子ども理解 臨床教育学の試み 備忘録
臨床教育学に取り組む田中孝彦先生の「子ども理解」からの備忘録
「心的外傷と回復」のハーマンを1つの導きの糸としながら、数多くの子ども、教師への聞き取りを通じ、「教育困難の本格的打開には―― 子ども理解を深めることを軸に、教師同士の支えあう関係を創り、父母・保護者や他領域の発達援助専門職との共同関係を広げる、そうした教師たちの模索・努力を支えていく以外にない」と説く。
新自由主義的な「教育改革」に対する根元的な批判と思う。
以下、備忘録(尚、本書は、子どもの、教師、地域住民から聞き取りなど豊富な具体例が核をなしており、その部分は省いたものとなっている。そのため1章と5章のみが対象)
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【子ども理解 臨床教育学の試み 田中孝彦・都留文科大学 09/12】
Ⅰ.子どもの理解という問題
1 人間形成の「危機」と子ども理解
◇「教育改革」とその子ども間の問題
・子ども世界の危機的というべき状況に対し、政府は、状況を生んできた「新自由主義」の諸政策を見直さず
・「原因」を学校教育、親と家庭の問題に帰して、教基法改悪、教育三法、指導要領改定、全国学力調査など「国家戦略としての教育改革」を展開
・「教育改革」の子ども観…「生きる力の衰退」「秩序意識・規範意識の希薄化」「学力・学習意欲の低下」と否定的に断定 → 強い力で秩序を守られる厳しい教育、他者と結ぶ「コミュニケーション能力」の鍛錬、競争的な環境で「学力を伸ばし」、読み書きなどは「有無を言わさぬ反復訓練」で刻み込む、という断定
→ 乱暴で単純な「厳しさ」と「競争」の協調が、為政者だけでなく、不安定に激しく揺れ動く子どもを前にして、親や教師に広がってきた。
◇子どもたちの「傷つき」「不安」と「生き方」の問い
・だが、生きて成長し学習している当事者・主体は子どもたち自身
・教育は、その子どもたち1人ひとりの生存・成長・学習を支える営み/外から「規範意識」「学力」などを吹き込み、刻み込むのは、そもそも不可能… 著者の「教育改革」への疑問、著者は15年子どもの声を聞きとる臨床教育学の基礎的作業を重ねてきた。その経験を踏まえ
・「子どもたち」は「人と人との関係を切り裂き敵対させる力が強く働いているこの社会に生れ落ちて、生育の過程で様々な『傷』を負い、『いらだち』『むかつき』『不安』『恐れ』といった生活感情を溜めている。」「それらは何かのきっかけがあると、自分や他人を傷つけるような仕方で無方向に爆発してしまうほどに溜まっている」「その意味では、子どもたちに人間形成の『危機』ともいえる状況が広がっている」
→「同時に、『いらだち』『むかつき』『不安』『恐れ』を溜めながら、だからこそ『毎日をどうすごせばよいか』『このままで大人になっていけるか』『生活を支える仕事に就けるか』『自分が大人として生きる地域、日本や地球はどうなっているのだろうか』『なんのために学校に行くのか』『競争が幸福につながるのか』---という今本的な問い、『生き方に関わる根源的な問い』を抱かざるを得なくなっている。」
◇子どもの声を聞く
・今、もとめられているのは、単純な厳しさ、競争の強調でなく、複雑な生活感情を受けとめ、その奥にある「行き方への問い」を察知し、一緒に考える対応。共に考えていく思慮深い優しさ。その姿勢で、子どもの声を聞くこと、聞くと言う精神を深め合うこと。/今日の社会の中で格別に重要な課題
2.現代社会と子ども理解の深まり
・福祉・医療・心理臨床・文化・教育—発達援助専門職の中での貴重な模索と知恵の蓄積
◇攻撃性にこめられたメッセージを受けとめる
・攻撃的な自他への言葉、言動と、誰かに甘えたい、支えてもらいたいという依存の欲求とを複雑に表出する子どもの存在(それは子どもだけでなく、生活の困難と思い通りにならない子育てに必死で向き合う親にもある)
