アダム・スミスのドグマ批判 工藤晃 備忘録
06年10月に出版された工藤晃さんの「経済学をいかに学ぶか」より、「アダム・スミスのドグマ批判」部分の備忘録。
資本論の学習会との関係で改めて整理した。産業連関分析など近経の手法も使った「日本経済への提言」にかかわった工藤氏の同著は、「近代経済学のなきどころ」「ケインズ経済学—マルクス経済学との交差点」など意欲な章が多い(専門家でない私にはなかなか手ごわい)。
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【アダム・スミスのドグマ批判】
(1)三収入構成説の出所
・あらゆる商品の価値は、労賃、利潤、地代に分解されるというスミスの説の出所は、彼の商品価値論の展開を追えば明らかになる。
・「諸国民の富」1.5.6章から特徴的な点
◆第一に、スミスは、商品の交換価値、実質的価格について二義の説明をしている
①その商品により買うことのできる、また支配できる労働の量
「ある商品の価値は、それを所有してはいても自分自身で使用または消費しようとは思わず、それを他の諸商品と交換しようと思っている人々にとっては、その商品が、その人に購買または支配させうる労働の量に等しい。それゆえ、労働はいっさいの商品の交換価値の実質的尺度である」
②その商品の生産についやされる労働の量
「あらゆる商品の実質的価格、つまりあらゆる物がそれを獲得しようと欲する人に現実についやされるものは、それを獲得するための労苦や煩労である」
→ スミスにあっては、異なる2つの説明を、①すでに商品を所有し交換しようとする人にとっての商品の価値、と②それを生産するため労働する人々にとっての商品の価値、について使い分けていると思われる。
・②の規定は、マルクスの再考により、価値の概念規定に仕上げられた。
・①の規定は「商品を所有している人」「富を所有している人」の立場からであり、「労働の量」と言いながら、その商品の価値は、一定量の労働力を購入できる、支配できるという見地へ直接移行できる内容
◆第二に「労働力の購入」という見地は、彼の言明でもあきらか。
「労働は、諸商品と同じように、実質価値と名目価格とをもっている。その実質価格は、それと交換にあたえられる生活必需品および便益品の量に存し、名目価格は貨幣の量に存する。労働者が、富んでいるとかまずしいとか、その報酬が十分か不十分かは、その労働の実質価格に比例してであって、名目価格に比例してではない」
と、①の「労働の量」が労賃、労働力の価値を単位として測った賃労働者の雇用量であることを明らかにしている。
◆第三に、スミスは、生産についやされる労働の量と、購買または支配しうる労働の量との量的関係が、資本主義以前の社会と資本主義の社会とで変更されるのだ、と説明。
・「資財(資本)の蓄積と土地の占有との双方に先行する初期未開の社会状態のもとでは」「労働の全生産物は労働者に属し、そしてある商品の獲得または生産にふつうついやされる労働の量は、その商品をふつう購買し、支配し、または交換されるべき労働の量を規定しうる唯一の事情である」
・「資財(資本)が特定の人々に蓄積されるや否や、かれらのなかのある者は、勤勉な人々を就業させるために自然にそれを使用し、かれらの所産(生産物)を売ることによって、あるいは、かれらの労働が原料に価値に付加するものによって利潤をあげるために、かれらの原料や生活資料を供給するようになる」
「それゆえ、職人たちが原料に付加する価値は、この場合2つの部分にそれ自体を分解するのであって、その1つはかれらの賃金を支払い、他は雇用主がまえ払いした原料と賃金の全資財(全資本)に対する利潤を支払うのである。」 雇主は「かれの利潤がかれの資財(資本)の大きさに対してある比例をたもたぬかぎり、かれは小資財(資本)よりもむしろ大資財(資本)を使用するのになにも興味をもてないはずである。」
→ 上記の下線は、マルクスが、剰余価値の源泉を正しく説明した部分として評価した点
・しかし、スミスは次のように展開する。
「こういう事態のもとでは、労働の全生産物は必ずしもつねに労働者に属さない。たいていの場合、かれを使用する資財(資産)の所有者とともにそれを分けあたえなければならない。
