近代経済学の泣きどころ 工藤晃 備忘録
工藤晃氏の「経済学をいかに学ぶか」(06年)より「近代経済の泣きどころ」の備忘録。近経手法をとりいれながら「日本経済への提言」づくりにかかわった氏の「マルクス経済学の学習の中で、近経批判はかかせない課題」という近経への批判。
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【近代経済学の泣きどころ 工藤晃】
Ⅰ なぜ近代経済学をとりあげるのか
・ここで近代経済学というのは「資本論」以後にあらわれた古典派経済学と区別される、ワルラスたちを開祖とする「ミクロ経済学」、ケインズを開祖とするいわゆる「マクロ経済学」など。
・取り上げる主な理由は3つ
①資本論の副題「経済学批判」。その研究態度に少しでも近づくために、近経の批判も必要
②資本論は、資本主義が、それまでの歴史上でもっとも進んだ制度をあきらかにするとともに、歴史的、過渡的な経済制度をあきらかにした。それゆえ資本主義が続くもとでの改革という側面は少ない。他方、特にケインズ以後の経済学には、資本主義に固有な欠陥に対処する経済政策論がある。革新勢力の経済政策論を前進させるには、その批判的摂取が重要。
③近経の理論全体の中に深くしみこんでいる1つの社会観、哲学は功利主義であり、個人主義的な社会観。 ヒューム、ロック、ルソーなどブルジョア民主主義の革命思想として大きな役割を果たした。その中に、ベンサムの「功利主義」がある。ミルは、経済学ではリカード学派だが、政治理論ではベンサムに直接影響をうけている。ミルの「自由論」「代議政治論」は日本の自由民権運動にも大きな影響を与えた。その民主主義的内容は、憲法の国民の権利として体現している。
他方、功利主義は、「限界効用理論」として、新しい経済学に直結している。そして社会観としての功利主
義が、特に若い世代で一般化していることから、近経が受け入れやすく、常識となりやすい。高校の教科書でも「需要曲線、供給曲線」がまっさきに出てくる。マスコミの解説もこの常識に従っている。
よってマルクス経済学の学習の中で、近経批判はかかせない課題である。
Ⅱ 近代経済学に特徴的な点
(1)労働価値説 対 主観的価値説
・ベンサムは、個人の快楽または苦痛は数学的に計算可能であり、また個人の快苦の感受能力は等しいものと考えた。彼は、こま説を道徳の原理として述べた。/この説を、経済学の原理に導入したのが1870年代にあらわれた近経の諸学派
→ 使用価値を個人的に消費する過程で、消費者が感じる満足度は、計算可能と置き換え、商品の価値を決めるのは、消費者(個人的消費)の主観的価値(消費者の満足を効用という)、という新説をたてた。
・ベンサムは、財が一単位ずつ増えるにしたがって、快楽の量は次第に減っていくことを認めていたがねこれは限界効用説と名付けられ、これが古典派経済学を打ち破る“限界革命”と、宣伝された。
→ ビグウ「功利主義の哲学は、古くから英国に、社会をもって自らの幸福を追求する個々人の集合と解する社会観を打ち立てており…結局個々人の幸福の総和を極大ならしめるような社会が最善の社会であるという考えを行き渡らせた。これがすなわち周知の『最大多数の最大幸福』の命題に他ならない。
やがて限界効用理論の首唱者ジェヴォンズが現われて、経済学を『快楽苦痛の微積分学』と断ずるに至り、ここにこの思想は確実に経済学にむすびつく」
(2)社会関係の研究 対 個人的行動の研究
・スミス、リカードは、国民の労働生産物が社会を構成する各階級の間で分配される法則を研究の主題とした。/マルクスは明確に研究対象は「資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係よび交易諸関係」
・対して、近経は、功利主義を「経済学の中核に導入した」(ビグウ)ことにより、個々の人々の、あるいは個々の経済主体の、それぞれの満足のための行動が研究の主題となる。社会全体の考察も、そのような個人、個別的経済主体の総和としてとらえるだけ。
