月11日が近づくと、じっとしていていいのかという思いが出てくる」

■みんなバラバラになってしまった

ゼンリンの住宅地図を手に、再び浪江町の中心街を歩く。
この地図は2010年に発行されて以降はつくられていない。18年1月時点ではつくる予定もないとのことだった。見ると、東邦銀行など金融機関が並び、美容院や喫茶店、商店など約60店舗がひしめいている。

ところがいまは、建物が傾いたり、壁が倒れた廃屋が並ぶ。看板がもう読み取れないものもある。
地図をチェックしながら周囲の450メートルを歩く。約60店舗のうち、7割が廃屋状態、2割は更地になっていた。「建物解体中」の旗も立っていた。歩道にもあちこち草が生えている。通常営業しているのは、工事車両が出入りするガソリンスタンド2軒と美容室のあわせて3店舗だった。美容室は「OPEN」ののぼりが立っていたが、出入りする客を見かけることはなかった。

「いちばん賑やかだった通りです」と避難している人に紹介されて歩いたのだが、ここは名前を何というのだろう。聞こうにも誰も歩いていない。相変わらず遮さえぎるものがないために風が冷たい。

通りから200メートル離れた警察署に行き、パトカーの横にいる警察官たちに地図を示して聞いた。
「わからないなあ」
一人が、地図を持って周りの警察官に聞いてくれた。
「駅前通りじゃないの?あそこ、十日市とかやってたから」
十日市という行事があったのを知っているということは、地元を知る警察官のようだ。しかし、「駅前」というと、一般的には駅前から延びている通りを指すと思うが、地図で示した通りは駅前を通らず、線路と平行に走っている。違うかもしれない。

通り沿いにある「ホテルなみえ」のフロントに行った。このホテルは、もともとは中心街のホテルとして屋上ビアガーデンや宴会でも使われ、賑わっていたが、いまは町民が一泊2000円で宿泊できるようになっている。男性がいた。
「この前の通りって、なんていう名前ですかね」
「さあ、わからないね……。もともとここに勤めていないから」
仕方なく、翌日、福島県二本松市に移転している浪江町商工会に電話をして、「この通りの名前と商店会の名前を教えてください」とお願いし、地図をメールした。5時間後に回答があった。
「シンマチ商店会通りです。新しい町、と書きます。新町商店会通りです」
しんまち。新町商店会。通りのバス停に「新町」と書いてあったのを思い起こした。駅前通りではなかったのだ。急に、あの商店会が色彩を持ったように感じた。美容室は白地に緑色の看板、ガソリンスタンドは黄色い屋根だった。ホテルは薄い緑色の壁。

インターネットで「新町商店会」を調べると、いくつかホームページが出てきた。浪江の中心街として、夏は盆踊り、秋には十日市という屋台が並ぶイベントを開催していたと載っていた。
中心街の名前すら、現地ではもうわからない。近所の人の消息が4年もわからない。街が名前をなくす現実を目の当たりにした。

前出の高野仁久さんに聞いたところ、「新町ね。権現堂地区の者じゃないとわからないだろうねえ。みんな全国に散らばってるからね」と話した。
新町商店会の仲間とともに二本松市で活動しているまちづくりNPO新町なみえの神長倉豊隆理事長に話を聞いた。
「私が商店会で経営していた花屋も取り壊す予定です。戻る人がほとんどいない。町内の自宅のある地区に戻って、そこで花の生産をやろうと思っています」
神長倉さんは、「廃炉作業には30年以上かかる。ゆっくりと町民が安全を確認しながら帰還してもいいのでは」と町外コミュニティ(仮のまち)をつくろうと呼びかけてきた一人だ。
「結局、浪江町長の協力が得られずだめだった。外に街をつくると浪江に帰る人が少なくなるということかと思う。国がもともと帰す方針だったので、帰るのが望ましく、外に街をつくるのは認めたくなかったというのがあるのかと。チェルノブイリではできたのに、福島ではできなかった」と落胆する。
ともに町外コミュニティを目指していた浪江町商工会の原田雄一会長は、「福島市長に要請に行ったときは、市長が『福島市浪江区にしてもいい』とまで言ってくれたのに」と悔やむ。

なぜ馬場町長は消極的で、結果的に頓挫したのか。雑誌の取材に対し興味深い発言をしている。
「(町外コミュニティのために復興特区にする)計画を国にどうしても認めてもらえなかった」と漏らし、強引に突破をはかれば、「復興予算のしめつけがあるかもしれない」と述べているのだ。

経緯を確かめようと、2018年2月、町秘書係に馬場町長への取材を申し込んだが、3ヵ月前から福島市の病院に入院しているため取材を受けられないとのことだった。役場内に発言の背景を知る職員は見つからなかった。
原田さんは嘆く。
「復興政策はうまくいっていない。みんなバラバラになってしまった。帰る人に手厚く、帰らない人の支援を打ち切るということでは心も離れ、浪江がなくなってしまう……」

