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真珠湾攻撃とは何であったか~安倍演説の2つの欠落点(メモ)

2016年12月27日 安倍首相のハワイ訪問、「和解の力」と題した演説。「ここから始まった戦い」という表現には、歴史認識の上で二重の意味の欠落がある。
 日本の戦争は、中国からはじまった。また、12月8日においても真珠湾の70分前に、英領マレー半島への上陸作戦で通告なしではじまっている。として演説の問題点を視点する。

【真珠湾攻撃とは何であったか 安倍・真珠湾演説の2つの欠落点】

山田朗 前衛20174

◆安倍・真珠湾演説の2つの欠落点

・2016年12月27日 安倍首相のハワイ訪問、「和解の力」と題した演説 

・「ここから始まった戦い」という表現には、歴史認識の上で二重の意味の欠落がある。
→ 1941年12月8日、真珠湾という2つの意味 (アメリカには違和感はないが)
①日本の戦争は、37年盧溝橋事件、あるいは1931年柳条湖事件から、中国相手にして始まっている
→ 対米英戦争は、日中戦争の打開のために始まったという性格を有している。この連続性を無視する点が第一の欠落
②仮に英米戦争に限定しても、真珠湾攻撃の70分前に、マレー半島コタバル(当時・英領)への日本陸軍の上陸作戦から、イギリスへは何の通告もなしに始まっている
→アメリカへの通告(宣戦国ではなく「交渉打切り」通告)が、日本大使館の不手際で遅れたので「だまし討ち」ではなかったという見解があるが、イギリスには通告も、通告しようとする試みもなされていない。
→ 対英米戦争が「真珠湾から始まった」する演説には、12月8日の一連の軍事行動が、外交関係よりも、軍事行動優先に行われたことを隠蔽することが第二の欠落

*この2点の欠落こそ、中国、東南アジア地域への侵略戦争、国際的ルール(開戦の通告)より作戦の成否を優先する当時の日本国家のあり方をとらえるうえでの、歴史認識上の問題を浮き彫りにしている。
→ そのために
①なぜ、真珠湾攻撃に至ったのか
②12月8日の日本軍の軍事行動における真珠湾攻撃の位置づけ
③真珠湾攻撃の「戦果」の中身
を検討し
→ 日中戦争の泥沼化と日独伊三国同盟こそが、対英米戦争への不可欠のステップであったこと/真珠湾攻撃は、対英米戦争の緒戦期における主たる作戦ではなかったこと/真珠湾の「戦果」は一過性のものであること
を検証する。

(Ⅰ)真珠湾攻撃への道

1.日中戦争の泥沼化

・なぜ世界の大国・英米と戦争を始めたか
→ WWⅠによって作られた世界秩序(国境線と勢力圏)、いわゆるベルサイユ・ワシントン体制を力づくで破壊し、新たな秩序の構築をめざしたから
→ 中国、東南アジア、南洋地域に勢力を拡大した日本が、同じくベルサイユ・ワシントン体制の打破をめざすドイツ、イタリアと手を結んでの軍事的膨張策が、英米など欧米諸国の利害と正面から衝突。ついに戦争で決着をつけるところまで突き進んだ。

・日本の対英米戦争は、直接には日本の南進(40年、41年の仏印進駐)に原因がある
→ が、南進という国家戦略は、中国への侵略の結果、できたもの
→よって、対英米戦争への道の検証は、満州事変から本格的に始まる日本の軍事的膨張からたどってみる必要がある。

・1931年9月18日、柳条湖で引き起こされた満鉄線爆破事件を口実に、関東軍は、中国軍(張学良軍)に軍事行動を一斉に開始、32年初頭までに「満州」全土をほぼ制圧
→関東軍の謀略によって引き起こされた満州事変こそ、WWⅠ後の世界秩序を破壊する先駆け/戦争とファシズムへと世界の歴史を大きく傾斜させた重大な事件

・32年7月 熱河侵攻作戦を展開/「満州国」建国(32年3月)後、関東軍は、「満州」と華北の完全分離を狙ったもので、33年3月までに同省を占領
→ 中国・国民政府は停戦協定を結び、事実上の講和として、熱河省含む東北4省に対する日本軍の支配権を黙認
・35年6月 梅津・何応欽協定で、国民党機関と中央軍を、河北省から無理やり撤退させた。
→ 国民政府が日本の理不尽な要求に後退を重ねたのは、27年4月以降、共産党との内戦に蒋介石が没頭したから