こうなると、ある商品の獲得または生産にふつうついやされる労働の量は、その商品がふつう購買し、支配し、またこれと交換されるべき労働の量を規定しうる唯一の事情ではない。
賃金を前払いし、その労働の原料を提供した資財(資本)の利潤にたいしてもまた、当然追加量が支払わなければならないのは明白である」からだ。
さらに「土地がすべて私有財産になると、地主たちは…自然の生産物に対してさえ地代を要求する」から、いまや労働者にとって「追加的価格がついたものになる」という
→ 資本主義の社会になると、商品の価値は、「生産に支出された労働量」によって規定されなくなる。資本家が要求する利潤という追加量、地主が要求する地代という追加量もプラスされ、商品価格には、賃金という第一の構成部分、利潤という第二の構成部分、地代という第三の構成部分入り込む
→ 商品価格の「3構成部分説」が導きだされる。
・注目されるのは、二義の説明のうち②の「生産についやされた労働量」の方は完全に否定されたが、②の「支配できる・・・労働量」は、次のような形で残される。
→「価格のすべてのさまざまな構成部分の実質価値は、そのおのおのが購買または支配しうる労働の量によって測られる」。その中身が、「労働に分解するか価格部分の価値」は労働者が賃金で購入する生活必需品のことである。
◆第4に、「あらゆる商品の価格は、3部分に分解される」から、さらに進み・・・
「年々の全生産物の価格は、賃金、利潤、地代に分解する」という命題が導出する。「いっさいの交換価値の3つの本源的源泉であり、いっさいの収入の3つの本源的源泉である」
「労働からひきだされたものは賃金とよばれ、資財を運営し使用する人がそれから引き出した収入は利潤とよばれる。土地から生じる収入は、地代とよばれ、地主に属する」
→ これは、マルクスが「三位一体的形式」とよんだ俗流経済学に代表的な見地の原型(スミスのドグマ)
(2)マルクスによる批判
注目すべき2つの点についてだけ述べる
①三収入構成説のあやまり
・スミス→ 資本主義生産になると、商品価格の中に、賃金のほか利潤と地代などの収入が入らないといけないから、商品の価値はもはや生産についやされた労働の量では規定されないと説明
・マルクスの批判
◆第一、資本主義的生産過程の内部では、不変資本価値の単なる維持と、前貸しされた価値(労働力の等価物)の現実の再生産と、剰余価値の生産の区別があらわれる。
だが「剰余価値のこの取得、または、前貸価値の再生産とまったく等価物を補填しない新価値(剰余価値)の生産への価値生産の分離は、価値そのものの実体と価値生産の本性とを少しも変えるものではない。価値の実体は、支出された労働力―― 労働、といってもこの労働の特殊な有用的性格とはかかわりない労働――以外のなにものでもなく、その以外のなにものでもないものであり続け、また、価値生産は(労働力の)この支出の過程以外のなにものでもない」
さらに次の点も重要――「商品価値または貨幣が資本価値として機能しても、商品価値“としての”商品価値、または貨幣“としての”貨幣の本性が変化しないのと同様に、商品価値がのちにあれこれの人にとって収入として機能しても、商品価値は変化しない」(資本論Ⅱ619)
◆第二、労働者にとっての収入は、彼が所有する労働力を売って実現される労働力商品の価値。労賃として受けとられた貨幣は、労働力の価値の貨幣への転化であり、商品、貨幣、商品(W-G-W)という形態変換のなかの、商品の第一の変態(W-G)の結果に他ならない。
「労賃として受取られた貨幣が、労働者階級の手中でなしとげる諸転換は、可変資本の転換でなく、貨幣に転化された、彼らの労働力の価値の転換である」
→ 労働による価値生産物は、資本家のために、資本家が労働力を購入するために資本価値部分を生産し
(「労働者自身が、自分に支払ってもらうための資本元本をつねに創造する」)、もう一方で、前貸資本価値を超える剰余価値をもつくりだす。―― 労働者の収入の源泉、資本家の収入の源泉は以上のとおりである。
・ところがスミスの「商品価値(生産物の価値 メモ者)が収入の源泉になるのではなく、収入が商品価値の源泉になるのだとする“取り違え”に応じて、いまや商品価値は、様々な種類の収入から『構成される』ものとして現れる」
②年々の生産物価値と年々の価値生産物を同一視するあやまり
