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「学力と新自由主義」  備忘録

 全国公立学校教頭会が発行している「学校運営」の07年4月号が「教育と数値目標」を特集している。
 知人に頼んで手に入れました(相当苦労したようです)。
 「教育目標の数値管理の問題性」、「数値化」を強制する「教育改革」の問題、不登校と数値目標・数減らし政策の陥穽~ 佐貫浩氏、田中孝彦氏ら名だたる研究者が批判を展開している。
 

 同会は、全国47都道府県の公立小中学校の教頭(副校長)約32000名から構成されている。 こうした団体が、きちんとした論を展開しているのに、驚いたというか、現場の力強さを感じた。

 特集で巻頭の「教育目標の数値管理の問題性」を書いている佐貫浩先生の新著「学力と新自由主義」の備忘録。コミニュケーション論、道徳教育、PISA型学力とは… どれも興味深い。
 学力論は、学力把握のための三層モデル、基礎学力の全体性、習熟、学習意欲、教師の役割などなど・・・意欲的な論を展開している。こちらは、ぜひ本でお読みください。

 【学力と新自由主義 「自己責任」から「共に生きる」学力へ    佐貫浩 /摘要、メモ】

序 ~ いま学力をどう議論すべきか

★「生きる力」という学力政策の幻想
・学力が「生きる力」として有効に機能するためには、その力を獲得することで人が人間的に生きられる社会的土台、条件が提供されることが必要である。教育改革とその一環としての学力政策は、人が人間的に生きられる社会システムを作り出す社会改革と組み合わされてこそ、意味あるものとなる。
・新学習指導要領…中教審答申には、なぜ子どもが生きられないのかという子どもの困難の分析が全くない。
・子どもの困難への関心を捨て去り、学力の低下という問題に課題を単純化して、個々人の学力を高めれば、子どもや青年の困難を克服でき、社会の活力が回復されるかのように言うことを、無責任きわまりない。

★自己責任論としての学力
・自己責任論~「困難を内閉化させる抑圧様式」「抑圧されたものを徹底的に無力化する思想的回路」
(中西新太郎)
・「生きる力」という概念は、それが今日の教育政策を正当化する理念として使用されるとき、まさに「自己責任」イデオロギーの抑圧性と無力化作用を、子どもに及ばす。
・権利としての教育・学習の理念は、社会の側から個人に強制された無力性を克服する個人のエンパワーメントとしての教育を求めている。
 
~ ユネスコ学習宣言「学習権とは/読み書きの権利であり/問い続け、深く考える権利であり/想像し、創造する権利であり/自分自身の世界を読み取り、歴史をつづける権利」「人々を、成り行き任せの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくものである」

・「生きる力」理念は、生きることができる個人の力、学力を獲得せよ、さもなければ生きられない苦難を甘受せよという新自由主義のメッセージとなって、子どもたちを襲っている。
・自己責任化された学力概念~1つの典型「コミュニケーション能力」~生きづらい事、いじめを受けることは、コミュニケーション力の不足の結果だというのだろうか。関係の病理は、関係それ自体を組替える実践によってこそ克服されなければならない。
・コミュニケーション教育とは…スキルを鍛えるといことでなく、支配的な関係性を…批判し、組み換え、子どもが生きる空間につながりや協同、共感、安心、平和、等々の関係を組み込んでいく教育実践の一環としてこそ遂行されなければならない。

★学力概念の二つの側面
・学力概念~日本型受験学力競争の中で、進学、社会的地位の獲得を自己責任の努力の正当な報酬と見なすことを求めるものとして機能してきたのではないか。
・職業や学習コースへ配分するために、能力主義の評価基準としの学力概念の持つ避けがたい性格だろう。
 → その配分をいかなる正義に依拠して行うかは、学力自体の内在的な性格や差異では決定されない。
 → 社会的な配分の不正義は、学力問題としてでなく、社会的配分における正義概念の組替えによってこそ、克服されなければならない。
・皆が学力を高めれば、社会的配分の不平等が克服されるという主張になにも根拠はない。

