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パリとシリアとイラクとベイルートの死者を悼む

 中東政治の専門家、酒井啓子・千葉大学法政経学部教授のコラム。
 関連して、ISの背景、中東情勢にかかわるものも紹介しておきたい。
 「先進国」のダブルスタンダード、ご都合主義の軍事介入が、どれだけの悲劇を生み出しているか。
何をすべきか、その判断のために、アフガン、イラク戦争支援の真剣な総括がいる。

【パリとシリアとイラクとベイルートの死者を悼む 中東徒然日記 酒井啓子 11/16】

【2015年、中東情勢はどうなる?  日本人も信じ恐れる「イスラム国」の虚像と実像  残酷な神のベールに包まれた真の素顔と目的は?  ――酒井啓子・千葉大教授に聞く ダイヤモンド2015/1/6】

【「アラブの春」とは何だったのか  千葉大学教授 酒井 啓子   じっきょう地歴・公民科資料 2015/4/17】

  以前、まとめて「アラブの春」関連の備忘録
【北アフリカ革命 歴史的意義と試練(備忘録)2012/02】

【パリとシリアとイラクとベイルートの死者を悼む 中東徒然日記 酒井啓子 11/16】

先週、かつて日本に留学していたというシリア人の女性が、来日していた。留学から戻って、ダマスカス大学で日本語教師をしていたのだが、内戦と化したシリアで、今はシリア赤新月社の難民救援のボランティアをしているという。
 彼女が、かつて学んだ校舎で日本人の学生たちに言った言葉が、重い。

「かつて私がここで学んでいたとき、自分の国がこんなふうになってしまうなんて、想像もしてなかった。みんなと同じように、普通に勉強し、普通にレストランにいっておしゃべりし合っていたのに」。

 13日、パリでコンサート会場を襲った襲撃犯は、銃を撃ちながらシリアやイラクのことを口にしていたという。「フランスはシリアに関与すべきではなかった」「フランスはシリアで起きていることを知るべきだ」。目撃者の証言では、犯人はどこにでもいる普通の若者で、街であったらわからなかっただろう、という。現在判明している限りでは、彼らはヨーロッパで生まれ育った青年であるという。

 ヨーロッパがこんなに富と繁栄と猥雑と快楽に満ち溢れているというのに、シリアやイラクで起きていることは流血と暴力と破壊と死だ。なぜ私たちばかりが、という思いが、過去数年間、イラク戦争やシリア内戦以来、積み重なってきた。パレスチナ問題を加えれば、過去60年以上にわたって、だ。

 パリでの惨事のあとに中東諸国で飛び交うツイッターやコメントのなかには、パリでの事件と、その前日に起きたレバノンでの爆破事件を重ねあわすものが多い。まさに「中東のパリ」とかつて呼ばれたベイルートの、にぎやかな商業地区二箇所で同時に起きた事件で、43人の死者と200人の負傷者を出した。シーア派イスラーム主義組織「ヒズブッラー」の支持基盤地域を狙ったものだったが、ここ数ヶ月激化している、「イスラーム国」とイラン革命防衛隊やヒズブッラー、イラクのシーア派民兵集団「人民動員組織」の間の抗争を反映したものだ。

 ベイルートもパリも、「イスラーム国」との戦いの延長で、テロによる報復にあった。だが、その二つは受け取られ方の点で、大きく違う。

 ひとつは、ベイルートでの事件が、欧米メディアのなかでかき消されていることだ。英インディペンデント紙の報道によると、「イスラーム過激主義の動向を懸念している国」リストのなかで、フランスとレバノンは同率2位(67%)である(1位は「ボコハラム」の攻勢に悩むナイジェリア(68%)だ)。中東の出来事だって、パリと同じく「被害者」として扱われてしかるべきなのに、という思いが、中東諸国だけではなく世界に広がる。アメリカの歌手、ベット・ミドラーは、こうツイートしている。「パリの事件も悼ましいが、ベイルートでの犠牲者も忘れてはいけない」。

 ふたつ目は、フランスが「イスラーム国」との戦いに深く関与していることが覆い隠されていることだ。ベイルートで起きていることは「イスラーム国」の周辺として波及しても当たり前だが、遠いフランスは理不尽なテロに巻き込まれただけ、と思う。それは、違う。フランスは、堂々と「イスラーム国」との戦い(実際にはアサド政権のシリアとの戦い?)に参戦している。参戦して空爆でシリアの人々の命を脅かしているのに、フランスの人々は戦線から遠いところにいる。だったら遠いところから近いところに引きずりだしてやろうじゃないか――。犯人が劇場で、「フランスはシリアで起きていることを知るべきだ」とフランス語で叫んだのは、そういう意味ではないか

シリア内戦の悲惨さ、アサド政権の非道を、メディアを通じて積極的に報道してきたのは、西欧諸国である。2011年3月、アサド政権に反政府派が反旗を翻したとき、これを露骨に支援して反アサド行動を扇動してきたのは、西欧諸国だ。イギリスやフランスから「イスラーム国」に合流しようとした若者に、その動機を聞くと、多くが「シリアでアサド政権の弾圧に苦しむ人々のために、なんとかしたい」と答えている。

 「イスラーム国」には誰もが頭を痛めている。なんとかしなければと、思っている。だが「イスラーム国」の「テロ」にあうと欧米諸国はいずれも、自分たちの国(と先進国の仲間)だけを守ることが「イスラーム国=テロとの戦い」だと線を引いてしまい、他の被害にあっている国や社会との連帯の声は、聞こえない。自国の利益を追求するのに、「テロとの戦い」という錦の御旗を利用しているだけだ。

 そして「テロとの戦い」と主張してやっていることは、ただ攻撃と破壊だけである。攻撃のあとにどういう未来を、平和を約束するのかへの言及は、ない。反対に、同じ被害者である難民を拒否し、「テロ」予備軍とみなす。

 「テロとの戦いで国際社会は一致する」というならば、その被害者すべてに対して、共鳴と連帯の手を差し伸べるべきではないのか。そうじゃなくとも、まずシリアやイラクやレバノンで紛争の被害にあっている人たちに対して、「被害者だ」とみなすことが大事ではないのか。もっといえば、自分たちの国の決定によって「被害者」になる人たちがいることに、目をつぶらないでいる必要があるのではないのか。

 少し前まで私たちと同じように、普通に学生生活を送り、家族や友人と外食を楽しんでいた、「生きること」を楽しんでいた人々を、どうか国際社会が「被害者」から「テロ予備軍」に追いやってしまいませんように。

【2015年、中東情勢はどうなる?  日本人も信じ恐れる「イスラム国」の虚像と実像  残酷な神のベールに包まれた真の素顔と目的は?  ――酒井啓子・千葉大教授に聞く ダイヤモンド】


