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「一ツ橋小判決」を人権教材に

 8月7日、高知市の人権問題の研修会の講師は、最高裁で人権侵害の有罪判決が確定した人物である。この人物を講師として選定した理由は・・・ 少なくとも、この事件の真摯な反省文を「証拠」として議会、市民に前に明らかにしてもらわないといけない。
 この裁判では、市の教育長・教育次長。同和教育課長補佐が「解同」側の証人に立っている。人権侵害も、「解同」と市が一体となり進めており、事実上、市も有罪判決を受けたに等しいのだ。

 主体性を失った市が「人権侵害に加担した」・・・人権問題の研修会をするなら、「犯罪」として確定されているこの事件を、題材にすべきだろう。
 あらためてこの問題・・市としてどう総括して記録に留め、教訓化し「人権啓発教育」の中に取り入れているのか、明らかにする必要がある。

  過ちをずっと引きずるつもりはない。真摯に反省し、すばらしい活躍をしている人もいるから・・・・ 「反省」「教訓」がどうなってるか・・・そこが問題なのだが、見えてこない。
 
 以下、議会での質問と、当事者の講演を再録しておく。

 ちなみに、「解同」は、民主党支援であり、今日の高知市での民主党の出陣式でも有罪判決を受けた人物があいさつをしていた。

◆97年6月市議会 質問者 宮島和夫 御承知のとおり本年3月14日最高裁判所は,一ツ橋小学校教育介入事件,人権侵害事件裁判について上告を棄却する判決を下し,高知地裁,高松高裁判決が確定しました。一ツ橋小裁判では,解同市協及び森田益子議長が,差別落書きを利用して小笠原先生に対して行った,1,部落民宣言強要による人権侵害,2,プライバシー権の侵害,3,名誉毀損の3点で争われてきました。  高知地裁判決では,92年3月30日,解同市協及び森田益子議長が,小笠原先生のプライバシーを侵害した事実を認め,60万円の支払いを命じる有責判決を下し,森田議長らが小笠原先生に部落民宣言をさせるために高知市教委に働きかけ,この意を受けた市教委が執拗とも言える働きかけをしたことを認定しています。  高松高裁では,94年8月8日一審判決を支持し,さらに踏み込んで森田議長の反訴請求に対して,小笠原先生が差別落書きは部落民宣言をさせることを意図して書かれたと疑ったことは無理からぬことと,森田議長らの控訴を棄却しています。  今回の事件の発端となったのは,1988年1月一ツ橋小学校周辺に何者かによって書かれた差別落書きでした。普通,差別落書きがあったときは,落書きを書いた人物を探すのが普通ですが,一ツ橋小学校のケースでは,解同市協や森田議長らは,学校の内部に部落出身者がいるに違いないからと市教委に調査を迫るという,一般的には考えられない要求に端を発しています。  その後,森田議長などの意を受けた市教委は,学校現場の意に反して小笠原先生への部落民宣言を本人はもとより,当時同和教育課長であった小笠原先生の夫にまで執拗に迫っています。  今回の裁判で,市が当事者となって訴えられていたなら,裁判の事実認定などから考えて,確実に市は有罪,有責判決を受けていたことは間違いないと考えます。  市教委の差別落書きに対する誤った対応から,小笠原先生や既に他界された小笠原先生の夫や親族の方々に,10年近くの長期間にわたって大変な御苦労をかけたことに対し,教育長は最高裁判決を受けてどう受けとめているか,お伺いをいたします。  また,市がなぜ一市民の人権,プライバシーの侵害事件の一方の当事者となるような事態を招いたのか,その原因を明確にすることこそ市教委の責任であると考えますが,教育長の御所見を伺います。

○教育長(池永昭文君) 教育行政につきましてお答えをいたします。
昭和63年1月に一ツ橋小学校周辺に書かれておりました差別落書きに端を発しました,いわゆる一ツ橋小事件につきまして,ことし3月14日に最高裁から上告棄却の判決が出されました。結審まで足かけ10年の長きにわたる裁判でありまして,この間,当事者,団体,行政におきまして,それぞれの方が大変苦悩をし,心を痛めたものであったと認識いたしております。