*学力という概念は・・人間が主体的に生きる上で、どういう質をもつ必要があるか? 知識や技がいかなる方法によって教育させられるべきか?
~ 学力のもつ全体構造は、すべての部分が数値化可能なものとして現れるものではない。
・学力テスト~ 数値化、競争のシステム…数値化可能な領域の狭い学力の獲得への獲得に矮小化する危険性

・学力研究の課題~ 学力とはなにか、学ぶことがどのように主体的営みとして成り立つか、これほど勉強嫌いになっている現実に即して深く検討すること

★「生きる力」としての学力はあるのか
・日本型受検学力から 知識の記憶とパターン化された応用訓練により、一定の高さを維持してきた。
  ~受験圧力が高まるほど、「効率的」な知識の記憶と操作訓練が強められる悪循環に。大量ま勉強嫌い
  → 勉強は点数をとるための苦役として耐え忍ぶこと、その訓練に耐える人格的な力が将来を保障する、との人間像が蔓延する。
・知識を使って、自分が直面する課題を解いたり、未知の課題を自分で調べて解決する、本当の意味での自分の生きる道を拓く学力の獲得に日本の教育は、成功していない。
・高度成長時代は、学力競争は、豊かさを追求される手段と捉えられた。90年代後半以降は、社会的排除者をあぶりだすような機能を強めた。
・しかし、人はその能力や学力にかかわらず生きる権利を持っている。学習はその生きることを意識化し、豊かにするために、これまた基本的人権として与えられている。生きる希望を与えられることで、生きる力を精一杯高めようとする。
⇔ ナチ 子どものガス室送りを身長で判断。子どもは、背伸びして生きようとした。今、「生きる力」がこのような選別基準として子どもたちを競わせている。
・ユネスコ宣言~「歴史をつづる権利」/「生きる力」としての学力を発動させることは、すべての子どもを人間として誇りをもって生きさせることを基本にしてこそ可能であり、その逆ではない。
   ~ 自己責任論の、「生きる力」としての学力が獲得できてないことが、生きられないことの原因であるとする論理は逆転している。

・子どもの生きる場はどこにあるか。
今、生きられない場に、生きる希望をくみこむことによって作り出すしかない。
~ 新自由主義の論理から人間尊厳と連帯を基調とするものに組替えること、生活の場で、新自由主義とのたたかいを立ち上げていくこと。
→ 困難のなかにある子どもの願いに共感し、励まし、意識化し、連帯する ~ そうした大人が子どもの前にいるか?
→ 問われているのは、大人が子どもにどんなメッセージを送るかである。格差や貧困など新自由主義が生み出した現実とたたかい、子どもの願いに共に生きようとしている大人として、子どもの前にあらわれること。

Ⅰ「生きる力」とコミュニケーション

1章 . 教育改革をめぐる対抗の構図
★新しい学力テスト体制のもたらすもの~「日本型」化されたPISA型学力への批判の視点
・新指導要領/「生きる力」と言いつつ、子どもがなぜ生きられないのかという本格的な問はない
学力不足だから生きられないと決め付け、PISA型ドリルに取り組めは生きられる空間が開かれるという
「学力」を獲得すれば、社会で主体的、関係的、応用的に生きられるという、驚くべき「学力還元主義」

・根本的な問題をもつ日本のPISA型テスト~ PISAのキーコンピテンシーと比較して
(1)PISAは抽出調査。学力の現状を比べるものではない。日本は、学校教育を制御するシステム

(2)キーコンピテンシーは、①「ツールを相互作用的に活用する力」(リテラシー)②「多様な社会的グループにおける人間形成力」③「自立的に行動する能力」という3つの核。
 ~ この中のリテラシーだけを受検学力として獲得させても②③は、獲得されない。子どもが人間として主体的を持ち、また他者とつながって未来への希望をもって行き、その日の生き様が励まされ、支えられる中で、リテラシーの獲得が子ども自身の要求となる。

(3)PISA型学力は、福祉社会や青年のシチズンシップ保障とつながれたとき、コンピテンシーの獲得が社会的排除からの脱出して社会参加していく不可欠な力の獲得とつながる。
 日本では、社会的排除を自己責任と受止めさせるツールとなる。

