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反原発・反オスプレイの声をどう伝えたか~新聞が示す客観的「事実」 琉球新報

 琉球新報のメディア時評。官邸前の反原発デモを、大手メディアがどう「伝えたか」「伝えなかったか」を検証。
「政治や社会制度に対する市民レベルの疑問や変化を求める声を、メディアが一方的に無視することを続けた場合、そのメディアを市民の知る権利の代行者として社会的に容認しうるのかといった、大きな命題にも関わってくる。」とし、「同じことはもちろん、オスプレイ配備拒否の抗議行動にほとんど触れようとしない、在京紙全般の態度にも共通する。」と結ぶ。
 感じること2つ。メディアの報道姿勢にまで踏み込んだ沖縄の危機感、怒りの大きさ。財界に有利な政治をつくるためのメディアを通じた国民の考え方への働きかけ… それが「メディアはウソをつく」ことが国民的体験となりつつあること。
【<メディア時評・官邸デモの価値判断>市民の声どう報ずるか 新聞が示す客観的「事実」7/14】

【<メディア時評・官邸デモの価値判断>市民の声どう報ずるか 新聞が示す客観的「事実」7/14】

 いま東京では、毎週金曜日の晩に官邸前のデモが続いている。主として従来の原子力行政や現在の政府対応への批判から、3・11以降、全国各地で市民集会やデモが開かれているが、この抗議デモは、いくつかの点で大きな特徴がある。
 たとえばそれは、ツイッターやフェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じた呼びかけに応じて万単位の市民が集まっている点、逆に言えば旧来型の労働組合などの動員型とは一線を画している点、したがってそこに集う層も、乳母車を引いた若いお母さんから仕事帰りの会社員など千差万別である点、首相官邸前に政治イシューで万単位で人が集まったこと自体、1980年代以降初めてである点、主催者の指示に従い予定の時間が来ると静かに解散するなど、自然集合的にもかかわらずきわめて秩序立ったもので、警備の警官とも和やかに接するなど、新しい政治デモの様相を示した点―などが挙げられる。いわば、「反原発」という政治課題に直接的に市民が自分たちの意思を示したという点のみならず、デモのあり方・形式も含め、社会的ニュース価値が高いと判断しうるものであった。

■在京各紙の報道姿勢

 ではいったい、こうした新しい市民の動きを既存メディアはどう報じたか。多くのメディアはその存在自体を知ってか知らずか、デモ取材に終始及び腰であった。それでも、官邸前デモが数を重ねるなかで、ようやく多くの新聞やテレビ局が報道する状況になった。ここでは再現可能性という点から新聞紙面に限り、一番のピークを迎えた大飯原発再稼働直前の6月29日に着目して、その報道ぶりを確認してみよう(原則、東京最終版)。
 一目瞭然であるが、これほどまでに、各紙のスタンスの違いがはっきり現れる例は珍しい。それは、まさに市民の意思を、メディアが紙面に反映させるかどうかの姿勢でもある。たとえば読売新聞(以下「読売」。他も同様)は、第2社会面に写真なしで14行のストレート記事を掲載し、官邸前の「抗議活動」を取り上げた。そこでは、再稼働に反対する活動があったことを伝えただけである。
 産経もほぼ同様で、1面では触れずに社会面のニュース短信欄の一つで、簡単に「抗議行動」の事実を報じている(写真はなし)。これは、原発行政の各社スタンスとも強く関係するところではあるが、市民の原発再稼働(もしくは原発そのもの)に対する反対の声が大きいことを、意図的に「伝えない」選択をした例である。
 これに対し、東京は1面トップで、大きな写真を添えて市民の反対の声があることを伝える。また同紙は、その前後で、デモおよびデモ報道についての〈解説〉までしている。その中の一節には、読者から指摘された以前のデモを報道しなかったのは取材に行っていなかったせいであるとして詫(わ)び、次回は必ず取材しますと約束までしている。まさに、意図的に「伝える」選択をしたということだろう。

■「言い換え」の危うさ

 このほか、毎日は1面ヘソ(ハラ)と呼ばれる3番手ニュースとして扱い、朝日はさらに遠慮がちながらも1面の左端に写真を配置した。言葉の使い方を見ても、東京と毎日は、主催者が使用している「反原発」という言い方をそののまま使用してデモを紹介しているが、朝日は「脱原発」とわざわざ言い換えをしているところが興味深い。そのうえで、社会面では再稼働に「反対の声」があるとしているが、こうした言葉の言い換えは、この間、相当数の新聞で数多く見られる傾向で、紙面上で「反」原発をあえて避ける姿勢が明確であるといえるだろう。
 もちろん、わかりやすさを追求して言い換えが必要な場合も少なくない。しかしこの場合は、市民の声を意図的に「改竄(かいざん)」しているとも捉えられかねないのであって、もしこれが何らかの「遠慮」や「自制」であるとすれば、市民の声を「誤って伝える」ことになるのであって、場合によっては「伝えない」ことよりも罪深いことがある。
 こうしてみると、読売と東京の両紙はまさに、もっともはっきりした形で市民の意思表示を紙面化する際の報道スタンスを表すものである。デモや集会は、個人レベルで一般市民が自らの意思を表現する数少ない表現手段であり、もっとも原始的(プリミティブ)ではあるものの、重要かつ貴重な表現の自由の行使形態であるといえる。
 したがって、社会はその自由を最大限認める必要があるし、政治はその市民の声を真摯(しんし)に受け止めて政策に反映させる義務がある。その仲介役の一つはメディアであって、デモや集会を報じることは、どのような市民の声が街にあるのかを示す、極めて客観的な「事実」であるからだ。

■市民との距離

 もちろん、扱いの価値判断はさまざまであることが好ましい。その結果として、千差万別の紙面が展開されることは「健全」なメディア状況、表現活動が存在していることの証左でもある。小さな扱いの社には当然、それなりの理屈が考えられる。たとえば、大飯原発再稼働の政治決定はすでになされており、それが覆る可能性はほぼゼロであって、その意味において市民の抗議活動が政治に与えるインパクトはないに等しく、ゆえに報道価値も低いという論理である。
 したがって、デモという形で現れた市民の声を、意図的に大きく扱うこともできれば小さく扱うこともできるし、それは一つのニュース価値判断といえなくもない。
 しかし少なくとも、最初に述べたような社会的なニュース(新しい出来事という意味での「ニュース」)価値がある官邸デモを、事実上「伝えない」という選択肢は、あまりに市民との距離を作りすぎる判断ではないか、と思われる。それはまた、政治や社会制度に対する市民レベルの疑問や変化を求める声を、メディアが一方的に無視することを続けた場合、そのメディアを市民の知る権利の代行者として社会的に容認しうるのかといった、大きな命題にも関わってくる。
 同じことはもちろん、オスプレイ配備拒否の抗議行動にほとんど触れようとしない、在京紙全般の態度にも共通する。6月18日の本紙特集紙面との落差が、東京では意図的に「伝えようとしない」現実を示している。
(山田健太 専修大学教授・言論法)


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Comments

ここ山口県岩国基地、きっと「もうありき」なのでしょう。

一応あの知事とあの市長は国へ反対要請はしたけど、
住民へのポーズとしか思えん。


原発・基地を抱えた山口県の知事選挙が始まっています。

日本の社会がかわる選挙です。
がんばろう//

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