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日本の戦争指導部 ~この無能、無責任、人命軽視

・ 戦後70年。日独伊の侵略戦争、ファシズムを二度とゆるさない、という戦後の国際社会の立脚的である。
・1990年以降、戦争犠牲者への補償問題の提起されてきた ~ ベトナム戦争敗北後のアジアの親米独裁政権の崩壊、中国の国連登場。冷戦崩壊による各国と各国人民の独自の動ける条件ができ、あらためて戦争責任、補償問題を問う声がひろがった。
      オランダ政府 日本軍の犠牲者遺族に、3億8500万ギルダーの支払いで合意
      アメリカ政府  日系アメリカ人の強制収容に対し、6万人に賠償など
・イラク・アフガン戦争の失敗 ~ 武力ではテロはなくならず拡散するだけがあきらかに    
・そんな中、侵略戦争美化、河野談話否定、集団的自衛権行使など「戦争する国」づくりに突き進む右翼政権のもとで、あらためて戦争の実態、とくに戦争指導部の無能、無責任、人命軽視の実態を具体につかむことは極めて重要と思う。
・不破「『科学の目』で日本の戦争を考える」、「スターリン秘話 『対日戦の終結』」、宮地正人「第二次世界大戦をどう見るか」より関連部分の備忘録
 ~ 支配層が、靖国神社に固執し、英霊とたたえるのは、実は、戦争指導部の無能、無責任、人命軽視の実態を覆い隠すためだとしか、思えない。

【戦争指導部 ~ 無能、無責任、人命軽視の実態】

不破「『科学の目』で日本の戦争を考える」より

Ⅰ 戦争の実態
・侵略戦争の定義は明確~ 武力で領土拡大、外国の支配をはかる (最初は国際連盟規定。以後、発展)
  ~ 「構成の歴史家が決める」、「定まっていない」という論は、国際的に通用しない。
 例  竹下登首相 ヒトラーの戦争について「この問題は学問的にはまだ整理されておりません」と答弁
    AP通信「日本の首相、ヒトラーの戦争を肯定」、米軍の準機関紙「星条旗」も報道。

(1) 15年戦争 「侵略戦争」の事実、公文書で明らか

15年戦争の3つの段階

①「満州事変」(31年9月)

・この地は、日露戦争で手に入れた遼東半島南西部の租借権、南満州鉄道の経営権があり、その防衛目的で関東軍を配置
・「満蒙」(中国東北部と内モンゴル)を日本の領土にするのが使命だと豪語していた関東軍(日露戦争で獲得した「権益」擁護のために派遣された日本軍)が自分で鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業だとして中国軍を攻撃して開始した謀略的な戦争。
→ 現地の外交官・総領事の外務省に電報“今度の事件は、まったく日本の軍部の計画的な行動によるものと想像される”(外務省編「日本外交年表竝主要文書1840-1945」)
・政府は、現地からの報告をうけながら、そのまま戦争を追認。関東軍は数カ月で「満州」全土を占領し、翌年にはかいらい国家「満州国」をつくって、全域を支配。
→ 国際連盟は、この戦争は許されない、傀儡国家も認められないと決定/その決定を不服して国際連盟を最初に脱退した侵略国が日本
・戦争の目的は、事変前から、軍部とマスコミで、“「満蒙」は「日本の生命線」”という領土要求をむきだしにした主張がふりまかれた

②日中戦争(37年7月)

・支配領域を中国の中心部にまで拡大しようとして始めた戦争
・きっかけは、北京近郊の盧溝橋での日中両軍の小規模な衝突事件/現地では中国側が妥協して、日中両軍が停戦協定を締結/ が、近衛内閣と軍部は事件を中国に攻め込むチャンスと見て、停戦協定に調印したその日(7月11日)に大軍の派遣を決定し、日中戦争を開始
→ 政府 満州事変では簡単に占領できたので、一気に攻め込めば簡単に屈服し華北が手に入ると判断(理由は後述)/が中国は屈服せず、上海、南京にものりこみ、大虐殺がおこる。それでも屈服せず、見通しのない長期戦に。

・戦争の理由づけ / 政府は8月15日、「もはや隠忍その極に達し、支那(中国)軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう/こらしめるの意味)し以って南京政府の反省を促す」との声明発表
・「講和交渉条件」(37年12月、38年1月閣議決定)~ 日本政府が中国側に示した条件/「満州国を正式承認すること」、「北支及内蒙」と「中支占拠地域」(上海、南京など)に「非武装地帯を設定」(日本軍は「駐屯」する)など
~ 日本の占領地帯にするもの。/ 中国政府からは相手にされなかったが、侵略目的は公式の歴史に記録された。

③太平洋戦争(41年12月)

・40年9月に締結された日独伊三国軍事同盟 / 条約に戦争目的が明記

1.日本はドイツ・イタリアの「欧州新秩序」建設に協力、ドイツ・イタリアは日本の「大東亜新秩序」建設に協力する
~ 3国による世界再分割条約
2、日本の政府と軍部が9月の政府・大本営連絡会議で決定した「生存圏」(40年9月16日、大本営・政府連絡会議のの決定「大東亜新秩序建設のための生存権」)
 中国、東南アジア、インド、豪州、マーシャル諸島、タヒチなどフランス領諸島という広大な範囲
・この領土拡大計画を実行に移したのが太平洋戦争  国民動員のスローガンが「八紘一宇」

(2) 世界に例ない体制 ~ 戦争方針は天皇と軍首脳部がすべて決定

・軍の統帥権は天皇に属するという明治憲法の仕組  / 首相と政府は、戦争にノータッチ、無力な存在(軍部ファシズムの形成について、3つ目の論考の備忘録参照)

例① 日中戦争の見通し
 開始後の37年7月下旬、閣議で閣僚が「だいたいどの辺で軍事行動をとめるのか」と質問/海相がこの辺だと答えると、陸相が「こんなところ(閣議)でそう言っていいのか」と海相を怒鳴りつけた。/弱った近衛文麿首相が、天皇に、「将来の計画を立てる上でぜひとも必要なものはお知らせ願いたい」と求めたところ、天皇はしばらくして“軍部は政党出身大臣の同席する閣議では報告できないと言っている。必要なことは、天皇自身が首相と外相だけに伝える”と回答。 

例②  12月8日真珠湾攻撃 
 極東国際軍事裁判(東京裁判)での東条英機証言 /いつ真珠湾攻撃について知ったのかと問われ、「作戦計画を聞いたのは12月2日ごろ」、「(首相としてではなく)陸軍大臣の資格で参謀総長から聞いた」と回答
・真珠湾攻撃の作戦命令11月5日、連合艦隊は11月23日に千島の基地を出発

