学力調査の「学力」とは何?
三回目の全国学力調査がなされた。私学の参加が半数を割った。
知識の詰込みとパターンによる解答訓練による正答率の向上競争は、子どもと教育を深刻な状況に追い込むだろう。
今読んでいる佐貫浩・法政大教授の「学力と新自由主義」が実におもしろい。
その内容とシンクロする話を、鷲田・阪大総長が平易な言葉で語っている。
「学力テスト」をめぐってつらつら思うこと 鷲田 清一・大阪大学総長、哲学者
新しい卵と古い卵の見分け方を習う。2つの割ったあとの卵がある。どちらを食べるか・・・
両親が共働きで自分で料理している子だけが「古い」方を選んで「間違い」となった。賞味期限が切れそうなものから食べるのが、暮らしの知恵なのに・・・ という話だが、
佐倉氏は、学びについて、「答え」の決まった問を効率よく正答を出す訓練ではなく、暮らし、社会の中に問を見つける力こそ大事。それにより知識と知識の場を組みなおし、新たな学びの欲求が出てくる。それには疑問や意見を自由に表現でき、また同時に、他者の意見を受け入れる平和な関係が必要であり、競争の場からは出てこない、と語っている。
道徳論についても、社会関係が内面化であり、共感する力をもってこそ自然な振る舞いとして確立されていく、「外から押し付けられる」ものではない。むしろ社会の不正義、不公平とたたかう身近な大人、子供の生きづらさに心を寄せる大人の姿が必要だ、と語っている。
また、備忘録として、まとめて見たい著作である。
昨日まで見つけたいくつかの社説・解説
時論公論 「学力テスト 見えてきた限界」NHK
社説:学力テスト 全員一律一斉は無用だ 毎日
学力テスト 一斉の目的が見えない 中日
[学力テスト]「半端な公表」何のため 沖縄タイムス
【「学力テスト」をめぐってつらつら思うこと 鷲田 清一・大阪大学総長、哲学者】 全国学力・学習状況調査(いわゆる全国学力テスト)がおこなわれた。4月22日付けのどの朝刊にもその試験問題が掲載されているが、とにかく印字が細かい。 度が合わなくなっているいまの老眼鏡では眼が疲れ、とても最後まで読み通せない。裸眼にするとこんどは全体が眼に入ってこない。難儀なことである。 題材の選択に工夫がこらされており、ちょっと変わってきたかなという直感はあったが、いいかげんな感想を述べてはならない。漢字の読みが小学校、中学校とも三題だけなのは、ひょっとしてだれかへの配慮なのか……。冗談とはいえ、これは口にしてはいけないことでした。 それよりも「学力」とは何なのか。文部科学省の学習指導要領は近年、「生きる力」ということを謳ってきたが、この「生きる力」のなかに「学力」はどのように位置づけられるのか。 この説明を、わたしはこれまで、納得できるかたちで目にしたこと、耳にしたことがない。が、この点があきらかでないと、これで三回目になる学力テストが何のために続けられるのか、はっきりしない。 「学力向上」というきわめて限定された目的のために、授業の現状を分析するための調査だとすれば、50億円をかけるとは太っ腹にすぎると思わないでもない。それより教育環境の整備に資金を投入したほうがよほどいい、と。○卵の見分け方が学校の試験に出た
「学力」ということでいつも思い出すのは、ある発達心理学者がお子さんの学校での苦い経験として語ってくださった一つのエピソードである。
そのお子さんは、小学生のころ、古い卵と新しい卵とを見分ける方法を授業で習った。黄身が高く盛り上がっているのが新しく、黄身が平べったくなっているのが古いと教わったというのである。割ってから卵の新しさを確かめるというのだから、そもそも何のための調べごとかよくわからない。
ところが、これがあとで試験に出たのである。
「図のような二つの卵があります。あなたはどちらを食べますか?」
こうした設問を課せられて、お子さんは迷いなく平べったいほうに丸をした。彼以外のクラスメートはみな、盛り上がっているほうに丸をした。結果、彼だけが「誤答」とされた。
お子さんにしてみれば、冷蔵庫から卵を二個取り出して、賞味期限に差があれば、まず古いほうから食べるというのがあたりまえのことである。それが不正解とされて、彼はひどく傷ついたのだった。
「どっちが新しいのか?」と問うのに「どっちを食べるか?」という問いを立てるというのがそもそも論理的でないのだが、それはさておき、この問いは、そもそも何のために新しいか古いかを調べるのか、それが判ったらでは次にどうするのかというふうに、日常生活のコンテクストのうちに位置づけられていない。
つまり、設問として孤立している。だから、この知識はついに身につくことがないし、今後も使用されることはない。
両親が共働きのため、じぶんで料理することも多かったこのお子さんは、まさかそんな無意味な問いが出されているなどとはつゆ思わず、家事というコンテクストのなかで、自分ならどうするかと考えたのである。○社会できちんと生きるための力
「学力」も「力」の一つである以上、何かが「できる」ということである。たとえば国語の「学力」ということなら、読み書きが正確にできる、論理的な思考ができる、文章の要約ができる……などなどである。
けれどもそれらの能力を身につけることがなぜ求められるかといえば、言うまでもなく、社会のなかできちんと生きることができるためである。とすれば、教育に携わる者が何を措いてもまず問わなければならないのは、ひとは何を知るべきなのか、何がほんとうに知るに値することなのか、それを知ることが生きるということにとってどういう意味をもっているのか、ということであるはずだ。
この設問を課した教育者の念頭にこうした問いはなく、逆に、問われた子どものほうが答えるにあたってこのことをちゃんと視野に入れていた。皮肉なことである。
「力」といえば、多くのひとは、物事をぐいぐい推し進めることのできる力、外からの強い力にしっかりと抗うことのできる力を、おそらくは思い浮かべるであろう。
けれどもひとびとのあいだでしかと「生きる」ために凡人に必要なのは、たぶんそういう力ではない。他人の境遇に思いをはせることができる、他人の思いにきちんと耳を傾け、受けとめる力、すぐに答えが出なくても問いを手放さずにしつこく問いつづけられる力、自分の意見が通らずとも辛抱する力、無理難題を突きつけられてもあきらめず、へこたれもせずに解決を模索しつづけられる力、対立する意見のなかでそれらをとりまとめることのできる力、それらを身につけることがよりいっそう大切であろう。○現実に右往左往することが知性はぐくむ
さまざまな意見や思いが錯綜するなかで、他者のそれを受けとめたり調整したりする力、それは学力テストでは測れない。社会的な現実においてはきちんとした一つの正解はない。そして、このように相対立する意見のなかで右往左往することそのことが、じつはひとの知性の、したたかともいうべき“ため”や奥行きを育んでゆく……。
はじめは老眼のせいにしたのだが、こういう視点をもたない「孤立した」学力テストには関心がないというのが、たとえ工夫がこらされたにしてもその問題内容にあれこれ注文をつける気がしなかったほんとうの理由である。
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