→ そのことにどの分野の援助者もとまどい、ふりまわされ、疲れ、傷ついている状況
3 発達援助専門職と子ども理解
◇読まれるハーマンの「心的外傷と回復」
・「人間としての耐え難い出来事」に遭遇した人々が負う「心的外傷」とその回復への援助の研究の著しい深まり
→ アメリカ精神科医ジュディス・ハーマン「心的外傷と回復」(メモ者 フェミニズムの運動の成果でもある)
◇「心的外傷」を負った人々の示す諸症状
・「他者に対する依存の欲求と、それを受けとめようとする他者への攻撃性な言動とがめまぐるしく交替する姿」
→ 耐え難い事態に直面し、どうすることもできなかった「無力感」、誰にも助けてもらえなかった「孤立無援感」を溜めていく。→ 受けとめてくれそうな他者を見とけると「しがみつき依存しようとする」。→ しかし、体験の全てを理解し、その期待に全面的に合致する対応をとることは不可能 → 傷ついた人は、依存の対象にした他者に、失望し裏切られたと感じ、攻撃的になる。
◇援助の原則と回復可能性
・粘り強い援助が持続的・総合的に行われるなら、「心的外傷」を負った人々の回復、成長は可能/ハーマン
・その援助の原則
①理不尽に責められず、攻撃されず、生命・育成の「安全」を脅かされない人間関係、時空間を徹底して保障
→ その「安全」な生活の中で、人々は徐々に、睡眠と覚醒のリズム、食事と排泄のリズムなど人間としての自然な暮らしのリズムを取り戻す (メモ者 過覚醒との関連)
②「安全」な生活、普通の生活を取り戻す中について、自ら遭遇した辛く厳しい体験を思い起こし、惨めであった自分自身の追悼するかのように表現し始める。この「想起と服喪追悼」の精神的作業を受けとめ、徹底して付き合う(メモ者 侵入を自己にもとにコントロールし、狭窄から抜け出す過程)
③「想起と服喪追悼」の作業を重ねる中で、辛く厳しかった出来事も自分の人生に確かに起こったこととして位置づけ直し(メモ者 狭窄からの脱却)、そして周囲の人間や世界と「(再)結合」しようと模索しはじめる。この努力を徹底して支える
④援助の過程では、「心的外傷」を負った人々の「依存」と「攻撃」の複雑に交替する姿に振り回され、援助者自身が「二次的外傷」を負う場合が少なからずある。援助者自身の相互援助の営みを支え、援助者たちの「安全」を守ること。
◇人間関係・社会関係のなかでの自己の育ちへの関心
・粘り強い適切な援助により/「傷ついた自己」を修復し「関係的自己」を構築し、回復・成長が可能
→ハーマンの回復と援助への関心は、人々との関係の中での、1人ひとりの「自己」の傷つきと回復・育ちの問題、そしてその過程の援助のあり方の問題に集中している
→ それは精神疾患、障害など、生得的・器質的なものに起因するとされていたものを、生活史、生育史上の出来事の深い影響のもとに発現しているものとして理解し直そうとする「パラダイムの転換」を意味する。
・今日の子どもの理解にかかわるもの。
4 親たちの暮らしと子ども理解
◇スニーデル「わが子を愛することはたやすいことではない」への注目/フランス教育学者
・親としての迷いと悩みからの出発 /「当事者」的で「愚直」ともいうべき態度の重要さ
~「わが子に抱く愛を偉大なものにしようと固く心に決めた」が「実際には神経はすり切れ、疲労困憊し…」「子どもにとって騒いだりうごくことが必要なことはわかる。私には静けさがよいことに変わりない」「ちょっとした行き違いのたびに摩擦が耐えない」「それほどに違う欲望を持った人間どうしが、ともに時間を過ごすのである。どうしたら笑みを浮かべて衝撃に耐えることができるだろうか」
◇子どもへの愛に伴うナルシズムとその克服の可能性
・スニーデルは、ヨーロッパの家族・親の歴史、子ども観の歴史を振り返り、次ぎのように指摘する