(3)全局に責任負う指導者が不在、展望ないまま戦争

・戦争の指導には政府も首相もノータッチ/ 天皇制国家の根幹をなす仕組みの1つ
・「天皇の大権」 陸海軍の統帥・編成と規模、宣戦と講和や条約締結 / 議会の関与を許さない
  → 軍部の強大化とともに、軍の戦争指導は「統帥権の独立」の名で、政府関与も許さない独立分野に
・「大本営」の設置 天皇が最高責任者  文官の排除、戦争指導のすべてを決定
~ 天皇は幼少から軍事教育を受け、軍関係の情報がもっとも集中する立場。体制上は絶対権限を持つ大元帥

①全局に責任負う指導者が不在

・法制上は天皇の絶対権限/ 具体的作戦は軍首脳部 ~ 軍は天皇に計画を「上奏」して許可を求める。天皇は「それで勝てるか」「外国を刺激しないか」など質問・意見を言う程度で作戦が進む
・作戦を立てる軍の実態 ~ 陸軍と海軍は仲が悪い。/日中戦争からの8年間で、参謀総長(陸軍の最高幹部)4人、軍令部総長(海軍の最高幹部)5人と次々に交代 
・15年戦争の全期間を通じて戦争指導部にいたのは天皇だけ/ 天皇と軍首脳部とのやりとりで大まかな方針が決まっても、実際の作戦計画の立案と実行は、大本営に陣取る作戦参謀たちが勝手に実施。

~アメリカではルーズベルト、イギリスではチャーチル、ソ連ではスターリン、ドイツではヒトラーが全局をにぎって戦争を指導/日本の戦争指導部の弱体さと不統一さは、主要国の中で際立っていた。

②だから展望ないまま戦争に突入

○日中戦争
・「満州事変」では 日本は、中国共産党との国内戦を優先させた蒋介石が東北部の中国軍に無抵抗主義の指示を出したため、短期間での満州全土占領に成功
・日中戦争でも、軍の大量に送れば、「中国を一撃で屈服させて華北は奪取できる」と見通したが、完全に外れる
→ 37年初めに中国で国民党と共産党との抗日統一戦線の結成。情勢が根本的に変化したことをつかまず/ 華北を攻めても、上海・南京を落としても、中国政府は屈服せず、戦争は長期戦となり、日本軍は勝算を失う

○太平洋戦争
・緒戦 真珠湾への不意打ちの奇襲攻撃などで大戦果。東南アジアで進出した地域は、欧米の植民地で、仏蘭はドイツに敗北、イギリスも本土防衛に全力という事情で勝利が続く。
・ 日本の戦争指導部は米国の反攻は43年以降になると楽観(大本営42年3月)/(山本五十六でさえ、1-2年は戦える、と見通していた)

→ 、残る米空母群の壊滅で太平洋の支配権を確立しようと、42年6月、ミッドウェー海戦を仕掛ける

・アメリカは、42年早々に反抗の態勢確立 ~ 真珠湾奇襲への怒りが、米国でなかなかすすまなかった産業界などの総動員体制が確立 

・転機は、42年6月 ミッドウェー海戦/ 米側は暗号解読し万全の配置で向かいうつ~日本の空母群全滅、ベテランパイロット喪失の大打撃。日本軍は太平洋の制空権を失う 
→ 大本営は「大勝利」と発表。政府にも知らせず、真相は大本営関係者と陸海軍大臣だけ

・これ以降、日本軍は戦争らしい戦争は一つもできず、敗戦への道を進む
→ルーズベルトの側近ホプキンス、ミットウェー海鮮終了に際し、チャーチルに「(日本)はもう消耗戦にはたえられません。かれらが太平洋を罰せられることなしに進撃できる時代はおわりました」と手紙/が、日本の戦争指導部の敗戦の深刻の意味を理解しなかった。

(4)兵士たちはどんな戦争をさせられたか――戦没者230万人のうち半数以上が餓死者

・歴史学者の故・藤原彰氏の『餓死(うえじに)した英霊たち』より
 藤原氏は、中国で小隊長、中隊長、本土決戦のための大隊長を務めた現場をしる人物~餓死多数の原因は、補給を考えない戦争だったからだ、と明言

・補給の手立てを講じやすい中国戦線でも、最初の段階から補給抜きの作戦を立て、不足分は「現地補給」の命令。  住民から略奪する以外に道はない ~ これほど補給を無視した軍隊は世界にも、日本の歴史にもない

①補給無視

◎ガダルカナルの場合(42年8月~43年2月)

・空母を失った日本軍は、ガダルカナルに飛行場建設を取り掛かる / 察知した米軍によって阻止され、逆に大飛行場を建設させる 
・大本営は、制海権・制空権もない中、「最初に計画したのは日本軍」というメンツにこだわり、わずかな食糧だけを持たせた兵士を次々と3万人も送り込む、
~ 最初の1000人の部隊 / 「ねずみ輸送」 輸送艦はないので、6隻の駆逐艦に百数十人の将兵をのせるのがぎりぎり、大砲などの重火器も余分の食料も乗せられず、1週間分の食料と「白兵突撃」の小銃だけ。2日で全滅
・結果、部隊は飢餓に苦しみ、駆逐艦、飛行機、輸送船の損害も大規模に
・42年12月撤退決定。 3万人送り込み、帰ってきたのは1万人/兵火による戦死者5千人、餓死者1万5千人

→ 責任をとって割腹自殺しようとした軍司令官を、方面軍司令官(今村均大将)が押しとどめた言葉~ この敗戦は、戦争にまけだのではない。飢餓に負けたのだ。その飢餓は誰がつくったのか。君たちではないだろう。大本営ではないか。補給のことも考えないで、戦略戦術だけを研究していた陸軍の昔からの『弊風』が積み重なって、制空権もないときに、祖国から離れた敵地に近い島に、三万もの軍隊をつぎ込む、この過失をおかしたのは、まさに中央だ

◎補給無視は「陸軍の弊風」

・この悲惨な経験をしても、補給軽視の「弊風」を反省せず
・日本軍では昭和の初めまで輸送に携わる兵は「卒」と呼ばれ、「輜重(しちょう=輸送)輸卒も兵隊ならば電信柱にも花が咲く」と揶揄される存在。最も下層の部隊として扱われた 
・作戦の立案  現地を知らない大本営の作戦将校が、補給方面の意見も聞かず、地図だけ見て、勝手に線を引いて軍隊を送り込むやり方が最後まで続くから すべての戦場が飢餓戦争の舞台となる惨劇を引き起こした
 (メモ者 輸送、補給、医療、人員などの軽視は、現在の自衛隊にも通じる 高価な「火の出るおもちゃ」偏重)