・マルクスの批判
1. 年々の生産物価値を年々の価値生産物と同一視する点 2. 労働そのものの二面的性格を区別しない点
「価値生産物は、その地位年間の労働の生産物にすぎない。生産物価値は、そのほかに、年生産物の生産に消費されたところの、ただし前年度および一部はもっと以前の諸年度に生産されたところの、いっさいの価値要素、すなわち、その価値が再現するにすぎない生産諸手段をも含む。―― この生産諸手段は、その価値について言えば、その一年間に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない。この混同によって、スミスは、年生産物の不変的価値部分を巧みに追い出す。
この混同はそのものは、彼の基本的見解のなかにあるもう1つの誤りにもとづく。
すなわち、彼は、労働そのものの二分裂的性格 ―― 労働力の支出として価値を作り出す限りの労働と、具体的有用労働として使用対象(使用価値)を作り出す限りでの労働という二分裂的性格――を区別しない。
年々生産される諸商品の総額、すなわち年生産物全体は、その年に作用する有用的労働の産物である。社会的に使用された労働がさまざまな有用的労働の多岐な一体系のうちに支出されたということによってのみ、これらすべての商品は定在するのであり、そのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産諸手段の価値が、新たな現物形態で再現して保存されるのである。
したがって、年生産物の総体は、一年間に支出された有用的労働の結果である。
しかし、年々の生産物価値は、その一部分のみがその一年間につくりだされたのであり、この部分は、まさにその年のあいだに流動化された労働の総量をあらわす価値生産物である」(資本論Ⅱ605-606)
・スミスの説明のもうひとつの欠陥は、「有用的労働としても、もっぱら生活手段清算部門の生産物だけであり、はじめから生産手段部門の生産物を欠落させていることである」
→ これは、スミスのドグマ ~ 年々の労働による生産物全体、全価格は3つの収入によって構成される—ということの当然の帰結である。
☆マルクスの商品生産労働の二面性の発見の意義
①商品の価値の概念規定(量的規定と質的規定)を正確にすることができた
②資本の直接的生産過程の中で、剰余価値が生産される原因を明らかにした。
ま た、不変資本と可変資本との区別が資本の本質上一義的な区別であることも明らかにした。
③年々の生産物価値(C+V+M)と価値生産物(V+M)との区別により、スミスのドグマを根本的に批判した。
新しい価値の創造とともに、有用的労働として不変資本価値を、生産物に移し、再現することの解明は、、資本の生産過程に対してだけでなく、社会的資本総資本の流通・再生産過程にたいしても内的関連[Ⅰ(V+M)=ⅡC]を明らかにかぎをあたえている。
・メモ者/ 生産物の価値が、労働量で決まるとまではわかっていたが、使用価値だけでなく、価値も商品そのものに備わる属性ととらえた。だから、資本主義以前では、労働量の大きさできまったが、資本主義では利子、地代が加わると…迷い込んだ。
使用価値は、労働生産物ならどの時代にも備わっている属性である。しかし、交換価値、価値は、商品交換が
一般化した社会でのみ現れる人と人との関係の表現である(例 5時間の労働と1時間の労働の関係とか)。
価値や商品とは何か、の徹底した分析がなければ、労働力という商品の発見、剰余価値の秘密を明らかにはできなかった。
(3)スミスの“置き土産”
・スミスの経済学に特徴的なことは、労働を、富を生産する労働を中心にすえること。また、労働の二面性についてふれている場合もあるように見える
→ マルクスの解説
「スミスは、次のように言う。『等しい量の労働は、あらゆる時代、あらゆる場所において、労働者自身にとって等しい価値をもっているに違いない。労働者は、彼の健康、体力、および活動の正常状態のもとで、また彼の熟練と技能が通常の程度であれば、自分の安楽、自分の自由、および自分の幸福の同一部分をつねに犠牲にしなければならない』(諸国民の富)、スミスは、一面ではこの場合(どこでもというわけではないが)、商品の生産に支出される労働の分量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同しており、したがって等量の労働はつねに等しい価値をもつということを証明しようとしている。