(4)社会構造と一体化したもの。社会参加、環境適応型社会の構築など、社会変革の担い手としての子どもにいかなる力を求めるか、などの課題と結びつくもの。日本には、そうした視点はない。

★つながりの喪失とコミュニケーション
・企業社会の中で、個人は、市民として社会とつながる方法、人権概念の中核として自分達の生活を組み立てる価値意識と方法を充分に鍛えることなく生きてきた。~ よい学校、よい企業、豊かな暮らし
   →リストラ、低賃金に対して、企業と一体化した個人の意識が資本の側に同調して、この人権剥奪に抵抗する力を発揮てきない脆弱性をあらわにした。
  ~それが、競争を生き抜く以外に、未来への見通しないというメッセージとなり、子どもを駆り立てている

・子どものコミュニケーション~ 孤立しないための自分のポジションを確保する戦略的な行為に
強者への同調、「やさしさ」の演出という自己表現の反対物に変質させられようとしている。
気遣いにつかれた子どもは、共感できる他者を見つけられず、孤立不安状態の中で、競争に追い込まれ、自信を失い、希望を失っていく~ 希望剥奪の空間、絶望を強要する社会に /秋葉原事件
・人間的な思いの表現、弱者としてのままで、弱者として連帯することで、主体的を取り戻し、いま生きている「生きにくい」社会と空間をつくりかえていく主体としての自覚を呼び出せる/思いをつなぎ、共感し、人としての尊厳を声に出し、連帯を回復するコミュニケーションの再生ことがもとめられている。
・新自由主義の空間では、コミュニケーションは、他者に勝ち他者を支配する能力として学ばれる。

★子どもが「生きる」ことをささえる教育を
・学校~ 学力テストで受検学力を競う塾的機能、国家意識を教え込む人格統制機能、となってします。
・学習内容が、日本と地球社会の切実な課題と断絶/中教審の教育目標は、企業の期待する労働力
・世界的歴史的課題に閉ざされたままで、競争のみに生ようとしてる日本社会の希望喪失、目標喪失が、子どもの学習意欲を崩壊させている元凶にほかならない。

★.教育改革への視点
・教師を競争と命令で管理する教育改革の本当の意味を明確にしなければならない。教育の崩壊
・教育とは…希望を大人が創り出し、その知恵を子どもに伝え、一緒に未来を作り出す協同へ子どもを引き入れている仕事でなくてはならない。大人が・・・社会の困難や正義の喪失と必死でたたかい、子どものそばで熱く生きることを、子どもの希望として、子どもに示すことが必要である。
~ 地球の危機、人類の危機、社会の危機と呼んで違和感を感じないほどの時代に、テスト競争を強めることで学習意欲を維持しようとしいうその視野狭窄は、学びと教育の劇的な再生の可能性を閉ざすもの。

2章 新学習指導要領の学力観
・「PISA型」の学力理念が強調され、「活用」力、「表現」力、「コミュニケーション」力など新たな学力像、人間像が土台に組み込まれている。

★.ハイパーメリトクラシーと「生きる力」という理念
・「生きる力」は、子どもを人間として生きさせる理念でなく、グローバルに資本の必要とする人材能力。その能力を獲得させる効率的な教育訓練プログラムを「人間力」形成という名でもとめている。
   ~ 子どもが生きることでなく、子どもの所有する「能力」にのみ関心が集中している。
・学校空間は、要素化された「生きる力」を競い合う激しい競争的学力訓練場、子どもが生きられない空間に。
・子どもが、どうすれば希望と自信をもって生きられるかの問の欠落。子どもの現実でなく財界の「人材政略」にもとづいた論理から導きだされたものだから・・・
・生きる力には・・ 同時に、以下の2点が組み込まれている。
社会分裂と底辺階層の困難を自己責任として個々人が引き受けて生き抜く力を求める
日本という共同体を担うことに生きがいを見出す「生きる力」
・生きる力は、能力要素(理解力、応用力、コミュ力、表現力など)に分解され、その要素に対応する訓練を施して獲得されれば形成できるという論理に貫かれている。