小尾拓也) イラクとシリアの国境地帯を制覇して「カリフ国」の樹立宣言を行い、勢力を拡大しながら政府と対峙するイスラム国。国際社会からは、得体の知れない存在と見られている。奴隷制を復活させ、残酷な刑罰を占領地域の住民に強いるなど、ニュースで報じられるその思想は過激で前近代的だ。戦闘員として現地へ渡ろうとする若者の存在が報じられてからは、遠く離れたかの国に対して、日本国内でも恐怖が募っている。いったいイスラム国とは何者で、報道されている姿は真実なのか。彼らの台頭によって、2015年の中東情勢はどう変わるのか。国際政治学者で中東研究の第一人者である酒井啓子・千葉大学法政経学部教授に、詳しく聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン

◆中東情勢における最大の懸念勢力 得体の知れないイスラム国の正体

――今、日本でも話題になっている「イスラム国」ですが、多くの人は彼らに対して「得体の知れない過激派組織」という印象を持ち、怖い存在と捉えています。もともと中東地域は、近代以降における欧米の中東戦略との絡みのなかで、情勢が複雑化し、絶えず紛争が勃発してきた地域。イスラム国の台頭は、国際社会にも大きな波紋を広げています。ひとことで言って、どのような国なのでしょうか。

●正直な話、イスラム国の行動様式や組織の中身などについて、詳しい情報はまだ十分に出てきていません。重要なのは、イスラム国のような存在がなぜあれだけの力をつけて大きくなったのか、という背景について知ることです。 

イスラム国が生まれ、勢力を拡大した原因は大きく2つあります。1つはシリア内戦の影響、もう1つはイラク戦争の戦後復興の失敗です。 
イスラム国は2006年の段階で出現しましたが、もともとイラク戦争の戦後復興のやり方に反対する反政府勢力によって組織化されました。中心メンバーは、当時イラクにいた米軍の駐留政策や新政府の政策に不満を持つスンニ派(シーア派と並ぶイスラム教の二大宗派の1つで、主流派)の住民や、戦後にパージされてしまった旧体制派の人々。そうした人々の不満を吸収する形で、イラクのファルージャを中心に「イラクイスラム国」ができたのです。そのうち外国人の義勇兵なども参加し、彼らのいる地域はイラク国内の無法地帯のようになって、拡大して行きました。 
しかし、米国の掃討作戦に加えて、2008年頃から駐留米軍が新政府の政策に反対する人々を取り込む復興政策へと方針転換したこともあり、反対派が政府に協力的になった結果、一旦内戦状態は収まります。そのため、外国から入ってきた義勇兵などは居場所がなくなって追い出されてしまった。これが第一の原因です。 
イラクから追い出された人々は、2011年から始まった「アラブの春」の潮流の中で、隣国のシリアが政府軍と反政府軍との泥沼の内戦状態に陥ったことをきっかけに、息を吹き返しました。無法地帯となったシリアを拠点にして勢力を増し、再びイラクに舞い戻ってきたのです。第二の原因がこれです。
なぜそうなったかと言うと、2008年以降、国民融和策をとってきたイラクに登場したマーリキー政権が権力集中を行ない、せっかく取りこんだスンニ派の人々を排斥するスタンスを、2011~2012年頃から強めたせいです。そのため、イスラム国の前身が生まれたファルージャ周辺において、昨年頃から反政府活動が再燃しました。この隙を狙って、かつてイスラム国を形成していた勢力が入り込んだのです。 
彼らは、今年6月にイラク第二の都市・モスルを制圧・奪取。この約3週間後、それまで使っていた「ISIS」(イラク・シリア・イスラム国)から「イスラム国」へと国名を変更し、現在のイラクとシリアの国境地帯にカリフ制国家を樹立すると宣言しました。現在、事実上彼らの支配下にある地域は、シリア北部のアレッポからイラク中部のディヤラあたりまでとなっています。 

◆「イスラム国はアルカイダ系」  世間に広まっている誤解の裏側

――なるほど。そう言えば、イスラム国を形成する勢力は、もともとアルカイダと関係が深かったという話を聞きます。しかし、イスラム国の生い立ちを聞く限り、あまり接点がなさそうですね。どういう経緯でアルカイダと結びついたのですか。

●イスラム国はアルカイダ系だとよく言われますが、一概に言うことは難しい。アフガニスタンで活動していたアルカイダのグループと、アルカイダを名乗るそれ以外の人々とは、実は直接つながりがない場合が多く、実態がよくわからないのです。 
アルカイダを標榜するほとんどの人たちは、ネームバリューのあるアルカイダの「分派」を勝手に名乗っています。ただ一部には、以前アルカイダでウサマ・ビンラディンに次ぐナンバー2の幹部だったアイマン・ザワヒリに認められて分派を名乗った人たちもいる。イラクでイスラム国につながる反米武装活動を主導したヨルダン人のアブ・ムサブ・ザルカウィなども、その1人です。 
ザルカウィは、もともとアルカイダと関係がなかったのに、勝手に「アルカイダ」と名乗り始め、だいぶ後になってからザワヒリに、「メソポタミアのアルカイダと名乗ってもいい」というお墨付きをもらったようです。 
よって、関係があると言えばありますが、アルカイダとイスラム国に直接のつながりはありません。アフガニスタンの活動家がイラクに流れて、イスラム国を形成したわけでもありません。 

――それは意外でした。「イスラム国はアルカイダ系だ」という思い込みが、彼らに対する恐怖を増幅しているフシもありますから。ところでイスラム国は、占領地域の拠点に省庁をつくったり、独自の警察部隊を持ったりと、足もとで国家としての体を本格的に整え始めていると聞きます。そもそも彼らの目指すところは何なのでしょうか。1つの国として独立し、国際舞台で影響力を行使したいのか、それともイラク・シリア地域で勢力を強めたいだけなのか。報道からは、彼らの目的がよくわかりません。

●イスラム国は今年6月のカリフ制樹立宣言のとき、指導者のアブ・バクル・アル=バグダディを「カリフ」とし、あらゆる場所のイスラム教徒のリーダーであると謳いました。 
つまり、彼らの言葉を額面通りに受け取れば、「カリフ国を築く」ことが目的です。カリフ制は、「預言者であるムハンマド(マホメット)の後継者たちがイスラム共同体の長たるべし」と考えるシステム。オスマン帝国が解体されるまで、スンニ派の諸国家で連綿と続けられてきた国家システムですが、イスラム国はそのシステムを現代に復活させようとしています。 

◆「空き地」にできたコミュニティ  国家承認される可能性は到底ない

なのでその意味では、何らかの国の体系をつくりたい気持ちはあるのでしょう。ただそれは、国際社会で言うところの国家とは次元が違う。これまでイスラム国の勢力があったところは、イラクであれシリアであれ、中央政府による統括ができておらず、行政が破綻状態にあった地域でした。つまり、「空き地」に勝手に陣取って、自分たちが好きな国づくりをやっているようなもの。 
「国」という言葉がつくので誤解されがちですが、彼らがつくっているのは単なるコミュニティに過ぎません。歴史上の似たケースで言えば、太平天国のようなもの。そもそも彼ら自身にも、「まともな国家として国際社会に認められたい」などという気持ちはないと思いますよ。