他面では、彼は、商品価値に表される限りの労働が、ただ、労働力の支出としてのみ通用することをうすうす感じているが、この支出を、ふたたび単に安楽、自由、および幸福の犠牲としてのみとらえ、正常な生命活動とはとらえていない。
いずれにせよ、彼は近代的賃銀労働者を眼前においているのである」(資本論Ⅰa 78.79)
→ スミスは「あらゆる物の実質価格、つまりあるゆる物がそれを獲得しようと欲する人に現実についやさせるものは、それを獲得するための労苦や煩労である」と述べている
スミスの言う「労苦」とは、マルクスの人間的労働の支出の規定、「人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出」(資本論Ⅰa 75)をうすうす感じさせないでもない。しかし、マルクスは、スミスの「労働苦労説」「犠牲説」に対して、彼の近代の賃金労働者を眼前においたとしても、人間の労働そのもの(労働一般)は、「人間の正常な生命活動」としてとらえなければならない、と批判した(資本論Ⅰ 三篇5章、1節労働過程でくわしく論じている)。
・労働を「人間の正常な生命活動」ととらえず「労苦」「犠牲」とするスミス説は、近代経済学の中では、“置き土産”になっているようである。/このばかばかしいけれど、2つの説にあらわれている。
→ その1、「あと1時間働いて得られる賃金がもたらす効用の大きさと、あと1時間の労働がもたらす労苦、犠牲、不効用の大きさと比較して、後者が大きくなったところまで働き続けるだろう」という説(雇用量の限界不効用説)
→ その2、「労働を1時間減らすと、所得は減る代わりに余暇という安楽・幸福が増える。そこで労働者は余暇と所得の間の選択をおこない、労働供給量を決める」という説(労働供給曲線説)
・ケインズ理論も、スミスと比較すると興味深い。ケインズ理論は雇用理論が中心となっている。
→雇用量が増えると総実質所得が増え、総消費が増える(ただし、ケインズは所得と同じだけ増えないから問題なのだという)という流れは、スミスの「労働生産物の価値 → 各種収入に分解 → 消費される」という流れと似ている。
ケインズはまた、全体としての経済動向をとらえるのに所得(スミスの収入にほぼ相当)ベースでとらえている。/なお、彼は全生産物の総供給価格をとらえているが、それを把握するには重複という重大な困難があるので、他の企業者から購入するものの価格(ケインズは「使用者費用」と呼んでいる)を差し引いた方がいい、という見地からである。
また、「雇用量を測定する単位を労働単位と呼び、1労働単位の貨幣賃金を貨幣単位と呼ぶ」(ケインズ全集)。「全体としての経済体系の動きを取り扱う場合に用いる貨幣単位を貨幣と労働という2つの単位のみに限定する」という立場をとっている。これは、「価格のすべてのさまざまな構成部分の実質価格は、そのおのおのが購買または支配しうる労働の量ではかれる」というスミス説の復活のようである。
2 不変資本と可変資本との区別を固定資本と流動資本の区別と混同
・マルクスは、固定資本、流動資本というカテゴリーを資本の循環、回転の分析から明確化
→「事故を増殖する価値としての資本は、階級関係を、賃労働としての労働の定在にもとづく一定の社会的性格を、含むばかりではない。資本は一つの運動であり、様々な段階を通る一つの循環過程――この過程自体がまた循環過程の3つの異なる形態を含む――である。
それゆえ資本は、運動としてのみ把握されるのであって、静止している物としては把握されえない。価値の自立化を単なる抽象とみなす人々は、産業資本の運動がこの抽象の“現実化”であることを忘れている。価値はここでは、さまざまな形態、さまざまな運動を経過し、そのなかで自己を維持すると同時に自己を増殖し増大する」(資本論Ⅱ 167)
→ 資本は運動である。第一に流通局面、次に生産局面、次に第二の流通局面と、各局面を通過する、自立的な循環の運動である。/(詳しくは後述)、この循環過程で、資本は、貨幣資本、生産資本、商品資本、ふたたび貨幣資本と姿態をかえる。
