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「防災教育の力」 釜石東中はどう行動したか 毎日・特集

20110812104854


 本日の毎日新聞「検証・大震災」は、見開きで「瞬時の判断、救った命」と、釜石東中学の行動を、5分置き毎に時間をおって再現している。文面から、その場の緊張感が伝わってくる。その他、迎えにきた親に子どもを引き渡し犠牲になった例、引き渡さず一緒に避難した例、「自分で逃げる」を基本に迎えに行かず助かった例・・・ 大いに考えさせられる特集である。
 大震災の死者・行方不明となった「児童・生徒は91校351人に上り、このうち少なくとも33校の115人は地震後に学校から保護者に引き渡されていた」(毎日新聞調べ)
 【検証・大震災:瞬時の判断、救った命 生徒全員避難で無事、釜石東中学校】
(追記)
 根底に、自然との共生の思想がある。この点は極めて重要と思う。
【防災教育 災害に「立ち向かう」? 2012/6】

【検証・大震災:瞬時の判断、救った命 生徒全員避難で無事、釜石東中学校】

 海に近く、津波で校舎の3階まで浸水する被害に遭いながら、校内にいた生徒全員が無事に避難した学校がある。岩手県釜石市の釜石東中学校。教師や生徒はどう行動したのか。学校で証言を集めた。(学年は当時、時刻は証言を基に推定)

 ◆3.11--14・46~14・50 揺れが長いし、強い。校舎つぶれるかも

 地震が起きた3月11日14時46分、3年B組・菊池のどかさん(16)は卒業式の歌の練習が終わり、釜石東中(地図<1>)前の電話ボックスから自宅に電話をかけていた。
 「母が『みんなと一緒に……』と話したところで切れて。逃げろと言いたかったのは分かりました。足が海の方へ引っ張られるように地面が大きくずれた。プレート境界型の地震だから津波が来ると直感しました。電話ボックスが倒れないように押さえていると、みんながグラウンドに避難してくるのが見えました」
 3年副担任の佐々木良一教諭(42)は1階の3年A組の教室で、担任への寄せ書きの話を生徒としていた。
 「揺れが長いし、強い。校舎がつぶれるかもしれないと感じました。私もここの卒業生なので、校舎が古いことはよく知っていましたから。扉を開け、教室と廊下にいたA組の約40人に、すぐ出ろと声を張り上げました」
 村上洋子副校長(53)は校長が校外にいたため、欠席・早退を除く生徒212人、16人の教諭の避難を指揮する。
 「校内放送をするために席のすぐ横にあるスイッチを押したんです。でも赤いランプがつかない。停電でした。強い揺れが収まって窓を開け、グラウンドに避難し始めている生徒に向かって叫びました。『走れー』『点呼取らなくていいから』と。職員室にいた一番若い臼井省悟先生(24)には、率先避難者になって走り出してと頼みました」
 釜石市は08年度、文部科学省の防災教育支援事業のモデル地域に指定された。釜石東中は「自分の命を自分で守る」「助けられる人から助ける人へ」を目標にする。津波からそれぞれが身を守って逃げる三陸沿岸の言い伝え「津波てんでんこ」にちなみ、5人組の戦隊ヒーローが津波への心構えを説く「てんでんこレンジャー」のDVDも作った。生徒たちからは、勉強を進めるうちに「うちの学校はどうしてこんなに危ない所にあるの?」という疑問も出てきた。

