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公共圏の軽さと親密圏の重さ・不安 ~変容する子どもの世界(メモ)        

土井隆義氏「個性を煽られる子供たち 親密圏の変容を考える」「キャラ化する/される子どもたち(一部分)」、内田樹氏コラム「教育の奇跡」よりの備忘録。
 土井氏の論議は、右肩上がりの目標が明確な時代から、多元化した価値観の時代・・・ということをベースにしており、市場経済がもとめる労働者象の変化、教育が市場主義のもとで「サービス化」している問題などの視点が希薄であるが・・・
教育は、教師は「この人は私たちが何を学ぶべきかを知っている」という確信を持っている人々の前に立つ限り、すでに十分に機能する—この社会を維持するために確立してきた公共圏の崩壊が、今日の教育の困難という点で、土井氏と内田氏の論には重なる部分がある。

【個性を煽られる子供たち 親密圏の変容を考える】

Ⅰ 親密圏の重さ、公共圏の軽さ

(1)親密圏における過剰な配慮

◇佐世保事件から
・「容姿、性格について悪口を言われた」と小六女子が同級生を教室内でカッターで刺殺(04年佐世保)
・「頭がおかしいといわれ腹がたった」と小六男子が家の包丁をもってきて教室で未遂(04年新潟三条市)
→ 友達関係が非常に重くなり、悪口を無視したり、笑いとばしたりしない余裕の無さ、が見える

◇「親友」という関係性

・親友同士だった佐世保の例〜 交換日記、チャット記録の一部から見えるのは、互いに対して異様とも思えるほど配慮しあうすがたと、その裏に押し込められた潜在的な対立感情、のように思われる。
・これまでの親友〜 互いの対立、葛藤を経験しながら、決別と和解をなんども繰り返すなかで、だんだんとゆるぎない関係をつくりあげていくもの。
・事件の少女〜 確かに親しい間柄だが、事件になるまで対立した形跡がない(報道の範囲)。

・現代の子どもにとっての「親友」
  「言いたいことがあってもどう言っていいかわからないし、わかっているのは個人的な奥の奥まで触れられたら、あっというまに逃げてしまって、それまでの親友関係は全部こわれてしまう」(井田による聞き取り)
→ 互いの違和感が顕在化しないように高度に気を遣いあいながら、友達関係をマネジメントしている。/相手に対してというより、関係性そのものに対して払われている。

・教育学者・深谷による中学生の調査〜 「いつも友人と同じ行動をとり、1人だけ目だった行動をしないようにしている」8割。「授業中わかっていても、みんなが分からないとわからないふりをする」7割強

・NHK若者調査
「相手もプライドも自分のプライドも傷づけられたくない」83%
「相手のプライバシーに深入りしないし、自分も深入りされたくない」79%
「相手の話が面白くなくても、熱心に聞くようにしている」78%

→中学教師河上「クラスの中では和気あいあいとしているように見えるが、話しを聞き、よく観察してみると、自分のまわりにバリヤーをつくって、その中に互いに入らないようにしているようだ。」

◇友だち関係の重さと不安

・親密な友人といえども、けっして気の許せる関係ではないよう。/むしろ、親密な相手だからこそ、気を許すことができない。⇔ かっての親友は、自分の素直な思いをストレートにぶつけることができる相手
・「素の自分の表出」に対し、相手との関係性の維持を優先する「装った自分の表現」に。
→ 親友、親、兄弟の関係が「装った自分の表現」を優先させなければならない関係に変質
・インターネットは、本来人間関係を多元化していくもの。それが既に存在する人間関係の濃度をさらに高める方向へと作用(「即レス」。つねにメールし確認する行動。「圏外」になる不安など)