→ ワルラス、ヒックスの体系では、①消費者行動の理論 その後に②企業行動の理論 /彼らの理論では、労働者は、剰余価値の生産の役割ではなく、「消費者」「家計」とよばれる経済主体に変えられ、その本当の姿が消されてしまい、「消費者」として“最大満足”を達成する。/その上で、資本の方は、企業行動――利潤最大化を達成する――として、研究される。
→ 各個人は、生産を計画する生産者であり、また労働サービスを提供する消費者。各人が「置かれている市場的条件のもとで、生産者となるか、消費者となるかということを選択することが可能となるような状況を想定している」(宇沢弘文)/(メモ者。資本と賃労働という階級関係を無視した空想的な世界ではないか)
Ⅲ.主観的価値説の自己補修と、その結果
・近経/ 最も重要な理論的支柱…「主観的価値説」「効用理論」/しかし、「効用理論」はあまりに現実ばなれしており、逃げ道を作っている。
(1)最初は、効用は測定可能だった
・ベンサム…快楽、苦痛は数学的に測定可能、としたように最初の近経も、測定可能の立場
→例)デュポンズ、ワルラス、マーシャルら19世紀の経済学者/ Aの効用は15単位、Bの効用は45単位。BはAより3倍好まれる (クォント「現代の経済学」)
(2)たとえば直接測定は不能でも、間接的には表れる
・マーシャルの場合 /イギリス経験主義の伝統を受けたらしく、それほど単純ではない
→「人間性の基本的性向は欲望飽和の法則ないし効用逓減の法則」であること、「ある人にたいする財の全部効用」とは「それが彼に与えるすべての快楽その他の利便」である、と説明し、計算可能な立場に立っている / 他方で「 欲求は直接これを測定はできない。ただ間接的に、これによって引き起こされる外的な現象を媒介として欲求は測定できるだけである」「その測定はある人がその欲求の実現ないし充足のために支払おうとする価格を介しておこなわれるのだ」/ つまり何円で買いたいという「外的な現象」を媒介にして間接的に測定てぎる、という結論に立っている。
・W.ぺティからスミス、リカードにいたる古典派経済学は、商品の交換価値という現象形態から、かくれているその本質は、生産についやされている労働の量であることを発見した
・ところがマーシャルは、効用そのものは測定不能だが、交換価値という「外的な現象」に反映するという仮定を設けることで満足しょう、と説いている。/マーシャルの弟子のピダウは、「ある人かせある物に対して支払おうとしている貨幣が直接に測定するものは、その人がその物から得るところの満足てばなくて、その物に対するその人の欲望の強度なのである。
→ このように、出発点では、測定可能であった効用は、物を使った時の満足なのか、物への欲望なのか。測定できるのか、できないのか。いずれにせよ、交換価値に反映されるという説で満足しようと、その曖昧さを露呈した。
(3)もういらないという所で価値が決まる
・ある物の消費量をふやしていく時、満足度は次第に減って、最後はもういらない、ということになることが日常的にはよくある。 (そうでないことや、あるいはピダウのように物への欲望となるとますます強くなることもあるが、ここでも問題にしない)
→ 近経では「効用逓減の法則」と呼んでいる。/ある物の消費量を1単位ずつ増やしていくと、1単位の追加的効用(限界効用)は次第に減っていく。
→ 3つのことが導かれる
①限界効用と総効用とは区別される。
②消費者がその物にいくら払うかを決めるには、総効用の大きさはわからなくてよい。これ以上買うか買うまいかという限界効用の大きさが問題なのである。 ~ しかし「競争的市場では単一の価格しかありえないわけだから、どの単位もの売値が最終の一番役立たぬ単位の売値と同じでなければならない。これは市場価格は、総効用ではなく限界効用で決まるという命題
③ 消費者が、それぞれの商品をどのくらい買うときに、かれの効用を最大化させるための条件は、各財の価格で割った限界効用に大きさが相互に等しくなることであるという、「限界効用の均等の基本法則」(1ドルあたり限界効用均等の法則)が導きだされる。