――そうした状況は、公武二元体制の時代もあったものの、近世以降、原則として国家が統一されている状態が当たり前だった日本人にとって、実感がわきづらいですね。たとえば、そんな彼らが今後、大方の予想に反して、国際社会に認められるような国家体制を樹立することはあり得ますか。またあり得るとしたら、それにはどんな要件が必要でしょうか。

●まずないでしょうね。あり得るとすれば、アフガニスタンのタリバンのように、過激派勢力が政権を奪取するというパターンでしょうか。 
 ただ、タリバンは初めから国政を目指していたし、政権を取った後は国家承認もされて、アフガニスタンのほぼ全地域を統治していました。また、彼らはもともとアフガニスタン生まれの組織なので、アフガニスタン人の組織が国家を統一して政権をつくり上げたという、正当性を持っていた。それでも、当時タリバン政権のアフガニスタンを承認したのは、パキスタンをはじめとする一部の近隣諸国だけでしたが。 
一方イスラム国は、ある勢力が国の主権を取るというパターンと違い、「空き地」に勝手に陣取っているだけの勢力です。もし彼らが国際社会に認められようとしたら、その前にまずイラクやシリアから正式に独立しなくてはならない。でも、シリアのアサド政権もイラク政府も、そんなことは絶対に認めないでしょう。そうなると、国境の設定自体も大変難しい。 
だから、現実的にあり得るとすれば、1つの国家の中の一地域に治外法権のマフィア国家のようなものができるというもの。住民がうっかりそこを通ってしまうと、高い通行税をとられたり、ひどい目に遭ったりする、という場所になるわけです。 
いずれにせよ、わけのわからない人たちが棲みついて、無法地帯をつくって、元から住んでいた住民が強制的に支配下に置かれているわけなので、現地人にとっては大きな恐怖でしょうね。 

◆イスラム国について語られる 「残虐性」の誤解と誇張

――わかりました。恐怖と言えば、イスラム国について国際社会が抱く恐怖の原因の1つに、ニュースで報じられるような「残虐性」があります。たとえば、罪を犯した者の手首や足を罰として切断すること、女性の過度な抑圧が行われていることなどです。歴史的に中東地域には、欧米などの先進国と協調しながらやってきた人々がいる一方、こうした非常に前近代的な思想を持つ人々もいる。その思想的な背景には、何があるのでしょうか。

●実は、彼らの残虐性については誤解や誇張もあります。「カリフ国を築くべし」と考える人たちは他にもいますが、イスラム国が特徴的なことは、イスラム教が成立した7世紀当初の法体系や統治法をそのまま導入するという、極端に厳格な政策を採用していることです。 
つまり彼らは、罪を犯した者の刑罰のやり方も当時に則しているだけ。手首を切り落とすといった、現在から見れば残虐な刑罰は、当時いくらでもありました。同じ時代の日本にも、普通にあったでしょう。こうした7世紀の刑法が現代にそぐわないのは、誰でもわかることです。イスラムの国々では、時代の流れに応じてイスラム法学者らが刑罰の考え方を近代化させて行きました。 
 イスラム主義というのは、そもそもそのように、現代にそぐわないイスラムのシステムをいかに現代に適応させて活性化させていくかを考えて生まれた思想なので、イスラム主義を政治に導入しようという発想の多くは過激派ではなく、穏健派の人たちのものです。反対に、イスラム国はそうした工夫の努力を最初から無視して、イスラムを狭く解釈して適用しようとしているのです。
日本でもそうですが、冠婚葬祭は宗教的な思想・慣習が色濃く残る部分。イスラム国に限らず、冠婚葬祭に関わる民法の規定にイスラムの教えをなるべくそのまま残すという考え方は、イスラムを政治に導入していない他のイスラム教徒の国々であっても、普通にあります。 
一方で、世俗法をとっているトルコだけでなく、イスラム教徒の多い国でも、平気で飲酒を認める国は少なくありません。北アフリカや地中海諸国は、ワインの一大生産地でもあります。また、女性がスカーフを被らなければならないということを国として決めているのは、イランやサウジアラビアのように少数の国しかありません。イスラム教徒の多い国が全てイスラムを政治に導入しようと考えているわけではないし、イスラムが文化や生活に及ぼす影響も、国によって大きく異なっています。 
イスラム国のようにイスラム法の順守を厳格に主張するような人々は、現代風に解釈することによって規律がどんどん緩くなることに、危機感を感じている。だから、7世紀にできたコーランに書かれていることをそのままをやれば「間違いがない」という発想になります。つまり、手首を切り落とす刑などは「そう書いてあるから、そうしておけば無難だ」と思ってやっている。それが現代にマッチしているか否かの検証については、思考が停止しているのです。 

◆イスラム世界における「奴隷」の位置づけは現代人の認識と違う

――そういうことだったのですね。イスラム国は「奴隷制」の復活も唱えているようですが、これも同じ考え方によるものなのでしょうか。

●そうです。ただ、イスラム世界における奴隷の位置づけは、主人に隷属して重労働を課せられていた欧米の奴隷のそれとは、意味合いが違います。 
たとえば中世には、イスラム国家が捕虜にしたキリスト教徒を軍人として雇い入れることがよくありましたが、そうした人々も奴隷と呼ばれました。逆に彼らは、イスラム教徒に改宗すれば自由人になれた。そうした経緯を経て出世した奴隷も、たくさんいました。 
イスラムの歴史には「奴隷王朝」と呼ばれる国がいくつも出てきますが、これはイスラム帝国が拡大して行く過程で、奴隷の身分で帝国に参画し、後に自由人となって将軍にまで上り詰めた人が建国した王朝。だから、一口に奴隷制と言っても、日本人がすぐにイメージする悲惨なものばかりではありません。 
 このように、イスラム世界でかつて存在した奴隷のイメージに近いのは、「移民」でしょう。たとえば、インドから欧州へ移民してきた家族が、最初はその国で国籍をとれなくても、二世、三世と代を重ねるなかで国籍を有するようになる、といったパターンですね。 
ただし、現在ではそうした奴隷制はイスラム世界でも廃止されています。ですから、今の世の中で「かつての奴隷制を復活させたい」とイスラム教徒の人々が考えているわけでは決してありません。7世紀のイスラム教では、「キリスト教徒の女性を、自由に妻や召使いにしてもよい」とされていましたが、今の世の中では当然人権問題になります。 
イスラム国のように、イスラムを厳格に解釈して、その統治を暴力をもって住民に強要する集団は、近代以降においては後にも先にもないでしょう。 

◆なぜ日本の若者までもが彼らにシンパシーを感じるのか?

