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恐怖や強制で「公民」はつくりだせない

内田樹さんの「国旗問題再論」より… 成熟した市民社会をどうつくるか、本質的な提起。
“どういう手だてをとれば、国益を最大化できるか(それはただちに私自身の私利を最大化することに通じている)を考えることに優先的に頭を使うこと、それが「愛国心」の発露である。” “国旗国歌の良否について国民ひとりひとりの判断の自由を確保できるような国家だけが、その国旗国歌に対する真率な敬意の対象になりうるからである。当たり前のことだが、「敬意を表しないものを罰する」というやり方は恐怖を作り出すことはできるが、敬意そのものを醸成することはできない。「公民」は恐怖や強制によって作り出すことはできない。”と・・
【国旗問題再論  内田樹の研究室5/31】

【国旗問題再論  内田樹の研究室5/31】

卒業式での君が代斉唱時の不起立を理由に、東京都教委が定年後の再雇用を拒否したのは「思想や良心の自由」を保障した憲法に違反するとして都に賠償を求めていた訴訟について、30日最高裁判決が下った。
「校長の教職員に対する起立斉唱命令は合憲」とする判断を下し、原告の上告を棄却した。

判決は「起立斉唱行為は卒業式などの式典での慣例上の儀礼的な性質を有し、個人の歴史観や世界観を否定するものではない」とした。
 しかし、起立斉唱行為は教員の日常業務には含まれず、かつ「思想と良心に間接的制約となる面がある」と留保を加え、「命令の目的や内容、制約の様態を総合的に考慮し、必要性と合理性があるかどうかで判断すべき」との判断基準を示した。

今回の判決では、公務員は職務命令に従うべき地位にあるということを根拠に、「間接的制約が許される必要性や合理性がある」と判断して、教委による処分を違憲とした東京地裁判決を取り消した高裁の逆転判決を確定させた。

国旗国歌問題については、これまでの折に触れて書いてきた。

この問題についての私の立場ははっきりしている。

国民国家という制度はパーフェクトなものではないが、とりあえずこの制度をフェアにかつ合理的に運営してゆく以外に選択肢がない以上、集団のフルメンバーは共同体に対する「責任」を負う必要がある、というものである。
責任とは、この共同体がフェアで合理的に運営され、それによって成員たちが幸福に暮らせるための努力を他の誰でもなく、おのれの仕事だと思う、ということである。
 「このシステムにはいろいろ問題がある」と不平をかこつのはよいことである。けれども、「責任者出てこい。なんとかしろ」と言うのはフルメンバーの口にする言葉ではない。「問題のうちいくつかについては私がなんとかします」というのが大人の口にすべき言葉である。

そのような大人をどうやって一定数継続的に供給するようなシステムをつくるか。私はそのことをずっと考えてきており、そのために実践的提言も行ってきた。

いくつかの政策的選択がある場合には、「公民意識の高い成員を継続的・安定的に作り出すためには、どちらがより効果的か」ということを基準にその当否を論じてきた。

私が国旗国歌に対する地方自治体の「強制」的な構えに対して批判的なのは、それが公民意識の涵養に資するところがないと思うからである。

同じ事件について7年前にブログに書いたことを採録する。私の意見は基本的に変わっていない。

東京都教育委員会が、今月の卒業式で「君が代」に起立しなかった都立校の教職員180名に戒告などの処分を下した。起立しなかった嘱託教員は今年度で契約をうち切る方針である。
東京都教育委員会にお聞きしたい。あなたがたはこのような処分を敢行してまで、「何を」実現しようとされているのか?

愛国心の涵養?
まさかね。

繰り返し書いているように、「愛国心」というのは「自国の国益を優先的に配慮する心的態度」のことである。
「国益」とは理念的に言えば、国民の生命幸福自由の確保のことであり、リアルに言えば、実効的な法治と通貨の安定のことである。

私たちが国益を優先的に配慮するのは、「そうするほうが私的な利益を最大化できるから」である。
当たり前のことだが、独裁者が暴政を揮い、貪吏が私利を追い求め、盗人が横行し、通貨は紙くず同然、交通通信電気などのインフラが整備されていない社会に住むより、そうでない社会にいるほうが、私たち自身の生命身体財産自由が確保される確率は高い。

私たちが国益を配慮するのは、私たち自身の私利の保全を配慮しているからである。
というのが近代市民社会論の基本の考え方であり、この原理に異を唱える人は、とりあえず日本国憲法遵守の誓約をなしてから就職したはずの日本の公務員の中にいるはずがない。

もちろん東京都教育委員会のメンバーの中にもいるはずがない。

どういう手だてをとれば、国益を最大化できるか(それはただちに私自身の私利を最大化することに通じている)を考えることに優先的に頭を使うこと、それが「愛国心」の発露である。私はそう考えている。
しかし、その「愛国頭」が出した結論については、一義的な国民的合意はない。

あるはずがない。

国益は国際関係の文脈に依存しており、ある国が単独で決することができるような問題はほとんどないからである。たとえば、日本の外交戦略がとるべきオプションは、アメリカの国際社会における威信や影響力が「あとどれくらいもつか」についての評価の違いによって、まったく変わってしまう。