~ マーシャルの説明はわかりやすい「若夫婦が年末に、どこの支出をもっと切り詰めるべきか考える時、ある支出を1ポンド節約することで起こる効用の現象を、他の場合と比較しながら、いろいろな項目の(限界)効用を比較秤量しており、全体として効用の減少を最小にしようとする」(経済学原理Ⅱ)
~シュムペーター MUa/Pa=MUb/Pb かの方程式は純粋経済学の核心、アルファにしてオメガ/今日の「ミクロ経済学」の消費者の理論は、効用最大化問題を中心にしている。
・しかし、この理論は、日常生活の常識論としても理解しがたい
→ サムエルソン「1オンス25ドルの香水の限界効用と、1杯10セントのコーラの限界効用と等しくないのは当然」。「均衡を最適なものにするためには、香水とコーラの限界効用を各単位ごとの価格でわったものが等しくなるようにするものでなくてはならない」
→ この場合、一般の庶民であれ、特別のエキスパートであり、この香水の限界効用がコーラの250倍であると気付くことがどうしてできるのか、という疑問がわく。
~ ベンツ一台500万円、トイレットペーパー1つ20円とすると、
ベンツの限界効用/500万円 =トイレットペーパーの限界効用/20円・・・ベンツの限界効用は25万倍/つまりベンツをもう一台買うべきか、トイレットペーパーを1つ買うべきか迷っている人は、「自らの福利を極大にする」(サムエルソン)ためには、その限界効用の差が25万倍になる点に気付く必要がある。/しかも、日常的に様々な財と財とを比較して、この判断を即座にしなければならない、ということになる。
(4)効用を絶対的な尺度で測ることは非現実的だとあきらめよう、その代わり順位ならわかるのでは…
・ヒックス以前では、効用を絶対的な尺度で測れるという立場を「基数的効用分析」と呼ぶが、現在では、非現実的として斥けられている。(西村和雄「ミクロ経済学入門」)
・ヒックス「消費者が諸財のある集まりを他のものよりむしろ選好するということを想定すれば足りる」/面白いことに彼は、これで「功利主義的仮定のない経済学」がつくれる、と言っている。
→ Tシャツ2枚とTシャツ3枚の効用はどちらが大きい、という判断なら誰でもできる。どっちの効用が大きいが順番をつけること、これが「選好の階梯表」(ヒックス)/これから序数的効果分析を始める。
・著者は/ベンツ一台とトイレットペーパー1つの限界効用が25万倍になることがどうしてわかるのか、という疑問を呈した。そして基数的効用分析が現実的でない、というなら、限界効用均等化の法則もおしまいになるはずである。それなのに、新しい分析方法で法則を再構築していることに驚かされる。
・その方法とは/「パレードの仕事」とヒックスが呼んだもの。「無差別曲線」の上での分析
→ 限界効用U の財x1.x2をどの量で買ったときの大きさが、効用曲線という立体的な曲面であらわされる。/限界効用Uの量を絶対的尺度で表わすわけにはいかないので、同じ効用を示すx1.x2の組み合わせの量は、無差別曲線として表される。/つまり無差別曲線上のA点(x1.x2)の第一財(たとえばパンツ)を限界的に1単位減少したときに、同じ効用を維持するため(無差別曲線の上にあるため)、第二財(たとえばTシャツ)をどれだけ増やさなくてはならないか、を示している。
→ ここに、限界効用の代わりに「限界代替率」というカテゴリーがあらわれる =-⊿x2/⊿x1 /重要なことは、限界代替率は、「第二財で測った第一財の主観的価値(主観的交換比率)である点(西村、同)
・大きな疑問
① 1つの財の効用(満足度)は測定不能である。つまりあやふやと認めながら、1つの財をもう一つの財――その効用も測定不能であやふやであるのに―― 比較して、つまり、あやふやなものとあやふやなものとを比較して、限界代替率という立派な数値、主観的価値がはっきり求められるのだろうか。
② 他方、市場では、第一財、第二財は、それぞれ市場価格をもって、すなわちP1、P2が与えられて売られていることが前提とされている。市場価格は何によって決められたのか、P1とP2の交換比率は何によって決められたのか。
