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大震災と保育所

 津波から、昼寝中、園児を起こして身支度し、避難車に乗せて、乳児をおんぶし、必死の努力で子どもたちを守り、東京などでは、交通マヒなどで多くの帰宅難民がうまれましたが、保育所は、保護者がお迎えに来るまで、24時間の体制で子どもたちを守った。また被災地では、医療や福祉の職員の子どもは中断せずに預かり救援活動を支えもした。
東北の地元紙・河北新報が5月に、大震災と保育現場について3回の検証記事を配信しているのを知った。
【子どもを守る 検証・大震災と保育現場(上)避難はどこへ 5/13】
【子どもを守る 検証・大震災と保育現場(中)食料確保 5/14】
【子どもを守る 検証・大震災と保育現場(下)業務継続か休所か 5/16】

高知県も補助率をかさ上げし、遅れている耐震化を進めているが、乳幼児をかかえる保育所の震災対策は、特別な対策が必要である。

・子どもは素足で生活しており、ガラス飛散防止対策がかかせない。
・避難に当たっても、歩けない、歩くのが遅いという問題もあり、県下の保育所でも、子どもを運ぶカートを増やす必要やワンタッとで装着できるおんぶ紐の増設を求める声がある。
・少なくない保育園の玄関は、山や高台など避難場所と反対方向についており、非常用出口の設置を求める声が出でいる。
・震災の経験から、火を使わなくても食べられる保存食の備蓄、水を注げば食べられるアルファ米、レトルト食品や瓶入りの離乳食などの必要性が指摘されている。レクリエーションで使っていたバーベキューセットのおかげで電気、都市ガスが止まっても給食を提供でき、被災当日は園庭でまきを燃やして暖を取ったという保育園もあったとのこと。備蓄品、備品にも注意が必要

 震災の教訓を活かし、総合的な調査、対策の推進が求められる。

 また、震災後、物質的にもメンタル面でもダメージうけた親と子のサポートなど、子育てについて縦の専門性と、他の福祉職場との連携もふくめた総合性、横の専門性の必要性をあらためて示したといえる。

 公的保育制度の充実が不可欠である。
 
第43回全国保育団体合同研究集会 基調報告(案)は

「緊急事態にあって幼い子どもを保護し、安全を守ることができる保育所の機能の重要性が改めて示されたといえます。そして、その土台にあるのは公的責任や最低基準を柱にしている現行保育制度であり、その拡充と強化が必要であることもいっそう明らかになりました。
 公的制度のなかで蓄積されてきた保育者の専門性が、子どもたちのいのちを守り、保護者を支えることになりました。不十分ながらも保育士の配置基準を定め、避難階段や避難路の設置、月1回の避難訓練等を義務付けている最低基準があったからこそ、被害を最小限にとどめることができたといえます。
また、震災後の復興のなかでの保育再開には、自治体の保育実施責任が不可欠です。津波により、全壊・半壊した保育所も、自治体の責任で、場所・条件を確保し、再開することができました。」と指摘している。