~ 「親の子どもへの愛という言葉の下に、子どものなかに「自分の逃避場所」を求めたり、子どもに対し「親の代わりに勝利を収める事」を期待しがち」「その場合、親が愛しているのは「子どもそのもの」でなく「自分自身」に他ならない。」「親の子どもに対する愛には、常に、子ども自身の価値を過少評価し、子どもの独自性を無視し、子どもを「抑圧」してしまう、ナルシズムの危険がつきまとう。」
・子どもと共に生きていく過程は、親のナルシズムを発生させる危険とともに、その克服の可能性を含む
~「わが子が、私に、私のナルシズムを問いただすように迫ってくることも事実」「私が、わが子が期待にこたえないで失望したとすれば、それは私が、わが子を自分の期待の担い手と考えているからであり、私自身と私の価値を世界の中心と見ているからである。『それは正当だろうか』と、わが子は、彼の人生そのものによって、私に問いかける」
~「わが子を愛するとは『私と異なる彼の存在と彼の歴史そのもの』を愛することである/私に反抗したりする行動も愛することである。/わが子のために考えてきた計画を、彼がそれは自分のものでないとの理由で斥ける時に、わが子が私に与える失望さえも愛することである/これは・・・難しい愛であるが、可能である
◇家族の未来を見通す
・スニーデルは、家族の歴史と現在に未来について熟考し、人類史的展望を示している
~ 「現代の家族は、かつての家族のような生産の単位ではなくなり、生まれる場所でも死ぬ場所でもなくなりつつある/ジャーナリズムや研究の世界では『いまや家族は解体の方向に進んでいる』と考える議論が多いが、家族というものが、他の社会的諸集団でも担える機能を他に譲りながら、家族にしか担えない特有の機能に集中しつつある過程が進行していると見るほうがはるかに妥当である」
・家族の本質的機能…「少人数の規模で、お互いの生存・成長について気遣いあい、配慮しあう機能」に求めている。
→しかし「今日の家族とは、耐えざる気遣いの場」であり、その「気遣い」はたいて子どもに対するものであり、それは「しばしば的外れであり、重苦しく、親子双方にとって耐え難いもの」であることも認めている
→ それでも今日の家族は「わが子が…様々な不平を並べ立てることができる場所」「他の場所でよりは容易に、親密な結びつきの下での反目を経験できる」場所になりつつある。/「大人と子どもの感情的要求、諸関係によって個性化された要求を充たす場所」「個人が発揮され評価され、個人が入念に作られる場所」になりつつある。
→ 今日の家族に芽生えている可能性を現実のものにするためには、それを支える社会の条件が必要。
◇人々の日々の暮らしの課題としての子ども理解
・今日、親・養育者と家族の「教育力」の衰退を嘆く議論は枚挙に暇がない。
・しかし、親・養育者の声を聞くと、「教育力」が一路衰退しているとは断定できない
・不登校、非行を持つ親が、わが子であることを認めなおし、子どもの関係を結び直す、その成長の姿に、個人として認め合い、支えあっていく、人間的配慮に充ちた関係が新たなに作り出されていると感じる
・それゆえ、子ども理解が、普通の日々暮らしの、今日的かつ人類史的な課題になっていると考える。
Ⅴ 子ども理解と教師像の問い直し
1 今日の「教育改革」と教師像の問題
◇学校現場の困難を加速させる「教育改革」
・教師の世界/多忙、疲労の蓄積、精神的な病・自殺の増、就職間もない若い教師と定年前の教師の退職増加
・学力向上マニフェスト・荒川区(08/11朝日)/テスト正答率95%以上、英検・漢検三級60%以上等々
→ 数値化された達成目標が羅列/教育基本法に「目的」「目標」の細かく規定、学習指導要領で「学力」訓練方法まで規定し、全国学力調査を実施し、地域と学校間の「学力向上」「人材育成」の競争を組織
・私たちは、新自由主義が生み出した社会の「危機」的状況と、学校の困難の深まりと、その解決策としての政府の「教育改革」の関係について、本格的に考えてみる必要がある。
→ 子どもの人間形成上の問題も、学校教育と教師の困難も、日本社会全体の「危機」的状況を土壌に発生!
