野党共闘 と 支配勢力の政治戦略
今回の野党共闘の戦後政治の意義をつかむために、10年前になるが不破さんの発言が大事だと思う。そして、首相が連日、野党共闘なかんずく共産党攻撃に力を費やした意味も。
共産党封じ込めの最大の戦略であった「二大政党」づくりが破綻し、今、自公と補完勢力と対決する勢力にど真ん中に共産党がいる。それだけに支配層は、野党共闘の意義を矮小化するキャンペーンと共闘つぶしに最大限の力をついやしてきている。今後、いっそう激しくなるだろう。それに対し、共同、連帯を大事にした運動の継続が大事である。そして、そうしたもとで、野党共闘でたたかわれている東京都知事選である。
【第24回党大会 不破哲三前議長の発言2006/1 】
【理論活動教室」 講師・不破哲三社研所長 第3講「政策活動について」(下)政党戦線の歴史と政治の底流 2015/】
【第24回党大会 不破哲三前議長の発言2006/1 】 略■三十六年間の政治史をふりかえって
なお、この機会に、過去三十六年間をふりかえって、もう一つ、話しておきたいことがあります。それは、日本の政治における日本共産党の位置というか、日本共産党をめぐる政治闘争の性格の問題です。
私は昨年、思わぬ事情から、自分が活動してきた、この三十六年間の政治史をたどり直す機会がありました。■七〇年代前半――日本共産党躍進の衝撃
先ほどいいましたように、私が書記局長になったのは、一九七〇年の第十一回党大会においてでした。政治的には、前年一九六九年の総選挙で日本共産党が十四議席に前進し、私自身が国会議員としての活動を始めた年で、続く七二年総選挙ではさらに三十八議席へ、革新共同や沖縄人民党の議席をあわせれば四十議席へと躍進をし、社会党に次ぐ野党第二党の地位をしめる、そういう時代でした。いまその時代の状況を、私の記憶だけでなく、当時のマスメディアにどう描き出されたかをふくめてふりかえってみますと、日本共産党の躍進が、日本の政治に文字通り衝撃的な影響を及ぼしたことが、よく分かります。
言論・出版の自由の擁護、人民的議会主義、自主独立路線、「大企業本位の政治」との闘争宣言、本土復帰した沖縄の米軍基地の徹底調査、与野党の“なれ合い政治”への反対、革新自治体の運動など、党綱領の路線を具体化した共産党の方針や活動の一つひとつが、政治に大きな影響を与え、マスメディアにも大きくとりあげられました。こうして、日本共産党が、「革新」だといえば社会党だとした旧来型の状況――いわゆる「五五年体制」とはまったく違う、新しい革新政治勢力の登場として、社会の注目を浴びたのです。
現実の情勢でも、共産党・社会党にくわえて、労働組合の最大の組織だった総評、この三者の共同戦線が、平和・民主運動だけでなく、地方政治でも大発展をし、七〇年代半ばには革新自治体が日本の総人口の43%を占める地方にまで広がり、国政でも革新統一戦線の問題が政治の具体的な課題として検討されるようになりました。私たちが、「七〇年代に民主連合政府を」という政治スローガンをかかげたのは、こういう時代背景のもとでしたが、実際、多くの人びとが、自民党政治にかわる革新政治への展望を現実に実感し、多くの人の胸に未来への希望が大きく膨らむ、こうした政治状況が展開しました。それがマスメディアにも色濃く反映して、現在からはおそらく想像もできないことですが、週刊誌などでもそういう可能性を探る企画や特集がひんぱんにおこなわれ、わが党にエールがおくられたものでした。■“共産党封じ込め”の体制戦略
おそらく、この政治状況は、当時の支配勢力にとっては、「想定外」のことだったろうし、このままでは自分たちの体制が根底からゆらぐという深刻な危機感がひきおこされたであろうことは、間違いないと思います。
だいたい体制側のそれまでの見方では、日本共産党は、一九五〇年代初頭のアメリカ占領下での弾圧とそのもとで起こった党の分裂などですっかり片付いたものであって、破防法と公安調査庁などの弾圧対策の対象ではあっても、真剣に政治的対応を考えるべき相手とはされていませんでした。