■「明るいコト」しか報道されない

「報道は、復興が進んでいるという面ばかり積極的に伝える」と、県内に住む人に言われることがある。たとえば「復興の象徴」として、避難指示解除から1週間ほど経った2017年4月8日、安倍晋三首相が浪江町の仮設店舗を訪れた。スーツ姿や法被姿の人たちが出迎え、このときの模様は明るいニュースとして大きく報じられた。

東京では、いまや事故のことが口に出されることが少なくなり、いつも通りの生活が営まれている。
現実はどうか。浪江町で避難指示解除された人は1万5191人。帰還した人は解除の10ヵ月後でも311人と2%にすぎない。その3分の1が町職員だ。
人は辛いことを忘れようとする。誰かが苦しんでいる姿は、見たくないかもしれない。
けれど福島第一原発から約30キロの南相馬市に行くと、僧侶や市議、会社員たちから口々に、「現状を伝えてほしい」と求められる。
「政府はすべて収束したとしている。とんでもない」
「解除されても70歳以下は誰も戻ってない」
その訴えは切実なものばかりだ。

■打ち切られていく「避難者支援」

2017年の住宅支援打ち切りで起こったのは、避難者の名目の数の大幅減少だった。
復興庁は、避難者数を各都道府県から聞いて取りまとめているが、避難者の定義を定めなかった。このため、避難者の数え方が各自治体で異なる。福島県では、復興公営住宅に入った人や住宅提供が打ち切られた人は避難者から除かれた。
そのため、自主避難者の住宅提供打ち切りを機に、避難者数は全国で2017年3月から7月の4ヵ月間で約3万人減り、8万9751人とされた。こうして「避難者」という存在は数字上、消えていく。
「自分たちは避難しているのに、勝手に数から除外されるのはおかしい」
「数をきちんと把握せずして、国はどのように避難者支援政策をするというのか」

当事者や大学教授らからは疑問の声が上がっている。福島県庁に聞くと、県職員は「避難者として数えられていないからといって支援が届かないということはない」と言う。一方で県は、総合計画「ふくしま新生プラン」で、避難地域の再生として「2020年度に県内外の避難者ゼロ」の目標を掲げている。

東京・多摩地域のあきる野市では、住宅支援打ち切り後、自ら避難者登録を取り下げた避難者の母子家庭の母親がいた。理由は明かさなかったという。地元市議は「もう避難者であることのメリットもないし、知られたくないということではないでしょうか」と語った。
「打ち切られると経済的に暮らしていけないので、戻ります」と福島県に帰り、避難をあきらめた母子からも話を聞いた。
ある40代の母親は、福島市に戻っても不安で、子どもは県外で保育を行う保育園に通わせている。民間の「保養事業」にも積極的に参加し、東京都町田市などで夏休みを過ごすが、「保養の申し込みの倍率がすごく高くてたいへんです。戻ってきた母親が同じように不安を抱えているのでは」と話す。
この保養も寄付金減のため縮小傾向にある。子ども・被災者支援法は「国は自然体験活動等を通じた心身の健康の保持に関する施策を講ずる」と定めており、国が保養を実施してほしいという要望書や署名が出されている。

旧知の官僚幹部に見解を尋ねた。
「いつまでも甘えていると、人間がダメになる。パチンコや酒浸けになって何もいいことがない」
健康影響が心配な人たちがいるんだと言うと、断言した。
「将来、集団訴訟が起きて、国が負けたら、何か法制度をつくって救済するということになるでしょう。水俣病と一緒ですよ」

■原発事故はまだ、終わっていない。

急速に忘れ去る世間の無関心をいいことに、支援は打ち切られていく。とくに、避難指示区域外から避難してきた人たちは「自主避難者」と呼ばれ、本人たちは支援を必要としているのに、福島県や神奈川県などは避難者数から除外してきた。避難者がいるのに、いなかったことになっていく。それが帰還政策の現実だ。

2017年3月末には双葉郡の高校5校が休校した。避難指示区域になった福島県立双葉翔陽高校(大熊町)のほか、双葉高校、富岡高校、浪江高校と浪江高校津島校だ。それぞれ避難先で授業を続けていた。再開の見通しは立っていない。
浪江町内では、浪江東中学校を改修した小中学校の整備工事が行われ、2018年4月に開校する予定だが、17年6月の子育て世帯への意向調査では、町内で小中学校を再開しても、96%が子どもを通学させる考えがないと答えている。