 その判決の事実認定の中で,市教委がその対応におきまして,同和地区出身であることを明らかにするように執拗とも言える働きかけをしたということができるとされたことにつきましては,まことに遺憾に存じておりまして,これを真摯に受けとめ,今後の教訓としていかなければならないと考えております。
 教育委員会としまして,同和教育は人権教育の重要な柱として,差別のない社会の実現を目指し取り組んできたところであります。人権を守り育てることは今日の時代の要請であると思います。地対協の意見具申や県同対審答申でも指摘されておりますように,物的な事業については一定の成果はあったが,非物的事業,特に教育,啓発,就労対策については,なお一層の取り組みが必要とされており,今後とも進めていかなければならないと考えております。

◆02年3月 質問者 吉良富彦 同和教育,人権教育についてですが,法終了の意味を本当にわかっていらっしゃるのか,不信感を持つものです。  人権とは,何よりもそれが獲得されてきた歴史を見ても明らかなように,公権力と個人の権利関係にあるのです。HIV感染,ハンセン病などは記憶に新しいですけれども,国や行政の公権力による人権侵害であるし,水俣病を初め公害,単身赴任やサービス残業,女性従業員への差別的な賃金,昇格問題などは大企業による人権侵害です。  これらを見てもおわかりのように,人権教育,啓発といって,それらの対象を常に市民の側,特に市民の内心,意識の問題としてとらえることはすりかえであり,誤りで,公権力みずからが犯してきた人権侵害から市民の目をそらさせ,責任逃れを図るものです。  その最たるものが一ツ橋小人権侵害事件でした。  1988年当時,本市同和教育課長であった小笠原荘一さんの妻・政子さんが部落出身者であることを知った部落解放同盟高知市協の議長・森田益子氏は,妻に部落民宣言をさせよと迫ります。内心の自由を侵すものだと抗する課長。そのころから学校周辺に差別的な落書きが,これでもかと書かれ始めます。  その当時の課長補佐K氏は,校長に,1.父親が部落民なら,本人の意識がどうであろうと部落民とみなす,2.同和教育課長の奥さんが自分の立場を明らかにしないで同和教育に当たるということは,市教委の方針になじまない,3.父親のことに触れたくないということは父親に対する差別ではないか,4.今後小笠原さんを中心に据えた同和教育を進めてほしいと,全く驚くべき指導をしています。  市教委は,小・中学校校長会60余名の中で,落書きのその対象者は小笠原政子先生であると行政みずからが公表します。そして教育長は見解を発表します。1つ,課長の身内に部落出身者がいながら,落書きの段階で課長が言わなかった。1つ,学校へ書かれたものを名指しで指導しなかった。1つ,娘の結婚相手に地区出身者だと言わなかった。1つ,本人へ具体的対応をしなかった。これを反省し,管理職は事に当たるべし。  まさに公権力による一市民に対する内心の自由への侵害ではないですか。  課長は退職に追い込まれ,政子先生は自殺寸前まで追い詰められます。40年間まじめに,本当にこつこつと実践を積み重ねてきた一教諭に対し,ここまですさまじい人権侵害を犯したその罪の意識を市教委は持っているのでしょうか。この件の深い総括なしに人権を,教育を語る資格などないのではないでしょうか。  同和対策審議会も一回も開かず,市民の声を聞かず,内輪だけで行った今回の総括,公権力としての本市が犯した誤りの責任は,今回も全く触れられていません。そして人権啓発,人権教育の言葉だけが何カ所も踊っていますが,私には白々しく映って仕方がありません。市民の皆さんはどう感じられるでしょうか。  政子先生がお書きになった本に,「花の育たぬ里もなし」という「一ツ橋小事件とわたし」という本があります。  私は,県教組の教文部長のときに,政子さんから直接この問題を聞いた当人でもあります。そのときは,本当に目の玉が飛び出るぐらいびっくりしました。  その政子先生に敬意を表して,この本の奥付にある言葉を最後に,私の質問をすべて終わります。  「人だから,それぞれの願いやそれぞれののぞみがあります。いろいろのほほえみやいろいろの涙があります。そっとしまっておきたいものやそっと捨てたいものがあります。人だから,それを大切にし合うこともできるのです。小笠原政子」。