しかし、私たちの党は、弾圧と分裂、さらには外国からの干渉で混迷した五〇年当時の党ではもはやありませんでした。科学的な綱領路線をもち、いかなる外国勢力の干渉も許さない自主独立の立場を確立した政党として、歴史的な再出発をした日本共産党でした。この党の二つの総選挙での躍進が、わずか数年で政治の様相を一気に変えてしまったのでした。
この時から、支配勢力は、当面、あらゆる手段をつくして政治状況の反動的な逆転に力をつくすとともに、将来的にも、七〇年代前半のような危険な状況を二度とつくりださない、このことを至上任務にして、日本共産党の“封じ込め”、あるいは“共産党つぶし”を、体制維持の最大の中心柱とする、この政治戦略に全面的にのりだしたのです。
それは、まず一九七三年、自民党が「自由社会を守れ」、つまり日本共産党を暴力・独裁・自由抑圧の政党として描き出し、それから日本を守るというキャンペーンを大々的に開始したことに始まりました。このキャンペーンが七六年には、戦前の歴史を偽造して共産党を「殺人者」よばわりする激烈な反共集中攻撃に拡大しました。私は、ここに、日本の政治の大きな転換点があったとふりかえっています。
この時期、マスメディアをこの政治戦略に組み込むための策謀が系統的に始められたことも重要でありました。日本共産党の前進を、政治の転換への期待に結びつけるような報道や特集は、マスメディアから急速に姿を消し始めました。
その後今日までほぼ三十年にわたる政治の推移を、ごく大ざっぱにふりかえってみましょう。――一九八〇年代には、社会党と公明党が反共の立場で結んだ「社公合意」の協定――これは八〇年一月のものです――、これが引き金となって、国政では共産党排除の「オール与党」体制が支配的になりました。革新自治体も民主・平和運動での共闘も、みるみる姿を消していきました。
――九〇年代になると、自民党政治の矛盾とともに、この「オール与党」体制そのものが危機にひんしてきました。それを切り抜けるために、与野党の垣根をこえた「非自民」連合が企てられ、細川政権がうまれ、そのもとで小選挙区制が強行されました。
――さらには、二〇〇〇年代、最近の財界総出の応援のもとでの「二大政党制」づくりのキャンペーンであります。
――マスメディアでも、“黙殺の壁”とでもいいましょうか、共産党やそれにかかわる運動はできるだけ報道の対象にしないという異常な“壁”が年ごとに分厚いものになっていることも、ご承知の通りであります。
これらすべてに、“共産党封じ込め”の作戦意図がつらぬいているということを、私たちはよく見る必要があります。■歴史をひらく者への名誉ある試練
この作戦こそ、この三十年来、支配勢力の最大の政治戦略、体制戦略となってきたものです。支配勢力がこれだけの体制を構え、これだけの力とエネルギーを集中して、共産党封じ込め作戦にあたっているという国は、現在、世界のどこにあるでしょうか。おそらく、世界の資本主義国のなかでも日本以外には存在しないだろうと思います。大会決議が指摘した三つの異常に、もう一つ、加えなければいけないかもしれません。(笑い)
なぜ、日本の体制派が、ここまで“共産党封じ込め”に力をつくすのか。それには、大きく言って三つの理由があると思います。一つは、日本共産党が、日本社会をおさえつけている二つの当面の害悪、アメリカへの国家的従属と大企業・財界の横暴な支配という二つの害悪を正面から告発し、この害悪をとりのぞいて、国民の利益、日本の主権と平和を守る新しい政治の実現を、本気で追求している政党である――このことを、支配勢力がよく知っているからであります。
もう一つは、日本共産党が、将来の真剣な展望として、資本主義の害悪そのものを乗り越えようという旗、本当の意味で人間が主人公となる未来社会の旗をかかげている政党であって、しかも、その事業を、社会の段階的発展と多数者革命という道理ある段取りで実現しようとしている政党であること――このことを、彼らが、これまたよく知っているからであります。