★.PISA型学力とのキーコンピテンシー
・中教審「答申」は、日本のPISA型学力把握は、「生きる力」と同じだという。
・しかし、PISAの人間関係形成能力、自立的に行動する能力の獲得にテスト圧力ははたらかない。だからテストシステムで、コンピテンシーを競わせ、獲得させるという操作に乗ってない。
・PISA型学力は、リテラシーの形成だけでなくねあとの2つのキーコンピテンシーに対応した教育の営みが、リテラシー獲得という教育の土台に深く組織されている構造によってこそ実現できる。
・PISA型テストは、ある程度「リテラシー」を競わせることはできても、人間関係形成能力、自立的に行動する能力の獲得それ自体を課題化し、競わせることはできないもの。
→ 「答申」は、PISA型テストが、3つのすべてのキーコンピテンシーを獲得目標にしたテストであるかのごとく誤解されている。
・「誤解」のため人間関係形成能力、自立的に行動する能力も「○○する態度」「○○しようとする姿勢」などとして躊躇なく数値的な学力評価に組み込まれ、人格を数値で評価、統制する危険性を持っている。
・松下佳代「リテラシーと学力」より
人間力戦略研究会のいう「人間力」は、(PISAの)コンピテンシーに含まれている「民主的プロセス」「連帯と社会的結合」「人権と平和」「公平、平等、差別のなさ」「生態学的な持続可能性」などの価値が軽視ないし無視されていると指摘し、それは「企業社会のコンピテンシー」であると指摘。
・重要なことは、人間関係形成能力、自立的に行動する能力というコンピテンシーの形成という生きることの土台を展開してこそ、その上にリテラシーというコンピテンシーが展開していく構造を持っている。
~リテラシーという概念は、主体的な目的と能動的な関係性を生きる主体によって使いこなされる知として把握されるべきもの。
~関係を発展させないまま「人間関係」のコンピテンシーを育てたり、「目的」を子どもの中に育てないまま「自立的に行動する」コンピテンシーを獲得させることはでない。

★.「活用・応用」とは何か
・新学習指導要領/基礎・基本の獲得と活用・応用が、段階的に区分されている。
・基礎的な知識が応用と結びつくには、ひとつひとつの概念や知識の獲得が、子どもの生活にどんな価値をもっているのか、世界をどのように切り開いてくれるものなのか、感動をもとなって学んでいくことが必要。
・また、その過程で、自分で考え、みんなで議論し、その新しい知識や概念を使って、新しい思考や表現や想像力等々を獲得していくことが不可欠
・しかし、競争として、勝ち残りへの挑戦は、基礎・基本、活用・応用も、子どもの興味や意欲に主導されることなく「訓練」としていく返しされるものになる危険が大きい。
   → PISA型「応用問題」をこなす受検学力、スキル訓練となる。

*「生きる力」は、教育の道徳主義化をいっそう強める可能性
 ・「学力」の達成度は、具体的な行動や態度としてパフォーマンスで証明されなければならない。
子どもの学習に「活動主義」「態度主義」が深く持ち込まれてくる。「関心、意欲、態度」評価
生きる力の「活用」「応用」として態度で演じることを強要される。教師による「人格統制」の危険性
・教化にまで「道徳教育」の視点が強調されるようになった背景の1つ。
*活用と基礎知識の獲得の関連性・・・ 略