「 高 知 の 人 権 裁 判 」 小 笠 原 政 子 ──────────────────────────────────────────  みなさん、こんにちは。今朝高知を七時四十分の飛行機に乗りまして、大阪経由でやって参りました。この三重県にお伺いしますのは、今日で三回目です。一度目は、もう三十年くらい前になりますけれども、亡くなった夫の運転で、自動車で、当時娘たちはまだ小学生の頃、伊勢神宮だとか志摩半島、御木本真珠島などを巡りました。  その時、御木本の真珠が何ときれいなことかと見とれておりましたら、夫が、滅多に来られるものではないから、家計のやりくりさえつくのなら、何か買っていつて良いよと言つてくれました。そんなことを言わない人でしたので、私はすごく嬉しくて、真珠が欲しかったのですが、有り金全部はたいての旅行でしたので、とても家計のやりくりはつきません。ホントに小さい真珠のイヤリングを貰って帰りました。それは、今も私の手元にあります。今は亡き夫が、とても優しく言ってくれた良い思い出の土地です。二回目にお邪魔したのが、昨年2003年の10月30日、弓矢先生の裁判の傍聴をさせていただきました。その時は、解同の書記長の証人尋問でしたが、その堀書記長の、今では受け入れられていないような、解同の方針をそのままとうとうと述べるのを聞いて、ホントに腹が立つやら苛立たしいやら、悔しい思いで帰ったことでした。  今回の弓矢先生の事件のような、部落解放同盟とそれに癒着した行政の、人の命をも侵すような人権侵害が、未だに繰り返されていることに対して、ほんとうに強い憤りを感じています。 先ほども、弓矢先生のお話しを聞いて、ああまだヒドイことが続いて居るのだなと感じ、憤りを持ちましたが、長期間にわたって教員としてまた社会人としての名誉を傷つけられ、人間の尊厳までも踏みにじられ続けています。また、教員としての信念を貫かれた永井校長先生のご冥福のためにも、この裁判はどうしても勝っていただかなければならないと思います。相手側は、それは関係ないとか言っているようですが、そんなことはないと思います。良心的な永井校長先生であられたから、自分の部下である弓矢先生に、「全校生徒の前で土下座をして謝れ」などと、どうして校長として言えましよう。皆さんだつてそうだと思います。  もし、これが実現していたとしても、生徒たちにこれが理解できるでしようか?きっと、理解できなかったと思います。解同の強要にあった永井校長先生は、「わしにもわからん」と、強要された時、おっしやったと聞きました。その時の校長先生の胸の内を察しました時、ほんとうにどんな思いをされていたのだろうと思うと、胸を突かれるような、そんな思いがいたします。  私は、今から十六年前、1988年の四月から始まった、部落解放同盟高知市連絡協議会とその議長の森田益子(以下、解同と言います)によって人権侵害を受けまして、解同を相手に訴訟を起こしました。  全国各地で起こっていた解同の蛮行を許せないとして、立ち上がった全国の民主主義勢力の方々のご支援のおかげで、高知地裁、高松高裁、最高裁と全てにおいて勝利をし、1997年3月、真実が明らかになって全面勝利を致しました。  提訴から九年の歳月を要しました。それは、解同が、自らの非を認めないで、今でも悪いと思っていない、反省していないのですけども、負ける度に、負けても負けても、控訴・上告を繰り返すので、月日が経ってしまうのです。それは、彼らの組織を盾にした力でやつてきますので、時間がかかっても、個人としてはちっとも痛くないのです。

 私の事件のあらまし
 一九八八年当時、私は高知市立ーツ橋小学校の教論として勤務していました。(今日ご一緒にここへ来ました中島先生は、その前から一ツ橋小学校におられまして、退職まで私とご一緒でした。その間ずっと、身をもって私を支援してくださいました) その四、五年前から、私の夫は高知市教育委員会で勤務するようになり、この年の四月に、同和教育課長になつたばかりでした。その年の一月と四月に、一ツ橋小学校のまわりにエタとかの賎称語を使った落書きがありました。一月の落書きは、学校の裏門に一箇所だけ「一ツ橋、エタ先生のヒステリー」という、明らかに大人が書いた落書きがありました。それから年度が代わって、四月、初めは「おしん、エタ、死ね」「工夕、先公、死ね」という落書きが、学校の周りの電柱や公園のベンチなど数カ所から発見されました。続いてその翌日、スプレー吹きつけで「一ツ橋、エタ先生のヒステリー」という落書きがありました。