(2)公共圏における他者の不在

◇少年による凶悪犯罪の実態

・少年犯罪は低下傾向。殺人事件もそれほど増加している。明かに増加しているのは強盗
→ 家裁の調査官、鑑別官の話を聞くと、万引きを発見されて逃げようとして怪我をさせた事例やその場の気分勢いでバッドなどを使用する事件。イメージされる「計画性された事件」とはない。(多くは、用意周到に家に押し込む、とうものではない)

・路上強盗=オヤジ狩 〜 同じ人間には「狩り」という表現はとらない。「狩り」の対象とは、同じ人間として憎悪の対象でもなく、たんなる「獲物」。/他者として認識していない。何の思いもない。その主観的世界に「被害者」という他者は存在してない。


◇「装った自分」から「巣の自分」へ

・会田雄次の戦争捕虜としての衝撃的体験/収容所に囚われていたとき、白人女性が目の前で平然と下着になり着替えた。あたかも彼がそこに人間として存在していないように。動物がモノのようにしか感受されてないことを身をもって思い知らされた。

・最近の若者のマナーの悪さ 〜 そもそもマナーが成立するのは、意味ある人間として他者を認識されていなければならない。問題は、感受できる他者の範囲の狭さ。
→ マナーの悪さは、他者を無視した悪意の結果でなく、他者の存在に無関心な結果。/欠けているのは、意味ある人間としての他者の認識。

・公共の空間で居合わせた見知らぬ他人同士も、無関係に孤立しているわけではない〜 視線をずらしたり、協力しあって不関与でいるべきだという規範に、関与しあっている。/他者を認めたうえで初めて成立する、演技としての無関心。匿名性の関係
→ 公共圏における若者の振る舞いは、かつて儀礼的な他人への無関心という「よそおった自分の表現」から「素の自分の表出」に逆にシフトしている。


(3)「つながり」に強迫される日常

◇過剰な配慮と無配慮

・1999都青少年基本調査〜 親しい間柄の人間には過剰なほどの優しさ、細かい気配り。反面、第三者にたいしてまったく無関心で、コミュニケーションを避ける傾向の強まり。/親しい間柄でも、自分が傷つくことに強い恐怖心をもち、とことん議論することを避ける傾向。

・世界七カ国の中高生の意識調査(中里、松井)
友人とうまくやれない悩みを最も強く抱えているのは抜きん出て日本の若者。/アメリカでは、困っている人がいれば見知らぬ他人でも積極的に助ける傾向があるが、日本は、自分のまわりの人間には異常に気を配るが、見知らぬ他人はなかなか助けることができない傾向にある。

→ これらに共通するのは/親密圏に人間には、関係の重さに疲弊するほど高度に気を遣って、お互いに「装った自分の表現」をしあうが、公共圏にいる人間に対しては、匿名的な関係さえ成立しないほど無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしている若者の姿
→ 親密圏の人間関係に維持運営だけに完全に疲弊し、外部の人間には気をまわす余裕もない姿。

・親密圏の人間関係の重さ〜 中身の吟味、確認しあう余裕も無く、つながっている時間の消費に精一杯
→ 外部に共通の目標などの基盤があれば(内面に入り込む交友)、時間的・空間的に多少はなれていても平気だが、共通の基盤がないので、物理的につながる時間をつづけるしか術がない。
→ 「オヤジ狩り」なども社会への反抗でもなく、金銭目的の動機も薄く、つながる時間を消費する行為として繰り返される。/少年犯罪の意味の空洞化 〜 つながるための「ネタ」の1つという傾向の強まり。

◇蔓延する「優しい関係」

・対立点の顕在化は、耐え難い脅威 〜 そのため「優しい関係」のテクニックが洗練された形で広がる
→ 若者の「優しい技法」 ぼかし表現/「とりあえず○○する?」「私的には○○、みたいな」/ケータイでの行き違いを避けるために、雰囲気が伝わる絵文字の多様