同年11月現在でも、通う意向がある子どもは小学生5人、中学生2人に留まる。3階建てのぴかぴかの学校。ここに実際にどれぐらいの子どもたちが通うようになるかはわからない。
2014年4月1日に、事故後最初に大規模な政府の避難指示が解除された田村市では、原発から30キロ圏外にある廃校に一時移転し、授業を行っていた岩井沢小学校が元の校舎に戻った。しかし多くの児童たちが戻らず、児童数は3分の1に。17年3月に統廃合で閉校となり、140年の歴史に幕を閉じた。浪江町でも同様の結果にならない保証はない。

原発事故はまだ、終わっていない。
それどころか、支援が打ち切られる中で、変わり果てた故郷に戻るかどうか、「自己責任」でそれぞれが判断することになり、さらに混迷を深めている。

椎名誠さんの妻で、作家の渡辺一枝さんは、いまも現地に通い続けている。
「元気なように報道されているけれども、実際は違うと思います。避難者の方々はどうしたらいいか、悩んでいる。いまでもよく電話が来ます。必要なのは『私たちが忘れないこと』だと思います」


【東日本大震災7年・福島/帰還進まず膨らむ危機感 河北新報・社説】

 被災地の内と外の乖離(かいり)が進んでいるように思えてならない。東京電力福島第1原発事故との長い闘いが続く福島県内の被災地は、ことさら強く感じているのではないか。
 一つ事例がある。復興庁が2月に公表した双葉、浪江両町の住民意向調査の結果に対する受け止め方だ。
 帰還するかどうかについて「まだ判断がつかない」との回答が双葉町で26.1%、浪江町で31.6%となり、ともに1年前の前回調査から3ポイント余り増えた。一方「戻らない」は約1~3ポイント減った。
 この変動について吉野正芳復興相は記者会見で「帰れるという期待感が如実に表れた」と極めて前向きに捉えた。
 両町では昨年、帰還困難区域の一部で除染とインフラ整備を進める特定復興再生拠点区域(復興拠点)の整備計画が認定された。復興へ、確かに一歩前に進んだ。
 しかし、地元は少なからず違和感を覚えたのではなかろうか。被災自治体の幹部の一人は「そんなに単純に言っていいのかな、という印象を抱いた」と率直に言う。
 何しろ、目の前の現実は厳しい。大熊、双葉両町は全域避難が今も続く。既に避難指示が解除された区域では、住民が戻ってきていない。帰還困難区域以外が昨年春に解除された浪江町の帰還率は対象人口の3.3%、富岡町は4.6%にとどまる。
 「地域経済が動いていない。行政の努力だけではどうしようもない」と浪江町幹部。富岡町関係者も「帰還者の多い少ないを評価できない。町が立ちゆくかどうか問われれば現実は厳しいが、諦めずにやっていく」と語る。
 暮らしやにぎわいを取り戻す手応えをつかめず、途方に暮れそうになりながら、復興を目指す姿が浮かび上がる。
 東日本大震災と原発事故から7年。復興・創生期間(16~20年度)の半ばに差し掛かる中、政府が「復興の進展」を強調すればするほど、被災地支援の出口を探り始めているように映る。「最後の一人まで支援する」(吉野復興相)といくら繰り返しても、被災地の不安は拭えない。むしろ、膨らみ続けている。
 商業施設や産業団地の整備で暮らしや就労環境の再生などを目指す原発事故の被災自治体にとって、復興・創生期間終了後の財源不足が大きな懸念材料となってきている。
 内堀雅雄知事は「福島の復興は10年間では完遂しない。(復興・創生期間終了後の)道筋を付けてもらえるかどうか、県内では漠然とした不安がある」と指摘する。
 医療環境や廃炉作業中の原発のさらなる事故など、さまざまな不安が帰還をためらわせている。復興や廃炉の進展といった言葉で、避難者の声がかき消されてはならない。
 支援の出口ではなく、地域の将来を探るため、原発被災地の危機感と不安を共有することが改めて求められる。