――そうした思想を強く持った人々がなぜあの地域に出て来たのでしょうか。

●イスラム国のような思想を持つ人たちは、もともと数としてはあまり多くありません。ただ、彼らの思想に魅力を感じる人々が少なからず出てきて、大きな勢力になってしまうことはあります。 
たとえば、シリア内戦でアサド政権と戦っているときに、イスラム国の原理主義的な思想に賛同して戦いに参加していた人は、少なかったと思います。逆に、彼らがアサド政権や米国と戦っていることを素晴らしいと思い、戦いに参加していた人は多いでしょう。 
というのは、シリア内戦でアサド政権がイスラム国だけではなくシリア国民を残虐に弾圧する映像を、欧州の人たちは国際ニュースなどでたくさん見ていました。そうすると、「悪い政権と健気に戦う反政府勢力は偉い」と考える人も出てくる。結果として、「おれも戦うぞ」と自らシリアの反政府勢力に参加する人たちもいたわけです。それらが「イスラム国」に流れた。 

――日本でも最近、戦闘員としてイスラム国に参加しようとする若者が増えていると報じられ、波紋を呼びました。ただでさえ、中国・韓国との領土問題などもあり、今の日本は右傾化していると言われます。原理主義的な思想を持ち、悪と健気に戦うイスラム国の人々に、日本の若者がシンパシーを感じる風潮が強まっているのでしょうか。

●その傾向はあると思います。また右傾化に加えて、格差社会化が進む中で、「今の社会が不安だ」「この国はやはり何かおかしい」と不満を感じている若者が、今はたくさんいる。彼らから見てイスラム国の人たちは、いいか悪いかは別として、みな自分の信念に従ってバリバリ突き進んでいます。それがうらやましいと思う人たちは、日本のみならず世界中にいると思います。 
しかも、シリア政権のように虐殺を行う悪者を相手に戦うという建前があると、イスラム国の戦いが正しく思えてくる。そして、彼らが唱えるイスラムの理想も、「よくわからないけど、正しいに違いない」と思えてしまう。そういう自己満足に浸れるわけです。イスラム国は、インターネットで美しい映像を使って自分たちをPRするので、余計に憧れる若者も出て来るのでしょう。 
「得体の知れない人たち」と警戒される一方で、イスラム国は一部の人たちが確実に魅力を感じる国なのだと思います。

◆「日本にいるよりずっといい」 そう思う若者だっているかもしれない

――それにしても、先進国において「戦闘員としてイスラム国に行こう」と思い立つ若者がいるのは何故なのか。なかなか理解できませんね。

●ニュースなどで見る限りでは、日本でも欧州でも、「実際にイスラム国が何をやっているのか」「何のために戦っているのか」をよく知らずに行く若者が多いようですね。そして、「残虐なシリア政府はけしからん」と参加してみたら、実はイスラム国自身が結構ひどいことをしていた。それがわかって抜けようとしても抜けられなくて困っている、という話は結構あるようです。もっとも欧州サイドが言っていることなので、本当に当事者たちが抜けたいと思っているのかは、よくわかりませんが。 

――普通に考えれば、いずれ抜けたくなるような気もしますが……。

●私もそう思いますが、全てそうだとは言い切れませんよ。たとえば、北アフリカのチュニジアからイスラム国へ渡る人が最も多いと報道されていますが、アフリカは世界の中で相対的に貧しい地域です。べつに熱心なイスラム教徒でないけれども、職もない、お金もない、結婚もできないといった、将来に希望を見出せない人がイスラム国へ行くことも、多いのではないかと思います。 
そんな人たちが呼びかけに応じてイスラム国へ行ってみたら、夜露をしのげるし、三食食べられるし、わずかではあるものの給料をもらえるし、同じくイスラム国を理想と考えて参加した女性とも結婚できる。何より周囲にいるのが、皆自分の祖国に不満を持って来ている人たちであり、同じ理念に従って突き進んでいるので、連帯感があってとても温かい感じがする。 
 こうした環境を、居心地がいいと感じる人は少なくないでしょう。日本のワーキングプアの若者が現地へ行って、「日本にいるよりずっといい」と感じることだって、あるかもしれない。躊躇する点があるとすれば、戦闘員として人殺しをしなくてはいけないことですが……。 

――戦闘員が給料を貰えるということは、コミュニティの中にちゃんと貨幣経済のシステムがあるわけですね。

●あります。たとえばイスラム国は、制圧したモスルで最初に市の財源を全て押さえました。その財源を原資に、公務員にはそのまま給料を払い続けている。要は、イスラム国の言うことを聞いていれば、元からいた住人に危害は加えない、ちゃんと普通に生活させてやる、ということです。 
市の財源はだんだん減ってきますが、一方で彼らは周辺地域の石油資源を密売したり、誘拐した外国人ジャーナリストの身代金を要求したりと、闇経済によってやりくりしています。なので、到底国家とは呼べない状態ではあるものの、一応経済・財政の概念を持っているわけです。 

◆闇経済が回る限りは存続できる イスラム国が周辺に与える影響

――闇経済でやって行こうと思えば、できてしまう。不思議な気もしますね。それにしてもイスラム国は、今の状態でいつまで存続できるのでしょうか。

●案外長く存続するかもしれません。南米では国家経済と並行して、マフィア経済が無視できないほど大きな規模を占めていると言われます。それと同じことで、闇経済が回っている限りは、当面存続できる可能性があります。 
ただ、今の状態では、将来国家承認される可能性はまずないだろうし、イラクやシリアを乗っ取れる力もありません。「空き地」にできた家の中で、家族がハッピーに暮らすという状況は、長く続くかもしれませんが。 

――よくわかりました。こうしてお話を聞くと、イスラム国は「中東紛争のあだ花」と言えそうです。そんななかで先進国は、イスラム国のような勢力も視野に入れながら、今後どういう中東政策を展開して行けばいいのでしょうか。米国も、イラク戦争後に新秩序の枠組みをつくることに苦戦し、むしろ国際社会における信頼や発言力を弱めてしまった観があります。

●解決策は、1つしかありません。イスラム国は、国の統治が行き届かない「空き地」で勢力を拡大しているわけなので、イラクやシリアの政府がきちんと地方にまで目が行き届く政治体制をつくることです。 
イラク政府は過去、反政府勢力の人々が国政に参加するチャンスを与え、一旦イスラム国を追い出すことに成功している。問題は、過去にそれができたのに今はできなくなったこと。イスラム国に制圧されている地域の人々に、「政府につくほうがもっとよいことがある」というメリットを、各政府がきちんと提示すべきです。 
イラクは現在の政府の正当性が国際社会で認められているので、米国も気兼ねなくバックアップすることができますが、問題はシリアです。「アサド政権は国民をいじめている独裁政府だ」と国際社会で認識されているため、今シリア国内で、イスラム国が「空き地」に入りこまないよう統治を徹底させようとすると、それはアサド政権を認めることにもつながりますから。 

◆根深い中東紛争の「あだ花」か 米国や周辺国はどう動くべき?