・日本軍は、満州事変と「満州国」建国を、大きな「成功事例」としてとらえ、華北5省(河北、山東、山西、綏遠、チャハル)を、国民党政権の支配下から分離し、第二の「満州国」にしようとした
→この華北分離という考え方が、のちの盧溝橋事件(37年7月)を、日中全面戦争にまで拡大させた重要な要因
→事件が、仮に偶発的な衝突であっても、現地で停戦協定が結ばれたにもかかわらず、全面戦争に発展したのは、日本側に、この衝突を利用して華北を分離させる、という考えがなければ事態は拡大しなかった、と考えられる

・日中戦争の予想を超える長期化
→ 日本軍は、中国は従来通り押せば引っ込むと考え、強硬な姿勢を崩さず
→中国軍の抗日意識の高まり。36年第二次国共合作の成立、抗日民族統一戦線の結成/ 日本軍は、この動きをまったく読めていなかった。

・日中戦争を、日本政府は「支邦事変」と呼び、宣戦布告せず
→が、日露戦争以来はじめて、天皇が出席する最高統帥機関・大本営を設置。国家総動員法を発動し、全面戦争に対処
・ドイツ、イタリアの軍拡とスペイン内戦への対応で忙殺されるイギリス・アメリカの対日宥和作戦に助けられ、戦線拡大
・37年12月、南京陥落で、つらに強気になった日本政府は、38年1月「国民政府を対手ぜす」との「近衛声明」を発表
→ 自ら外交交渉の道を閉ざし、解決の糸口を見つけるたに、さらに軍事作戦を拡大させる、という悪循環に陥る

・悪循環は、2つの要因でさらに深刻なものに
①中国軍が主力を内陸部に後退させたため、日本軍も中国奥地への侵攻を余儀なくされ、広大な占領地をかかえその維持にも大兵力を割かれ、侵攻部隊は常に兵力過少で、中国軍の包囲殲滅・退路遮断が出来ず、決定的な戦果をあげられず。

②日本の軍事行動を、中国独占化ととらえた欧米諸国が蒋介石政権に力を入れたこと
→ 日本は、蒋介石が屈服しないのは、英米などからの援助があるとして、物資輸送ルートの遮断に力をそそぐ
→香港ルート遮断のため38年11月に広東攻略/39年、仏印方面ルート遮断のため海南島などを占領し、海上封鎖を強化。さらに40年仏印(フランス領インドネシア)北部に進駐

・この結果、日本が中国に深く侵入すればするほど、中国だけでなく欧米諸国との対立を強め、諸国の対中国支援を増大させることで、ますます戦争が泥沼化するという悪循環が進行
→ 日中戦争は、中国だけでなく、中国を支援する欧米諸国との戦争という構図になっていく

・中国に手こずっている日本軍が、中国支援の中心である英米を武力で抑えることは不可能なことだった
→ が、それを可能におもえさせたのが、ドイツとの軍事同盟

2.日独伊三国同盟の締結

・39年9月1日 ドイツのポーランド侵攻。英・仏のドイツへの宣戦布告
~40年4月以降、ドイツが西部戦線で、フランス、イギリス、オランダに電撃的な勝利
・陸軍内部で、ドイツと提携し、世界の再分割を一挙に実現しようとする気運が非常に高まる
→ ドイツと提携することは、アジアに強い権益を有する英米、フランス、オランダと完全な敵対関係に入ることを意味する

・40年9月、三国同盟   陸軍の圧力で、同盟反対の米内政権が倒れ、第二次近衛内閣のもとで調印
・40年9月 北部仏印への武力進駐の強行/仏印(ベトナム)の宗主国フランスがドイツに敗北に乗じ
→ 英米の「援蒋ルート」遮断と食料米と南進用の軍事基地確保をめざしたもの

・ドイツと連動した日本のあからさまな南進路線~ アメリカが強く反発
→ 三国同盟調印の前日に、くず鉄・鋼の対日輸出禁止、中国への借款供与を発表
・近衛内閣は、ドイツの軍事的勝利に幻惑され、国際的な力関係は枢軸側有利と判断し、更に南進路線を強化