 一ツ橋小学校の児童が書いたものとは思えないので、学校の問題ではないということで、学校では取り上げなかったのです。1月も四月初めにも反応がないので、「一ツ橋」を入れることで、一ツ橋小学校が全然関係ないとするわけにはいかないだろうと、「ヒステリ-」ということで「女だ」ということにこじつけていったのだろうと思います。
 落書きされた部落民だと 宣言することを強要される 落書きは、普通、誰が書いたのだろうということが問題になります。だけども、解同の高知市協、議長の森田益子(この森田という人が先頭だってやったわけですけれども)が、落書きは私を特定しているわけではないのですが、「(書いた人やなくて」書かれた者は、同和教育課長の奥さんの小笠原政子だ)と直ちに特定して、「差別におびえ苦しんでいることだろう。
部落民としての誇りを持ち、部落民宜言をさせて、苦しみを取り除いてあげるべきだ。」こう言つて、高知市教委に圧力をかけて、市教委を通じて、私に「部落民宣言」を強要してきました。
 私は、生まれて以来、ホントにこの時ほど驚いたことはありません。驚天動地とはこのことだと思います。私には、人間としての誇りはあっても、部落民としての誇りとか自覚とかは全くありません。私は部落外に生まれて育つたので、そういうことには全くこだわっていませんでした。 私は、これは、同和教育課長になったばかりの私の夫を屈服させて、解同の無法な方針を学校教育で貫くために、解同が仕組んだ罠だと、直感的に感じ取りました。今まで子どもを指導してきている教員として、このような無法なことを、受け入れるわけにはいきません。
また、私の性格からも、そういうことは絶対出来ませんでした。だから、当然、直ちに、拒否をしました。
 実は、私は全く知らなかったのですけれども、事件が起こってからの後の、夫の話によりますと、この落書きの前年から、私の父親が部落出身だと聞きつけた森日益子が、教育委員会の夫の所に再三やってきて、「奥さんに、部落民宣言をささなイカンぜよ(させなさい)」ということを何度も言ってきていたようです。けれども、そのことは、夫は私に伝えてはいませんでした。解同は最初、「小笠原政子は、夫は同和教育課長だし、本人も高知市の学校の教員だ
から、その立場を考えて、解同の要求は、易々と受け入れて、そして、解同に組み入れられてくるだろう」と甘くみていたと思います。
 でも、そう簡単にはいかないと思った解同側は、その頃、夫の部下の木村という同和教育課長補佐(この人はもう解同の事務局へ入り浸りの人だったのです)を、最初に、私の学校へ使いによこしました。それでいけないとなると、次は、教育次長、学校教育課長、ついには教育長まで使って、私に説得に当たらせました。
 ーツ橋小学校の校長は初めは「これはおかしいと思うがのう」と言っていたのが、じわ-っと、(同じ仲間がじわ-っと相手側に組み入れられていく様子は、弓矢先生や中村弁護士さんのお話でもよくわかりますが)向こう側に組み入れられていき、一ツ橋小学校の校長も、私に「逆ろうたら損ぜよ」というようなことを言って説得にあたるわけです。
 私も、高知市の教育委員会が、行政が、そして解放同盟という名の知られた運動団体が、こんな無法なことを貫き通すことはないだろうと思っていました。プライバシーをさらけ出したくないし、自分や夫の立場も考えて、話し合いで解決したいと思っておりました。
 ところが、彼らの要求は、何度来ても、到底、私が受け入れられるようなものではなかったのです。次から次と来る、解同の「使い」の人たちは、初めは非常に卑屈な感じで言っているかと思うと、次には傲慢な言葉で言ってきたり、その時その時でクルクルと態度が変わっていました。
 私は、もうこれではいけないと思って、必死に、教育長、市長、解同の森田益子に抗議の手紙を書きました。その時私は丁度六年生の担任でしたが、学校での勤務を終えて、帰ってきてま夜中、泣きながら震えながら、抗議の手紙を書いたことでした。しかし、その返事は、文書で書けば残りますので来ず、上司から部下への言葉という、高飛車な返事ばかりでした。
