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ポピュリズム~政治的狡知と暴走の境界

「内田樹の研究室」より・・・ポピュリズムについて「地方自治は民主主義の学校」との言葉で有名なトクヴィル“アメリカの建国の父たちは表面的なポピュラリティに惑わされて適性を欠いた統治者を選んでしまうアメリカ国民の「愚かさ」を勘定に入れてその統治システムを制度設計していたのである”とその政治的狡知に触れながら、日本では、そうした制度設計も運営もされないなかで、“チープでシンプルな政治的信条を、怒声をはりあげて言い募る“ことで支持を集めているポピュリズムが、政治の幼稚化、「壊す」が信条とにり現に社会システムを壊していることを指摘している。
 ポピュリズムについて、認識が深まる論考。
【ポピュリズムについて】

 地方自治の二元性は、そういう意味で、暴走をとめる仕掛けである。これを大阪のわうにほとんど一人区すれば、政策のよしあしは別にして、首長の独裁を生む危険性がある。
 人為的な多数をつくるのでなく、多様な意見を生かすシステムこと大事と思う。

 亡くなった敬愛する先輩が「水戸の黄門」を評して“ああして外から現れて、威光で「善」をなすので、住民の力はまったく育たない。だから何度も日本中をまわらないといけない”と言ったことがあるが、誰かに託すのではなく、「原発は安全と言ったじゃないか」ではなく、一人一人が、調べ考え行動することが、「3.11以降」の価値観と思う。成熟した社会の物質的基盤は、異常な長時間過密労働、非正規の不安定就労の解決が並行してすすまなくてはならない。

 一方でこの論考。私たちの活動スタイルについても考えさせられる点がある。
 

【ポピュリズムについて】

『Sight』のために、平松邦夫大阪市長と市庁舎で対談。
相愛大学での「おせっかい教育論」打ち上げ以来である。
今回は「ポピュリズム」についての特集ということで、市長と「ポピュリズム政治」について、その構造と機能について論じることとなった。

「ポピュリズム」というのは定義のむずかしい語である。

私はアレクシス・ド・トクヴィルがアメリカ政治について語った分析がこの概念の理解に資するだろうと思う。
トクヴィルはアメリカの有権者が二度にわたって大統領に選んだアンドリュー・ジャクソンについて、その『アメリカのデモクラシーについて』でこう書いている。
 「ジャクソン将軍は、アメリカの人々が統領としていただくべく二度選んだ人物である。彼の全経歴には、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない。」
トクヴィルは実際にワシントンでジャクソン大統領に会見した上でこの痛烈な評言を記した。
そして、この怜悧なフランスの青年貴族はアメリカの有権者がなぜ「誤った人物を選択する」のか、その合理的な理由について考察した。

この点がトクヴィルの例外的に知的なところである。

ふつうは、「資質を欠いた人物を大統領に選ぶのは、有権者がバカだからだ」と総括して終わりにするところだが、トクヴィルはそうしなかった。
ジャクソンは独立戦争に従軍した最後の大統領である(ほとんどの期間を捕虜として過ごしたが)。のちテネシー州市民軍の大佐となり、インディアンの虐殺によって軍歴を積み、クリーク族を虐殺し、その土地93,000㎢領土を合衆国政府に割譲させた功績で少将に昇進した。
米英戦争のニューオリンズの戦いでは、5,000名の兵士を率いて7,500名以上のイギリス軍と戦い、圧勝をおさめて、一躍国民的英雄となった。
さらにセミノール族との戦いでも大量虐殺を行い、イギリス、スペインをフロリダから追い出し、フロリダの割譲を果たした。

「軍功」というよりはむしろ「戦争犯罪」に近いこの経歴にアメリカの有権者たちは魅了された。
建国間もないこの若い国は「伝説的武勲」の物語を飢えるように求めていたからである。