・41年4月 日ソ中立条約に調印/本格的な南進態勢を固めるためのもの

→が、6月ドイツがソ連に侵攻開始すると、陸軍は、この機にソ連を挟み撃ちにしようと「関東軍特殊演習」を発令。部隊を大増強し、臨戦態勢をとらせる。
・41年7月 南部仏印への進駐を実行/英米との衝突を決定的なものにする
→ アメリカ 即座に石油輸出禁止、在米日本資産凍結の強行手段にでる

・日本の対ソ開戦は、この石油禁止と、ドイツの進撃が予測していたほどではなかったことから断念するが
①陸軍は自らの戦力を過信する一方で英米の抗戦力、特に国民の精神力を過小評価
②海軍は精鋭航空兵力への期待と、戦略資源のジリ貧への恐怖から
→ 政府を対英米戦争に引きずってく

*ドイツの西方構成の開始(40年4月)から日本の対米戦争(41年12月)にいたる一年半は、日本がナチスドイツの世界戦略と連動して、援蒋ルート遮断・援蒋勢力圧迫によって、日中戦争を終結させるとともに、南進によってアジアのおける勢力圏を一挙に拡大しようとした、現代史における最も野望に満ちた時期/

・英米開戦 4回の御前会議で決定
→独ソ開戦(6/23)直後の7/2会議 「南方進出の態勢を強化」するために「対英米戦を辞せず」との重大決定
→9/6会議 10月下旬までに日米交渉妥結のめどが立たない場合には、ただちに戦争を決意すると決定
→11/5会議 12月初旬の武力発動を決定 )
→12/1会議 開戦を最終的に決定

・対英米戦争――日中戦争の泥沼化に窮した日本が、中国を支援する欧米諸国に対抗するためドイツと軍事同盟を結び、援蒋ルート遮断と英米戦争に備え資源を獲得するために南進し、遂には踏み込んだもの/日米関係のこじれによるものというより、日中戦争と三国同盟の関係の中で選択されたもの

(Ⅱ)1941年12月8日における日本の軍事行動

1.軍事行動のはじまり

・第一撃 2時15分 英領マレー半島コタバル海岸で開始
・同時刻、ハワイ真珠湾外で、米駆逐艦が特殊潜航艇の撃沈を報じるも、米海軍司令部は、よくある誤報として重要視せず/32分、レーダーが北方から接近しつつある飛行物体群を捕捉も、当日到着予定の爆撃機の編隊と誤認/数日前には、アリューシャン列島ダッチハーバーの南方に日本艦艇がいる、との情報も入手していたが、よくある誤報と処理
~ 米軍内には実際の戦争における情報分析になれていなかったこと/ 日本海軍が日本近海で米艦隊を迎え撃つという受身の作戦を練りに練ってきたことを知っている軍事専門家や諜報関係者ほど、ハワイ攻撃という投機的作戦はとらないだろう、との見解を示していたこと/などから、情報に接しながら、ハワイ攻撃を事前に予測できず

・3時22分 「奇襲成功」を意味する「トラトラトラ」発信。東京の軍令部、瀬戸内海の連合艦隊司令部も直接受信
→「奇襲成功」とは、米軍の迎撃機もなく、完全に不意をつくことができたとの意味。攻撃開始や戦果があったという意味ではない

・ハワイでの最初の攻撃 3時25分 フォード・ヒッカム両飛行場の爆撃。軍港へはその2分後
→ マレー半島のコトバル上陸の70分後/ ハワイ空襲の知らせは、米大統領に3時40分に伝わる

・ワシントンの日本大使館が対米覚書のタイプが終了したのが3時50分、国防省に届けたのが4時5分/外務省の手交指定時間を1時間5分過ぎている
→ この遅れは、米側に「だましうち」の格好の宣伝文句をあたえる日本外交の大失敗
→だが、そもそも30分前に交渉打切り通告を手交する予定自体に無理がある( そもそも宣戦布告ではない)/イギリスには通告も、通告の準備もしていない

・4時 近衛師団の1部がバンコク南方海岸に上陸、4時12分以降 タイ領マレー半島シンゴラ海岸に、第五師団の部隊が続々上陸。一部でタイ軍との間で激しい戦闘に。
→ タイ通過をめぐっては、日本側はタイ政府要人を、バンコクの日本大使館に7日夜から缶詰にして、強引に許可を迫った/が、首相があらわれず、開戦前の協定は成立せず。4時から10時にかけてタイ領に侵攻、上陸を開始。/首相があらわれ、日本軍と交戦しないよう指示を出し、協定に調印したのは12時。/各地で突然の日本軍侵攻にタイ軍が反撃している。