②「軍人勅諭」と「戦陣訓」 捕虜になるより「死を選べ」

・『餓死した英霊』を大量に生んだ重要な背景に、日本軍隊の規律
・「軍人勅諭」(1882年) 「朕(ちん=天皇の自称)は汝ら軍人の大元帥なるぞ」「義は山岳よりも重く、死は鴻毛(こうもう=鳥の毛)よりも軽しと覚悟せよ」「下級のものは上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」
・「戦陣訓」(1941年) 「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」

~どんな無謀な、成算のない作戦計画で従わざるを得ない。/武器も食糧もなくなった状況でも、“捕虜になるより死を選べ” → 「餓死」か「玉砕」(全滅)以外にとる道がなかった。

○ニューギニア 大本営の参謀たちが地図だけを見てつくった、標高4000メートル級の山岳を越えてポートモレスビーを攻略するという無謀な作戦に大軍を投。それが全滅した後も次々と軍を送りこみ十数万人もの餓死者を出したる

○ビルマからインドのインパールを目指したインパール作戦  
 現地軍の司令官の功名心から計画され、補給の条件なしの無謀な作戦。反対する参謀長や師団長を次々と首切りながら強行。8万6千人のうち帰還は1万2千人。退却する日本軍の通った道は「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれた。

○爆弾を抱えた飛行機で艦船に体当たりする特攻作戦も、日本軍の非合理性と非人間性をあらわれ

③国際法無視、旧ドイツ軍「戦陣訓」と比べても

・日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦では「宣戦の詔書」で一応は国際法の順守をうたっている
・日中戦争  開戦早々、中国への派遣軍に“全面戦争をしているわけではないから、戦時国際法の具体的な条項のことごとくをまもる必要はない”といった陸軍次官の通牒(つうちょう)を出す。/将兵に国際法などいっさい知らせず
→アジア諸民族を蔑視する教育も行われ、南京事件や「慰安婦」問題などの戦争犯罪を引き起こす背景に。

・旧ドイツ軍では・・
 シベリアに抑留された斎藤六郎さん(全国抑留者協会長)の著書にある、収容所で出会ったドイツの将兵が歌っていたドイツ流「戦陣訓」の歌 ~ 全部で10項目、「不必要な野蛮行為を避け騎士道を守って戦うこと」や「降伏した敵兵の命はこれを奪わぬこと」「捕虜を人道的に待遇すること」「非戦闘員を迫害せず、略奪をしないこと」などなど。
~ ヒトラーは侵略戦争やユダヤ人虐殺をやった。が、そのドイツ軍の将兵にも戦時国際法を教えていた。

(5)国民はどんな扱いを受けたか――国民の命より「国体護持」

○ドイツと日本の国民の戦争責任の違い
 ドイツ ヒトラーの党を2度の総選挙で第1党に選んだ。
日本  専制体制であり、国民が好戦派の首相を選んだことはない。/ しかも、平和・民主的運動の弾圧
~ 世界の主要国で、共産党が最初から戦争終結の日まで非合法だったという国は日本以外なし、

○最後の1年間、「もう一度勝ってから」と「一億玉砕」へ
 44年半ば、戦争の見通しが完全になくなる。

・サイパン島の陥落で東条内閣から小磯国昭内閣に代わり(44年7月)
・44年10月、台湾沖航空戦。フィリピン上陸作戦に先立って台湾~沖縄方面に接近したアメリカの機動部隊を日本の航空部隊が迎撃。 日本軍は1隻も米艦を沈めていないのに、未熟な搭乗員の誤認によって「空母19隻、戦艦4隻を撃沈・撃破」という架空の「大戦果」を大々的に発表。
・大本営自体もこれに舞い上り、フィリピンでのルソン決戦の計画を変更し、米軍は機動部隊が壊滅して裸でレイテ島に来るのだからその水際で撃滅せよと作戦変更を指令。
・ところが米軍は大艦隊の援護のもと上陸作戦を強行、日本軍はジャングルに逃げ込むしかない惨状に。なりました。
→ 戦争の実情も把握できない日本の戦争指導部の無能さを再び世界にさらけだしたもの

★ このフィリピン戦敗北の時点で戦争終結への決断していたら・・・
 本土空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、「満州」へのソ連の侵攻と引き揚げの悲劇もなかつた。

・45年2月  近衛首相の終戦への上奏について、天皇は「もう一度戦果をあけでからでないと難しい」
・日本に降伏を求める連合国のポツダム宣言(45年7月26日)が発表されても「黙殺」「戦争邁進(まいしん)」の発表。

~ 戦争指導部の頭は「国体(天皇絶対の体制)護持」だけで、「本土決戦」「一億玉砕」を



【戦争終結  日本国民への加害者としての戦争指導部】

不破「スターリン秘史 対日戦の終結 」より

○ 「防衛線」の後退 ~ 数十万の兵士を置き去り 

・アメリカ 42年8月 ガダルカナル攻撃で開始した南部・中部太平洋での反撃に成功。日本は「防衛線」の大きな後退を余儀なくされる  /が、最終的勝利に遼遠と見て、ソ連の対日参戦を強く要望

・ 大本営政府連絡会議 43年9月 「絶対防衛線」の決定 / 「千島、小笠原、内南洋〔中、西部〕、西ニューギニア、スンダ」に線引きしたもの。南部・中部太平洋地域〔マーシャル群島、ラバウル、北部ソロモン諸島、東部ニューギニアなど〕を事実上放棄する構想 / この地域に送り込まれた数十万の部隊は、撤退の手段、補給・兵たんの方策も講じざれず置き去りに。全体で百数十万もの餓死者を出した「飢餓戦線」が太平洋全体をとらえたもの