 ◆14・50~14・55 全速力で校門の外へ。小学生も一緒に

 3年A組・山本真爾(しんじ)さん(16)は教室からグラウンドには向かわず、校門を出た。避難所に決められた約700メートル先の福祉施設「グループホームございしょの里」(地図<3>)を直接目指すことにする。
 「B組の教室から出てきた友達と話して決めたんです。でもほかの生徒はグラウンドに集まり、走り出していない。整列しようとする生徒に、先生たちが『逃げろ』『走れ』と声をかけ、みんな校門の方へ走り出しました。それを見て、自分も駆け出したんです。全速力でした」
 350人の児童がいた近くの鵜住居(うのすまい)小(地図<2>)は、津波の到達が早いかもしれないと判断し、大半の児童を校舎3階に避難させた。しかし、釜石東中の生徒が走るのを見た一部の教師が「ございしょの里に行った方がいい」と言い出し、校外への誘導を始める。
 釜石東中は昨年6月、鵜住居小と合同で津波の避難訓練をした。「遅れている小学生を助けながら逃げる」ことも課題にした。津波の到達は地震発生から34分後と想定。訓練開始から15分以内にございしょの里で整列し点呼を終えるのが目安だった。
 平野憲校長(53)は学校から約1・5キロの国道45号・恋ノ峠(標高約50メートル、地図<5>)付近で車を運転していた。
 「市中心部の別の学校に向かっていました。車が大きく揺れ、尋常でないなと。学校に引き返すことに決めました。途中、先頭を走っている3年生の山本君とすれ違いました。山の斜面が崩れるのではないか。心配になり、山本君に『(反対側の)右側を走れ』と声をかけ、学校へ急いだんです」

 ◆14・55~15・00 避難指定場所へ。ここも危ない

 3年B組・菊池のどかさんは小学校を少し過ぎた辺りで、大津波警報を知らせる防災無線を聞く。「やっぱり津波、来るんだと思い焦りました。もしかしたらすぐ来るかもしれない。この辺りは津波が大きくなりやすい地形だから、ございしょの里も危ないかなと」
 昨年12月、防災担当記者として同中の防災教育を取材した。菊池さんは地域に配る「知って得する防災マメ知識」のチラシを作製していた。チラシには「地震が1分以上続いたら高台へ」「津波は6時間以上続く」と記してあり「『減災』をもっと地域の人に知ってほしい」と話した。
 3年A組・山本真爾さんは、ございしょの里に最初に到着した。釜石東中の避難先は以前、さらに400メートル離れた高台の介護事業所「やまざき機能訓練デイサービスホーム」(地図<4>)がある場所だった。しかし、学校から歩いて13分ほどかかることもあり、近場のございしょの里に変更していた。
 「訓練よりだいぶ早く着いたけど、ここは危ないなと感じていました。訓練の時から思っていたことですが。学校と標高は数メートルしか違わない。川の近くだし、津波がさかのぼって来るんじゃないかって」
 村上洋子副校長は学校に戻ってきた平野憲校長に「全員避難した」と報告する。
 「校長が『もう一回最後に校内を見てくる』と言うので、『津波が来ますから一緒に逃げましょう』と伝えたのですが……」

 ◆15・00~15・10 がけ崩れが起きている。とんでもないことが起こる

 3年副担任の佐々木良一教諭は学校を出発した村上洋子副校長らと合流する。小学生も校舎を出て、ございしょの里に向かっていた。
 「海側から山へ逃げる車と下る車で道路は混雑し、いらだちました。生徒は端を歩かなければならなかったので。小学校の角の辺りで、15時5分より前だったのを覚えています。津波が来るまで30分あると思い、あと15分くらい余裕があるなと考えていました。ございしょの里では、学級委員が先頭に立ち、点呼を始めていました」
 バドミントン部顧問の斎藤真(しん)教諭(38)もございしょの里に着く。道路側に中学生が並び、奥の山側に小学生が到着し始めていた。
 「『先生、先生』と誰かに袖を引っ張られたんです。振り向くと、お年寄りの女性でした。『おれ、生まれてからここの山崩れるのを見たことなかった。これからとんでもないことが起こる。みんな死ぬぞ』。そう言うんです。見ると確かにがけが崩れている。胸騒ぎがしました」
 3年B組・菊池のどかさんは大きな余震が怖かった。点呼の後、待機しながら、がけ崩れも気がかりだった。
 「前に座っていたクラスメートと、『ここは危ないよね』と話し合ったんです。周りからも『もっと上に逃げた方がいい』と心配する声が聞こえてきました」
 学校にとどまった平野憲校長は校舎に生徒がいないことを確認して1階に下りる。
 「保護者が学校に駆け付けてきました。校門付近で対応したのですが、すでに避難したことを伝えました。この頃、ございしょの里にも保護者が何人も車で迎えにきていたようですが、この時点では『一緒に避難しましょう』と伝えていたようです。とても、引き渡す余裕はなかったのではないでしょうか」
 一方、鵜住居小は何人かの児童を保護者に引き渡した。うち1人が家族と帰宅後、津波の犠牲になる。