・なんとなくの雰囲気だけで維持される関係は、容易に破綻の危機にさらされている


◇現代的な「いじめ」の特徴

・「いじめ」が見えにくくなっている。/かつての、差別感情(個人の属性)に根ざしたものとは違い、流動的で、容易に立場が転化かる 
 → 文部省「自分より弱いものに対する一方的」という要件が該当しなくなっている。

・いじめの当事者を特定化するのは難しい。個と個の衝突でなく、親密圏の特徴に由来する「関係性の病」
→ 集団規範への過同調への強迫的な圧力が、いじめの流動性をもたらす

・流動性のもう1つの面/いじめと遊び・悪ふざけの境界があいまい。/ 対象となった人物も、「おどけた振る舞いで応じる」など、いじられキャラを演じることが求められる(外部に意味ある他者を見つけられないので、親密圏から抜け出すことができない)。
→ 罪悪感の欠如ではなく、意図的に「遊び」のラップつつみ、対立を顕在化させない作法

・子どもの日常世界/ 互いに交通不能の多数の小宇宙で構成 
→ 個々の仲良しグループが抱える問題を、学校という公共圏へ開いて行くチャンネルをもたない。
→ 教師という役割主体を媒介とした全体を見通す視座をもたない。


Ⅱ 内面化する「個性」への憧憬     オンリーワンへの強迫観点

(1)生来的な属性としての「個性」

◇素の「キャラ」の魅力

・「キャラがたつ」―― 個性的であることの若者表現/ テレビ番組の製作者の業界用語に由来
→ 演技ではなく、持ち前のパーソナリティ/ 「天然ボケ」など生来的な持ち味こそ最も「キャラがたつ」

・若者が切望する個性とは、社会の中で切磋琢磨しながら培っていくものでなく、持って生まれたもの
→ 必要なことは/ 自分の内部にわけいって潜んでいるはずの輝く「本当の自分」を発見すること
・素のままの自分が、自らの個性 /人間関係の函数ではなく、固有の実在とミス


◇衰退する社会的個性志向

・個性〜 本来、他者との比較、異なった側面の自覚により認識される。つまり人間関係、社会的な函数。
→ 現代の若者の「個性」は、ダイヤの原石のように、自己の深淵に発見される実態と信じられている。 


◇社会化のリアリティ

・ある小学児童の不満「先生と私たちは平等なのに、先生が私たちに指示するのはおかしい」「先生は、私たちを教えて給料をもらっているのに、いばるのはおかしい」
→ 自分の本質を、社会的な成長のなかで形勢されていくものととらえられてない。社会化による成長の観念の欠落

・教師と生徒の間で成立していた役割演技の関係の崩壊 〜 教師という役割主体が、その演技として発した言葉を、生徒としの役割主体が受け止める関係。ともに役割を演じることで形勢される公共圏の関係/教師の強制力は、彼に付与された役割によって支えられた。

・社会化による成長の観念の欠落 〜 教師の指導的側面は敬遠され、支援的な側面のみに注目される。教育がサービスとしての色彩を強め、教師の指導力は色あせる。
→ 学校制度を維持していた公共性の崩壊

・公共圏の縮小は、親密圏の肥大化によって侵食させる。〜 子どもの不満「教師は神様でないのに、私と言う一人の人間をどうして評価できるのか」/教師の評価が、生徒という役割主体にむけられたものでなく、全人格的な1人の人間への評価と感じられるから。

・未熟なのに大人びて見える子ども 〜 社会化に対するリアリティを喪失しているから。/自分は、生まれたときから完成した個性を備えており、あとはその原石を掘り起こし、磨くだけ、と思っているから。

(2)内発的衝動を重視する子どもたち

◇「善いこと」から「良い感じ」へ

・「むかつく」  生理的な感覚であり、怒りの矛先を示す目的語を必要としない自己完結した表現
→ そう感じてしまった自分の感覚こそが優先とれる。嫌悪感を抱くに至った社会的根拠は後景に。
・自分の感情、行動の妥当性の基準が、社会的な基準に照らしたものから、生理的な感覚的、内発的な衝動を基準にしたものに変化/ 「善いこと」から「よい感じ」への変化。〜評価の基準が内部に。