○日本。戦争指導部の末期症状

(1) 無為無策の惨敗が続く – フィリピン攻防戦の場合

・44年10月 「絶対防衛線」も次々とくずされ、米軍はフィリピンを集中的に攻撃
・最初の大失敗/ 10月12-15日「台湾沖航空戦」  
フィリピン上陸作戦にむけ、制空・制海権の確保のために台湾~沖縄に接近してきた米機動部隊を日本の基地航空部隊が迎撃したもの。/ 前線部隊の過大な報告を集計した戦争指導部が、空母17隻、戦艦3隻を撃沈・撃破し機動部隊を壊滅させたと発表〔実際は、ほとんど無傷〕。戦争の状況も把握できない無能さを世界に曝け出した。
・陸上作戦の戦略的失敗 
 アメリカの作戦 レイテ島を攻略し、そこを足場にルソン島本島に迫るもの ~ 日本軍も、それを予測し、ルソン島に主力部隊を展開し、ルソン島で決戦を行う計画 /「台湾沖航空戦」 の架空の戦果で強気になった大本営は、機動部隊なしの米上陸軍は水際で一挙に撃滅できると判断 ~ 現地の反対を押し切ってレイト島「決戦」に変更・強行 / 10月20日 強力な機動部隊の援護のもと米軍がレイテ島上陸
・海軍がレイテ沖の米艦艇を撃滅しようとした総力を結集したレイテ沖海戦も失敗。
・それでも大本営は「レイテ決戦」を呼号。ルソン決戦へ方向転換したのは2ヵ月後~ しかも、秘密裏の転換だったため、小磯首相も事実を知らず、新年になっても「レイテ決戦」を呼びかけ続け、天皇から注意される。
・この状態で「ルソン決戦」が成功するはずがなく、ヤルタ会談の前日(2月3日)、米軍は首都マニラに突入
 
★敗戦必至も戦争継続に固執

・この段階でも、戦争継続論は強力。戦争終結の道を求める人の中でも「もう一度戦果をあげてこそ」国体護持に有利な講和交渉ができるという事実上の継続論が根強くあった
・その頂点が天皇 / 長く首相の座にあった近衛文麿 2月14日、“敗戦はもはや必至となった”として「国体護持の立場よりすれば、一日も早く戦争終結の方途を講ずべきものなり」と訴え~ 天皇の答え「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」 /近衛の情勢判断の根底には、“このまま敗戦になれば、共産革命になる。「一億玉砕」を叫ぶ連中の背後には国内を混乱に陥れ、目的を達成しようとする革命分子がいる”という妄想的なものだが「敗戦必至」という情勢判断はきわめて現実なもの
→ このとき戦争継続を断念していれば、各地の大空襲も、沖縄戦も、原爆投下も、ソ連軍の満州蹂躙もなかった。/何の勝算もないまま、「国体護持」の空文句で、国民に戦争の惨禍を強制し続けた戦争指導部の罪の深さ

(2) 対ソ・和平仲介交渉   世界の動きへの無知 

・6月 表向きは「本土決戦」をうたいながら、ドイツ降伏をうけ、ようやく和平交渉の動きが起こる
・その具体化が、米英との和平交渉の仲介を中立関係にあるソ連に頼もうという対ソ交渉論/木戸幸一内大臣が6月9日、「時局収捨対策思案むとして天皇に言上

→ 世界情勢への驚くべき無知
① ソ連に仲介を頼む発想/ 44年11月革命記念日にスターリンは日本を「侵略民族」「侵略国」と批判、45年4月に日ソ中立条約の延長はしない通告、その間に、米英ソのヤルタ会談の開催。もはや中立的立場でないことは明らか
②講和の条件 常に平和を観念してきたと名誉ある講和、占領地の放棄、占領地に駐屯している将兵はわが国が自主的に撤兵する、軍備の縮小 / 侵略戦争、植民地支配の責任、反省がまったくなく、手前勝手なもの

→ 緊急事態を理解しない、工作方式の愚かさとテンポの悠長さ
①6月9日、天皇は木戸案を受けいれるが、最後戦争指導会議のメンバーとの懇談会で「他面、戦争の終結についてもこの際具体的に研究し努力してほしい」と発言したのは、約2週間後の6月22日
②ソ連大使との工作では「関係改善」の話だけで和平交渉には一言もふれず、進展せず。
③近衛を天皇の特使として派遣し、事態の打開を図る。/特使任命7月12日、モスクワ連絡13日(ポツダム会談2日前) ~ 本当の任務を軽々しく言わないという見栄から「天皇の“大身心”を伝える特使として近衛が天皇の“御親書”をもってモスクワに派遣される」としか連絡せず。/ソ連から「何しに来るのかわからず回答不可能」と通告される
④外相が「無条件降伏にあらざる和平の実現」するため「戦争終結の斡旋依頼」が目的との電報を日本大使に打電。その内容がソ連に伝わったのは7月25日、日本軍の無条件降伏を求めたポツダム宣言発表の前日

(3)対ソ・和解交渉   日本側が発案した「棄民政策」

・ソ連との交渉に臨む基本的態度の検討~ 日本の今後に大きな影響与えた深刻な遺産を残した
・交渉で提起する条件 / 国体の護持は絶対。一歩も譲らず。国土は、他日の再起に便なることに務めるも、止むを得ざれば固有本土をもって満足する

①沖縄、千島の切り捨て
注釈で「固有の国土」の解釈として、譲歩の限度を「沖縄、小笠原、樺太を捨て千島は南半分を保有する程度」/
 カイロ宣言の無知。さらに過酷に惨害を押し付けた沖縄県民に責任も思わず、平然と「国体護持」の代償とする無責任、無慈悲な態度

②軍備、賠償、国民生活での棄民政策 ~ 労務提供、現地置き去り

 (3)ロ 「海外にある軍隊は現地において復員し、内地に帰還せしむることを努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留することに同意する」~ 注釈では「現地残留とは・・・弱年次兵は一時労務に服せしむること等を含むもの」
 (4)イ 「賠償として一部の労力を提供することに同意する」、ロ「 一時若干軍隊の駐屯を認む」
 (5)ロ「国土に比して人口の過剰なるに鑑み、これが是正のために必要なる条件の獲得に努む」(現在海外にある日本人を現地に土着させるという計画)

★交渉条件に、天皇を頂点として戦争指導部の大局的な合意があったことは明白~ 対ソ交渉が不発に終わったため、表面化しなかったが、戦後処理の大局的方向として、戦後、多くの国民的悲劇をもたらした。

○ポツダム宣言めぐる戦争指導部の無能、無責任な対応

・ポツダム会談後、アメリカは、日本本土上陸作戦を放棄し、原爆による都市爆撃を日本に対する唯一の決定的打撃と位置づけて、その準備に集中 / ソ連は、満州攻撃で日本の関東軍を撃破する作戦を準備 ~ ドイツ降伏により、米ソ連携から対立へ変化する中で、相互に連携もなしに、どちらか先に決定打を与えるかを競う形で進行