→ 古典派経済学の労働価値説に挑戦し、主観的価値説をかかげたものの/ 結局、それぞれの財の価格は与えられたものとして、その上で各財をそれぞれどのくらいの量をもてば効用最大化になるであろう、で終わり/ その価格とはなにか、何によって決まるのか、商品の交換価値、価値の実態は何なのか、などはうやむやにされている。
Ⅳ 需要曲線はあるか
・効用最大化の条件を求めようとすれば、使えなくなった限界効用の代わりに、限界代替率がわからなければならない。/ しかし、無差別曲線分析によっても、限界効用という考え方、限界効用逓減の法則は、まんざら捨てられないように見える。
→ 効用曲線から、第二財の量を固定させた面で切ると、第一財の限界効用(MU1=⊿U/⊿x1)が--第一財の追加的消費による得られる追加的効用が現れる。
・次に、限界効用の考えをもとに、市場の需要曲線がどのようにして導き出されるか。すくなくとも2つの仮定が必要
①消費者は、商品の需要表をもつ/ その価格がいくらの時は、どれだけ買うかという一覧表を持つ。/興味深いことは、限界効用の考え方は、追加消費することによる追加的効用であり、消費量の変動にともなう効用であるのに、需要曲線では、価格が与えられて需要量が決まる関係に逆転している。
②個人の需要曲線を合計して市場需要曲線が得られること。
→ 第一の仮定は、ある消費者についてはありうるかもしれないが、すべての消費者について、その上すべての主要商品についてということになると、現実的でない。/そうだとすると、すべての個人の需要曲線を合計するという第二の仮定は、いっそう現実的でない。
・限界代替率論者(近経の終着点)では、需要曲線を描く約束事は、いっそうややこしくなる。/序数的方法(無差別曲線)は、もともと一定額の予算があり、それぞれに価格が与えられた2つの財の購入に支出しようとしてる消費者の行動が問題である。
→ もし予算と、第二財の価格が与えられているとして、第一財の価格が変動する時、第一財の購入量はどう変化するか、という問題をたてれば、第一財の需要曲線が与えられる。
→ ところがこの曲線は、2財の間のみの狭い範囲内でのみ発生するもので、これらを総計して市場需要曲線には転換できない。
・そのためヒックスは/「消費者がその支出を二商品の間にだけ分割して、それ以上に出ない場合にのみ適合するように見える。が、実際はそれほど制限されたものではない。というのは、かりにXとYとを、有形の商品としててはなく、1つのパン(ある有形商品)、他を一般的購買物(マーシャルの「貨幣」)とみなすとしよう。消費者の選択は貨幣をパンに費やすか、またはその他の物にへの支出に利用できるようにしておくかの間の選択である」/ Yがジャガイモであっても、焼いたり煮たりいくらでも形態を変えるだろう。形態を変えても、パンとジャガイモの間の無差別体系を作り上げることを妨げるものではないので、同様に、貨幣を他の諸商品に変えうる条件を与えているかぎり、任意の商品Xと貨幣との間に確定的な無差別体系をつくりあげてはならないという理由にならない」
→ しかし、無差別曲線の分析の意義は、1消費者が、2つの異なる使用価値をそれぞれ消費してえられる満足度を比較して、2つの間の主観的交換比率をとらえようとするもの。
→ 貨幣においては、使用価値の具体的な形態は消えている。第二財を貨幣に置き換えると、効用がその消費から生まれるところの具体的な使用価値がない。よって第一財に対する主観的交換比率を求めようがない。/貨幣をなんでも買える「合成財」と見なそうとする考え方も、あらゆる種類の使用価値について、それぞれ消費よる満足度を思い浮かべ、次にこれらすべてを「合成」しなければならない。そんなことは無理である。
→ 第二財を貨幣に置き換えるという想定は、そのような方便を用いない限り、個人の需要曲線を合計して、市場に需要曲線が得られる、という話ができないのである。
・結局残るものは何か/マーシャル「欲求は直接これを測定できない。その測定は、ある人がその欲求を充足のために支払おうとする価格を介しておこなわれる」/ 需要曲線の2つの仮定が、非現実的なら、それが空論の産物であることは明らかである。