★.子どもがいまを生きられるようになる取組みをこそ
・生きる力を高める学力は、現にいま、自分の生活の中で、人間として自分の存在に確信を持って生きるという状況の創出と深く結びつかなければならない。
・生きるとは、自らの目的を持って主体的に生きること/他者とつながり共同をつくる /公共性をともに担い、関係の中で他者と支えあって生きる、ということ。
   ~ だから、この中で、知識を使いこなすリテラシー獲得の学習意欲が喚起される。
・訓練プログラムによる要素的な「生きる力」の獲得では、生きること自体は、一向に発動しない。
:
*「答申」の「生きる力」に対応するには・・・・
   学力がないから「生きる」ことができないという論理を打ち破らなくてはならない。
  ~主体的に生きるということは、力の有無にかかわらず、自分の目的を追求し、その目的を実現していく過程として日々の生活や学習を意欲的に生きるということ。/そのためには、今、生きている生活の中の願いや希望、怒りや批判、等等の主体性の契機や芽をより意識化し、意識的目的や願いへの挑戦的過程として日々を、また学習生活を生きることが必要になる。
・生きる力の形成は、能動的に生きるという主体のありようを作り出すことを核としてこそ実現される。

*参加とは・・・主体の能動性を実現する場/学習は、参加と結びついて展開される必要がある。
・すべての子どもが参加という関係の中に位置をしめることで、主体的に生きることが可能となり、能動的に学ぶことができるようになる。

*参加を支える力
 ①労働能力に関する知識、技術など ②統治と共同のための能力 ③それらの共通の土台としての批判的認識とコミュニケーション・表現の能力
  ~ 日本の教育は①に偏重、縮小/統治能力の剥奪、シチズンシップの視点の欠落 ~ 参加の能力を支える教育課程の全体性の回復が課題となっている。

・「答申」~ 「学習意欲」を「学力の重要な要素」と位置づける。よって、学習意欲がないのは、学力がないからだ、という奇妙な論理に組み込まれる
  ⇔ 学習意欲は、決して学力の「要素」ではない。人格と知識の関係性のあり方の中に学習意欲は存在する。人格が学習意欲を獲得するには、参加という場に子どもが主体的に参入することが不可欠。
・コミュニケーションを、他者との関係、世界との関係を組み換え、共同化し主体化していくものにしていく。

第三章 教育実践としてのコミュニケーションの創造
★「コミュニケーション力」を獲得せよとのメッセージ
・「要領」 「生きる力」を、個人の所有する学力として把握
   社会参加の困難、生きられないという問いは、社会的背景に向かわず、個人の力の欠落としてみる。
・子どものリアリティ~ 居場所を確保するコミュニケーションバトル(土井隆義、「友達地獄」)
   学力競争空間、友だち地獄の空間でも、コミュニケーション力のないものは生きられない
  ~ 人をつなげるものが、人を支配と従属の関係に組み込む方法として機能する。

★表現の自由の抑圧とコミュニケーションの「戦略化」
・コミュニケーション不全の第一は、表現の自由の抑圧
  目立たず、同調し、一緒にいじめにも参加~暴力性の存在、その中でのサバイバル戦略としての「自己表現」
・それは能力ではなく、共存性を聞きにさらしている社会文化環境の矛盾にある。
・教育の目的は、スキルの追求でなく、共存性を再構築するための新しいつながり、関係性の再構築にある。

*コミュニケーションは、他者との敵対的競争関係にある中では、生き残りの戦略の一環へと変質し、自己表現の反対物に転化していく。
・いじめ戦略(横湯園子) 「孤立化」「無力化」「透明化」の段階を経る
 孤立化の第一は標的化し、孤立化させ、反撃が無力だと観念させ、内面をも支配し、加害者の感情に従属して生きるようにさせることで、いじめは「透明化」する~ 暴力を背景にした戦略的コミュニケーションによって、着々と達成されていく。
・苦しみや悩みの自己表現は、攻撃の対象とされること。そのもとでのスキルの訓練は、新たな屈辱を生み出す、

★新たなコミュニケーションの回復としての教育実践
・コミュニケーションは、個々人に所有されたスキルという部分を持ちつつも、もっとも重要な核心は、それがそこにある社会的関係に浸透されつつ、同時にその社会的関係を組替え創造し直していく変革的実践として、まさに対抗的なものとして創出され続けていくものとして存在している。
・個人の切実な思いを、公的な空間へ運び、他者と感受しあい、新しい公共空間をつくる力が、コミュニケーションから剥奪され、暴力的な空間の中で、生き残りのための同調と勝ち組に加わるためのパワーゲームの手段と化している。
・子どもの自由な表現とコミュニケーションの主体へ成長させる主体化と平和の教育が求められている。