・お粗末を極めた日本の戦争指導部の対応
①宣言発表の翌日の最高戦争指導会議の構成員会議と閣僚会議 /東郷外相「条件を示しての講和の申し出であり、これを拒否するときわめて重大な結果なる」とし、「当面は意思表示せず、対ソ交渉を進めてソ連の出方を見極めた上で、措置を決めるべき」と提案~ 軍部から強行意見が出たが、外相提案了承。新聞発表は、ポツダム宣言が発表されたことだけをニュースとして掲載。

②翌日の情報交換会議で、軍部が「士気にかかわる」として、「黙殺する」という政府の態度を正式に発表せよ、と乙力。/ 鈴木首相が、閣議決定に反して「黙殺」声明を記者会見で発表

③声明は「戦争完遂にあくまでまい進するのみ」と、ポツダム宣言拒否、戦争継続を世界に発信

★ ポツダム宣言発表後、7月27日~28日という最も大事な時に、戦争指導の最高機関――天皇が出席する最高戦争指導会議を開催せず。一部勢力の無分別な考えだけで、連合国に最終提案拒否という決定的な態度表明をおこない、米ソにゴーサインを出した / 8月6日 広島原爆投下 8日ソ連参戦 9日長崎原爆投下

○満州で何がおこったか

(1)3つの大惨害 

①ソ連軍による殺戮、略奪、強姦。(ソ連部隊には、囚人を使った野蛮な武装部隊を有力な部隊として含んでいた )
②関東軍の数十万の将兵が、ポツダム宣言の条項を無視して、シベリアに抑留、長期に強制労働で使役された
③当時、満州にいた百数十万の一般日本人が、満州に遺棄された。
~ ②と③には、戦争指導部の恐ろしい計画が原因となっている。

(2) シベリア抑留

①モスクワからの2つの指令
・8月16日 べリアの指令 /捕虜の扱いについて「3.日本・満州軍の軍事捕虜を、ソ連邦領土な運ぶことはしない。軍事捕虜収容所は、可能な限り、日本軍の武装解除の場所に組織しなければならない」
→ ポツダム宣言にそった内容
・8月24日 スターリンの命令書「1.極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本人――日本軍事捕虜を50万人選別すること。 2.・・・ 千人ずつからなる建設大隊を組織すること。」
→ 8日後にシベリア強制政策に逆転

・背景/ もともとスターリンは捕虜を強制労働させる立場。ドイツ兵も大量に国内建設に利用、それをポツダム会議でもチャーチルに平気で話をしている。/が、ソ連は、8月9日にポツダム宣言に署名
~ポツダム宣言の規定は明白 「武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的な生活を営むの機会を得しめられるべし」

②180度転換~なぞを解くカギは関東軍の対ソ交渉
・全国捕虜抑留者協会会長・斉藤六郎氏が、ソ連崩壊後の1993年、関東軍がソ連側に提出した諸文書を入手。その後、日本側の資料も明らかに ~ あらかになった事実とは
・交渉の重要人物 大本営で活動していた朝枝繁春という参謀。8月10日、勅命を奉じて関東軍に突然派遣

~ 勅命で下された大本営の命令書とは 

1.米ソ対立抗争という国際情勢を作り出すために、赤軍をできるだけ早く朝鮮海峡まで進出するように、作戦を指導せよ
2 戦後の帝国の復興再建を考えて、大陸にいる日本人はできるだけ多く大陸に残留するようにせよ。残留する日本人は国籍をどう変えてもかまわない

→要するに、関東軍はたたかわないで撤退し、ソ連を早く進出させ、そこにいる日本人はソ連占領下に放置しろ、というもの。/ 近衛特使の「人口過剰」の対ソ交渉案と同根。戦争指導部、軍首脳部も一致した方向
→ この内容を持ち、10日、朝枝は関東軍司令部に、大本営の考えを伝える

・さらに8月14日 政府は「慰留民の現地定着」の緊急電を、満州国特命全権大臣に指令
・朝枝 21日 軍使として、ソ連の司令官、政治局員と面会/ 記録はないが・・・
 26日付で大本営に提出した「実施報告」 (斉藤氏が発見した重要文書)
~「在留邦人は・・・極力開戦前の状態に復帰し、ソ連側の命令のもと活動を再興する如く在留邦人においてはソ連側と交渉し努力中なり。」
「規定方針どおり大陸方面においては残留邦人および武装解除後の軍人はソ連の庇護下で満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とする」

→ 「武装解除後の軍人」を「ソ連の庇護下で土着して生活させてくれ」という要望が、スターリンが日本の将兵抑留をためらったポツダム宣言の縛りを突破できる根拠を提供するものとして活用/ これが24日の命令書となった。21日の会談の三日後のこと

・8月29日 関東軍司令部が「陳情書」を提出  ソ連軍へのお願いとしていっそう明白に

 一般居留民「希望者はなるべく駐満の上貴軍の経営に協力せしめ、その他は内地に帰還せしめられたい」

 軍人「もともと満州に生業を有し家庭を有するもの並びに希望者は満州にとどまって貴軍の経営に協力せしめ、その他は逐次内地帰還せしめられたい」、帰還までの間は「極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたい」と、数万の満州在籍者が元の職場に復帰すれば産業の運営に役立つ。その他、石炭採掘、満鉄、電々、製鉄会社などに働かせていただきたい、とお願い。

★シベリア抑留 スターリンと日本の戦争指導部の合作 /戦争指導部の国民に対する犯罪的行為

(3) 日本国家による“満州棄民”

①もう1つの重大な犯罪~日本の政府と軍が、国策として多数の国民を満州に送り出しながら、危急の時に、国民を救い出す方策を何一つ講じなかったこと。

・満州 1931年の「満州事変」という一方的な侵略戦争で、中国から強奪し、32年傀儡国家「満州国」をつくりあげ(国際連盟で42対1で建国否定の決議。脱退のきっかけに)、敗戦まで占領しつづけた地方/ 関東軍総司令官が特命全権大使を兼任。国家機構全体が関東軍の支配下
・敗戦当時 一般居留人135万人(関東軍資料)、うち「満蒙開拓義勇軍」として送り込んだ30万人の農業青少年年を含む

・日本の戦争指導の方針~“日本に帰国させない。満州に土着してそのまま生活しろ”というもの
 その最初が近衛文書/ 朝枝参謀の命令書が実証「戦後の帝国の復興再建を考えて、大陸にいる日本人はできるだけ多く大陸にのこすようにせよ」/関東軍の対ソ交渉 帰国の要望なし、「現地土着」への協力の要望だけ