 ◆15・10~ もっと上に。高台へ走る

 村上洋子副校長がございしょの里に到着。斎藤真教諭から「小中学生は全員避難しました」と報告を受ける。
 「子供を守れた。もう大丈夫だろう。そう安心しました。ところが、斎藤先生が『ここ危ないらしいです。ここのがけが崩れたことはないらしいですよ』と言うんです。少し考え、臼井省悟先生に伝えました。『臼井先生、走って。やまざきデイサービスの駐車場に入れるか見てきて』と。鵜住居小の副校長にも『もっと上に行きましょう』と声をかけました」
 村上副校長は、高台へ走った臼井教諭が両手で輪を作った「OK」のサインが見えた。
 「よし、と思いましたね。斎藤先生に拡声機で『小学生1人と手をつないでやまざきデイサービスに逃げてください』と指示してもらいました」
 3年B組・菊池のどかさんは4年生くらいの男子と手をつないでございしょの里を出発した。
 「途中でゴゴゴという音を聞いたんです。手を引いた小学生には『大丈夫だからね』と声をかけながら速足で歩きました。小学校の先生は『津波が3メートルだったら、ここまでこないよね』と言っていました。私は『いや、ここも危ないですよ』と答えました」

 ◆15・17~ 振り返ると煙が見えた

 平野憲校長は校門付近にいた。学校近くの橋の上から津波が濁流になってさかのぼり、川の護岸堤を越えて校庭を覆いながら迫ってきた。
 「急いでございしょの里の方へ向かう角を曲がると、津波は前方の護岸からもあふれ、前後から津波に挟まれる形になってしまったのです。とっさに山の斜面を駆け上がりましたが、後ろについて来た何人かはさらわれてしまいました」
 校長は昨年の取材で「生徒たちはいざという時に自分で行動できる強い意志を持ってほしい」と話していた。杉林の中から浸水していく校舎を見つめながら、生徒の無事を祈った。
 3年A組・山本真爾さんはやまざきデイサービスに向かう途中だった。列の前の生徒が走り出すのに気づく。
 「何だろうと後ろを振り返ると、煙のようなものが見えました。それが津波だとは思いもしなかった。そのまま走り続けました。到着したやまざきの駐車場からは、町が見渡せます。そこで初めて津波が町をのみ込んでいくのを見たんです。やばい。こっちに来る。そう思いました」
 斎藤真教諭がやまざきデイサービスの駐車場に着くと、ございしょの里で袖を引っ張られた女性に再会する。「『先生、逃げて来たのか』。『おばあちゃんが言ったから逃げてきたよ』。おばあちゃんは『いがったなー。これで生きたぞー』って。避難はここで終わったと思ったのですが」

 ◆15・20~15・30 町がない。走れ、走れ

 3年B組・菊池のどかさんは駐車場に整列した時、男子生徒が騒ぐ声を聞いた。「こんな時に騒ぐなんて。そう思って次の瞬間、海の方を見てがくぜんとしました。町がないんです」
 斎藤真教諭が学校の方を見ると煙が上がっていた。火事ではなく、水しぶきだった。学校はあっという間に津波にのまれた。
 「これはだめだ。もう逃げられない。間違いなく、自分がいるところまで来ると思いました。目の前にいた生徒たちに『逃げろ』と叫びました。佐々木良一先生の『死ぬぞー、走れー』と叫ぶ声も聞こえました。小学生の体をつかんでは、前に押し出しました。ところが、自分の足は動かない。腰が抜けるというのはこういう状況なんでしょうか。太ももを両手で激しくたたきながら逃げました」
 村上洋子副校長は数百メートル先の水しぶきが、目の高さに見えた。「自分の命は自分で守るんだぞー。そう叫び続けました。誰がどこに逃げたか分からない。最後尾から走れー、走れーと言いながら走ったのは覚えています」
 恋ノ峠の手前に急な坂がある。幼い子供2人の手を引く母親に気づいた生徒が1人をおぶった。佐々木教諭とサッカー部の生徒らは、保育所の子供を乗せた手押し車を職員に代わって押しながら坂を上った。津波がございしょの里の1階を水没させ、2階に届いたのは、全員が離れて約5分後のことだった。