Ⅴ 企業は利潤最大化のため行動する
(1)第二の経済主体、企業
・古典派経済学/ 資本主義の経済構造の構成は、労働者、資本か、地主の3階級
・近経/ 市場経済の構成は、消費者(家計)と企業の2つ
→ 一般均衡理論では、生産物市場と生産要素(労働力と生産諸手段)市場との2つの市場がある /企業は生産物市場で財を消費者(家計)に売り、生産要素市場で生産要素を消費者(家計)から買う。消費者は生産物市場で財を企業から買い、生産要素を企業に売る。
・消費者(家計)、企業も、一人一人が個人主義的に、みずからの最大満足(あるいは満足最大化)のために行動する経済主体とみなされている。/賃労働者という定在は消され、ただの消費者(家計)という定在に姿を変えられている。
(2)企業と消費者は似たように行動する
・理念として賃労働者も資本家も同等の経済主体として抽象化されているだけでなく、/消費者と企業とは、相互に似た行動をする経済主体だとされる。
(3)現物形態(生産関数)から利潤を引き出す
・直接生産者の商品生産は、W-W、またはW-G-W /社会的に必要とされる使用価値を生産して、それをかれが必要とする使用価値と交換して入手し、消費してかれの欲求を充足させる。/この過程は、常に生産から始められる。/もし生産を捨象し、個人的消費の過程だけをとりだし、個人の主観的立場でながめようとすると、効用理論にいきつくだろう。
・企業の行動理論は、生産関数の分析から始める。/消費者の行動理論は効用関数の分析からはじめるのに良く似ている。/消費者は効用最大化のため行動、生産者は利潤最大化のため行動(クォント「現代経済学」)
・マルクスは、資本の生産過程を、労働過程と価値増殖過程との統一としてとらえ、剰余価値がどうして生まれるか明らかにした。/労働過程は、人間生活のすべての社会的形態に等しく共通なものとし、 その単純で抽象的な諸契機は、労働そのもの、労働対象、労働手段である、としている。
→ ところが、利潤最大化をはかって財を生産するメカニズムを示すため、企業の行動理論は、労働過程と価値増殖過程との統一を切り裂いて、価値増殖過程の側面を取り除いた。残るは労働過程だけ。/各生産要素の量と、生産物の量との関係 ―― 現物形態での量的関係 ――をとりだすと「生産関数」となる。
生産関数 y=f(x1、x2) x1、x2は、労働、労働手段など生産要素
→ 価値の側面は消え、資料的側面、現物的側面だけが残り、投入と産出との技術的量的関係として表れる。
・しかし、企業は利潤最大化のため行動する / そして利潤最大化の条件の解明は効用最大化の解明とならぶハイライトである。/ そのためには、利潤を価格ベースであらわさなければならない
生産物の価格=p
投入財の第1要素 x1 の価格 w1
投入財の第2要素 x2 の価格 w2 は、それぞれ与えられたものとする
利潤=販売価格―生産費 なので 利潤π=py-(w1x1+w2x2)
利潤πを固定すると… py=w1x1+w2x2+π /等利潤平面となる。
等利潤平面はいくつもつくれるから、生産曲面の上面と接するようにすると、B点
第2要素x2を固定すると、曲線y=f(x1、x2)と直線y=w1x1/p +(π+w2x2)/p
との接点が求められる。
→ 現物価格ベースの生産関数だけでは、価値、または価格ベースの利潤を求めることができないため、生産関数とは別に、生産物の価格も生産要素の価格も市場で与えられたものとして、価格ベースでの等利潤平面をつくり、生産関数の曲面との接点を求める形で、外的に結合させる方法をとっている。
→ 労働過程と価値増殖過程を切断し、後者を捨ててね剰余価値生産の秘密を葬るが、しかし、企業の利潤最大化の行動は研究しなければならないので、生産関数の外から価格ベースの平面を接合させたのである。
生産量のy軸に価格はのせられないので・・・ x2を固定るすと
y= w1x1/p + (π+w2x2)/p … w1/p 直線の傾き (π+w2x2)/p y軸との切片
・直線の傾き、w1/pは、B点(x1地点)での第一要素の限界生産性 MP1に等しい。