そうなると、これまで自由を求めてアサド政権に抵抗してきた反政府勢力が、逆にアサド政権に虐殺されることも起こりかねない。実は、周辺国のトルコやサウジアラビアが恐れていることも、それなのです。彼らはイスラム国を潰すのはいいけれど、アサド政権の追い風になることはしたくないわけです。 
これではまさに、マッチポンプ状態。米国がイスラム国を潰そうとする一方、周辺諸国がアサド政権を潰そうとしている複雑な現状では、より一層大きな「空き地」が出現し、そこにまた得体の知れない勢力が入り込むリスクもある。まずは、米国や周辺諸国がきちんと話し合い、「アサド政権を残すか、残さないか」「残すとしたら、空き地をつくらないように、どうやってまっとうな政権に生まれ変わらせるか」という合意を、つくらないといけません。 

――お話を聞くにつけ、本当に複雑な状況ですね。中東地域は歴史的にずっと出口のない紛争を続けている印象があります。今後もこの状況は変わらないのでしょうか。

●中東地域は、以前と比べて質的には大きく変わってきています。中東問題の諸悪の根源は、やはりイスラエル・パレスチナ間のゴタゴタ。第二次世界大戦後にイスラエルが国をつくり、パレスチナ人を追い出して、難民問題が半世紀以上続いている影響は大きいです。 
さらに最近では、「アラブの春」の結果として独裁政権が崩壊し、その後国の統治がまともに行なわれない地域が出て来て、各地に「空き地」ができ、本来のパレスチナ問題とは全く関係のないところで、イスラム国のような過激派組織が台頭している。1つの紛争が次々に別の種類の紛争を呼び起こすような状態になっています。中東問題は、本当に根が深いのです。 

【「アラブの春」とは何だったのか  千葉大学教授 酒井 啓子   じっきょう地歴・公民科資料 2015/5/14】

  2010 年末,チュニジアで一人の青年が焼身自殺をした。不法に露店を経営していた青年を警官が厳しく取り締まったことに抗議しての,自殺だった。その事件が伝わると大衆の間で青年への共感が広まり,チュニジア全土に反政府暴動が発生,翌2011年1月14 日には23 年間以上大統領の地位にあったベン・アリー政権が倒れた。
  ベン・アリー政権の崩壊は,権威主義体制が長期にわたって続いていたアラブ諸国で,約半世紀ぶりにおきた政変であり,民衆デモの圧力によって政権が倒れた最初の事例となった。そのことは,他のアラブ諸国にも影響を与え,2011 年1月以降,アラブ諸国22 か国中,カタールとアラブ首長国連邦を除く20 か国で,規模はまちまちながらも民衆デモが発生した。なかでもエジプトでは,1月25 日に数万人が首都カイロの中心部,タハリール広場に結集し,フスニー・ムバーラク大統領の退陣を要求,その後デモ隊は政府側の治安部隊と衝突を繰り返しながら,2月11 日には30 年以上大統領職にあったムバーラクを辞任に追い込んだ。
  アラブ諸国における政治,文化的中心であるエジプトでの政権転覆は,他国での反政府運動に火をつけ,リビア,バハレーン,イエメンなどで政府側と反政府側の間に激しい衝突が発生した。しかし,その展開は国によって大きく異なる。チュニジア,エジプトで比較的スムーズかつ短期に政権転覆が実現したのに対して,他の国々では,政府側の激しい鎮圧行動により内戦と化したシリアや,国際社会が介入して政権が倒れたリビア,周辺国が介入して体制維持に成功したバハレーンの事例がみられる。さらには,政権転覆後民主的プロセスが順調に進んだかのように見られたエジプトで,軍が介入して民選政権を追放する事件が起きた(2013 年7月)。
 2010 年末以降のこれらの一連の展開は,一般に「アラブの春」と呼ばれ,アラブ諸国が民主化に向かう一大転機だとみなされた。しかし,発生から2年を経て,当初の期待と逆行する傾向が目立つ。はたしてアラブ諸国でおきた反政府抗議運動の波は,民主化要求運動だったのだろうか。「アラブの春」と総称されたのは,何故か。そしてそれは何を目指して起き,その成功と失敗の原因は何だろうか。