 ◆15・30~ 峠から町を見下ろす。これが「津波の風」か

 斎藤真教諭は生徒たちと恋ノ峠にたどり着く。津波は、やまざきデイサービスの手前で止まった。
 「峠のそばにある石材店に来た時、ここまでは来ないなと分かりました。生徒に『もう大丈夫だから』と言いましたが、パニック状態で叫んだり、泣く子や過呼吸の子がいました。全員が助かったのは運がよかっただけじゃないんです。『てんでんこ』で一人一人が自分の命を守るなら、訓練なんかいらないじゃないかという人もいる。でも普段から準備し、訓練を重ねたから想定外のことにも対応できたと思うんです」
 津波に流されたと思われていた平野憲校長が山を越えて峠に着いたのは16時半ごろ。生徒たちに「よっ」と声をかけた。
 「途中で、生徒が無事だと聞いていたので安心して歩いてきました。そして生徒を動揺させないよう、できるだけ自然に合流しようと思ったんです」
 峠もまだ危ないと感じた生徒の一部が山の斜面を登り、佐々木良一教諭は迎えに行く。津波にのまれた鵜住居の町を、そこから生徒たちと一緒に見下ろした。
 「生徒がふと口にしたんです。『これから、どうなるんですか』。答えが見つかりません。『今より悪くはならない。きょうよりあした。あしたよりあさってだ』と。それしか言えなかったです。峠には、冷たい、湿った風が吹いていました。子供のころ、漁師をしていた祖父から聞いた『津波の時に吹く風』でした」

==============

 津波は別々の場所にいた家族を襲った。学校、家庭、職場。その時、学校や親は子供たちを守るためにどう備え、判断すべきなのか。

 ◇保護者に引き渡し後、児童22人犠牲 海側の自宅へ戻り、待っていた家族も…--宮城県石巻市・釜小

 目指す小学校にずぶぬれでたどり着いたのは地震の翌朝だった。釜小は約1000人の被災者であふれていた。会社員の三浦永吉さん(30)は1年生の長女優奈ちゃん(当時7歳)を捜し続けた。姿はどこにもない。海側にある自宅に、学校に上がる前の幼い娘2人と妻、義父母が残っているかもしれない。だが、近づくことさえできなかった。
 震災から5カ月。家族7人のうち助かったのは、職場全体で高台へ避難した自分だけだった。「おっとー、お帰り」。あの日が来るまでは、玄関のドアを開けると優奈ちゃんたちの笑顔があった。「なんで、おいは1人なんだ」
 釜小は児童24人が死亡し、1人が行方不明のままだ。
      ◇
 地震の揺れが収まると、授業中や下校直後の500人以上が訓練通り校庭に集まった。下校中の優奈ちゃんも、同級生と一緒に泣きながら戻ってきた。
 中3~小1の4人の子を持つ阿部利美さん(39)が校庭に着いたのは午後2時55分ごろ。他にも次々と迎えが来た。釜小は地震や台風の時、児童の安全確保のため保護者に引き渡すルールを決め、定着している。担任は児童の人数を確認し、阿部さんと5年生の次女の手をつながせた。
 阿部さんが海側の南門を出る時、三浦さんの義姉、佐々木千恵美さん(当時39歳)と一緒になった。三浦さんの隣家に住む佐々木さんは自分の娘と優奈ちゃんを連れていた。「怖いね。気をつけようね」。それが最後の会話になった。
 校庭に雪が舞い、津田浩校長(60)は児童を体育館に移動させて引き渡しを続ける。そのころ、市の防災無線やメディアは大津波警報を伝えていた。だが、釜小は地震から30分以上、警報に気づいていない。6年生の男子児童は校庭で防災無線の声を聞いたが、「音が反響して聞こえにくかった」と言う。
 市防災対策課によると、地震後すぐ市内約400カ所のスピーカーで大津波警報を流した。無線の声が聞き取りにくいと以前から指摘され、言葉の間隔を空ける工夫をしていたが十分ではなかった。
 ラジオと防災無線でようやく警報を知った学校は引き渡しをやめ、児童らを体育館から校舎に避難させる。車で釜小に向かった石川保子さん(47)は渋滞で到着が遅れた。「もう少し早く着いていたら、家に連れて戻る途中に車ごと流されていたかもしれない」
 津波が校舎に到達し、じわじわと水位が上がる。児童は体育館から校舎3、4階に避難した。最後の1人が1階から逃げるころには腰の辺りまで水が来ていた。
      ◇
 三浦さんの義姉、佐々木さんは優奈ちゃんたちと自宅のある海側に向かった。その後の足取りは分からない。
 佐々木さん一家も小1と小6の娘を含む4人が亡くなり、中学生の長女だけが残された。
 引き渡し後に犠牲になった児童は、死亡・不明25人のうち22人。家族と一緒に亡くなったケースが多く、少なくとも4家族は全員が死亡した。8人すべてが亡くなった家族もある。
 三浦さんは津波が来る前、自宅にいた妻の携帯電話と2回つながり、「逃げろ」と伝えた。なぜ逃げなかったのか。「家族みんな、優奈が学校から帰って来るのを待っていたんだ」と思う。
 津波の危険が迫っていても、自宅に家族が残っていたら……。佐々木さんと途中で別れた阿部さんも三女を塾で引き取り、中1の長男のいる家に帰っている。津波が来る直前に逃げて命拾いした。家族は震災後、「家にいたら高台の中学校へ」と決めた。しかし、子供たちだけで判断できるだろうか。不安は残る。