最後にもう一ついえば、日本共産党が、どんな迫害や攻撃にも負けず、どんな困難にも負けず、ましてや懐柔や買収などの裏工作のいっさい通用しない政党であること、その初心を貫く点において、不屈の政党であること、そしてやがては国民の支持をかちとってその目標に接近し、これを達成する真剣な意欲と現実の可能性をもった政党であること――このことを彼ら自身が、戦前・戦後の無数の歴史を通じて知っているからであります。
私たちの政治戦が、いつも、他党には存在しない大きな困難や逆風に立ち向かってのたたかいとなる大きな根拠はこの点にあります。私たちは、これまでもどんな困難もおそれずに活動してきましたし、これからもどんな逆風が吹こうと顔を正面に向けて堂々とたたかいつづけるでしょう。
だいたい、私たちの党が、支配勢力の攻撃の最大の標的となっているということは、社会進歩の大きな流れのなかでみれば、たいへん名誉なことではありませんか(拍手)。ここにあるのは、反動的な現状に固執する勢力と、社会進歩の未来を切り開こうとする勢力との対決にほかならないのであります。
■日本共産党の党名には、私たちの事業の歴史と未来とが刻みこまれている
私たちは、一九九七年の第二十一回党大会で、「二十一世紀の早い時期に民主連合政府の実現を」という目標に設定しました。この目標の達成にいたる一歩一歩は、支配勢力の“封じ込め”戦略との正面からのたたかいを通じてかちとられるものであり、その道のりが長期で困難な、曲折の多い過程となることは、当然、予想されます。
しかし、日本社会の現実は、新たな民主的政権による政治の転換を、切実な必要としています。そのことは、大会決議が事実をもって鋭く告発した自民党政治の“三つの異常さ”――みなさんの討論のなかで、それを裏付ける無数の事実が報告されました――、そのことをみれば明白であります。その道行きの途上にどんな困難があろうと、日本の政治の民主的な転換の事業は、最後には国民多数の支持・共感をかちとり、民主的な連合政府を実現できる――私たちが、この展望に確信をもつなによりの根拠は、まさにこの点にあります。
私たちは、日本と世界の情勢の科学的な分析をもとに、その現状とあわせて前途を長期的な視野で見とおした羅針盤――新しい党綱領をもっています。私たちはまた、草の根で国民と結ぶ二万四千の党支部を、全国の多くの地域・職場・学園にもっています。
さらに私たちは、真実と道理に立つ報道によって党と国民を結び、民主的な世論の発展に貢献する「しんぶん赤旗」をもっています。
これらはすべて、他の党はもたない、日本共産党のかけがえのない“宝”であります。これらの“宝”を、全党の努力でさらに発展・充実させ、規模も活力もさらに大きいものにし、大目標の実現への道を着実に前進しようではありませんか(拍手)。そのためにも、当面する二〇〇七年の二つの選挙の勝利をはじめ、その時々の任務と課題をしっかりと果たしてゆこうではありませんか。(拍手)私たちの党・日本共産党の党名には、社会の進歩と国民の利益、日本と世界の平和のためにたたかいぬいた戦前・戦後八十四年にわたる党の不屈の歴史が刻み込まれています。そこにはまた、いかなる搾取も抑圧もなくした、もっとも人間的な人間社会――社会主義・共産主義の未来社会をめざす壮大な理想が、高らかに表現されています。
この党の旗のもとに全党がかたく団結し、不屈の気概をもって、党とその事業の大きな前進をめざし、奮闘しようではありませんか(拍手)。私も、その党の一員として、知恵と力をつくすつもりであることを、かさねて申し上げて発言を終わります。
【理論活動教室」 講師・不破哲三社研所長 第3講「政策活動について」(下)政党戦線の歴史と政治の底流 2015/】第7回「理論活動教室」が17日夜、党本部で開かれました。この日は、第3講「政策活動について」の2回目で、不破哲三・社会科学研究所所長が、政策活動の背景となる日本の政党戦線の歴史と、党の綱領と政策などについて豊富な体験にもとづいて講義しました。
