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原発 見送られた「集中立地」規制

 福島原発事故は、1号機の水素爆発にはじまって、他の原発の対応が難しくなり事故が拡大した。これを教訓とするべきなのに、集中立地規制は、「時間がなかった」と見送られた。毎日のコラム
 拡散予測では福島原発と同規模の事故を想定した場合、1週間分の被曝量が100mSVになる範囲がすべての原発で30キロ前後に広がっている。国際基準は、10キロ時点の「原発敷地境界」の“年間”被曝量が100mSV以下。国会で、この状況を指摘した吉井英勝衆院議員の質問に対し、原子力規制委員長は、日本の全原発は原発立地審査指針「不適合」で「福島事故のような放出がおこらない対策を取らなくてはならないと動かせない」と答弁している。確率的には、放射性物質の放出量は総出力に比例する。安全基準をいうなら総出力の規制が必要である。
【震災2年…原発の安全基準=中西拓司 毎日3/13】

【震災2年…原発の安全基準=中西拓司 毎日3/13】

 ◇必要なのは「集中立地」規制

 東京電力福島第1原発事故から2年。過酷事故への備えを義務付ける原子力規制委員会の安全基準がまとまり、各電力会社は夏以降の再稼働を目指して安全対策を進めている。しかし、基準は事故の大きな原因である「原子炉の集中立地」には踏み込まず、規制が及ばないままだ。規制委は集中立地の問題点をあぶり出し、国内原発の構造的問題にメスを入れるべきだ。

 ◇コスト重視で過密避けられず
 「ベント(排気)など1号機の対応に追われ、2〜4号機の復旧が出遅れた」。政府の事故調査委員会に、第1原発の吉田昌郎元所長はこう証言した。6基の原子炉が並ぶ第1原発で、事故はどう拡大したのか。複数の事故調査報告書から振り返る。
 きっかけは1号機でのつまずきだった。運転員は1号機の冷却装置「非常用復水器」の操作に不慣れで、運転ミスを起こした。格納容器の圧力を下げるベント操作も電源喪失で難航し、3月12日午後、水素爆発が発生。せっかく仮設したケーブルが切れ、2、3号機の電源回復が遅れた。

 この結果、3号機は14日に水素爆発。さらに、3号機の水素が配管経由で4号機へ逆流し、4号機の使用済み核燃料プール周辺でも15日、水素爆発が起きた。三つの原子炉と四つの核燃料プールが連鎖的に制御不能になる「集中立地型事故」。一方、米国のスリーマイル島事故(79年)や旧ソ連のチェルノブイリ事故(86年)はともに一つの原子炉による「単独事故」だ。

 集中立地について、規制委は「1カ所に原子炉3基以上」と想定する。原子炉が最も多いのは東電柏崎刈羽(新潟)で、7基。このほか4原発で各4基、5原発に各3基を抱える。国内50基のうち8割近い38基が、集中立地に属する。

 第1原発には7、8号機増設計画もあった。私は01年までの6年、福島支局に勤務したが、建設予定地を訪ねた際、整地済みの小高い丘が二つあった。当時、東電幹部は「別の土地に立地すれば反対派を刺激する。一度受け入れた自治体にお願いするのがベスト」と説明した。活断層調査も最小限で済み、コストも浮く。計画は事故後中止されたが、もし稼働していたら事態はもっと悪化しただろう。

 世界最多の104基の原子炉がある米国でも、1カ所の原子炉数はおおむね3基以下で、日本の過密ぶりは突出している。規制委の田中俊一委員長が「集中立地(の規制)を考えるべきだが、既に現実に存在している」と慎重姿勢を示すのも、構造的問題へは手出ししにくいからだ。

 この結果、2月に決定された基準は集中立地の根幹に触れないままになった。原子炉冷却作業を遠隔操作する「特定安全施設」の設置を義務付け、原子炉間での重要配管や電源設備の共有を禁じたが小手先に過ぎない。基準は巨大津波やテロ、航空機落下などを前提にしているのだから、原子炉数の規制に乗り出すのが筋だ。「規制の議論があってもしかるべきだったが、時間がなかった」。基準作りを担当した規制委の更田豊志委員はこう釈明する。

 一方、国会事故調は報告書で「多数の原子炉が集中する原発では、より保守的な安全目標が設定されるべきだ」と指摘。国会事故調参与を務めた木村逸郎・京都大名誉教授も2月の規制委の会合で「炉心溶融しそうな原子炉を三つも抱え、現場は人間業でできない対応を強いられた」と、集中立地の弊害を訴えたが、反映されなかった。

 ◇起こりうる「悪魔の連鎖」
 集中立地は、広域的な問題もある。日本は福島や青森県下北半島、福井県若狭湾沿岸に原子力施設が密集するからだ。事故対応した枝野幸男・元官房長官は、第1原発を引き金に事故が近くの第2原発や日本原電東海第2原発へ広がる事態を「悪魔の連鎖」と表現したが、私は絵空事と思わない。

 11年3月13日夜、私は東京・内幸町の東電本店にいた。「地震で電源喪失し、非常用電源も津波をかぶり、冷却できない」。会見した清水正孝社長(当時)の言葉に、足元の地面が崩れ落ちるような恐怖を抱いたのを覚えている。当時の録音はICレコーダーから消去せずに保存したままだ。今でも聞き直す。
 しかし2年たち、東京の夜はいつしか明るくなった。福島からの距離、時間が遠のくほど記憶が薄らいでいるようだ。「大人が解決すべき課題を、未来の課題として子どもたちに先送りしないように願う」。田中委員長は11日、職員への訓示で福島県浪江町の小学校長からのメールを紹介し、再発防止を誓った。福島の教訓は何か、そして何が今後に生かせるか−−。福島に寄り添った原子力規制を強く望む。
(東京科学環境部)

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