【東日本大震災7年・宮城/住まいと借金 復興の重荷に 河北新報・社説】

 東日本大震災発生からの7年を「個」の視点で見る。老い、疾病、あるいは所得の減少。歳月は被災者の生活にさまざまな変容を迫った。
 宮城県震災復興計画は2018年度、10年計画の最後の3年となる「発展期」に入る。被災者一人一人に「発展」の実感はあるだろうか。
 住まいと借金の問題が、宮城県内の被災地で深刻さを増してきた。
 東北の被災3県のうち、宮城は災害公営住宅が最多の1万6072戸計画され、1月末現在、96%が完成した。災害公営住宅を「ついのすみか」と考える被災者は今、厳しい現実に直面している。
 住み慣れない集合住宅は近所付き合いを希薄化させた。入居者は高齢者世帯が約4割を占め、低所得者が多い上、流動性が低い。コミュニティー再生のハードルは高く、既に孤独死発生の危機に直面する災害公営住宅もある。
 入居から6年目に始まる低所得向け家賃軽減制度の段階的縮小を受け、仙台市など県内の被災自治体は独自に当面の制度継続を決めた。一方、収入が基準を超える世帯が4年目以降に適用される家賃割り増しは、据え置きを巡って自治体の対応が割れる。
 災害援護資金の返済もまた切実だ。住宅が全半壊した世帯に国と県などが生活再建資金を最大350万円貸し付ける制度は、9都県に計約520億円が支出された。
 このうち宮城が406億円を占め、約2万4000人が利用。返済は本年度から本格化し、既に滞納が発生している。震災直後に借りたものの、家庭環境や収入の変化で生活再建が進まず、返済困難に陥る世帯が出ているからだ。
 阪神大震災の被災地では24年目の今も貸付金の回収作業が続く。年金生活者が月1000円の少額返済を続け、計算上、完済に100年以上かかるケースもあるという。
 災害公営住宅の家賃の場合、減免すれば住宅維持に充てる原資が減り、市町村の持ち出しが増える。災害援護資金は返済期限の13年(返済猶予の6年を含む)が過ぎても滞納が続けば、市町村が国などへの返済を肩代わりする。
 阪神大震災をはじめ、過去の災害と同様の課題が今回もあぶり出されている。被災地をつぶさに見れば、制度設計が現実に追い付かず、「人間の復興」をつまずかせていると言わざるを得ない。
 家賃や返済の減免は、行政の公平性の論理から逸脱する部分もある。一方で、現代は深刻な少子高齢化と大災害頻発の時代にある。被災者対策は既存の枠組みを超え、福祉と融合させる制度構築を見据えるべきだろう。
 「最後の一人まで支援する」という復興庁のフレーズは、現状と照らせば虚実を伴う。個人の暮らしの復興は進んだか。8年目に入る今、鳥の目ではなく、虫の目で被災地を見詰める視座が必要だ。


【東日本大震災7年・岩手/水産資源減少浜の再生阻む  河北新報・社説】

 東日本大震災から11日で7年を迎える中、浜再生のシナリオに狂いが生じている。
 復興計画では集中復興期間(2011~15年度)で、水産関連施設を再建。続く復興・創生期間(16~20年度)で販路を回復し、三陸のなりわい再生を期すとした。
 それもこれも世界三大漁場の一つに数えられる三陸の漁場があってこそだろう。ここに来て続く主力魚種の極端な不漁が、三陸復興の足かせとなりつつある。
 岩手では、水産資源を巡る争いが法廷に持ち込まれる事態にまで発展している。沿岸の被災漁民100人が、県にサケの固定式刺し網漁の許可を求めた集団訴訟だ。
 津波で流失した漁船や漁具を借金で再調達し「漁ができなければ浜が消える」と訴える漁民に対し、県は「許可すれば資源が枯渇する」と主張する。双方に理があり、溝を埋められないまま近く判決が言い渡される。
 そもそも岩手のサケ漁は漁獲量が北海道に次ぐ全国2位で、震災直後から水産復興の鍵を握る魚種とされてきた。
 しかし震災から7年を経ても魚影は戻らず、17年の水揚げは沿岸部で6100トン。実に震災のあった11年(7600トン)にすら及ばない漁獲にとどまった。
 沿岸のサケふ化場は津波で壊滅し、16年の台風10号豪雨で再びダメージを受けた。「育てる漁業」の代表格だったはずのサケ漁は震災以降、悪循環に陥り、復調のきっかけをつかめないでいる。
 サンマ漁も3年連続の不漁に見舞われている。全国さんま棒受網漁業協同組合によると、本州一とされる大船渡の17年水揚げは前年から20%減少。全県漁獲量は1.4万トンで、やはり不漁だった前年からさらに36%も減っている。
 大船渡港湾地区に林立する水産加工業者は、グループ化補助金で冷凍・冷蔵施設の再整備を終え、再稼働にこぎ着けた段階にいる。ようやく販路回復の取り組みを本格化させようという矢先に在庫が底を突くのでは、それこそ想定外だろう。
 加えて事業再生のために受けた公的支援の償還が間もなく始まる。水産関連施設の復旧に投じた資金を無駄にしないためにも、国は返済開始時期の延期を検討してほしい。
 水産業を中心に地域経済が循環する沿岸被災地では、運送や製氷、製缶、小売りと不漁の影響が多方面に及ぶ。仮に今年も水揚げが回復しなければ、廃業や倒産が現実味を帯びることになるのだ。
 不漁の要因には、漁場の変化や魚体の小型化、他国船籍による乱獲が指摘されている。資源量を正しく把握し、漁獲量に国際的な制限を設ける時期ではないだろうか。
 「復興の加速化」を言うのはたやすい。だが、被災した浜では時の経過とともに複合要因が絡み合い、再生の針路を曇らせている。

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