【子どもを守る 検証・大震災と保育現場(上)避難はどこへ 5/13】

◎状況に応じ素早く判断
 乳幼児を含む大勢の子どもたちを預かる保育所は災害時、より大きな危険にさらされる。保護者は働いているため、すぐ保育所に駆け付けることは難しい。東日本大震災で、保育士らはいかにして子どもを守ったのか。予期せぬ大災害に対して、保育現場は何をどう備えればいいのか。仙台市と周辺市町で検証した。(夕刊編集部・横山寛)
<染み込んだ危機感>
 「車を持ってきてください」「閖上小学校で会いましょう」
 3月11日、漁港にほど近い名取市閖上の閖上保育所。大地震後の余震が続く中、所長の佐竹悦子さん(59)は保育士ら10人の職員に大きな声で避難を指示した。
 津波に関する情報はなかった。だが経験したことがないほど大きく長い揺れだったため、すぐ避難しないと手遅れになると佐竹さんは直感した。
 職員は保育所の庭に一時避難させた子ども54人を次々にマイカーに乗せた。子どもが15人も乗ったワゴン車もあった。
 大津波が閖上に襲来したとみられるのは地震発生から約1時間後。保育所から約3キロ離れた閖上小の3階に避難した後だった。押し寄せる真っ黒い水が次々に家や車を飲み込むのを、佐竹さんは閉めたカーテンのすき間から目撃した。
 「高台もビルもない閖上地区では徒歩、しかも子ども連れでは津波から逃げられない。『大地震の時は車に子どもを乗せて閖上小に行く』というのが保育所の約束事でした」と佐竹さんは語る。
 海抜0メートルである閖上の人たちは津波に対する危機感が強い。保育所の職員らは、毎年初夏のころに行われる閖上地区の防災訓練に参加していた。
 「訓練で体に危機感を染み込ませることができたからこそ、全員無事という結果につながった。参加していなかったら、どうなっていたか…」と佐竹さんは震えるような声で振り返る。
<周囲に協力求める>
 仙台市中心部、ビル内にある保育所も大きな不安に駆られた。
 ビル2階にある保育所「こどもの家エミール」(青葉区二日町)。震災時、0~5歳の子ども33人に対し、保育士は9人だった。
 エレベーターは止まっている。余震が続く中、子どもに階段を歩かせることはできない。保育士らは窓を開け、「避難に協力してください」と叫んだ。近所の人や通行人らが子どもを抱いてビルの外に連れ出した。
 指定避難場所は約300メートル西にある木町通小。向かうのも選択肢の一つだったが、雑踏で子どもを見失う危険性もあったため断念。保育所が入るビルの隣の空き地に集まった。
 「ブルーシートを敷き、子どもを布団や毛布にくるむなどして保護者が迎えに来るのを待ちました」と園長の三浦君子さん(64)は言う。
<「次」見越して備え>
 多くの保育所は地震や火事などに対する避難訓練を実施している。とはいえ、今回のような震災規模は想定していないのも事実。地震活動はまだ活発に続いている。防波堤が損壊した現在、地盤沈下した沿岸部では小さな津波さえ脅威になりうる。「次」を見越した備えは必要だ。
 仙台市消防局の地震防災アドバイザー山田耕太郎さんは「津波から逃れるためには海からの距離よりも高さが重要。閖上のケースは仕方ないが、車は渋滞に巻き込まれる可能性があるので避けるべきだ」と指摘。
 地震については「耐震性がある建物なら屋内にとどまった方がいい。耐震性に自信がないときは、あらかじめ落下物が来ないであろう避難場所と避難経路を調べておいてほしい」と事前準備の重要性を強調する。

【子どもを守る 検証・大震災と保育現場(中)食料確保 5/14】

◎備蓄の基準、見直し急務
<ライフライン停止>
 一時保育を含め毎日230人の子どもを預かる仙台市泉区の泉チェリー保育園は、市内最大規模の保育所だ。主に昼食とおやつを作る調理場はいつも大忙し。コメだけでも毎日八升五合を使い切る。
 「食料は市の基準通り丸一日分を確保していましたが、電気もガスも止まってしまったので調理はできませんでした」と振り返るのは園長の大山道子さん(69)。
 コメや冷凍食品、野菜などはあったが電気、ガス、水道が止まってしまい煮炊きができなくなった。震災翌日から1週間は給食を提供できず、保護者に事情を説明して弁当と水を持参してもらった。

<卓上コンロで調理>
 その後、復旧した電気と市が支給した卓上コンロ8台などを駆使しておにぎりと汁物で簡易給食を実施。通常の完全給食に戻せたのは都市ガス復旧後の4月12日。震災から1カ月が過ぎていた。
 「職場が被災し、自宅待機していたお母さんが多く、保育する子どもの人数が少なかった。そのため卓上コンロで何とか簡易給食を作ることができました」と大山さん。
 震災の教訓として得たのは、火を使わなくても食べられる保存食の備蓄だ。水を注げば食べられるアルファ米、レトルト食品や瓶入りの離乳食などの必要性を大山さんは実感した。
 今回の震災では至る所で交通網が寸断され、仙台市内の保育所では迎えが深夜になるケースが相次いだ。大規模災害が発生したときは、その日のうちに保護者が保育所に迎えに来られないかもしれない。食料の確保は喫緊の課題になりうる。
 「保育園として食料備蓄の在り方を考え直さなくてはいけない。給食を提供できなくなるかもしれないので、家庭での備蓄も含めて保護者の方々と話し合いたい」と大山さんは語る。