(1)反政府運動発生の背景

 最初に指摘しておきたいのは,アラブ諸国で同時多発的に起きた反政府抗議行動を総称して「アラブの春」と呼んだのは,欧米諸国のメディアであり,決して当事者たちの自称ではないということである。
 何故欧米はこのような名称を使い,何故アラブ諸国はその名称を嫌うのか。「アラブの春」の名称を最初に使用したのは,アメリカのブッシュ前政権であり,イラク戦争を嚆矢として中東が米国の主導で「民主化」することを期待していた。2005 年,レバノンでハリーリー元首相暗殺事件を契機として市民運動が高揚した際,これが駐レバノン・シリア軍を撤退に追い込んだことを評価して,当時のライス米国務長官が「これでアラブ諸国に春が来るのも間近だ」と述べた。このように,「アラブの春」の名称は,2010 年末以降起きている事象が欧米諸国に望ましい形での自由化,民主化であってほしい,との
期待を前提とした名づけなのである。
 では,アラブ諸国の人々は,「アラブの春」を何と呼んでいるのであろうか。基本的には「革命」という自称が一般的である。その場合,それぞれの国の「革命」を意味するのであって,アラブ全域に広がった事象を総称するものではない。以下に見るように,運動の展開は各国で大きく異なっているが,しかし国を超えての現象という視点も重要である。そのため,ここでは同時多発的に広がった路上での反政府抗議行動の波を「アラブ大変動」と呼ぼう。
 さて,この「アラブ大変動」は民主化を求めて発生したものなのだろうか。確かに,路上抗議行動の激化は,50~ 60年代にアラブ諸国で成立したアラブ民族主義軍事政権が長期化,権威主義化したことに対して反発し,それに代替するシステムの確立を求めて,人々が立ち上がったことから起きた。しかし,民衆デモを中心とする運動は,ただ統治者の辞任だけを求める以外には明白な統一的政治目標を持たず,将来の政治的青写真を持たなかった。参加者の出自も階層,出身母体もまちまちで,「民主化要求運動」と位置付けられるものではなかった。
 では,人々が政権転覆を望んだ背景には何があったのか。第一には経済的停滞がある。産油国を除いてアラブ諸国の多くが,近年の食料価格の高騰,自国経済の停滞,新自由主義経済の浸透による国内での社会格差の拡大などに悩まされてきた。特に人口の四割から半数を占める若年層の間での高い失業率や,能力を生かす機会がないことなどが,若者のフラストレーションを強めていた。
 もっとも,アラブ経済は必ずしもここ数年で急速に悪化したわけではなく,また生活水準の高い産油国でもデモが発生していることから,経済要因を路上抗議行動の直接の引き金と考えるのは難しい。とはいえ,経済社会環境の悪化がエジプトなどで新たな労働運動の台頭を生んでいたことは,重要である。2008年ごろから,国家に管理されない自主的な労働運動の萌芽がみられたことは,2010年末以降の大衆デモの組織化の原型を作った。
 より直接の引き金となったのは,第二の,政権中枢における権力関係の変化である。特にエジプトの事例で顕著なことだが,ムバーラクは五期大統領職を務めたあとは,息子のガマールに権力移譲しようとの意向を強めていた。それにより,伝統的にエジプトの体制エリートを支えていた大統領・官僚エリート・軍の三大勢力のうち,大統領とその周辺が突出して権力を強化し,さらにガマールに連なる新興財閥勢力の影響力の高まりが,旧来エジプト経済の根幹を牛耳ってきた軍の利益を損なう危険性が出てきた。このため,体制エリート内部で,大統領個人の権力強化に対する潜在的な不満が高まっていた。
 同様に,親族への権力移譲が国民の政権不信の根底にあった国に,シリア,リビアがある。シリアでは2000年に父ハーフェズから息子バッシャール・アサドに権力移譲がなされ,共和政でありながら大統領職が世襲化する最初のケースとなっていた。リビアでも,ムアンマル・カッザーフィの後継者として,息子のセイフル・イスラームの名が挙がっていた。また,イエメンでも,サーレハ大統領が息子アハマドを後継者としようとしていたといわれる。
 このように,共和政体制の間に世襲化が進行したことによって,大統領とその一族に権力が集中し,軍主導で確立されてきたアラブ民族主義体制における伝統的パートナー,軍部の権力中枢における相対的低下が進んでいた。その不満から,エジプトでは軍が大統領を見限ったのである。
 第三の要因として,イラク戦争後の市民意識の変化がある。2003年のイラク戦争は,米軍による強制的な独裁体制の排除という強烈な教訓をアラブ諸国の統治者に与え,わずかながらも自発的な「民主化」を進める姿勢を取った。湾岸首長国で諮問評議会の開設,拡大や民選による地方議会の設置など,「民主化」に配慮した政策がとられた他,エジプトでも2005年には,従来の官制選挙に比較して自由で民主的な選挙が実施された。エジプトの選挙ではこれまでほとんど議席を持てなかったムスリム同胞団出身候補が,議席の五分の一を占めるまでとなったのである。そのようなイラク戦争のショックから緩んだ統制が,2010年には再び強化された。エジプトやバハレーンなど,いったん自由選挙の空気を味わいながら民主主義への統制が復活した国では,市民の間で既存の議会政治への失望が深まっていたと言える。
 さらに,イラク戦争に加えて2006年のイスラエルの南部レバノン攻撃,2008-09年のイスラエルの対ガザ攻撃を目撃したアラブの市民社会は,これらの紛争に何ら対処できない自国政権の無力さに幻滅を深めていた。その結果,自発的な反戦デモが市民の間で組織化された。従来大衆抗議行動が禁止されていたアラブの権威主義体制下で,国外の問題とはいえデモが発生したことは,参加者の政治参加に対する意識を変化させた。これまで政権による弾圧を恐れて,政府に対する抗議行動を抑制してきた市民が,これによって「恐怖の壁」が崩れ,路上抗議行動に参加するハードルが低くなっていたのである。
 特に,インターネットや衛星放送の普及により,市民の表現の自由度が格段に向上した。さらに携帯やSNS によって瞬時に情報交換を行え,運動実践における参加者間の連携が可能となった。ただし,インターネットの普及がそのままデモの成功を約束したわけではない。政権転覆が実現されたエジプト,チュニジアでの,デモ発生当時のインターネット普及率はせいぜい20 ~ 30% であったが,逆にデモが全く発生しなかったカタールなどのペルシア湾岸アラブ産油国では,五割以上となっている。インターネットはあくまでも,抗議行動の手段として有効だったにすぎなかったと言えよう。
 とはいえ,SNS や衛星放送は,アラビア語とアラブ文化を共有するアラブ諸国の相互の連絡を密にし,アラブ社会のなかでの運動の広がりをもたらした。「アラブの春」という用語が欧米メディアの創作物であるとしても,運動が汎アラブ的な連携性を持つものだったことは,事実である。
 このように,さまざまな要素が複合的に絡むことにより,現体制に対する反発が体制内外において高まると同時に,市民の間に生まれた新たな連帯意識が社会運動の高揚を生み出した。その結節が,チュニジア,エジプトでの政権転覆に繋がったのである。

(2)域内・国際政治に翻弄されるリビア,シリア

 政権転覆の実現には,国ごとの独自の要因,背景が存在するため,デモ発生後や政権転覆後の政治展開は,国ごとの政治体制によって大きく異なる。特に,リビア,シリアのように,体制内権力バランスに大きな変化がない状態で市民レベルの反政府運動が激化した場合は,両者の衝突は熾烈となった。
 リビアの場合は,42年間元首として君臨したムアンマル・カッザーフィに対する反発が,リビア東部地域の分離運動とも絡んで発生したが,政府側の激しい鎮圧行動に対して欧米,国際社会が早い時期に動き,NATOの軍事介入も反政府側に有利に働いた。
 シリアはより深刻であり,国境地域住民の反政府市民運動として始まった暴動が,政府側,反政府側双方ともに武力を用いた全面衝突に発展した。2013年末までに10万人以上の死者を出し,国民の一割が海外に流出して難民化している。
 なぜリビアやシリアでは,チュニジアやエジプトのように,短期間で政権転覆が実現できなかったのか。その第一の要因は,エジプトのような体制内の権力対立が存在せず,特にシリアの場合アサド大統領を核とした体制の結束力が強力だったことである。
 第二の要因は,このように体制側の強靭さにもかかわらず,政権打倒に利益を持つ諸外国勢力が介入し,対立関係を複雑化させたことである。そのことは,内戦中から後を通じて,周辺国をも巻き込んだ治安の悪化を生んだ。リビアでは内戦期に大量の武器,資金が流入し,政権転覆後もさまざまな政治勢力間の武装抗争が継続,地方勢力の自立化もあって,新政権樹立に大きな障害が生まれた。
 さらには,政権転覆後にリビアから武器と義勇兵が国外流出したことで,マリやアルジェリアなど周辺国の治安情勢や権力関係にも影響を与えた。2012年マリでクーデタが発生した背景には,リビア内戦への参戦を経験したトゥアレグ部族の兵士が帰国して分離志向の反政府勢力の軍事力が強まったこと,さらにそれに対する国内の対応の分裂がある。
 シリアの場合は,政府側をイラン,イラクが支援し,反政府側をサウディアラビア,カタールが支援するという構造が定着した結果,宗派対立構造の様相を呈し,域内大国であるイランとサウディの代理戦争と化した。特に事態を複雑化しているのが,代理戦争に起用された海外からの武装勢力の存在だ。シリアの反政府勢力のなかには,他のアラブ諸国のみならずチェチェンなど世界中のイスラーム教徒義勇兵が加わっており,内戦下で武装勢力の拠点形成が進んでいる。
  2013年8月,オバマ米政権はシリアのアサド政権が化学兵器を使用した,としてこれに対する軍事攻撃を決断したが,三週間後には攻撃を断念した。
 そこからわかるように,国際社会はアサド政権の転覆に利益を見出していないが,それは前述の武装勢力の流入に加えて,中東和平交渉や反イスラエル急進派であるヒズブッラーの制御などにおける,アサド政権の崩壊による悪影響を危惧しているからだといえよう。リビアでは早く国際社会が介入しながら,シリアではその対応が頓挫しているのは,正反対の国際社会の利害が強く反映しているからである。
 バハレーンもまた,周辺国からの圧力を受けて反政府運動が頓挫した例である。バハレーンでデモが高揚したことに対して,湾岸地域の王政護持を国益とするサウディアラビアが即時に介入し,軍を派遣した。これに対して,国際社会はこれを看過した。