→ マルクスはさらに、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環の3つの形態を区別、分析し、資本の循環がこれら3つの形態の統一であることを、また「現実には、どの個別産業資本も同時に3つの循環のすべての中にいる。資本の3つの姿態の再生産形態である3つの循環は、連続的に相ならんで遂行される」ことなどを明らかにしている。
・資本の直接的生産過程(労働過程と価値増殖過程との統一)の分析で、不変資本と可変資本の区別を解明。これは、価値の自己増殖過程をその本性とする資本の一義的な区別である。
・次に、固定資本と流動資本の区別は、①生産資本においてだけ現れる ②それを構成する諸要素の価値が流通する様式の違い、また回転の仕方の違いにもとづくものである。
→ 資本の回転/「資本の循環は、孤立した経過としてではなく、周期的な過程として規定されるとき、資本の回転と呼ばれる」
→ 生産手段のうち労働手段(機械設備)の価値は、生産過程で摩滅した分だけ――耐用年数で割った大きさの価値だけ生産物に移される / 労働対象(原・材料、半製品など)の価値は、そのまま生産物に移される。/これらの生産物(商品資本)が売られ、貨幣の姿(貨幣資本)にもどった時、労働対象の価値部分は、それらを現物で補填するために前貸しされなければならない。/機械設備などの価値の一部分も回収されるわけだが、耐用年数が切れるまでは現物で補填する必要がないから、貨幣の姿のままで積み上げられる(もちろん、資本家がそれを何に使うかは選択肢が多いが)。何年か先に必要になった時、資本家の手元にあった潜在的貨幣資本は現実の貨幣資本に転化され、機械設備の更新のために前貸しされる。
~ 以上は、生産資本の諸構成要素の価値の回転の仕方の違い
・労働力については、価値が生産物に移されるだけでなく、生きた労働により新しい価値がつくられる。
→労働力に投下された価値の回転の仕方は?/「労働力の価値の等価物――それは労働力が機能中に生産物につけ加え、生産物の流通とともに貨幣に転化される――は、つねに貨幣から労働力に再転化され、あるいはつねにその諸形態(価値生産物-貨幣―労働力)の完全な循環を経過しなければならない。すなわち回転されなければならない」
「したがって、労働力は、価値形成(の役割)の点で、不変資本のうち固定資本を形成しない構成緒部分とどんなに異なるふるまいをしようとも、その価値のこのような回転の仕方は、固定資本とは対照的に、労働力とこの不変資本構成緒部分とに共通である。
生産資本のこれらの構成部分-―生産資本価値のうち労働力に投下された部分と固定資本を形成しない生産諸手段に投下された部分――は、それらに共通な回転のこの性格によって、流動資本として固定資本に対立する」
~ 以上のように、不変資本と可変資本との区別と、固定資本と流動資本の区別を混同してはならない。
・スミスの場合
第一/流通局面にある資本、すなわち貨幣資本、商品資本を流動資本とする。/マルクスは「実際には、資本のこれらの二形態(貨幣資本・商品資本)は、生産資本に対立する流通資本ではあるが、固定資本に対立する流動資本ではない」と批判
第二/ 固定資本と流動資本とを、利潤をもたらす資本投下の2つの特殊な仕方だととらえている/ マルクスは「固定資本によって利潤が得られるのは固定資本が生産過程にとどまるからであり、流動資本によって得られるのは流動資本が生産過程を去って流通するからである。というまったくまちがった説明によって―― 可変資本と不変資本の流動的構成要素とが回転にさいして同じような形態をとるために、価値増殖過程および剰余価値形成における両者の本質的区別が隠蔽され、したがって資本主義的生産の全秘密がさらにいっそうあいまいにされる。流動資本という共通の名称によって、この本質的な区別が取り除かれる。」
第三/労働力を流動資本の項目にいれなかった。かわりに、労賃に投下された資本価値は、労働者が労賃で買う商品の形で、流動資本であるとした/ マルクスの批判「スミスはここで、流動資本を商品資本と混同しているので、労働力を彼の言う流動資本の項目にいれることはできない。それゆえ可変資本は、ここでは、労働者が自分の賃金で買う諸商品すなわち生活諸手段の形態で現れる。(彼によれば)この形態では、労賃に投下された資本価値は流動資本に属することになる」