<新たな指針が必要>
 定員120人の保育所、福室希望園(宮城野区)ではレクリエーションで使っていたバーベキューセットが役に立った。セットのおかげで電気、都市ガスが止まっても給食を提供できた。被災当日は園庭でまきを燃やして暖を取った。
 仙台市内では指定避難場所の小学校が遠かったため、近隣住民が100人近く避難してきた保育所もあった。不特定多数の人が身を寄せる事態に、非常用照明が懐中電灯だけでは心もとないと感じた保育関係者もいた。
 福室希望園園長で市保育所連合会会長を務める高野幸子さん(66)は「電気やガスがなければ食べられない食料を備蓄していても、被災時は役に立たないことを多くの保育関係者が実感した」とした上で、行政側にこう要望する。
 「各保育所が思いをめぐらせて備蓄しても足りないものがあったり、年月を経て備蓄を怠ってしまったりすることが考えられる。あらためて食料や電池など備蓄に関するガイドラインを示してほしい」


【子どもを守る 検証・大震災と保育現場(下)業務継続か休所か 5/16】

◎自治体で対応に温度差
<再開日の連絡なし>
 震災前まで長女を宮城県利府町の認可保育所に預けていた30代の女性は、不安といらだちを募らせながら職場に復帰した。3月22日のことだ。
 利府町にある6カ所の認可保育所(町立を含む)は震災以降、すべて町の指示で休所していた。保育再開日の連絡はない。女性は福祉関係の仕事をしており、保育所の休所を理由に休むわけにはいかなかった。
 友人に長女を預かってもらうなどして、何とかしのぐ日々。31日に修了式と卒業式を行い、4月1日に保育業務を再開するとの連絡があったのは、職場に戻ってから数日後だった。
 「私のほかにも困っているお母さんはいた。すべてを休所にするのではなく、1カ所でも2カ所でもいいので集約して保育を続けてほしかった。保育所は就労支援の役目があるはずなのに…」。女性は町の対応を疑問視する。
 利府町が6カ所の保育所を3月30日まで休業させると決めたのは震災翌日の12日。町内の水道復旧見通しが30日だったためだ。町子育て支援課は「保育所には0歳や1歳の小さい子どもがいる。水が出ないのでは衛生環境が保てない」と説明する。
 だが、30日というのはあくまで震災直後の見通し。それよりも前に水道が復旧した保育所もあった。「町の決定は早すぎた。大災害時でも仕事を休めない家庭があることを予測すべきだった」と指摘する町内の保育関係者もいる。
 
<仙台市は拠点設置>
 一方、仙台市は建物の安全が確認され次第、積極的に業務を続けるよう各保育所に要請。支援策として、市は震災から3日後の3月14日、一部無認可を含めた市内の保育施設に水や食料、卓上コンロなど支援物資を渡す「拠点保育所」を区ごとに設けた。
 水道と都市ガスがストップした保育所も多かったが、津波被害に遭ったり、建物に大きな被害を受けるなどした保育所を除き、大半は業務を続けることができた。
 多賀城市は23日までに保育業務を本格的に再開するよう保育所に要請した。都市ガス復旧が困難な保育所には、支援協定を結んでいた全国エルピーガス卸売協会の協力を得てガスボンベとコンロを設置。断水が続く保育所にはペットボトルの水を大量に配った。
 
<「使命を自覚して」>
 「医療や福祉関係など、仕事を休めない保護者の子どもは震災後も中断することなく預かりました。各保育所長とは、常に大災害発生時の対応について意見交換をしていたので心の準備はできていた」と市こども福祉課の担当者は振り返る。
 指導する自治体の温度差で大きく異なる保育所の対応。宮城県保育協議会役員は「こんなときだからこそ保育所の役割が問われる。自治体によって保育事情に差があるのはおかしい。自分たちの使命を自覚して、受け身にならずに業務に取り組んでほしい」と言葉に力を込める。

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Comments

被災地の現状のその新聞をわが市から支援に行った人からいただきました。
また、先月の自治労連大会では被災地の人、支援の人、応援の人から多くの意見を聞きました。

被災地の保育園の状況を
全国の保育園、いや保育園だけでなく
あらゆる福祉・教育施設で見つめてほしいです。

コンパクトにわかりやすい記事を紹介してくださってありがとうございます。
保育所の安全点検に取り入れたいと思います。

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