 一方、思い上がっている森田益子は、私の抗議に逆上して、解同の組織力をかりて、学校内に私や夫のプライバシーに関することを、時代錯誤(何を言っても、時代錯誤なことしか言いませんが)の考え方で、悪宣伝を始めました。「同和教育課長は、自分の妻にさえ部落民宣言をさせることができない差別者である。」「部落民宣言をしない小笠原政子は、差別者である。」などと、彼らの機関誌『解放新聞』や、臨時のチラシに作って書き立てたり、町中を街宣車でボリユームいっぱいにして宜伝してまいりました。
 それは、どこで調べたかわかりませんが、他界して当時でもう十年になっておりました私の両親のことや、すでに嫁いでおりました、私の二人の子どものこと嫁ぎ先のこと、に至るまで調べ上げて、その生き方まで、誹諸中傷して(ありのまま言ってくれれば格別悪いことをしているわけではないので良いのですが)学校内外に宣伝しました。あるときなど、一ツ橋小学校の運動場に街宣車を横付けして、大声で誹誘中傷している、そこには当時私が担任をしていた子どもたちが野球をしていました。その子どもたちも聞いていたのです。 しかし、みんな、私に同情こそすれ、解同に「なるほど」とうなずく人は誰一人居ませんでした。彼らの行動は結局、彼らにマイナスにしかならなかったのです。それも執拗に一年間も続きました。
 また、解同は、教育委員会の指導権を握っていましたから、教育委員会に申し入れて、中学もあわせて、校長会、教頭会などを聞かせ、次のような文章を作って配布しました。私の勤務する一ツ橋小学校の校長も教頭もそれに出席していました。その文書には、
①部落に生まれ育っていなくても、父親が部落民なら、部落民とみなす。(母親がそうでなくても、男のほうの父親がそうならみなす、というのは正に差別だと、私は言ったのですが。)
②同和教育課長の妻が自分の立場を明らかにしないで、その夫が同和教育に当たることは、同和教育の方針にになじまない。
③父親のことに触れたくないと言うのは、父親に対する差別である。草葉の陰で泣いているだろう。
④部落民(私のことだと思いますが)と結婚し、二人の間で子供を産むということは、部落民の仲間入りを(私の夫が)したことであり、被差別の立場に立つべきだ。
⑤今後、学校では、これを教材にして同和教育をすべきである。(私の家族のことを教材にして同和教育をせよとまで、校長・教頭に指一ポしているのです。)

 これを読んだ校長も教頭も、異議を申し立てる人は誰一人居ませんでした。おかしいと思った人はあつたと思いますが、当時の解同の横暴は本当に目にあまるものがありましたし、これに追随する行政のもとでは、管理職として異議を申し立てることが出来なかったのも無理からぬところであると、今になれば思います。
 けれども、その当時は、長いものには巻かれろ式の、こうした校長・教頭に対して、私はたいへん悔しい思いをしたことでした。先ほどの弓矢裁判での話でも、有名校の校長になった人が、証言台で、「糾弾会は学習の場である…」などと言つたと報告されましたが、この時の一ツ橋小学校の裁判でも、証言台に解同側の証人として立ったのは、教育長・教育次長。同和教育課長補佐の、教育委員会のこの3人が私を相手に解同側の証人に立つて、裁判所で証言をしているのです。
 それも、言つていることがつじつまが合わないので、判決文では「教育次長の言うことは信用出来ない」となっておりました。私を管轄している教育委員会が、解同側の証人になって私に対峙しました。私の方には夫が証人に一立つはずでしたが、裁判が始まってスグに亡くなりましたので、私は一人で、一人も証人なしで、正しいことを証言せざるを得ませんでした。それでも、勝ちました。

  真実に真つ正面に向かう
 今、勝利して、こういうことが明るい気持ちで言えますけれども、この間の、日に日に過ぎていく苦しみは、本当に筆舌に尽くせるものではありませんでした。(弓矢先生が「どこ吹く風と、今、思っています」とおっしやったけれども、決してそうではないと思います。そう思いながら、また、直面した苦しみを重ねられておられると思います。)
 そして、五十も過ぎて、退職を前にして、こんな地獄のような苦しみを迎えるはめになったのかと思いましたけれども、その苦しみの中から、私が見いだしたことは、短い人生、何もなく消えるよりも、苦しくても、傷だらけにされても、世の人々に問題提起をして、真実から逃げることなく、真っ正面から立ち向かっていこう、私は、そう決心しました。人生って本当に短いですよネ。私の歳になると、余計そう思います。