・「善いこと」は指導の対象となるが、「よい感じ」には、教師は指導できない。「べき」論は通用しない。


◇生活感覚としての「自分らしさ」

・自分の意思では統制できない、自己の深淵からふつふつ湧き上がる感情こそ、本来の「自分らしさ」
→ 「いま」のこの一瞬にしか成立しえないもの。状況次第で変化するもの/持続性と総合性の維持の困難
/最近の子どもの特徴。同じ人間なのに行動の間に一貫性がない(ある保護監察官の言葉)

・生来的な「自分らしさ」の希求は、「自分らしさ」を失う〜 自己意識の断片化、拡散へ。


◇断片化した自己のパラドクス

・自己意識の断片化は、「今」に全神経が投入/ 「今」を、過去ら未来の中に位置づけ相対化されない
→ つまり、「今」この瞬間にしかリアリティをもてない。

・「濃密手帳」〜 微細な文字で埋め尽くされたスケジュール帳。空白をなくす書き込み(日記的に)
→ 時間を越えた自己の統一性を実感していれば、過去から未来へという時間の流れのなかで、現実の自分を位置づけることができる。立ち止まって振り返る余裕を持てる。/「今」しかないと、「いま」を濃密な時間で埋め尽くさないと安心できない。その強迫的な観念が「空白」を埋める行動に追い立てる。時間軸が有効でないと、記憶は成立せず、記録しようと懸命になる。

・パラドクス/ 個性はダイヤの原石のように固定的なもの〜しかし、そこから派生する内発的な衝動を重視する感覚は自己意識を断片される
→ 個性は普遍的な実在であるはずなのに、それを実感できない断片化した自分というパラドクス/ 個性とは一貫したものという幻想が、逆に焦燥感を高める。

(3)「自分らしさ」への焦燥

◇オンリーワンへと煽られる子ども

・SMAPの歌/ 見方を変えれば、どこにも「特別なOnly one」を見出せない自分には価値がないかのように思わせる煽りの歌とも言える。
・「個性的な自分でありたい」との焦り/ 個性的な存在であることに究極の価値を置く社会的圧力のもとで、平凡な自分は「本当の自分」でなく、「本当の自分」はもっと輝いているはずだ、強い圧力に

☆個性化と社会化 〜 異化の側面、同化の側面をさす概念/ 個性化とは、自分の持ち味を生かし、他者とは異なる独自の存在として自己実現をめざす /社会化とは、他者と共通の規範意識を身につけること、周囲の人々と協調的な生活を送るために社会の一員として適切な価値観を身につけること

→ 「個性的であること」が社会現象であることは、社会の規範が、内面化させられたもの
→ 人間は本来社会的な存在であり、個性化も社会化の産物、様式の1つ。/子どもの「生来的な個性をもった自分」という自意識も、社会生活の中で期待され、獲得されたもの。
・つまり、社会化に意義をもとめないような社会規範が子どもを拘束している。

◇歴史感覚の欠如と「感動」志向

・現在だけにリアリティをともなった世界
→ 歴史感覚の希薄化、社会に対するリアリティの欠如 
→ 公共圏における関係性を支える共通基盤の崩壊
・スポーツ番組の「感動」志向〜時代の変革、拓かれた未来という感動の素材を見失ったものでの内的世界の現象

◇個性に対する欲望の無限大化

・個性とは、本来は相対的なもの、人間関係の函数。が、内面世界で絶対的なものとして感受されている
→ 自らの分限を知るための社会的視座がなく、「情念の欲求すねものそれ自体がはじめから充足不可能」
→ 目標を追いかけければ追いかけるほど、ゴールがレベルアップし、無限に遠のく。