・次に第一要素x1を固定すると、B地点(x2地点)での第二要素の限界生産性MP2=w2/p が得られる。
→ 利潤最大化の条件は、MP1= w1/p、MP2=w2/p
価値ベースで限界生産物価値とすると p*MP1=w1 p*MP2=w2 となる。
・2つの点を注目する
①生産関数では、x1は労働、x2は資本(生産手段)。利潤最大化の条件は p*MP1=w1 であり、賃金は限界生産物価値により決定される。
→ 賃金は市場で与えられたものとして出てくるが、それが労働者の生活必需品の価値によって決定される論理はでてこない。/その代わり、賃金は利潤最大化を追及する資本の行動の原理の中だけで決定されることとなる。
②生産過程の質量的側面だけとりだし生産関係をつくり、その後で外部から与えられた価格をつけくわえ、価値値・価格ベースにやり直す。/ この中には、各生産要素の量と生産物の量との間の生産技術的連関がある。レオンチェフは、一般均等理論を現実の経済に適用し、産業連関分析を方法を開発した。その功績は大きい。こうした「学ぶ点には学ぶ」姿勢は大事である。
(4)費用の問題について
・企業の行動論理は、生産関数の次に費用関数により、利潤最大化の条件が論じられる。/費用関数は最初から価値ベースとなるので、生産関数の制約を補うためのようである。
利潤 π= 総収入TR + 総費用TC 収入R= py 費用C=c(y)
→ ここでも生産諸要素の価格も、生産物の価格もすべて市場で与えられている。その前提がないと、利潤最大化の条件はなりたたない。/正直なマーシャル「価値の理論を探求すると公言し、これを容易につかめると思い上がってしまうよりも、常識と実際的なカンにたよった方が、経済学者としてまともな仕事ができる」
☆近経の費用概念のあいまいさ
・主観的価値説では、個人的消費の対象となる生活手段の価値は、満足度から測ろうとする。/では原材料や機械など生産手段の価値は、消費者の満足度でははかれない(ただし、生産的には消費されている)。/市場で取引されている商品の半分以上は価値がはかれなくなる。
・オーストリア学派「帰属説」/「生産財の価値を生産物の価値に『帰属』し、かつこの『帰属』の法則を見出さなくてはならない」/「この(直接的享楽財の)価値は、あたかも発光体の光が『暗い』壁の上に反射するように、いわば生産財の上に反射する」(シュムペーター)と、説明できないジレンマに陥る。
・マーシャルは「不効用」という概念で費用を説明しようとして、主観的価値説を土台から揺るがす
→ ベンサムにとっては、快楽と苦痛は一体のものなので「効用」と「不効用」を並べたのかもしれないが、も ともと道徳の原理から経済学の原理を引き出そうとするのは無理な話。
→ マーシャル「需要は財を獲得しようとする欲求に根ざし」「供給は主として『不効用』をこうむりたくない心を克服できるかどうかに依存している」、不効用は「労働投下と消費を繰り延べる犠牲という2つの項目からなっている」/ 生産費は「それを製造するのに直接間接関与した種々の労働のすべての労苦と、利用した資本を貯蓄するのに要した節欲、あるいは待忍、これらすべての努力と犠牲とを含めて、その商品の真実の生産費と呼ぼう」「その供給価格にほかならない」
→ 商品の生産費は ①製造のための労働投下 ②資本家が機会や原材料を購入するための彼の資本を前貸しすること(節欲、あるいは待忍、という表現だが)
→ スミスの労苦説、看板は「不効用」だが、内容は労働価値説に近い。/しかし、前貸しした資本価値の大きさとは? その実態はなにか、については不問。ここが労働価値説との根本的差異。
→ こうしてマーシャルは、財をもとめるものは「効用」で商品の「需要価格」を決め、財を供給するものは「不効用」の原理で「供給価格」を決めるという二重化に陥り、主観的価値論の土台を揺るがす。
→ そこで、マーシャルは、効用が主導的な場合、生産費が主導的な場合がある、という。短期的には効用、中長期的には生産費とし、多くの商品が生産費で決まることを認めてしまう。
・マーシャルは、古典派経済学は、需要を軽視してきたというが、本当にそうか?