 それは、教職四十年間、私の教え子たち、そして二人のわが子に、それを言い、求め続けてきたことでした。だから、それを私が今実行しなかったら、私が私でなくなる、抜け殻のような人生を送るようになると、思ったのです。
 そして、ついに一九八九年七月、高知県教職員組合に支援母体になっていただき、高知法律事務所の弁護士さんが弁護団を組んで下さって、高知地方裁判所に提訴いたしました。この年の十月十二日は、第一回の口頭弁論でした。その時には、私の夫も傍聴してくれ、支援集会では「証人として真実を明らかにして妻と共に闘う」と決意表明をしてくれました。でも、その時には、夫の身体には病が認び込んでいました。とても蒼い顔をして痩せていたのを、今でもありありと思い出します。
 しかし、夫は、その十日後に入院し、結腸ガンと診断されまして翌年一月十八日に急逝しました。夫は、瀕死の病床の中で私に「ぺンと便せんを取って」と言うので、私もいやな気分でしたけれども、取ってあげました。すると、ひらがなとカタカナと漢字が混じる、震える文字で、「このまま病状悪化し、ズルズルなんていう結果は絶対に迎えない。絶対、全快し、起きあがり、最後の一線で相手を木っ端みじんにしてやる。オレは絶対に死なんぞ。」と書き残して、逝きました。私は、それを今、仏壇に置いています。

 「差別」と糾弾 
 解同の幹部たちは、講演などで自分では「われわれ部落民は…」とか「われわれエタは…」という言葉を、何度も言います。しかし、他の人がこれを、差別として使った言葉でないのに、「部落民」とか「工夕」とか言うと、直ちに大差別事件に発展させます。部落民としての誇りがあって、部落民の誇りを持って部落民宣言をしろ、というのであれば、「解同」とか「同和」とか「部落民」とか言われて、怒ったり糾弾をしたりする必要は無いと思います。私は、部落
民としての誇りではなく、人間としての誇りを持ちたいと思っております。
 弓矢さんは、差別者ではないと思います。地域分離運動の中で失言があったとしても、指摘されてスグに反省し謝罪しています。そして、その失言は、果たして差別をしようとした言葉かどうかも、全く断定できません。解同のバックアップで、同僚の「同和」推進教員が数人で弓矢先生を四十三日も取り調べたというから、一日取り調べて一回ですから、四十三回したことになります。解同流の自分たちの考え方で納得がいくまで、四十三回もしつこく取り調べるのは、もういじめにすぎないと思います。さらに、自分たちが納得するまで反省文を書かせたり、十箇所の所へ謝罪に行かせたりしたと、お聞きしました。
 また、弓矢さんの差別心の掘り起こし、などと言って、親類縁者の様子や生い立ちなどを調査したようですが、これは、プライバシ-の侵害、そして、内心の自由の侵害に当たると思います。思想・信条の自由、良心の自由は、憲法で保障されています。
 だから、こういう私的制裁=リンチを加える権利は、誰にもないと思います。校長先生の目の前で、机を蹴り上げたり、恫喝したりしたそうですが、これこそ、本当に法を守らない無法者のすることだと思います。被告らは、弓矢先生の私的な失言、お家で起こした失言を、全く関係のない、永井校長先生に向けて、窮地に追いやり自殺にまで至らしめました。私の夫の証によると、夫も、解同によって、一ツ橋事件の中で教育委員会内で糾弾をされ、同じような屈
辱的な目にあっています。具体的な言葉の一つをあげますと、先ほどの、森田益子が、「これらのこと(部落民宣言を私にさせること)は、たかあ(たかが)夫婦がひと晩寝りやケリのつ問題じや」と、こう言つたといつて、夫は悔しがりました。私は、身体のすみずみまで震えが止まりませんでした。五十も半ばをすぎた夫婦に対して言う言葉でしようか。
 私の夫は、私が部落民宣言をしなかつたので、高知市教育委員会の同和教育課長はできなくなって、僻地の学校に配置転換されました。その間、私は、もしや夫が自殺するのではないかと心配で心配でたまらない日々が何日も続きました。ストレスが原因で病気になると、よく言いますが、それが事実ならば、私の夫は解同によって命が奪われたとしか言いようがありません。