不破さんは、日本共産党の「第3の躍進」の流れを大きく発展させた昨年の総選挙の結果について、3中総が「支配勢力のこれまでの反共戦略の全体を打ち破ってかちとった」と位置づけたことを紹介し、1969年の初当選以来の国会議員の経験もふまえ、国会論戦などのエピソードを交えた“実践的歴史”を語りました。■2度打ち破られた「保守二大政党」づくりの反共戦略
69年の総選挙で党は319万票を獲得、5議席から14議席に、続く72年総選挙では、563万票、39議席に躍進しました。70年代のこの「第1の躍進」は、日本の政治の様相を一変させました。
最初に不破さんが予算委員会でとりあげたのが、創価学会・公明党による言論出版妨害です。60年代に政界に進出してきた創価学会は、批判者に対して猛烈な反撃をくわえるため、出版界でも、学会・公明党への批判は事実上「タブー」とされていました。いわゆる「鶴タブー」です。不破さんは、1時間38分に増えた予算委の総括質問で、学会批判の本の出版妨害のくわだてに政権党幹事長まで加わった最新の事件を取り上げ、徹底的に追及しました。これが、大きな転機となって、池田大作会長(当時)が謝罪の講話を発表し、「政教分離」を公約するところまで追い詰めたのです。
国会運営でも新しい展開がありました。73~74年の石油ショックで、大企業の売り惜しみ・買い占めで国民生活が大変だった時、国会に大企業の代表を呼び、悪徳商法を徹底追及したのも、国会史上初の快挙でした。
76年に発覚したロッキード事件では、自民党の疑惑隠しの策動にたいし、共・社・公の3党の共同で両院議長と5党首の会談を開かせ、徹底究明のレールを敷きました。この会談をリードしたのは、議員ではなかった宮本顕治委員長で、参院議長が「会談をまとめあげた宮本さんはすごい」と感嘆したといいます。不破さんは「当時、相手側から反共攻撃の矢面にさらされていた宮本さんが逆に政治家としての評価を実証した会談だった」と話します。
党議席の躍進は“取引国会”を“論戦の国会”に変える絶大な力を発揮し、74年、米国の原子力潜水艦の入港時放射能漏れ検査データを捏造(ねつぞう)していた問題を告発し、183日間、原潜の入港ストップという快挙を実現しました。
地方でも、京都、東京に続き、70年代前半には、大阪府と沖縄、埼玉、岡山の各県、川崎、名古屋、神戸の3政令市など革新勢力の勝利が相次ぎ、75年4月の時点で、全国の革新自治体の数は205、約4700万人、総人口の約43%が革新政治のもとで生活するところまで進みました。
不破さんは、日本共産党を特集した当時の写真雑誌『毎日グラフ』や『週刊サンケイ』臨時増刊の実物を掲げて、「マスコミは党と革新勢力の躍進に喝采を送り、反共ブレーキはほとんどなかった」と振り返りました。
「70年代の党躍進は、自民党にとっては不意打ちでした。“日本共産党は『50年問題』で片付いた”と思っていたのです」。大阪府知事選(71年)で黒田革新府政が勝利した時、記者会見の席で並んで開票をみていた田中角栄自民党幹事長が顔色を変えて「これからは選挙のやり方を共産党から教わらなきゃあ」と口走ったエピソードも紹介されました。
共産党の躍進に衝撃をうけた公明党は、「安保の段階的解消」から「即時廃棄」に“変身”しました。院内共闘は、社共の代表の相談から始まるようになりました。
当時の政治史の流れの中で「共創協定」(75年発表)が死文化した顛末(てんまつ)について述べた不破さん。提案してきたのは創価学会の池田会長自身でしたが、その背景には共産党の躍進に乗じて公明党を伸ばそうという思惑があったのではないかと指摘します。しかし、支配勢力が共産党封じ込めの新たな戦略に動き出していたことを察知した学会側が同協定をなきものにしたというのです。■ 自民党の変質 極右勢力による一元支配