 ◇体育館で「危機一髪」--宮城県名取市・閖上小

 閖上(ゆりあげ)小は名取川から約600メートル、海から約2キロの場所にある。過去に大きな津波被害はなく、危機意識が高いとは言えない。それでも欠席の1人以外に被害はなかった。保護者には一人も引き渡していない。
 閖上小は地震直後に停電し、名取市の防災無線も機能しなかった。しかし、同小は職員の一人が携帯ラジオで大津波警報を知り、学校はマニュアル通り校舎最上階の3階に児童を避難させた。偶然、学校近くにいた及川宏子さん(30)は1年生の息子を迎えに行くため、揺れが収まって30秒もしないうちに車で学校に着いた。「大津波警報が出てるから教室に戻れ」。男性教諭3人が叫んでいるのを聞いた。
 その後、保護者が続々と迎えに来たが、学校は引き渡さなかった。校長が「帰したら親も子も津波に巻き込まれてしまう」とその場で判断した。「早く引き渡して」という求めには応じず、児童と保護者を一緒に避難させた。
 その後の学校の判断には疑問を持つ親もいる。市教委によると、津波が予想された時刻を過ぎても到達しないので、午後3時43分、保護者に引き渡すため児童を3階から体育館に移動させた。午後4時ごろ、真っ黒な濁流が校舎1階を襲う。直前に誰かが「津波が来るぞ」と叫び、児童らは再び校舎3階や屋上に逃げて無事だった。
 小5の娘を迎えに行った相沢由香理さん(36)は言う。「危機一髪だった。外の様子が分からない体育館でなぜ引き渡しをしようとしたのか引っかかる」

 ◇「1人で高台へ」浸透--岩手県釜石市・釜石小

 児童のほとんどが下校後だったが、それぞれが津波避難所の学校や公園に避難して無事だった小学校もある。
 釜石小は、短縮授業のため午後1時過ぎには下校が始まっていた。184人の児童のうち、6年生10人だけが校内に残り、他は▽自宅▽友人宅▽通学路▽公園▽海岸--などにいた。
 「学校は高台にあるから、学校にいる時は問題ない。でも登下校中に避難しなければいけなくなった時、どうしようもないのでは」。加藤孔子(こうこ)校長(53)は感じていた。通学路の大部分は、津波浸水想定区域だったからだ。
 08年11月に初めて、「下校時に地震が発生し、津波警報が発令された」という想定で避難訓練をした。津波避難場所の確認も含めた通学路の安全マップを作り、いつも目に付くように校内の廊下や玄関に張った。児童らは安全マップに従って、高台の避難場所に向かう訓練を繰り返した。
 4年生だった大坂有佑実(あゆみ)さん(10)は自宅で同級生と遊んでいたが、高台の避難道路へ一緒に避難した。母松江さん(38)はコンビニで買い物をしていた時に地震に遭い、自宅に戻らず別の場所へ避難した。「娘は必ず逃げている。大丈夫」と信じた。日ごろ、家族でも「地震の時は1人で逃げよう」と決めていた。
 加藤校長は「学校でやってきたことが子供にしみていたし、それが親や地域にも伝わっていたと思う」と言う。

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