Ⅲ 優しい関係のプライオリティ  ―― 強まる自己承認欲求のはてに

(1)「自分らしさ」の脆弱な根拠

◇ジャイロスコープを欠いた「個性」

・「もともと特別なオンリーワン」であり、努力でどうなるものではない。それを実感できない「平凡な私」は、そのオンリーワンの確証さがしに躍起となる。
→ 心の深淵に分け入っても、内面的に「オンリーワン」の確証を探そうとするかぎり、その確証は主観だけ、という不安がつきまとう。「ダイヤの原石」と信じるものが密やかな願望にすぎないことを実は知っているから。この旅には終着駅がない。そして、発見できるのは「個性的な自分」の根拠の不確かさだけ

・1人で立つための指針の欠如 〜評価の指針とする生理的・感覚的・内発的な衝動は、状況依存的、流動的。
→ 一貫した態度を基礎付ける自立的なジャイロスコープとしては機能しない。

・この絶えざる不安への対応 /周囲の身近な人間からの絶えざる承認を必要とする。
→ 傷つけない程度に、表層的にでも、他者とつながりたいと願う。/よってその安心は刹那的である。

・ある家裁の調査官「同年齢集団の目に対する敏感さは、ちょっと異常。1人でご飯をたべると、友だちもいないかわいそうな子とみられ、それがすごくつらい。だから誰でもいいから仲間でいるほうがよいとなる」
→ 「個性の重さ」が、「友だち関係の重さ」に転じている。

◇強まってきた自己承認への欲求

・生理的・感覚的・内発的な衝動の重視は、自己肯定感に持続的な安定性を見出すことを困難にしている。
→ 社会的な根拠によってあたえられた肯定感でないので、気分や雰囲気で容易に揺れ動く
(メモ者 感情は、対象の認識にもとづく対応発現である。対象を、社会的・歴史的にとらえられない認識にふさわしい感情は、幼児のように「今・ここ」に制限される)

・不確かな自己肯定感をささえるために、身近な他者からの強力なサポートを必要とする
→ 主観的な思い込みを正当化する最後の手段として、他者からの具体的な承認。
→ パラドクス /社会化に対してリアリティを失い、まなざしが内面化させていった結果

・しかし、同じ仲間といっても各自の関心は差異化し、別方向を見ている。よって、その差が表面にでない範囲に留める高度に緊張した技法が必要/ よって友だち関係は異様に重いものとなる。
→ 関係性の安定を担保できるものは消失しているにもかかわらず、無理してでも関係を保ちつづけなければならないから。

・かつての子どもは、友達関係にからめとられているように見えながら、一方で孤独にもつよく、孤高であることも可能だったのは、自己評価に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠が内面化していたから。/「一般化された他者」による承認

・現在の子どもの過剰なほどの他者への配慮 /他者への配慮ではなく、強力な自己承認がほしいという自己への配慮の産物。「優しい関係」の維持に懸命なのは、自己承認欲求を満たすため。
→ 内閉的に「個性」を希求する人にとって、他者からの評価は絶対となる
 歴史学者ラッシュ「ナルシストは自分に喝采をおくってくれる相手がいないと生きていけない」


◇「見られてないかもしれない」不安

・少子化、わが子に多くの資源をそぎこむ親の増加〜 にもかかわらず肯定感をもてない子どもも増加。
→ 自分が受容されたいという欲求水準が高まっているから。自己承認に対する子どもの期待の方が高い。


・かつて、「親から見られているかもしれない」といううっとうしさからの解放が思春期のテーマだった。/最近は、「見られていないかもしれない」という不安の高まり。親の視線を浴びるほど感じたい。
(メモ者 地域社会など多様な人間関係の中で、多様なチャンネルによって承認されてきた存在から、核家族など極めて狭い閉じられた社会の中でしか「承認」をえられないことへの変容。)
→ 大人の関心を引くための行動(被害の報告、いたずら、犯罪も・・・)