党躍進を抑えこむために支配勢力が取った最初の反共戦略は、社会党を含め野党全体を反共の土俵に引きずり込むというものでした。80年1月、共産党排除を決めた「社公合意」がその決定打となり、共産党を除く「オール与党」体制が一気につくられたのです。国会運営も「共産党を除く」、地方政治でもこれが決まり文句のようになりました。
党はこれに対し、80年初頭の15回党大会で、無党派との共同という新しい統一戦線政策を明らかにし、革新懇運動を提唱しました。これは、今日の「一点共闘」にも通じる方針でした。
「共産党排除の『オール与党』の政治はいや応なしに腐敗します」と力を込めた不破さん。国会では「金丸=田辺ライン」といわれる自民党と社会党の国対委員長同士のなれあい政治が横行しました。金丸氏らによって公共事業から自動的に政治資金を生み出すシステムまでがつくりあげられました。
こういうなか、89年前半、徳島市長選、千葉県知事選、名古屋市長選で、共産党単独推薦の候補が40%前後の得票を獲得し、「オール与党」の現職陣営を追い詰めるという事態が続きました。「地殻変動」とマスメディアが報じる激動の予告でした。この時、中国の天安門事件と東欧の崩壊という外からの大逆風が、辛うじて自民党政治を支えたのでした。◇
自民党政治のこの危機を打開するため、支配勢力は新たな反共戦略にのりだしました。政界を「保守二大政党」に再編成して、自民党が失敗しても、第2保守党が受け皿になって、従来型の政治を続ける、これで、共産党を政治の枠外にはじきだそうという戦略です。89年6月に発足した第8次選挙制度審議会が、その設計図づくりの舞台で、27人の委員のうち12人をマスメディア関係者が占めました。マスメディアを取り込むためです。90年4月に出した答申には、小選挙区制と政党法(政党助成金)が盛り込まれました。「二大政党」を国民の税金でまかない、とくに自民党との相方となる“第2保守党”をつくりやすくする仕組みでした。
最初にできた“第2保守党”は、自民党からの脱退組に旧来の野党がくわわった8党による「非自民連合」でした。「非自民」へのマスメディアの異常な肩入れで細川政権が成立(93年)しましたが、1年もたたずに退陣。その間に実行したのは、小選挙区制と政党助成金制度の導入だけでした。
自民党は社会党と連立政権を組み、復権を果たします。社会党は、村山党首の独断で安保賛成、自衛隊合憲に路線を変え、革新政党としての最後の表看板まで捨て、やがて社会党の党名まで捨ててしまいます。野党になった「非自民」勢力は、離合集散の道をたどり、“第2保守党”づくりの最初の企ては完全な失敗に終わりました。
この情勢のもと、共産党は、新方式による96年総選挙で726万票、26議席を獲得、98年の参院選では819万票、15議席と、「第2の躍進」を遂げました。この痛烈な失敗の経験から、今度は財界が総がかりで、本格的な「二大政党」づくりに乗り出しました。経済同友会が先頭に立って、“政権を狙う政党だけが選挙ができる”という「マニフェスト」選挙の方式を持ちこみ(2002年)、経団連は“政治に口もカネも出す”新しい政治資金提供方針を打ち出し(03年)、03年10月には財界の肝煎りで民主党と自由党を合併させて“新民主党”をつくり、11月総選挙は、「自民党か民主党か」の大キャンペーンの場となりました。
こうしてできた民主党は、03年、05年、09年と3度目の挑戦でようやく政権交代を実現しました。「この選挙で、党は苦戦しましたが、私たちは、新しい変動に注目しました。そこには、新しい政治をめざす国民の模索の始まりがあらわれていたからです」
党が見通したように、国民は、自民党政治の土俵の上では、政党を変えても何も前進しないということを経験しました。不破さんは、「民主党政権の失敗を受けて、自民党は復権しましたが、かつての活力は取り戻していない」と指摘します。