・関東軍に満州防衛の任務なし/45年5月大陸命 対ソ戦開始の際は、朝鮮の北部の三角地帯以外の満州の放棄/8月9日大陸命「皇土朝鮮を保護」と、日本本土と朝鮮の防衛が任務と命令/ 8月10日 朝枝が書き天皇の承認をえた命令=関東軍は撤退しできるだけ早期にソ連軍を朝鮮海峡に引き寄せよ、という満州、朝鮮を放棄するもので、在住する日本人の「大陸残置」方針を明記
→ 戦争指導部も関東軍も、一般日本人の保護、生命と安全の保証などはまったく考えず

・だから、敗戦後の関東軍の対ソ交渉も「大陸残置」への懇願に終始/既定方針の実行であり当然と考えた
→肝心の日本人の意見は何一つ聞かず、軍が決めたら国民は従うだけ、とう軍部絶対の傲慢さをむき出しに示した。

・世界の動きへの無知 ~ 満州がソ連領になるという思い込み(自分たちの行動から発想)、炭鉱、満鉄など仕事先まであげて、現地土着を懇願 ~ 満州は中国領。ソ連は軍事的任務が終了すれば撤退を米英中に約束して参戦

→ソ連軍は「土着」の要求など相手にせず46年6月撤退。満州の統治は中国に。60万人の将兵のシベリア移送も
完了。/満州経済にしたことは復興の手助けでなく、工場地帯から持ち出し可能な機械類を根こそぎソ連に持ち帰えったたけで、在満日本人のことは関心外のこと。

②国家に捨てられた在満日本人はどんな運命をたどったか
・8月10日 関東軍は撤退を決定。特別列車で脱出させたのは自分たちの家族と満鉄関係者だけ

・新京の一般市民は、危険な戦況、総司令部が脱出したことは、一切知らされず、ソ連軍の侵攻・占領に直面
・開拓団が配置された東・北・西満はさらに悲惨/ ソ連参戦後、関東軍が一般日本人、開拓団員に「数日の疎開。4日分の食料と身の回りのものをもって○○に集まれ」と命令 ~ 指定された場所にあつまると、すでに部隊は退却後。無数の日本人が生活拠点から引き離され、知る人のいない荒野になげだされ、ソ連軍、「報復暴民」(政府と関東軍は、2千万ヘクタールの土地を地元農民から奪い、開拓団を入植させた。その怒りが開拓団民にむけられた)に追い詰められ、戦死、餓死、病死、凍死に。

・ソ連参戦から引き上げ終了までの満州での一般日本人の死亡 24万5千人。当時在満一般日本人の2割近い
*永江満江「鎮魂満州」~「満州で死んだ人に政府も一言の哀悼の言葉もかけてない」「北満方正件で死亡した4千人を中国人が何日もかけて荼毘に付して大きな日本人公墓をつくってくれことに感謝もしないし、管理費も拠出しない」「24万5千人の犠牲者も政府が誠意をもって調べた数ではない」(民間団体が生き残った関係者の記憶をもとに、各収容所人数から死者行方不明者を引いたり足したり、逆算したりして出した数)

★今年は戦後70年、あの戦争がアジア諸国民に侵略と植民地化の巨大な惨害を与えた侵略戦争であったことを直視するとともに /日本の戦争指導部が、日本国民に対しても深刻な加害責任を負っていることも直視すべき

【軍部ファシズムの形成/ 国際連合とは何か  】

宮地正人「第二次世界大戦をどう見るか」より

Ⅰ 第一次世界大戦後の戦争の違法化 

(1) 国際連盟規約から不戦条約へ

・WWⅠは総力戦、戦争をはじめた各国がコントロールできなくなった ~ 戦争はじめたロシア帝国で革命。ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマンという3つの帝国が解体し共和国に。~ 戦争の位置づけの大きな変化
①国際連盟規約(1919年) 10条「連盟国は、連盟各国の領土保全及び現在の政治的独立を尊重し、かつ会部に侵略に対してこれを擁護することを約束する」
②ワシントン会議(1922年) 東アジアの領土保全のため中国にかかわる国が締結した9カ国条約(日本も参加)
1条 目的「中国の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること」 
③パリ不戦条約 1928年 1条「締結国は国際紛争の解決のため戦争に訴えること非ずとし、かつその相互関係において国家の政策の手段として戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す」/日本も調印加盟

~ この精神にもとづき、1930年、ロンドン軍縮会議が開催/ 米英日で軍縮をノード

* 浜口雄幸首相が調印後に世界にむけラジオ放送で祝辞 「不戦条約は、戦争を絶対に否認したるものでありますがゆえに、いやしくもこの厳粛なる約束に違反するもがありますならば、その国はもちろん全世界を敵とすることになる」「現在の世界は列強互いに相敵視して・・・力に訴えてまでも自国の利益を開拓せんとする、いわゆる冒険時代を既に経過しまして、いまや各国互いに相信頼して共存共栄をはかるとこめの安定時代に到達している」「ロンドン海軍軍縮条件は・・・国際的平和親善の確立にむかって大いなる一歩をすすめたるもの」「われわれはますますこの崇高な事業の進展を切望してやまない」(1930/10/27)

(2) 天皇機関説の根本

① 軍の権限は、内閣の権限にりも下位にある  天皇機関説の要
・海軍軍縮会議への軍部、枢密院、政友会、民間右翼の猛反撃
・猛反撃に対する法理論 美濃部達吉の「天皇機関説」
その要は、軍統帥部の大権は、軍編成の大権と区別するというもの~ 陸海軍の編成の決定は、内閣のみがその輔弼の任にあたるべきもの。/軍統帥権は、群の活動を指揮統率する権利であり、軍編成権はではない。軍軍令部条例は、勅命でなく、軍令にすぎず、軍令部は国家の機関ではなく、軍隊内部に通用するにすぎない。
 → 内閣の権限よりも、軍令関係の権限は下位にある、という明治憲法の法解釈から導きだした政党内閣の武器
 → 明治憲法の立憲主義的解釈をもとに、国際法を遵守し、世界第三位の地位を確保しようとした。
・天皇機関説をとった浜口首相は、狙撃され重症を追う。

②満州事変の「不戦条約」にもとづく解決の努力
・外相の第一次声明「軍事占領に非ず」「なんらの領土的欲望を有せざる」
・関東軍の暴走に外相の天津の総領事宛の電報「まったく時代錯誤の計画」、9カ国条約に抵触し「重大なる紛議を生ずべく」と警告
・スチムソン米国務長官 不戦条約をもとに「事変以降の日本の軍事行動を認めない」と主張