★子どもの社会認識を閉ざすコミュニケーション
・子どもの中に、社会的関心、社会認識が育っていないと言われるが、同時に、自ら命を絶つほどの厳しさを生きている。
 →子ども「生活をある仕方で必死に生きさせることを強いる認識の枠組み、世界像を持っている」
   そこを読み解かずに、一方的に、子どもの「社会的無関心」を「空白」と見て、その「空白」を「科学的」な、あるいは「道徳的」な社会認識で埋めようとしていも、意味をなさないだろう。
・子ども 競争に囚われ、そこに自分の位置を確保するために懸命に生きている~ 学力競争空間の肥大化が、それ以外の社会の価値を無価値化している。
・コミュニケーションも、同調と孤立をめぐるパワーポリティクスの中で、生き延びるだめの戦略ゲームに転化~ 本音としての自己表現は抑圧される。関心は、その内部の関係へ拘束され、閉じられていく。
・同調と排除のシステムが人権感覚を剥奪する~ 異質なものを排除する同調ゲームに巻き込む。人間的共感力を閉ざし、誰がいじめに会おうが「平気」を装う感覚、世界の理不尽さを淡々と認める感性と力、「無感覚」が訓練される(中西新太郎「若者たちに何がおこっているのか」)
・子どもの世界への暴力の浸透により、人格の解体、子どもの「世界喪失」が引き起こされる(竹内常一)
~学びと参加に意味を見出せず、撤退していく。他者、自己の呼びかけに応える人格主体であることを辞めていく。
・競争が正義の社会。競争が唯一の原理。社会が変革されるという意識は困難となり、非歴史的に把握される。
  弱者は負け組として、共感しあい連帯する中で、新しい生き方や共同が立ちあがることを見通せなくなる。
・青年の社会参加の意欲が減退していく~ 自分たちはもう十分に競争社会に参加している!

★新たな公共性を立ち上げるコミュニケーションを
・社会認識の形成とは、外から「正しい」認識枠組みを持ち込むことではなく、子どもたちを拘束し厳しい生き方を強要している社会の現実を捉え、対象化し、それとは異なった新しい生き方を見出し、それを選択する認識や勇気を子どもの中に切り開くこと。
・主体的な参加とは、人と人との関係の中に入り、その関係に会に勇し、その関係を変えていく。「介入的参加」
・システム、価値体系に同化する参加は、自分の位置を確保しようとする受動的参加。競争の中の脅迫的同化
~ この介入と同化の力学がコミュニケーションの質を左右する。

・そもそも言葉の獲得は、親密圏でのここちよい働きかけの中、応答共感関係の中で獲得。それが暴力、競争による共同関係の破壊の中で、コミュニケーションは抑圧され、不全が広がる。
・親密圏における困難は、公共圏の立ち上げを困難にする。 
  戦前/公とは御上、家族共同体の延長として把握されてきた。親密圏と公共圏の連続性 
  市民社会/国家は共同体の延長ではない。親密圏はそのまま公共圏に連続しない。親密圏で獲得した力量を土台に、独立した個々人の関係を、社会的な規範・約束を介して、社会関係を1人ひとりが改めて作り直すことが必要になる。/それにより、共通の規律と価値の上で共に生きる世界が立ち上っていく。
 → 親密圏で、他者への感受能力、共感力、人の尊厳の感覚がどう獲得されてきたかが重要になる。

・公共圏で他者との応答関係を築けない状況/「親密圏にいる人間に対しては関係の重さに疲弊するほど高度に気を遣って、お互いに『装った自分の表現』をしあっているけれども、公共圏にいる人間に対しては、匿名的な関係さえ成立しえないほどにまったく無関心で、一方的に『素の自分の表出』をしているだけの若者たち・・・」(土井隆義「『個性』を煽られる子どもたち」)
・公共圏に主体的な自分たちの公共圏をたちあげない限り、公的世界は同化圧力を及ぼす支配システムにとどまる。
・主体的な参加は、公的世界に組み込まれた方法を使いこなし、積極的な自己表現と価値をめぐる衝突と合意を繰り返す、複雑で葛藤の世界。応答責任を介した公的世界の形成が困難になるとき、民主主義も立ち上がっていかない。政治参加が困難になるひとつの背景。