しかし、「あとどのくらいもつか」は未来予測であり、未来について確言できる人間は世界にひとりもいない。わずかな偶然的ファクターの介入によって状況が一変する可能性はつねにあるからだ。
だから日本が外交上とるべき「ベストのオプション」を確言することは誰にもできない。
できるのは誰の未来予測がもっとも蓋然性が高いかを、データを積み上げて吟味することだけである(それもしばしばはずれるけれど)。

それでも、私はこのような知的作業をていねいに行うことが「愛国心の発露」だと思っている。
というふうに国益と愛国心について基本的な確認をした上で、東京都の教育委員会におたずねしたい。

あなたがたは、今回の処分と「日本の国益のための最適オプション採択の蓋然性の向上」のあいだにどのような論理的関係があるとお考えなのか。

どう考えても、あるようには思えない。
「君が代」と「日の丸」は日本国の象徴である。
「君が代」と「日の丸」に儀礼的な敬意を払うのは、「日本国」に対する敬意を象徴的に表現するためである。
日本国に敬意をもつ人間であれば、誰に強制されなくても自然に国旗には頭を下げ、国歌には唱和する。
神社仏閣を訪れる人間は、誰に強制されなくても自然に頭を下げている。別に誰かが「こら、頭を下げろ、さげないと処分するぞ」と命令しているからではない。具体的に私たちに対して何の利益も不利益ももたらしていないような天神地祇に対してさえ、私たちはほのかな敬意を抱き、それを自然にかたちにする。
ましてや具体的に私たちの日々の平穏な暮らしを保障してくれている国家に対して敬意と感謝の念を抱くことがそれほどむずかしいことだと私は思わない。

私自身は、国旗に敬礼し、国歌を斉唱する。私が生まれてから今日まで、とりあえず戦争もせず、戒厳令も布告されず、経済的なカタストロフも、飢饉も、山賊海賊の横行もなかったこの国に対して、私なりのひかえめな敬意と感謝の念を示すためである。
私が日本国に対して抱いている「ほのかな敬意」は、親日派の外国人が日本に対して抱いている「ほのかな敬意」に質的にはかなり近いのではないかと思う。
それは別にファナティックなものではなし、万感胸に迫るというようなものでもない。
けれども、経験に裏打ちされたものである。

そのような敬意を象徴的に表現することに抵抗を覚える、という方がいるとしても、私はそれはしかたのないことだと思う。それは世界観の問題というより、経験と経験の評価の差によるものだからだ。
いま、この国の国民であることが、それ以外の国の国民であることより「かなりまし」であるということ、この国に生まれたことが「わりとラッキーだった」ということに気づくためには、それなりの「場数」というものを踏まないといけない。

政情が不安定であったり、経済が混乱していたり、インフラが整備されていなかったり、特権階級が権益を独占していたり、文化資本の階層差が歴然としている社会をあちこちで見て来たあとになると、なんとなく「ふーん、ま、ぼちぼちいい国なんじゃんか、日本も」という気分になってきたりする。

もちろん、まったくそういうふうに感じられない人もいる。
たとえば、個人的に行政や司法から理不尽な扱いを受けた経験のある人が「国家への敬意なんて、持てるわけがない」と思うことは誰にも止められない。止めるべきでもない。

国民国家における市民社会はつねに「私と意見の違う人」「私の自己実現を阻む人」をメンバーとして含んでいる。その「不快な隣人」の異論を織り込んで集団の合意を形成し、その「不快な隣人」の利益を含めて全体の利益をはかることが市民の義務である。

国旗国歌に敬意を払うことを拒否する市民をなおフルメンバーの市民として受け容れ、その異論にていねいに耳を傾けることができるような成熟に達した市民社会だけが、メンバー全員からの信認を得ることができる。
そのようにして異論に耐えて信認された集団の「統合の象徴」だけが、メンバーから自然な敬意を受けることができる。

私はそう思っている。

自分に敬意を払わない人間を処罰する人間は、なぜ敬意を払われないのかについて省察することを拒絶した人間である。ふつう、そのような人間に敬意を払う人はいない。
国家に敬意を払わない人間を処罰する国家は、なぜ敬意を払われないのかについて省察することを拒絶した国家である。ふつう、そのような国家に敬意を払う人はいない。

今回の東京都教育委員会の行った処分によって、世界全体で「日本が嫌いになった」人間と「日本が好きになった」人間のどちらが多いかは問うまでもないだろう。
日本を嫌いになる人間を組織的に増やすことによって、東京都教育委員会は、日本の国益の増大にどのような貢献を果たしているつもりなのか、私にはうまく想像することができない。(2004年3月31日)

ご存じの通り、アメリカ合衆国の最高裁は「国旗損壊」を市民の権利として認めている。自己の政治的意見を表明する自由は国旗の象徴的威信より重いとしたのである。

私はこの判決によって、星条旗の威信はむしろ高まっただろうと思う。

国旗国歌の良否について国民ひとりひとりの判断の自由を確保できるような国家だけが、その国旗国歌に対する真率な敬意の対象になりうるからである。
当たり前のことだが、「敬意を表しないものを罰する」というやり方は恐怖を作り出すことはできるが、敬意そのものを醸成することはできない。

「公民」は恐怖や強制によって作り出すことはできない。

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