→ 問い直されるべきは、社会の危機的状況と、それをもたらした新自由主義の諸政策である。
→ ところが政府の「解決策」は、学校と教師の問題に還元/これは「危機」的状況を拡大・深化させている
◇「実務遂行者」としての教師像の広がり
・「教育改革」の教師養成/「実践的指導力」「実習的学習」の過度の重視、行政による「教師塾」、教師「免許制」、「成果主義」的な「評価」の強化、細かな「職階」の導入
→ ここに貫かれているのは/国によって目的・内容・方法を定められた「教育」を滞りなく実行し、その「成果」を競い合う、「実務遂行者」としての教師像。
・今日の学校現場と教師の困難の解決方向は… 教師1人ひとりが、子ども理解を深め、子どもの育ちを支える教育実践・学習指導を作り出していく以外にない/そして教師のそうした努力を社会全体で支えていく以外にない/だが、それは粘り強い努力と時間を必要とする
→ そのため教師の側にも、目に見える「効果」を手っ取り早くあげるドリルやスキルに走る傾向がある。
・「教育改革」施策と、教育実践の困難ゆえに教師の間に発生する動きが相乗して、学校の「ドリル機関化」と「実務遂行者」としての教師像が急速に広がっている。
◇教師像の問い直しの動き
・カナダ・トロント大学附属学校/現場教師の教育機関/新聞の紹介
~定められた目標に向かい、スペルのドリルを繰り返す、ファーストフードショップのような学校が増えている。/この学校は、子どもたちが自分の足で歩いて確かめ、黒板に自分の意見を書き、討論し合い、例えば街の開発計画など関心のある問題を調べている。ここにあるのはスロースクリーング/ 読者はとちらが21世紀の学校の本流となるべきと考えるか
→校長の話「今日のカナダでは、数量的な目標を設定し…既存の様々な教育プログラムを実施していけば、一年間がそれなりにすんでしまう」「教師の仕事には、それだけでは解消できないものがある」「重要なことは、教師が1人ひとりの子どもを全体的に深く理解しようとする問題であり、そのような教師に支えながら、子どもが世界と自分を深く理解して育っていく教育を創る。そうした教育を担う教師を育てるという問題である」
・世界では、国が数値化した目標を設定し、学校を管理し、競わせる「教育改革」がもたらした弊害を直視する動きがはじまっている。
→ 個々の教師が、子どもと向き合いながら、他の教師や父母、他領域の専門家と支えあう関係の中で、子どもを人間として育てる教育計画を自分の頭で構想し、その中で個々の教育目標も持とうとする動きを支え励ますような、教育改革の動きが生まれている/ フィンランドの例も、すべて美化は危険だが、例の1つ
2 子どもたちの声と教師像の問い直し
◇子どもの生存・成長を支える学校と教師の条件
・ある教師の手記/不登校の子への対応への振り返り「生活上の困難はうすうす感じていた」「当時の私は、彼女の生活上の重い問題を私に考えられるかというおびえ、ためらいがあった」「私のおびえ、ためらいを受けとめてくれ、共に考えてくれる他者が必要であり、私自身が支えられる関係が必要であった」
・自分の教師像の問い直し―― 自己点検とその子が必要としている文化的体験と学習を創造する教育実践の模索 ―― teacher からeducatorへとの問い直し
3.子ども理解のカンファレンスの試み
・教育困難の本格的打開には―― 子ども理解を深めることを軸に、教師同士の支えあう関係を創り、父母・保護者や他領域の発達援助専門職との共同関係を広げる、そうした教師たちの模索・努力を支えていく以外にない
◇子ども理解のカンファレンス 実例・・・略
◇共通理解と個別的理解を同時に深める
・カンファレンスで、ある子どもの理解を深める―― 事実にもとづく正確な共通理解をもつ
1人で見つけられない、ある子どもの多面的な面――家族との関係、成育暦など共有する
・個性的な理解/ しかし、教育という営みは、ある生活史・生育史を辿ってきた一人の子どもと、ある生活史・生育史を経てきた一人の教師との出会いという性格がどこまでもつきまとう―― それぞれの教師が、それぞれの子どもと異なった出会い方をし、異なった理解をするのは当然/ある子に対し教師で得手・不得手もある