・「見られてないかも」の不安は、親だけでなく(親よりも強く)親密圏の関係でも・・
とりとめもない内容でのメール、ケータイの連続/ オヤジ狩りも雰囲気の過同調として。
→ 警察・社会という他者に「見られるかもしれない」不安より、仲間に「見てもらえなくなる」不安がはるかに強い。だから犯罪行為の問題性をいくら強調しても効果が薄い。自らを守る合理的行動だから。


(2)肥大化した自我による共依存

◇「良い感じ」の関係

・生理的な感覚として「自分らしさ」をとらえる人 〜 言葉に強いリアルティを感じず、親密圏での内発的な衝動の共有が重視される。/ 言葉以前の感覚的な一体感
(メモ者 言葉は、様々な体験とそれに結びつく感覚・感情を、言葉というカテゴリーでくくったものであり、それは社会的な体験、他人との交流の蓄積とともに、共通基盤となる。/わたしの「パパ」が、「パパ」という普遍に発展するなど。当然、体験の少なさは、共通基盤の矮小化、不安定さとなる。体験に裏打ちされない「言葉」はなんなる記号であり、リアリティを失う)

・この親密圏では、他者は、自分の同質的な感覚の延長線上にしか認識されない。自己の分身のようなもの。
→ 「良い感じ」を共有できない人とは関係をむすべない。異質な他者の入り込む隙間はない。
→ その感覚的な一体感には、思想、信条のような社会的基盤がなくもろい結合。互いの思い込みが基盤/相手の感覚や衝動を、直接的には追体験できない。

・現実には、生まれも育ちも違う他人。まるごと同じなわけがない。/しかも、「自分らしさ」の基盤である、内的衝動は、自己の深部からわきあがってくる自分の意思ではコントロールできず、しかも断片化され、その場の雰囲気、気分で変化する一貫性のないもの / 当然、放置すれば、他者との衝突はさけられない
→ しかも、内的衝動に依存した人間関係は、自分のふるまいと自分自身の間にクッションがない。振る舞いへの批判は、自分という存在そのものへの否定となる。/よって対立の顕在化は、結合をたやすく崩壊させる。
→ つねに破綻の火種をもつ関係は、対立点を顕在化させない異様な気の遣い合いを強要する。

・親密圏の相手からの耐えざる承認ぬきには自律できない、1人では自律的たりえない人間どうしの共依存的な「友情」が形成される。
→ ネットはそのために極めて都合のよいメディア/ 気に入った言説だけを取捨選択できる。社会的な属性は重視されない。リアルタイムの交換が可能/「本当の私を理解してくれる(と錯覚できる)のはネット上の他者だけ」という「赤の他人と身内との逆転現象が生じる」(生物学者・池田)
〜 それは、きまずくなれば、いつでもリセットが可能

◇共依存から派生する暴力

・親密圏における過剰な配慮は、自分自身を守るため/ よって、ささいな軋轢も、自らの存在根拠そのものに関わる問題と感じられる
~「自分らしさ」の確証を際限なくもとめる「絶えざる焦燥感」の中では、外からみればささいなことも、当事者には、とりかえしのつかない重大事となる。「親友」であるほど、その影響は大きい

→ ネット上では、リセットできるが、実生活ではリセットできない /物理的な暴力への飛躍も起こりうる
→ 親への暴力をふるいつづる心情と類似/依存しながら憎む、共依存関係に生まれやすい現象

・つるんでなくては生きていけない共依存の関係の破綻に気づいたとき(暴力的に集結できないとき)
→ 「ひきこもり」など社会生活の撤回の道を余儀なくされる。/あるいは社会から注目されるための暴走的な犯罪行為
→ が、「ひきもり」と「暴走的犯罪」に因果関係はない /犯罪に走るのは大騒ぎしてくれる世間との間で、存在証明を築こうとする行為であり、「ひきこもり」は、そんなことで得られる存在感覚は根拠のない自己満足にすぎないと気づき、醒めきっているのでひきこもっている。