「このようにスミスが流動資本という規定を労働力に投下された資本価値にとって決定的なものとして固定したこと―重農主義者たちの前提を欠い(て借用し)た重農主義的規定――によって、スミスは、首尾よく、彼の後継者たちが労働力に投下された資本部分を可変資本として認識することを不可能にした。他の箇所で彼自身もっと深く正しい展開を行っているが、これは勝利をおさめないで、この途方もない誤りが勝利をおさめた。」
第四/労働の維持に投下される資本部分は、資本家に対して資本の機能を果たした後、労働者の収入を形成するとした。/マルクスの批判「可変資本は、まず第一に資本家の手中で貨幣資本として実在する。それが貨幣資本として機能するのは、資本家がそれで労働力を買うからである。それが資本家の手中で貨幣形態でとどまる限り、それは、貨幣形態で実在する価値以外のなにものでもなく、したがって1つの不変の大きさであって、決して可変の大きさでない。それは潜在的にのみ可変資本である
――まさにそれの労働力への転換可能性によって、それが現実的な可変資本になるのは、それがその貨幣形態を脱ぎ捨て、それが労働力に転換されて、労働力が資本主義的過程において生産資本の構成部分として機能するとき以後においてのみである。
資本家のためはじめた可変資本の貨幣形態として機能した貨幣は、いまや労働者の手中において、彼が生活諸手段に転換する彼の労賃の貨幣形態として機能する。すなわち、彼が自己の労働力をいつも繰り返し売ることから引き出す収入の貨幣形態として機能する。
ここでわれわれの前にあるのは、買い手――この場合は資本家――の貨幣が彼の手から売り手――この場合は労働力の売り手であるが労働者――の手に移るという単純な事実にすぎない。可変資本が、資本家にとっては資本として、労働者にとっては収入として、二重に機能するのではなく、同じ貨幣が、まず資本家の手中では彼の可変資本の貨幣形態として、それゆえ潜勢的可変資本として実在し、資本家がそれを労働力に転換するやいなや、労働者の手中では、販売された労働力の等価物として役立つのである。
しかし、同じ貨幣が売り手の手中では買い手の手中にある場合とは異なる別の用途に役立つということは、商品のすべての売買につきものの現象である」(資本論Ⅱ707-708)
他方、可変資本は、運動の中で形態転換をすすめるが、それはつねに資本家の手中にとどまったままである。
可変資本の第一の形態、貨幣形態でのV、それは同じ価値額の労働力に転換される。
第二の形態、可変資本が実際に可変資本として機能する唯一の形態(価値創造力がそれと変換された所与の価値にかわってあらわれる)となる。これはもっぱら生産過程に属する。
第三の形態、可変資本が生産過程の結果において可変資本であることを実証した形態――生産物価値に現れる。
これらすべての変化のあいだ、資本家はつねに可変資本を自分の手中に持ち続けている。「(1)最初は貨幣資本として。(2)次には自分の生産資本の要素として。(3)さらにその次には自分の商品資本の価値部分として、すなわち商品価値で。(4)最後にふたたび貨幣―― この貨幣には、貨幣がそれに転換されうる労働力が、ふたたび相対する――で。
労働過程のあいだ、資本家は、可変資本を、自己を発現しつつ価値を創造しつつある労働力として手中にもっているのであって、与えられた大きな価値としてもっているのではない」
・マルクスは、スミスのマイナス面が後継者たちにどのように引きつがれたかを多くの例をあげている。
→ リカードにおいては、不変資本・可変資本と固定資本・流動資本の混同が受け継がれている。
「リカードの場合には、スミス敵混同の無批判的な受け入れが、その後の弁護論者たち・・・に比べていっそう妨害となっているだけでなく、スミス自身におけるよりもいっそう妨害となっている。なぜなら、リカードは、スミスとは対照的に、価値および剰余価値をいっそう首尾一貫して、しかもいっそう鋭く展開しており、事実上、世俗的なスミスにたいして奥義をつかんだスミスを固守しているからである」
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