 一ツ橋事件とは直接の関係はありませんが、根は一緒の、次のようなことがありました。これは、同じ高知市内のK小学校で起きた事件です。学級PTAの中で、お父さんお母さんの間から「教科学習があまりにも遅れている」という意見が出て、そこに参加していたお父さんの人が「ここには、同和の先生が居るかち、同和教育ばっかりやって、そいで勉強がすすまんワ」と言ったそうです。そうすると、例の同和の先生、当時三十歳前後で、解同の尖兵と言われいた先生ですけれども、これを聞いて直ちに「差別事件」として解同本部に報告して、県や市町村など自治体を巻き込み、それも別の郡部まで広げ、大勢の人を動員して、二年間にわたっ執拗に「確認糾弾」をしています。これをもとに、分厚い『差別事件報告書』が作られ、教育委員会を通じて、学校で配布され、私たち教職員に配られたので、そういう細かいことを私も知ったのです。
 その中身は、誰が読んでも、身震いがするようなもので、本人やその人の奥さんの学歴、両親(児童のおじいちやんおばあちやんです)の借金、親類も含めて、生活状況の変わりようを、こと細かく調査して、暴露していました。このことは、一ツ橋小学校の事件が裁判で争われているさなかに起こりましたので、これを人権共闘が取り上げました。人権共闘は、詳しくは、「人権と民主主義、教育と自治を守る高知県共闘会議」と申しますが、高知県教組、高教組、
県労連、民商、市町村労組などで組織されています。
 人権共闘がこの事件を取り上げて、県教委にこの『報告書』を示して、プライバシーの侵害に当たるのではないか、『報告書』のあり方を改めるべきだと、抗議しました。私も、人権共闘の位置一員として、その場に出席しておりました。
 それをうけて、県教委は、その後の『報告書』は、A4の紙一枚だけというように変わりました。この保護者の人は、表沙汰にしなかったので、ついに心身共に傷ついて、病院に入院していると聞きました。こういう事件が起こつたら、自分一人で温めて、一人で悩んでいると、そういうときには、向こう側は、どんどん押してきます。表沙汰にすると、陽の目を見ると、攻撃しなくなります、出来なくなります。私も、一年間ぐらい、秘密裏に、抗議の手紙も「親展」で出していました。それを森田益子は、印刷して同僚の先生方みんなに、自宅へ送りつけるということをしました。
 勘違いや軽はずみな言動を、人から指摘されたり、または自ら気づいて、人は後悔し反省し、成長し、人間として向上していくのだと思います。
 同和問題に限らず、無意識のうちに、人を傷つけたり、ひんしゅくを買うようなことを、私達も、言ったりしたりしています。そういうことは、お互い、気をつけあって、克服して生活をしてきていると思います。どんな小さいことも、解同は、ただちに、確認糾弾を繰り返して、差別心の掘り起こしなどと言って、個人の生い立ち、環境、親類縁者の思想調査までします。これは、部落問題解決にとっては、最もしてはならないことではないでしようか。
 強要やおどしでは、怖がられても、臭いものにはフタをしろ、触らぬ神にたたりなし、と潜在化して、決して、問題の解決にはならず、逆行するだけだと思います。解同の運動は、どうみても、部落問題解決のための運動とは思えません。弓矢先生の場合もそうですけれども、個人の問題として解決していくことを、勤務先や組織、行政なと全体を巻き込んで、その企業の全体の責任だとすり替えます。それは何故かというと、個人相手では利権と結びつかないし、甘い汁も吸えないからです。
 些細な個人的なことを、行政や公的機関、会社とか病院とか企業などヘ、全体の問題として最大限に広め、そして、ことを公にして、差別の増大化を図って、利権をあさろうとしているのです。私に部落民宣言を強要したのも、夫が高知市教育委員会の同和教育課長であり、私が高知市の小学校教諭であったから、彼らの運動方針である解放教育を強化推進させ徹底させるために、私達を利用しようとしたのです。断言してもいいと思います。
 彼らのこうした行為のなかで、事件の発端とされた人が自殺をしたり、何人もの校長先生が自殺されたということも聞きます。多くの方が自殺をしたり、立ち上がれないほどの衝撃を受けて、泣き寝入りをしたりしています。

  全国からの共感・励ましで勝利を