・「子ども理解カンファレンス」は、子ども観や指導観の形式的な一致だけをめざすものではない。「私には子の子がこう理解できる」という個々の教師の理解を明確にしていくものでなければならない。/「共通理解」と「個性的理解」を同時に深めていくもの
→ すべての教師が、まったく同じ問題意識、評価の視線、対応をする学校は、子どもにとって大変きつい場所
→ 正確な共通理解を深め、同時に個性的な理解にこだわり、様々な理解、関わりあい方をする教師がいるから、懐の深い教育力を持つ学校となる(メモ者 不完全な大人〔教師〕が、不完全な子どもを教育する、という教育の本質に関わる特質。「完全なるもの」を注入するのでない。共に成長しあう関係。「すべての物は反映する」)
◇子どもと共に生きている周囲の人々への関心を広げる
・子どもは1人でいきているのではない/ 教師が子どもの理解を深めるとは、その子が一緒に暮らしている周囲の人々への関心と理解を深めること/「カンファレンス」の積み重ねは、教師の関心を広げ、深める
◇子ども理解のセンスを鍛えあう
・教師の教育実践の質を最終的に左右するのは、子どもを向き合ったときに発動する子ども直感的な理解のセンス (メモ者 「いきいきした直感」についてはレーニンの解明が深い/様々な知識・経験〔狭さを克服するための対話による深まり〕が、強い問題意識のもとで、統合され、あたらな質を獲得する精神活動 )
・今日の教師の困難の中核には、子ども理解のセンス、教育実践を構想するセンスに不安を覚えざるを得ないという問題がある → 子どもに対する自らの内部に発生した直感…怒り、憎しみ、悲しみなど「負」の寛恕も含めて、自らの感情をあるがままに表現し、それを教師同士が相互援助的に吟味し合い、センスを鍛えあっていける場がどうしても必要である。
・「体罰はダメ」「子どもの声を聞こう」と建前で話をしていても意味はない/むしろ、ある子どもと向き合うと「怒りがこみ上げる」といった偽りのない内面を表現し、それが「責められずに受けとめられ」ながら「なぜ私はそう感じるのか」「そう感じる私は何者か」「それはどのような生育史・実践史の経験から生まれてきたのだろうか」と自己を吟味することのできる、機会が必要
・「子ども理解カンファレンス」は、教師の内部に発生する直感、情動、感情を吟味しながら、自分自身の感じ方、考え方を吟味するこどもある
→ 精神科医などは、常にカンファレンスを行う。患者との対応で、自らの中で発生する傷つき、苦手意識、攻撃的感情を認め、他の専門家、仲間たちの支えの下に自己吟味を行うカンファレンスを行わなければ、仕事を続けていけない専門職として社会的に認知されている。/教師の仕事も、そうしたものとして認知されるべき
4 生活史・実践史の語りと聞き取り
◇教師の子ども理解と自己理解の問題
・子どもの生活史・生育史に則して。成長と援助・教育の課題を洞察するには「カンファレンス」の機会が重要
・それは同時に/ 教師たち自身が、自らの生活史・実践史を、子ども時代を含めて振り返り、「負」の経験・感情を含んだ自己の生活経験と生活感情を反芻し、人間の生存・成長の本質的条件を洞察することが必要
・教師の子ども理解を支えるライフストーリーの聞き取りとそれを記録する作業の試み
ある教師の例〔略〕
→「Tは、教師になって目の前の子どもや親に接していると、自分の子ども時代の出来事と生活感情が思い出されると、繰り返し語っている」「それは彼の生き方そのものの特徴」「そうした生き方と精神活動の累積の結果として、Tの内部では、ある意味『古い』漁村の共同体的関係の中での子どもの時代の感情生活の体験が『古い』ものにとどまらずに、現代の『不安』に満ちた子どもたちを理解する新しい感受性に作り替えられているのではないか」/「このことが、教師の、さらには父母や発達援助専門者の子どもへの感受性や理解力を問題にするときに、何よりも注目すべきことであるように感じられた」
・教師が、子ども理解を深めるということは、子どもを理解しようとする自分自身についての理解を深めることと切り離しては考えられない
→「子ども理解カンファレンス」と並行し、教師の世界で、自分自身の生活史・実践史を語り合い、聞き取り合う動きが、広がり深まっていくことが重要である!
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