・海軍はシンガポール、ダバオ、ウエーク島、グアム島、ミットウェー島を、空襲、または艦砲射撃。ルソン島の米軍基地に対規模名空爆
→ ルソン空襲は、ハワイ空襲から10時間以上経過しており、米軍の迎撃態勢が十分整えられた中で実行
→が、発信基地の台湾が濃霧のため、発進が7時間以上遅れる(計画では、7時30分に空襲)。/米側は夜明けとともに、航空母艦から発信した空襲部隊が来襲すると予測し、迎撃機を上空で待機。/が、空母も空襲部隊もいっこうにあらわれず。午後になり、燃料補給のため戦闘機部隊の大部分が地上にもどる。/ちょうど、そのときに空襲部隊191機が到着。米軍の航空兵力(約200機)はの大部分を、開戦初日に地上で失うことに。

2. 12月8日の軍事的意味

・12月8日は、真珠湾攻撃がクローズアップされる。日本側は冒険的作戦の「大戦果」を強調、アメリカ側は「だましうち」を強調し、それぞれが戦意高揚に利用したから/同作戦は、その規模、結果としても戦争史に残る注目すべき作戦
→が、その軍事的意味を歴史的に問い直す時、あらためて確認すべき2つの点

① 日本にとって、ハワイ作戦は主作戦ではなかった

 緒戦の第一の目標は、南方資源地帯の確保/その時間を確保するために米海軍主力に打撃を与える必要があった
→戦争指導の重点/ 直接、アメリカを打倒することではなく(さすがに打倒できるとは考えていなかった)、イギリスの打倒によってアメリカの脱落を待つということ
→ マレー半島への上陸作戦、フィリピンの航空撃滅戦の重要性を改めて確認する必要がある。

②純粋な軍事的効果 意外に小さいハワイ作戦

・12月8日 アメリカ海軍は太平洋艦隊に
空母7隻中3隻、戦艦16隻中8隻、巡洋艦37隻中27隻、駆逐艦180隻中59隻、潜水艦109隻中22隻を配置

・ 当日、真珠湾に在泊/戦艦8、巡洋艦7、駆逐艦28、潜水艦5/ 戦艦8隻含む19隻を撃沈もしくは撃破
→ 空母は無傷、撃沈された戦艦4隻のうち2隻は引き揚げ・修理、大破・中破した4隻も修理して戦列復帰。損傷した巡洋艦2隻、駆逐艦3隻も修理・復帰/最終的に放棄されたのは戦艦2隻と標的艦1隻のみ 
・空襲もドッグ、石油貯蔵庫、爆弾貯蔵庫など軍事根拠地としての機能を破壊せす。
・ハワイと米本土の海上交通網を持続的に遮断する措置もとられず

・軍事的には、アメリカをより長期に悩ませたのは、フィリピン空襲による極東空軍力の要の壊滅
→ 日本の南方資源確保の戦略目標からは、より大きな価値

◆おわりに

・現代の私たちが真珠湾攻撃を振り返る視点---犠牲者を「勇者」と称えることではなく、二度と犠牲者を生まないために、戦争が戦争を生むという歴史認識をしっかり共有すること。
・かつての日本は、三国同盟、特にドイツの力を過信して英米に立ち向かった。/現在の日本は、アメリカの力を背景に「テロ」に立ち向かい、中国を包囲する戦略を進めている
・軍事同盟が、自国を脅威から守ってくれるとの見方は、歴史的に見れば不十分
→ 軍事同盟は、常に新たな脅威を作り上げ、危機を呼び込む一面があることを歴史から学ばなければならない。

【遅れた「通告」?】
・真珠湾攻撃は、宣戦布告なしの奇襲攻撃、国際法上違法な攻撃
・届けるのか遅れた外交文書・・・日米交渉打ち切り通告であり、宣戦布告の文書ではない
・外務省が、在米日本大使館に対する通告文を意図的に遅らせていた
→通告文は、長文で14部に分けて発信/交渉打ち切りの「結論」部分は14部ではじめてわかるもの
→しかも、外務省が予告していた通告文の訂正電報を、大使館側が「待ちあぐねていた」/本省が、訂正電報の発信を13-14時間も遅らせていた。

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