→ 不戦条約は、違反に対する制裁はないが、それを補うものとしてスチムソン主義~ 不戦条約に違反する方法で生じた事態、条約、協定きこれを承認しない、が提唱された。/最初の提唱は、31年1月8日 在日米大使館通牒
 
Ⅱ 軍部ファシズムの形成と展開

(1) 国際連盟の脱退

満州への侵略戦争はベルサイユ態勢、ワシントン体制の転覆と表裏一体の動き

①テロによる満州国承認
・出発点 1930年 浜口首相狙撃
・31年3月 「3月事件」と呼ばれる軍事クーデー計画が持ちあがる
・31年9月 関東軍の暴走による「満州事変」勃発
・31年10月 「10月事件」 軍部内閣樹立のクーデターが計画される
・31年12月 犬養内閣誕生 「建国すればまさに取り返しのつかないことになる」と満州国建国に躊躇
・32年「5.15事件」 犬養首相殺害。 軍部は「政党内閣つくるを許さず」と、斉藤内閣を組織させ、満州国を承認 

②国際的な批判の中、連盟脱退
・33年2月 国際連盟  満州国建設否定の勧告を 「42対1」で採択 
 日本の説明 満州に中国の主権があったというのは歴史の歪曲。中国主権は久しい以前に消滅、、満州は独立国
・33年3月 脱退

(3)軍を国家の中核に据える

①国際的孤立の中での、日本の今後についての青写真
・1934年10月 陸軍省作成のパンフレット「国防の本義とその強化の提唱」
  国防を国家発展の基本的活力と位置づけ(「たたかいは創造の父」)、日本の全分野を根本的に立て直すと主張
~ 軍を国家の中枢に据える軍事ファシズムの国家構想/ 3つの柱  「反共・反ソ」「反中国」「反英米」
 
②天皇機関説への攻撃
・軍中心の国家づくりの敵~ 軍令部より、内閣、内閣決定を上位とする「天皇機関説」
・35年 天皇機関説排斥運動が大転換される~ 統帥権独立を核に軍と天皇の直結を実現しようとする運動
35年 天皇の意思形成に大きな役割はたす内大臣・牧野伸顕の辞任
36年 天皇機関説にたつ法制局長官辞職 (安倍政権と同じ手法)
・36年 皇道派青年将校による「2.26事件」 / 軍部ファシズムに抵抗する人物の一掃
 軍拡のための国債増発に断固反対していた蔵相・高橋是清の殺害
斉藤内大臣、統制派の頭目とみられた教育教官の殺害  
天皇機関説にたつ枢密院議長・一木喜徳郎が辞職おいこまれ、軍に全面協力する平沼麒一郎に交替

③軍部ファシズムの完成
・34年12月 ワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告
・36年1月  ロンドン軍縮会議脱退
・高橋殺害後、新たな蔵相は、軍事費拡大を支える公債発行を許可。歯止めなくす

Ⅲ 軍部ファシズムと昭和天皇

(1) 関東軍の行動に理解

・陸軍首脳部は「2.26事件」に動揺 ~ 断固とした反乱軍鎮圧を命令したのが昭和天皇
~ 軍の統帥者としての自覚 /天皇の命令が出ていないのに軍を動かしたことは「朕の軍隊ではない」

★「統帥権の独立」・・・内閣及び総理大臣が輔弼し責任を分有する性格でなく、大元帥昭和天皇が正確な判断をくだせるよう、陸軍参謀本部、海軍軍令部が補佐するもので、統帥と軍事行動の全責任は天皇一人にかかっており、実際、満州事変から敗戦までの全局面にかかわったのも昭和天皇一人である。

・満州事変~ 関東軍の暴走、しかも不戦協定など国際法に違反する事態
→ が、昭和天皇は、命令なしに軍を動かしたことを容認。関東軍の行動を理解していからであろう

(2) 軍や宮中の補佐のもと 

・天皇は戦後「青島還附を強いられたこと・・・国民的憤激を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑えることは容易な業ではない」(1990年、文芸春秋「独白録」)
→ 「青島還付 ワシントン会議中の日中交渉で日本が認めたもの。/ベルサイユ条約に調印し、青島を還付し、不戦条約に調印/ ロンドン軍縮会議の承認  ~ これらは昭和天皇が最高指導者として認めたもの。
・天皇の20年代の行動と矛盾する満州事変での対応
→ 首相、外相よりも、軍部に近い考えをもっていたと考えられる。
・満州国の対応について、政府が決める前に、「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」(32/1/8)を下す
~「自衛の必要上勇戦力闘以ってその禍根を抜きて皇軍の威武を内外に宣揚せり」と関東軍を誉める内容 

・軍統制の補佐役=「強硬派」の陸軍参謀総長(31年)、海軍軍令部長(32年/ロンドン軍縮会議反対派)を就任
・犬飼内閣の陸相に、軍部が強く要求した人物就任
・軍に関して、軍令部、参謀本部、陸海軍の軍人が繰り返し上奏する事態が生まれる
→ 内閣の輔弼なしに、天皇と軍隊が直接結びつく事態に。( 明治憲法の天皇機関説 内閣の輔弼責任を否定)

・37年 中華民国に宣戦布告していないにもかかわらず大本営を設置 日清・日露戦争のときと違い、文官をいっさい排除を採用 →  政府との連絡は「大本営連絡会議」(憲法規定なし)を設置
・大本営連絡会議   陸海軍の長、次長、陸海大臣の6名に対し、文官は、総理・大蔵・外務の3名 /しかも軍事作戦については、文官はいっさい協議外
・38年 国家総動員法で、議会の予算審議権を剥奪。すべて勅命で決められるように変更
→ 天皇と軍部がすべてを決定する「軍事ファシズム国家」の完成

・開戦の経過 /41年7月 「大本営連絡会議」の御前会議で「対米英戦を辞せず」 /9月6日御前会議「10月上旬開戦を決定」 /11月 連合艦隊が、アリューシャン列島集結、ハワイに向けて出航 /12月1日 「大本営連絡会議」 御前会議で米英蘭への宣戦布告の決定 

・昭和天皇のもとで形成され軍事ファシズム体制で中でしか、自らが決定的できない立場に追い込んだもの
→ 45年8月15日 天皇自らが、この国家を葬ったのは、「ご聖断」しかあり得なかった。