(3)純粋な関係がはらむパラドクス

◇コミュニケーションの困難な時代に

・コミュニケーション能力の低下ではなく、コミュニケーション環境が困難なものに変化している
→ かつての価値観や欲求のあり方がいまほど多義的でなかった時には、関心対象も重なり合う部分も大きい。人間関係の安定性も確立しやすい。


◇純粋な関係への期待値の高さ

・若者が「コミ能力低下」批判を感受しているのは、かれらのスキル以上に困難度のほうが増しているから

・同時に、コミュニケーションについての彼らの期待値も急上昇しているから
→ 社会的な役割を一切媒介しない、互いの内発的な欲求だけでつながる純粋な関係を追い求めているから。
→ 親密圏においても「装った自分の表現」から「素の自分の表出」を切望/それが真の関係と思えるから。
→ よって、現実の自分は「本当の自分でない」という意識も余計つのり、「装った自分」を演じているという意識も強まる。


◇「心の教育」に潜在する問題

・子どもたちの姿は、大人側のメンタリティの反映、社会の鏡
(メモ者 大量生産から、多品種少量生産、イノベーションなど「オンリーワン」を求める市場経済の反映)

・個性を、成長の中で徐々に創り上げるものとしてではなく /生れ落ちたときからすでに備わっているものとして捉える見方 /「心のノート」の見方

→ 「自分の心に向き合い、本当に自分にあいましょう」 /「自分の心」は、「私」が「向き合う」客体であり、「本当の私」とは、そこで「出会う」先験的な実在とみなされている。

・教育が、人間の成長を期待するものなら、個性は「生かす」ものでなく「伸ばす」もの。

→ 「教育は国家百年の大計」/ これからの日本を構想するにあたって、もっとも基本に捉えるべき問いは、「次世代を担う子どもにいったい何を託すか」
→ そのためには、子どもの問題の背後に潜んでいる社会的な共通因子を洗い出し、大人のメンタリティのあり方を問う作業をともなうはず。

【キャラ化する/される子どもたち 土井隆義】

1章 コミュニケーション偏重の時代

「1 格差化する人間関係の中で」より

◆カースト化する人間関係 
・ケータイで「圏外」となることの恐怖  「即レスができない」不安/ 世界から排除された感覚
     秋葉原の事件 リア充へのねたみ、ネット世界で無視された恐怖・絶望、自己承認としの事件
            自らのケータイは履歴を消去し「迷惑がかからない」配慮、犠牲者に謝罪なし
・親密圏での人間関係への過剰なまでの「やさしさ」と、それ以外の他人への無関心
・カースト化する人間関係 / 同質の小グループのみの交流/ クラスの一体感のなさ
   →「格が違う」「身分が違う」という形容/ 他のグループと交流しない(日常生活から圏外化)。
     グループで、言葉づかい、立ち振る舞い、ファッションなどで流儀が違う。 

「2章 アイデンティティからキャラへ」より

◆新しい宿命主義の誕生

・「生まれ持った素質によって人生は決まる」という感覚のひろまり 苅谷調査
・若い世代の価値観の特徴 荷宮和子
 ①がんばらずによい結果を出すほうが「かっこいい」 ②何も考えずに行動するほうが「かっこいい」
 ②挫折しかけた道でさらに努力を続けることは見苦しい
〜 「生まれ持った素質によって人生は決まる」「なすがままに行動することが本来の自分、本物」/「延々と努力して(彼らから見て)大した結果も残せていない人は、“何を勘違いしているのだろう”と見える」
→ 新しい宿命主義 