(3)政権転覆後の政治的展開
 リビア,シリア,バハレーンにおいては,周辺国,国際社会の意向が働いた結果,市民主導の反政府運動のベクトルが大きくゆがんだ。ではその一方で,政権転覆を果たしたエジプト,チュニジアでは,その後新政権の成立が順調に進んだのだろうか。
 政権転覆後のチュニジア,エジプトで顕著だったのは,いずれの国でも選挙など民主主義の制度化が進むにつれて,イスラーム政党が台頭したことである。2011年10月にチュニジアで実施された議会選挙で,長らく非合法化されていたイスラーム政党のナフダ(覚醒)党が四割強の票を獲得し,第一党として首相を輩出した。
 さらに同年11月から始まったエジプト国民議会選挙では,イスラーム主義組織であるムスリム同胞団が結成した政党,自由公正党が約半数の議席を獲得,さらには四分の一を獲得した第二党のヌール(光)党もまた,イスラーム政党であった。翌12年5 月には大統領選挙が実施され,決選投票の結果自由公正党のムハンマド・ムルスィーが接戦を制した。反政府運動の高揚は見たものの体制が変わらなかったモロッコでも,2011 年10 月下院選挙はチュニジア、エジプトでの政変の影響を受けて,イスラーム政党の正義発展党が四分の一以上の議席を獲得,同党から首相が選出された。
 「アラブ大変動」は,イスラーム政党が主導したものではない。デモは世俗派,リベラル派の青年層が中心で,当初イスラーム政党は反政府デモへの参加に慎重な姿勢をとるケースが多かった(エジプト)。しかし政権転覆後は,野党時代から社会に浸透したネットワークを駆使して,選挙で強みを見せたのである。
 この選挙という民主化プロセスを通じてイスラーム政党が政権与党の地位を獲得する,という過程は,以下の問題を生んだ。第一は,エジプトで見られた事例であるが,イスラーム政党と他の政治勢力の亀裂の深まりである。いずれのアラブ諸国でもイスラーム政党が大衆的支持を得てきたのは,特に宗教的慈善活動や医療,教育などの福祉活動を通じて活動を拡大してきたからである。そうした草の根の社会的支持を生かして,イスラーム政党は民主化プロセスのなかでも選挙の早急な実施を主張した。
 大衆動員に圧倒的な力を持つイスラーム政党と対照的に,路上での抗議行動で中心的役割を果たした青年層,特に左派やリベラル派は,組織化されていなかった。政党としての経験もないリベラル派は,ノーベル賞受賞者であるムハンマド・エルバラダイなどの著名なエリート政治家を起用して,市民にアピールしたものの,地盤を持たなかった。チュニジ
アでは,イスラーム政党と他のリベラル派などが一定の対話関係を維持していたが,エジプトではその対立関係が早い時点で露呈したのである。
 イスラーム政党の大衆動員力に対抗できないリベラル派は,総選挙の早期実施よりも新憲法制定など法的整備を優先させるべしと主張した。そのため,ムバーラク政権打倒では利害が一致したイスラーム勢力とリベラル派は,ムルスィー政権成立の時点から決裂し,一年後には後者が前者のムルスィー政権を引きずりおろすことを決断したのである。
 イスラーム政党台頭が生んだ第二の問題は,世俗知識人の間でのイスラーム化に対する懸念である。ムルスィー政権下で制定された憲法においてイスラーム色が強められたエジプト,女子スポーツ選手の服装にイスラーム宗教界からの批判が出たチュニジアなど,社会のイスラーム化が進むのではとの警戒感が,左派系知識人の間で強まった。特に,ムルスィー政権が同胞団支持者を優先させる人事を進めたことが,官僚層の反発を生んだ。
 加えて,イスラーム勢力の間の派閥対立も顕在化した。ムルスィー政権の母体であるムスリム同胞団は,カタールの支援を受けていたが,反面イスラーム世界の盟主を標榜する保守派のサウディアラビアは,イスラーム主義のなかでも改革派と位置づけられるムスリム同胞団とは対立しており,エジプトでのムスリム同胞団の台頭には反発していた。
 穏健派・改革派のイスラーム主義政党が選挙を通じて政治の舞台で活躍する一方で,非合法活動を主軸とする武闘派のイスラーム勢力はあくまでも非主流派である。しかし,非主流派として政治過程から疎外されることで,却って武闘派の突発的な暴力的行動が刺激された側面もある。穏健派に統括されない武闘派が行き場を失い,シリア内戦や北アフリカ
諸国の武装勢力に合流し,暴力の拡散を生んでいる。