Ⅳ 国際的孤立から枢軸軍事同盟へ

・「42対1」の国際的孤立から「脱却」 ~  新たな国際的連帯をつくることが軍部ファシズムの目的に

①33年3月 日本の国際連盟脱退  ドイツ、イタリアの「手本」に
~ ヒトラードイツ「ベルサイユ体制打破」と33年10月脱退。翌年、イタリアと会談。35年徴兵制導入・再軍備へ
~ イタリア 35年10月 満州事変をならって、エチオピア侵攻・併合/国連は侵略と規定、経済制裁へ
~ スペイン 36年7月 人民戦線内閣に対し、フランコ軍が内乱= モロッコのリーフ地域〔スペイン領〕の住民の内乱を弾圧する植民地軍隊としてフランコが軍を主導~ 満州事変に通じる植民地における軍の機能発揮
・36年10月 ベルリン・ローマ枢軸の正式決定/ 11月 スペイン・フランコ政権を独伊が承認
・36年11月 日独 ソ連を敵とした防共協定調印

②37年 ヨーロッパ、アジアで、連動して侵略戦争の展開
・日本 7月 盧溝橋事件から日中戦争へ
・ ドイツ 4月 スペイン・ゲルニカ 無差別爆撃
・ 11月 日独防共協定にイタリア参加/ 12月 イタリア 国連脱退
・ドイツ 38年オーストリア併合、39年チェコ併合、独ソ不可侵条約とポーランド侵攻
・ナチスドイツの快進撃をみなから、40年9月、日独伊3国軍事同盟と世界の分割計画を決定

Ⅴ 国際連合  ユナイテッドネイションズ とは何か

・枢軸が最も強力に見えた時期 40年パリ陥落、イギリス空爆~ イギリスがいつ降伏するかわからない事態/ アメリカ イギリス支援しても、ドイツとは戦争状態に入らず

・転換点 41年 独ソ開戦  / 日本は、ドイツ早期勝利を確信。7月、南部仏印進駐を開始
→ アメリカ スチムソンドクトリンを日本に突きつける / 米英によるソ連への軍事援助開始
・米英による戦争目的の明確化 大西洋憲章の発表~ナチ圧制の壊滅、自由と民主主義の保障

・転換点2 真珠湾攻撃  三国同盟に従いドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告
→ これにより、欧州大戦と日本のアジア侵略が結びつき、第二次世界大戦に。
・枢軸3カ国を、如何に、軍事的に打ち破るかの動きが表面化
→ 42年 ワシントンで26カ国が加盟する連合国を結成   ユナイテッドネイションズの呼称をとる 
宣言は① 大西洋憲章が共通の戦争目的 ②戦争のための相互協力 ③単独講和は結ばない
・国際連合結成へ 43年 モスクワの外相会議で結成の方向確認、45年6月46カ国で憲章採択、10月正式発足
→ ユナイテッドネイションズとは、日独伊の侵略戦争に対して戦った連合国
→ 「あの戦争は侵略ではない」「アジア解放の戦争」と主張する国は、いっさい信用されない/敵国条項の規定

・日独伊3国に対する戦いを構成する内容
 ① 連合国の統一したたたかい   アメリカとソ連の軍事的連携
 ② 民族解放闘争 特に中国、ベトナム 自立的な共産党組織が闘争を指導/独ソ不可侵条約によるソ連から国家エゴによる干渉で、世界の共産党運動は大打撃。その時期に自立的・創造的に民族解放闘争にとりくむ
 ③ レジスタンス運動  イタリア 、レジスタンス組織がムッソリーニを逮捕、自らの手でファシズム体制を打破

Ⅵ 国連憲章と憲法九条

・国連憲章  不戦条約を発展させたもの。が、戦争を放棄していない。武力攻撃に対する自衛権を規定
・日本国憲法 戦力を保持しない、交戦権を認めないと、紛争解決に武力を使わないことを誓った最初の憲法
・国連憲章〔45年6月〕と日本国憲法〔46年〕は、なぜ違ったのか
→ その間に、広島め長崎の原子爆弾使用 / 武力で国・国民が壊滅する時代に入ったとの認識

Ⅶ 二次大戦と現在
①ドイツと違い、二次大戦の意味が十分に議論されないまま戦後史を展開してきた日本
~ アメリカの冷戦体制に組みこまれ、アジアの目ではなく、アメリカの軍事的立場でものを見るようしむけられ、戦争責任問題をドイツのように突きつけられなかった。〔メモ者 ドイツ 戦後最初の大統領アデナウワー 「ヨーロッパの一員としい生きる」 〕/ 朝鮮戦争、ベトナム戦争の出撃基地に/ アメリカの要請で65年日韓基本条約締結、韓国軍のベトナム派兵〔日本は、九条があったので、派兵は食い止められた〕

②新しいアジア形成の出発点  ベトナム戦争での米軍敗退
・76年 東南アジア友好協力条約締結   軍事同盟SEATOの崩壊/95年非核地域条約締結
・米中国交回復。国連への中国登場〔台湾退場〕
 〔メモ者 中国は66年~77年 「文化大革命」という毛沢東による内乱状態〕
・韓国 79年朴大統領の暗殺 民主化へ / 92年 中韓の国交樹立
・フィリピン 86年 マルコス親米独裁政権が人民のたたかいで崩壊
・台湾 87年、国民党独裁が終わり、戒厳令が撤回
・インドネシア 98年、65年に大量虐殺・クーデターで生まれた反共政権のスハルトが退陣を余儀なくされる

・地域共同体としてのアセアン
 95年、アセアンにベトナムが加盟。地域共同体づくりへ / アジア通貨危機にたいしてワシントンコンセンサスを拒否し独自に対応で、アセアンの連携が強化
 
★70-80年代以降の東アジアの大きな変化/90年代以降の冷戦構造の停止・自由な地域の動きが展開できる変化
 この中で、改めて第二次世界大戦とは何か、日本の侵略と戦争責任は何か、日本はどうアジアで生きていくのか、が突きつけられている
~ その出発点は、82年、文部省が教科書の「侵略」を「進出」と書き換えたことへの中国・韓国・北朝鮮の激しい抗議/このときから、日本の戦争責任が外交のテーブルにすえられた。戦争補償問題の初めて起こってきた。
〔国際舞台に復帰した中国の内乱の集結、東アジアの親米独裁政権の相次ぐ崩壊により、各国、各国人民が声を上げられる条件が生まれた〕

~ 日本のすすむべき道は、憲法九条を柱とする日本国憲法を表に立て東アジアの地域的結束をつくること。その前提が戦争責任を総括すること。/ 安倍内閣は、一番まずい方向に、日本と日本国民を追い込もうとしいる。

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