*子どもに公的世界を立ち上げるための制度、力を養うために・・・
 ①競争と暴力の支配的価値から解放し、新しい思考と価値創造の自由を発揮できる平和の空間の保障
 ②社会的弱者へと押しやられた自分を拠点とし、生活体験や社会関係から新しい価値を紡ぎだす学習
 ③コミュニケーションを通じて公的世界を自ら主体的に生きる空間に組替えていくこと
~子どもを人格主体として尊重すること/自主的に判断し、行動する主体として遇すること/不安や怒りは、つなぎ合わされ共感を得ることによってこそ、主体性を人々の中に発動させる。

・コミュニケーションは、個人の能力である前に、人と人とが、他者との間に作り出す関係性として創出させるべき」 → 子どもが模索しているとき、教師こそ、新しいコミュニケーションの担い手として登場する必要がある。

第四章 コミュニケーションと道徳性
★今日の子どもは道徳性を欠落させているか。
・むしろ、仲間世界の規範や掟に縛られて身動きできなくなっているのではないか。/自己表現の抑圧
・道徳性~ 集団の持つ作法に従うことで、集団の規範を強く内面化している。/よって、大人から見れば、道徳が欠落しているように見える。
・子どもは、強迫的ともいえる仕方で、この集団の規範への同化の圧力のもとにおかれている。(道徳の欠如ではなく、)その集団の持つ関係性が引き起こす病理の中に囚われていることで生じている。

*「よい子」現象~ 社会や親の期待にそって競争に参加し続け、必死に「よい子」像を演じている。「よい子」が「キレる」現象は、社会規範の内面化の努力が限界に達し、その同化圧力から脱出するために、他者との関係を暴力的に絶とうとするものであろう。道徳性を欠いているという論理は、本質を正しく把握してない。

★コミュニケーションと道徳性
・自己防衛の手段/親密圏での強迫的な同化作用、公共圏での無関心/一方、「オタク化」~外的世界との断絶
・コミュニケーション不全の契機となるのが、その「戦略化」/表現から道徳性を投げ捨てる~ 戦場のサバイバルゲームでは、他者を打ち負かし、自分を守るための戦略行為となる。

*ハーバーマス コミュニケーション行為を、「発語内行為」と「発語媒介行為」とに区別する
  「発語媒介行為」~ ある目標を達成するために、言語に媒介された戦略行為/制裁がその背後に存在
  「発語内行為」~相手に働きかける行為、その効果は、内容が、受け取る相手の要求する「妥当要求」を満たすことによって、了解される場合にのみ実現される。/平和的、自由を保障によって実現される

・競争と暴力の空間で必死に生きている子どもの努力を無視して、大人世界の道徳規範を強制しても、子どもが自らの行動規範とすることはない。~そうすればサバイバル空間を生きていけなくなるから
・コミュニケーションは、なぜ道徳性を成立させることができるか。
規範にそった行動が利益となればルールが内面化される(パブロフの犬)、がそれだけでは不十分。
  → 共感力が大きな力。他者の思いに共感し、共感するものの心の内側に再創造される。それが個人の内側から、感情をともなって突き動かす。道徳性の基本原理は、他者への思いやりでなく、他者への共感を媒介に、むしろ自分自身を内的な思いに突き動かされた行為として創出される。
・道徳性の獲得は、共感力、すなわち他者との人間的な関係性の獲得として進められるべき

★エンパワーメントとしての道徳性の獲得と応答責任性
・本当の自分を表現することに対する躊躇と断念は、弾圧だけでなく、他者との対立、葛藤の恐れからも生じる
 ①自信喪失や表現すべき自分への信頼感の欠如 /自己責任論は、弱点を隠すという思いを強める。
 ②暴力、特に継続的な暴力 ~ 従順に振る舞う戦略を強要する
 ③強度の同調 同調の拒否、孤立がいじめの対象となる。「空気を読む」能力が求められる
 ~ 表現は、他者の基準を演じる行為、自己表現の反対物となり、同時に自己の従属性や卑屈や無力を繰り返し思い知らされる過程ともなる。