(4)「長い革命の過程」か「民主化の挫折」か

 では,エジプトのムルスィー政権が2013 年7月に軍事クーデタによって打倒されることになった原因は,イスラーム政党が政権を取ることに対する世俗派,リベラル派の反発なのだろうか。同じ時期,イスラーム政党のAKPの12年間にわたる長期政権が続くトルコでは,イスタンブルのゲジ公園再開発計画に反対するリベラル派の,反政府デモが展開されていた。そのため,2013 年半ばに中東で起きた一連の事件は,イスラーム政権に対するリベラル派の巻き返しだと見られがちである。
 だが,これらの政府批判のより根本的な論点は,世俗かイスラームかではなく,統治者の権力集中,強化に対する反発にある。トルコでエルドアン政権に反発が高まったのは,再開発計画に関する市民からの同意取り付けが十分ではなかったとリベラル派が感じたことと,デモ隊に対する警察の強圧的姿勢が原因であり,必ずしも再開発計画の内容においてイスラーム志向が強かったことが主因ではない。
 また,エジプトでのムルスィー政権の失策は,社会経済的改革以上に自派勢力の強化に専念したことにある。特に2012 年秋以降,大統領権限の強化を強引に進めたことで,権力分与を求める青年層の間で急速にムルスィー批判が高まった。自由公正党を与党の地位に押し上げた2011 年の議会選挙は,被選挙権に不平等が生じたとして憲法裁判所が違憲判決を出しており,その結果議会が進める憲法起草もまた違憲であるとの司法判断が,下されていた。そのことに反発したムルスィー政権は,司法判断より大統領令が優先される旨の決定を行ったのである。
 その意味で,2013年7月にムルスィー政権が打倒された際に,青年層や世俗・リベラル派がそれを支持したのは,民主的な過程を経て選出されたとはいえ権力集中を務める危惧のある指導者に対しては超法規的にこれを排除してもよい,という発想があったからであろう。これを,国際社会は「民主主義なき自由主義」と呼んだ。反対に,選挙での勝利を背景に権力基盤を着々と固めるイスラーム政党は「自由主義なき民主主義」と呼ばれた。前者はムルスィー打倒の政変を「クーデタ」,後者は「革命の途中」と呼んで,正反対の評価を下しているのである。
 だが,エジプトのジレンマはイスラーム政党と世俗・リベラル派の対立に留まらない。政治基盤のない後者は前者を追い落とす際に,軍を利用した。前述したように,エジプトにおける軍は,ムバーラク政権期の体制エリートの中核をなしていながら,ムバーラク末期に中枢から疎外されつつあった。そのため,ムバーラク大統領の追放に賛成したが,それは決して自らの体制エリートとしての地位を放棄するものではなかった。選挙によってイスラーム政党が台頭してもなお,軍は新体制による文民統制に反対し,特権を手放すことはしなかったのである。
 その結果,世俗・リベラル派と旧体制派の軍は,ムルスィー政権追い落としに利害を一致させた。だが,軍が徐々に市民社会の活動の自由を制限するにつれて,両者間の対立も顕在化している。
 このように考えれば,「アラブ大変動」を経験した諸国は,旧体制のもとでの軍の政治的役割のありかたによって,その後の展開が大きく異なっているといえる。軍が体制エリートとして特権を享受してきたエジプトやシリアでは,旧体制からの抜本的転換は困難であり,政権自体が倒れないか(シリア),あるいは倒れても軍が自らの権力維持に固執する(エジプト)。一方で旧体制が軍に大きく依存してこなかったチュニジアやリビアでは,新政権で軍が影響力を行使しないかわりに,微妙なバランスで各種勢力が新政権を支えるか(チュニジア),そのバランスが取れずに諸勢力の群雄割拠状態になる(リビア)。

(5)域内政治構造の揺らぎ

 以上のように,「アラブ大変動」は国内政治の転換をもたらしたが,その影響は国内だけではない。1979年以来続いてきたアラブ諸国,ひいては中東の域内の友敵関係が,再編を迫られている。
 1979年に発生したイラン革命,エジプト・イスラエル単独和平合意,ソ連のアフガニスタン侵攻という大事件によって,中東地域は,イラン- シリアの反イスラエル・反米枢軸と,サウディアラビア- エジプトの親米枢軸に二分された。以降,その二つの対立陣営を前提に,国際社会は対応してきたといえる。
 その軸がまずイラク戦争によって揺らぎ,アラブ大変動の打撃が続いたうえ,中東から後退しつつある米国の対中東政策の変化によって,崩れつつあるのである。まず「アラブ大変動」の域内政治への影響は,どうだったのか。第一にそれは,シリアという両陣営の勢力均衡の要となる国を,群雄割拠の場に変えた。第二に,エジプトのムルスィー政権は,イラン革命以来初めてイランを訪問し,イスラーム政権同士の関係改善の可能性を示唆した。第三に,バハレーンでの反政府デモがシーア派の運動だとみなされ,イランの脅威が過剰に喧伝された。つまり,「アラブ大変動」の行く手に,イランの存在が見え隠れするようになったのである。
 なによりも危機感を強めていたのが,サウディアラビアだっただろう。アラビア半島の王政・首長制体制を堅持すべく,政権転覆のドミノ倒しの波に抵抗してきた。だが,サウディが危機感を抱いていたのは,「アラブ大変動」だけではない。イラク戦争以降,イランのみならずイラクに拡大したシーア派の影響力を最も憂慮していたのが,サウディである。
 西の「アラブ大変動」と東の「イランの脅威」に挟まれたサウディアラビアに対して,しかし同盟国アメリカは期待に反する対応を取った。前述したとおりシリア政府側に対する軍事攻撃を手控えたことで,シリア反政府派を支援するサウディと米政権の間に不協和音が流れた。加えて11 月にイランと米国・EU との間でイランの核開発に関する基本的合意が成立し,イラン革命以来国交を断絶した米・イラン間に関係修復の可能性が出てきた。さらには,クーデタ後のエジプト政府に対して,米が支援の縮小などを示唆して積極的な支援を示していないことも,ムスリム同胞団を嫌い軍クーデタを歓迎したサウディとしては,意に沿わないことであった。
 こうしてみれば,シリアやエジプトでの大変動の行方は,アラブ諸国の国内の「民主化」の問題にとどまらず,中東全域の権力構造,とりわけ対米同盟関係の構成にも大きな影響を与える問題となっていることがわかる。逆に言えば,域内,国際社会の覇権が絡んでくる分,純粋に国内の社会政治改革で完結できないことが,大変動に着手してしまったアラブ世界のジレンマなのである。

(6)まとめ

 2010 年末からアラブ諸国で広範に拡大した民衆による反政府抗議行動,すなわち「アラブ大変動」は,発端は長らく権威主義体制のもとで尊厳と人権を侵害されてきた市民の,自然発生的な意識覚醒から生まれたものであった。政権転覆後にどのような将来を目指すかは個々人それぞれに異なっていたが,抑圧され続けてきたことに初めてノーを言い,自ら
の人間としての尊厳を主張したという点では,抗議行動に参加した人々すべてに共通することであった。その意味で,「アラブ大変動」は,民主化要求運動というよりは自己覚醒,市民社会のエンパワーメントだったといえる。
 そのような形で始まった政変は,しかし既存の政治勢力,特に軍と,長らく野党的立場に置かれてきたイスラーム政党との間での対立構造を主軸として展開することとなった。さらには周辺国,国際社会の利害関係が大きく反映することとなり,代理戦争の様相を呈して紛争が長期化,複雑化した。
 路上抗議行動を始めた青年層は,しばしば「盗まれた革命」という表現を取る。市民社会の自発的な運動として始まった反政府「革命」が,国内外の既存の政治勢力の間の草刈り場となってしまったことを,嘆いたものである。
 結局は既存勢力の権力抗争でしかない,という側面だけを捉えれば,それは三年前に「アラブ大変動」で民衆が歓喜した,その解放感を無にするほどに,2013年のアラブ諸国は過去の権威主義体制に逆戻りしているように見える。
 しかし,前述したように,デモへの参加に市民の抵抗感は失われ,また,いずれの陣営であっても権力独占を図るものに対してはこれを阻止すべきと考える発想が,市民社会に定着したことは確かだ。時的でも強大な体制に反旗を翻して「恐怖の壁」を壊した,という経験が,アラブの市民社会に後退することのできない新たな地平をもたらしたことは,確かであろう。__


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