ナポレオンを基準に「英雄」を考えるトクヴィルは、ジャクソン程度の軍人が「英雄」とみなされるアメリカの戦史の底の浅さに驚嘆し、そこにつよい不快を覚えた(それがジャクソンに対する無慈悲な評言に結びつく)。

けれども、トクヴィルはそこから一歩踏み込んで、むしろアメリカの統治システムの卓越性はそこにあるのではないかという洞察を語った。
それはアメリカのシステムはうっかり間違った統治者が選出されても破局的な事態にならないように制度化されているということである。

アメリカの建国の父たちは表面的なポピュラリティに惑わされて適性を欠いた統治者を選んでしまうアメリカ国民の「愚かさ」を勘定に入れてその統治システムを制度設計していたのである。
不適切な統治者のもたらす災厄を最小化するために、一つ効果的な方法が存在する。
それがポピュリズムである。

統治者の選択した政策が最適なものであるかどうかを判断することは困難である(少なくともその当否の検証にはかなりの時間がかかる)。
けれども、それが「有権者の気に入る」政策であるかどうかはすぐに判断できる。
それゆえ、アメリカでは、被統治者の多数が支持する政策、「最大多数の福祉に奉仕する」ものが(政策そのものの本質的良否にかかわらず)採択されることが「政治的に正しい」とされることになったのである。
「重要なのは、被支配者大衆に反する利害を支配者がもたぬことである。もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんど用がなく、才能は有害になるからである」
そうトクヴィルは書いている。

統治者の才能や徳性は被統治者と同程度である方がデモクラシーはスムーズに機能する。
なぜなら、徳や才があるけれど、大衆とは意見の合わない統治者をその権力の座から追い払うのは、そうでない場合よりもはるかに困難だからである。

だから、あきらかに資質に欠けた統治者を選ぶアメリカの選挙民を「バカだ」と言うのは間違っている。
統治者は選挙民と同程度の知性、同程度の徳性の持ち主で「なければならない」という縛りをかけている限り、その統治者がもたらす災厄は選挙民が「想定できる範囲」に収まるはずだからである。
ポピュリズムは一つの政治的狡知である。

そこまで見通したという点で、トクヴィルはまことに炯眼の人であったと思う。

このポピュリズム理解はそのまま私たちが直面しているポピュリズム政治にも適用できる。
ポピュリストを選ぶ有権者たちは、彼らよりも知的・道徳的に「すぐれた」統治者がもたらすかもしれない災厄に対して、無意識的につよい警戒心を持っているから、たぶんそうしているのである。

知性徳性において有権者と同程度の政治家は、まさにその人間的未成熟ゆえに「ある程度以上の災厄をもたらすことができない」ものとみなされる。

けれども、そのような「リアリスティックなポピュリズム」が私たちの国の政治風土をゆっくり、しかし確実に腐らせてきた。

彼我の違いを形成するのは、アメリカのポピュリズムは“建国の父”たちのスーパークールな人間理解に基づく制度設計の産物であるのだが、日本のポピュリズムの場合には、それを設計し運営している人間がどこにもいないという点である。

日本のポピュリズムは法律や政治システムという実定的なかたちをとることなく、「空気」の中で醸成された。
日本の政治家たちが急速に幼児化し、知的に劣化しているのは、すべての生物の場合と同じく、その方がシステムの管理運営上有利だと政治家自身も有権者も判断しているからなのである。

チープでシンプルな政治的信条を、怒声をはりあげて言い募るものが高いポピュラリティを獲得する。

私たちの政治環境は現にそのようなものになりつつある。
社会システムを作り上げるためには成熟した思慮深い人間が一定数必要である。けれども、社会システムを破壊するためには、そのような人間的条件は求められない。

だから、全能感を求める人間は必ず「壊す」ということを政治綱領の筆頭に掲げることになるのである。
そして、現に壊している。
そんなふうにして、いま日本のシステムはあちこちでほころび始めている。


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