☆素質への一面的な理解

 素質の多くは、あたえられた社会環境のなかで、身分制度と同じく格差を伴いながら再生産されてきたもの/ その社会、共同体の到達点を前提として、共同の素質・能力として、個人に現れたもの
 天才的なピアニストは、日常的にピアノ、音楽に触れる環境でないと出てこない。
(メモ者 ホーキンスのように重度の障害をもった天才的な学者は、障害者の権利の前進の中でしか生まれない。 調査が示す所得格差による学力・文化格差、貧困の連鎖)
→ つくられた素質にもとづく待遇の違いを合理的なものと思わされているだけ。/それは、内キャラという固定的なイメージを人生の羅針盤と捉えようとする見方の表裏の関係(メモ者 それゆえ、内キャラのなかには、「ダイヤの原石」として、まだ見いだされてない、光り輝くものがあるはずだ、という思い。それをどう傷つけずに掘り出すか、という思考回路となる。)

【 教育の奇跡  】 内田樹の研究室2012/3/15より

・「教育はビジネスの言葉づかいでは語れない」という原理的なことの確認

・「教える」という営みの本質についてもっとも洞察に富んだ言葉 

フランスの精神分析家ジャック・ラカン
 「教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(・・・) 無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。」(ジャック・ラカン、「教えるものへの問い」、『フロイト理論と精神分析技法における自我(下)』、小出浩之訳、岩波書店、1998年、56頁)


・「教卓のこちら側」にいる人間は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしている。/教師は別にとりわけ有用な、実利的な知識や情報や技能を持っており、それを生徒や弟子に伝えることができるから教師であるわけではない。これが教えることの逆説である。

→ 教師は「この人は私たちが何を学ぶべきかを知っている」という確信を持っている人々の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能する。彼に就いて学ぶ人たちは「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」を彼から学ぶ。


・誰だって教師になれければ困る。~ 人間たちが集団的に生き延びてゆくためにほんとうに重要な社会制度は「誰でもできるように」設計されている。例外的に卓越した資質を持っているに人間しか社会制度の枢要な機能を担い得ないという方針で社会制度が設計されていたら、とっくの昔に人類は滅亡しているだろう。

・学校教育については、「誰でも、一定の手順を覚えさえすれば、教える仕事は果たせる」ように制度設計されていなければならない。
→ 「教卓のこちら側」と「あちら側」の間には乗り越えがたい知的位階差があるという信憑が成立する限り、そこでは教育が機能する。
→ そして、「教師という仕事は実は誰でもできるのだ」ということは「とりあえず秘密にしておく」ということも含めて教育は制度設計されている。


・昔の生徒は熱心に学んだ。なぜか。/「教卓の向こう側にいる人」はそのことだけで、すでに教える資格がある~ それが教師にとっても、親にとっても、生徒たちにとっても「常識」だったから
→ 「教師は自分が知らないことを教えることができ、自分ができないことをさせることができる」という「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹 /それが教育制度の本質的豊穣性を担保
→ 教育の奇跡とは、「教わるもの」が「教えるもの」を知識において技芸において凌駕することが日常的に起きるという事実のうちにある。「出力が入力を超える」という事実のうちにある。/「教育制度」を支えている「氷山の水面下の部分」には大量の人類学的な叡智が埋蔵されている


・が、その後、教師は「ただ教卓の向こう側にいるだけで、すこしも人間的に卓越しているわけではない」という事実を意地悪く暴露して、教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。
→ 「ほんとうのこと」だか、「言うべきではなかったこと」。それに気づくほどに私たちは大人ではなかった。


・今日の「教育危機」なるもの原因
→「教師の知識不足」「教育技術の拙劣」「専門職大学院を出ていない」からではない。/教師たちが教育を信じるのを止めてしまったからである。
→ 教師が政治家やメディアや市場原理を信じる保護者たちの要請に屈して、「教育とは代価に見合う教育商品・教育サービスを提供するビジネスの一種である」という教育観を受け容れたときに、商取引のタームで教育が語られることを許したときに、教育の奇跡は息絶える。

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