①私的生産者の自然発生的な分業において、需要をよびおこさない商品をつくる労働は、価値形成労働ではない、としめだした。
②社会的需要のある商品でも、その商品に対象化された労働時間は、社会的に必要な労働時間であり、それをこえた分は捨象される。
③供給・需要のバランスの不断の変動で、価格は生産価値を中心上下動する。
④資本主義の産業循環は、周期的に過剰生産恐慌を発生させる。失業が増大し、労働者に必要な商品があふれていても、売れ残り山積みされる。それらの価値は、価格の下落で破壊される。それは資本価値の破壊でもある。資本主義生産は、拡大再生産を続けるために、周期的に過剰な資本を破壊することにより、拡大再生産を条件を回復する以外にない。
~ これらの点は、「買い手市場」「売り手市場」と動揺する第三の点は別として、価格に対し「需要が主導的」(マーシャル)となるさまざまなケースと言えよう。
Ⅵ 賃金労働者にとっての最大効用とは何か
・マルクス「労働力の売買がその枠内で行われる流通または商品交換の部面は、実際、天賦人権の楽園であった。ここで支配しているは、自由、平等、所有、ベンサムだけである」と、資本と賃労働の社会について商品交換の部面を基準に導き出してくると批判。
自由とは「労働力の買い手と売り手は、彼らの自由意志によって規定されているだけ」/平等とは「彼らは商品所有者としてのみ互いに関連しあう」/所有とは「だれもみな、自分のものを自由に処分できる」/ベンサムとは「両当事者にとっても、問題なのは自分のことだけ」
→ これらは資本の生産過程なき資本主義的経済像である。それてもまだ資本家と賃労働は存在し、等価交換がおこなわれていた。
・ワルラス体系では、させに一変/ 賃労働者は消費者(家計)、資本家は企業、となり、ベンサムの世界をくりひろげる。もはや等価交換もない。
→ 賃労働者は、経済学の第一の経済主体である消費者として、効用の最大化を満喫する / 資本家は、第二の経済主体の企業として、利潤の最大化を満喫する。
・ここで消費者が生産要素市場で彼の所有する労働を企業に売る取引を見てみる → 企業の利潤最大化の立場から、賃金は労働の限界生産物価値で決まる / 賃労働者は、賃金水準は与えられたものとして、残された選択は → どれだけ長く働くかを自分で決めて、効用最大化を達成することになる。
→ 2つの違った分析
①限界不効用の考え方
いちごつみ(マーシャルの例) 食べるふのしみ(限界効用)は、つむ手間(限界不効用)とのつりあい。続けていくと食べるたのしみが減り、均衡点に達する。→ これが賃労働者に拡張される /「一定の労働量が雇用されている場合、賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい」/ケインズが、古典派の雇用理論の第二の基本公準と呼んだもの(第一は、賃金は労働の限界生産性価値に等しい。彼は、一般理論で第二公準を否定する)
→ 賃金の限界効用と労働の限界不効用のところで、労働をやめるので「非自発的失業」はない、となる。
②もう1時間長く働いて得る賃金の効用と、働くのをやめてかわりに得る1時間の余暇の効用とを選択できるから、自主的選択により効用最大化をはかることができる。
→ この視点は
1)賃金と労働時間の問題を、消費者の効用最大化の問題にすりかえていること。労働時間の短縮は、労働者が人間らしく生きる権利をかちとる問題、奴隷状態を打ち破る問題。「労働者は消費者であり、自発的に自分の労働時間を決める」というのは、資本主義の真実をかくすものである。
2)かりにある国で・・・・労働時間を自由に選択できると仮定しても、彼に許された「消費者」としての選択は、与えられた賃金水準w1のもとでの選択。W1は、企業の利潤最大化=「賃金は労働の限界生産物価値に等しい」という資本の論理で先に決定されている。
3)近経では、賃金労働者は、消費者という資格で、一方で生産要素市場で労働を企業に売り、賃金を得る /他方で、彼の所得をもとに生産物市場にのぞみ、企業から生産物を買う → 近経のこの展開が、消費者にとっては ◇資本の論理によって決定される賃金をあたえられたものとし ◇各財の価格も市場で与えられたものとした上で ◇パンツとTシャツ、焼き鳥と酒の量的構成をどうすれば、効用最大化を達成できるか、主観的に満足感を味わう方法が残されていること、ただそれだけが残されているという結論を出していることである。
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