*ジュディス・ハーマン・精神科医「心的外傷と回復」
 トラウマを引き起こす外傷的事件は「対人的関係の破壊、それによる『セルフ』の解体、信念体系の空洞化、実存的危機」を引き起こす。「心的外傷の体験の中核」は、「無力化と他者からの離断である。だからこそ、回復の基礎はその後を生きる者に有力化を行い、他者との新しい結びつきを創ることにある」と指摘
~自己の無力化に抗する道を拓くには、本当の自己表現の回復が必要である。

・道徳性は、自己の抑制、縛るものと捉えられることもあるが、主体的な自己の創出過程と切り離せない。また、他者との関係性に対象化されて具体化されるとすれば、その関係性を積極的に切り開くことで創造される。
・道徳性の形成・回復は、人間的なコミュニケーションを回復し、共感を土台に、他者への働きかけ、関係を形成する力の増大と結びあわさるべき~ つまり人間的な力のエンパワーメントである。
・コミュニケーションは、価値や論理を介して互いに了解を高めあう行為。キャッチボールの過程は、他者の判断力を依拠、信頼し、人々が自分の力を他者に及ばす過程。したがっていかなる強制力にもよらない。平和的過程であり、相手の自由を保障し、それに依拠してなりたつ。
・対話と表現の課程は、自分を対象化し、自分と向き合い、自己を他者との関係性の中に組み込み、応答責任関係を構築していく過程。他者の問いかけに誠実に応答し、そういう応答関係の中で、互いを尊厳を持つ他者として位置づけ、討論し、共につながって生きる共同の関係、「共世界」(ハーマン)を作り上げていくことが、この応答責任を互いに背負う関係の中ですすめられる。
→ 対話における道徳性の核心は、この応答責任関係を引き受ける能力にほかならない。

★道徳教育政策の問題点
・道徳性は、他者との関係を律する、それ自体が社会関係的なもの。したがって道徳性の発達は、その社会的な他者との関係性の発達と切り離してはありえない。
・今日の道徳性の衰退、未発達は、社会関係事態の衰退、歪みと不可分に結びついている。
・「心のノート」~正解さがし、よい心の強制にうんざりした、建前と本音の区分する処世術を訓練する
  または、道徳を心のあり様として、心理的な「自己責任」として対処させる。個人還元主義
・こうした「道徳教育」は
 ①正しいものを実行する自己「反省」により、社会的な不幸を受け入れ、堪え忍ぶ「自己責任」の力、「反省的な心」を求めるもの
 ②生きられないことを「学力欠落」による「自己責任」として受止める態度を形成する
 ③コミュニケーション力という個人の能力の問題とし、関係性の病理を「自己責任」に背負わせる。
~ 社会への同化を強制し、社会的な正義は何を考え、社会を対象化する思考の展開を断念させる道徳教育

・愛国心の注入~ 心理主義的な道徳性は、不安定な自己に依拠せざるを得ない故に、絶対的な基準で補完されることを必要とする。そのため、「愛国心」や絶対的な国家共同体意識が注入される。
*個が分断され孤立化するとは、人と人との間に社会が立ち上がるイメージを持つこと自体が困難になる。ナショナリズムは、つながりの希薄化、それ故のつながりへの渇望感につけ込む。
・しかし、そうした上から組織された共同性の中で、より一層、公定の価値への同調圧力が増強され、表現の自由が奪われ、内的自由を侵し、異端への攻撃は激しさをます。
・それに対し、表現と表現の自由の回復による公共性の再建は、下から「共世界」を回復する方法~コミュニケーションは、親密圏から国家にまで及んで、個人が生きる空間を、主体的な自己実現の場として組替えていく方法として、活性化されなければならない。

Ⅱ 「学力」とは何か
Ⅲ 「共に生きる力」にむけて

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