70年代の自民党は50%に近い得票率、有権者比でも33%の支持率をもっていました。今は、33%の得票率、有権者比では17%です。国会で多数を取っているのは小選挙区制度によるもので、国民の声の反映ではありません。「こんなに自民党の力が落ちたことはかつてなかった」と話します。
その自民党政権のもとで、日本共産党は、一昨年の都議選と参院選、そして昨年の総選挙と、三つの躍進を実現しました。その根底には、形だけの“政権交代”の無意味さを実体験でつかみとった国民的経験があります。不破さんは、その基礎の上に始まった「第3の躍進」をいかに本物にするか、ここにこれからの課題があると強調しました。◇
では、反共戦略を中軸に動いてきた日本の政治と政党はどんな地点に到達しているのか。
まず、自民党の現状です。不破さんは「小選挙区制が導入されて約20年、7回の総選挙を経て党の性格が変わってきた」といいます。小選挙区制のもとで、自民党中央の力が強くなり、議員は指導部寄りに、以前の保守総連合的な性格が消えて、「モノカラー(単色)」化してきた、「自民党にとって派閥を解消したことはよくなかった」と述べ、会場の笑いを誘いました。
経済政策では財界との一体化が起きています。「大企業をもうけさせることが政府の経済政策の第一の目標だ」と公言してはばからない首相は、歴代首相のなかでも、安倍首相がはじめてでしょう。
財界は利潤第一で目先の利益を追求するが、政府は、もっと長いモノサシで国の先行きを考える。これは資本主義の国でも、長年の経験で裏付けられた政治の常識となっています。「アベノミクス」はこの立場に背くものです。
対米従属政治も危険な段階に入っています。海外での日米共同作戦に道を開く「集団的自衛権」の策謀に加えて、沖縄の新基地建設が大問題です。辺野古に建設が狙われる米軍新基地は、海兵隊の殴りこみ作戦のための最強の新鋭基地建設の計画です。しかも、国防総省の報告では耐用年数200年で設計されています。不破さんは「23世紀にまで在日米軍基地を確保する意図だ」と批判しました。
しかも、いま自民党の中枢を占めるのは、“靖国派”「精神」で固まった極右勢力です。
安倍首相が初当選した93年に、細川首相は「日本の戦争は侵略戦争だった」と発言しました。これに対して自民党の右派勢力が決起、自民党内に「歴史・検討委員会」という組織をつくり、安倍氏も参加しました。委員会は日本の歴史を「検討」したとしています。その「検討」とは、「日本の戦争は自存自衛、アジア解放の戦争、正義の戦争だった」という立場に立つ学者や評論家を集めて、20回にわたって講義を受けるだけのものでした。第1回は“国際法では侵略の定義は決まっていない”という講義。安倍首相も、まったく同じことを国会答弁で繰り返しました。第2回、第3回は、戦時中の政府・軍部の言葉にそって戦争の歴史をたどった「大東亜戦争の歴史」の連続講義、こういう話を一方的に教え込む、これが「検討」の中身でした。この委員会には、安倍首相のほか、岸田文雄外相や谷垣禎一自民党幹事長などの名前もありました。「こうした極右勢力が自民党を一元支配していることをよく見る必要がある」のです。一方で中間政党は基盤を失いました。70年代は、どの野党も、安保であれ、経済政策であれ、自民党とは一線を画していました。いまはそのような状況はありません。不破さんは、その理由として、「ほとんどの政党が流れをたどれば自民党系だから」と指摘。さらに、公明党は自民党の協力政党になり、民社党は幹部の大部分が自民党に吸収され、社会党も、村山内閣を転機に政策的には自民党の土俵に乗ってしまったことをあげます。
この混迷をさらにひどくしたのが政党助成金でした。政党助成金は一定の形式的な資格さえ満たせば受け取ることができるため、政党の離合集散を加速し、綱領も基本政策ももたない政党が多数生まれました。
そういう中で自民党と対決できる覚悟と力をもっているのは共産党しかない、このことがこの間の選挙で示されたのでした。
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