 先ほども弁護士の先生がマスコミ取材のことをお話しになりましたが、私の事件についても、たくさんの報道陣が取材に来ました。けれども、「赤旗」以外は、ほとんど取り上げませんでした。「赤旗」は、非常に大げさでもなく、事実をそのままに報道してくれました。一般のマスコミが報道しないのは、糾弾を受けるのが怖いからです。どうして出さないのかと、私は取材記者に電話をかけました。「ボクは出すつもりだったのですけど、デスクに握りつぶされま
した」という返事が電話でしたけれども、返ってきました。
 解同は、かつて、全国水平社宣言の理想のもとに、人間の解放、人権、民主主義獲得のための運動団体であったはずです。それが、いつのまにか、自治体を制圧し、支配し、学校教育に介入、解同の意に添わないものは、私たちのように「差別者だ」ときめつけ、権力と利権をほしいままにして、執拗に糾弾し、人権侵害を繰り返すようになりました。自分のプライバシー、あることないこと、世間でさらけ出されるのは、裸にされて町中引きずり回されているような
気持ちに、私もなりました。それがイヤさに逃げるということもあると思います。
 行政にはまた、これを利用するという動きがあります。それは、人権を矮小化して、「人権侵害=差別をすることだ」と意識づけて、真の人権認識から目を逸らさせて、差別する者、差別される者とに分断して、国民の団結を阻止しようとする意図がはたらいていると、私は思います。そのことが、自治体、警察、マスコミまで浸透して、解同タブーとされてきたのだと思います。
 高松高裁で、一ツ橋事件の判決文に、「被告ら解同が原告に部落民宣言をさせることを意図して、本件落書きをした疑いがある旨の発言をしている(私が言いました)が、以上一連の事実経過のもとにおいて、そのような疑いをいだくことは、一般にありうることであり、原告がそう疑ったことは、無理からぬことである」と、地裁の判決文に書き加えらました。つまり、定した一連の事実経過から、この落書きは解同が書いたと思っても致し方ないと、書いている
わけです。落書き事件以降、落書きそのものが、解同が仕組んだ罠であつたと解釈して、はじめて、彼らの行動が理解できました。解同は、利権あざりのためには手段を選ばず、このような見え透いた罠を仕掛ける、そして、陥れることだってするのです。普通には考えられないことです。まさかと、私も初めは思つたことでした。
 正しいことが正しいとして受け入れられない、として私は、もうこんな国に生きておることない、自殺をしようかと思ったことも何度かありました。しかし、私はこの事件の中で、生きる望みを見いだすことが出来ました。それは、権力や圧力をおそれない、負けないで、勇気を出して真実を訴えれば、理解し、共感して励まし、共に闘ってくれる良識のある人々が、全国各地にはたくさん居るのだということを、確信を持って知ることが出来たからです。そうした方々の大きなうねりが、ーツ橋事件の勝利の原動力になったのだと、私は思っております。
 解同の蛮行を許さないという、世論の高まりの中で、高知では、解同タブーは次第に薄れ(全くないとは言いませんけれども)2000年には高知県で「ヤミ融資事件」が発覚しました。
この、ヤミ融資事件は、当時の高知県副知事をはじめ担当の部長、課長が、倒産が予想される倒産寸前の解同系の企業の、企業主や解同県連の役員などに脅迫され、または、なれ合いの中で、県民の血税十数億円を、議会の承認も得ないまま数回にわたってヤミ融資をして、その企業は予想通り間をおかず倒産して、血税の十数憶円はアワと消えたという事件です。
 これを最初にすっぱ抜いたのは、高知新聞社の記者でした。県議会では百条委員会を設置して、その真相究明に当たりました。その委負長を務めたのが、共産党の県議会議員の梶原さんでした。この梶原議員は、弁護士さんで、私の一ツ橋事件の弁護団の一人でもありました。このように、党派を問わず、真相究明にあたって、事件は明るみに出たわけです。ーツ橋事件の勝利で、解同タブ-が取り払われたから出来たのだと、私は思っております。
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2004年9月25日、「弓矢裁判報告・総決起集会 記念講演」より

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