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自己責任論~「生きづらさの臨界」より 備忘録

 もやいの湯浅誠氏、首都圏青年ユニオンの河渕誠氏が、研究者(本田由紀、中西新太郎、後藤道夫の各氏)との鼎談を収めた「『生きづらさ』の臨界」。本が書かれた時点は、派遣切りへの社会的批判や新自由主義の失敗という情勢の大きな変化が生まれる前であるが、「自己責任論」をどう克服するか、今後の運動にとって大事な視点が書かれている。「生の値踏み」「私的所有者」という関心を惹いた部分の備忘録

《 鼎談の前に~ 湯浅誠の論考より、備忘録 》
◆「他に方法がない」
~映画「マイ・ネーム・イズ・ジョー」アルコール依存症の自助グループに通う主人公。仲間の借金のために麻薬の運び屋に。SWの恋人との口論で「悪いが君と住んでいる世界が違う。警察にもいけない。ローンも組めない。スラムから出られない。生き方さえ選べない。ほかに方法がなかったんだ」と叫ぶ

 湯浅氏は、「人並みにまじめで、人並みにいいかげんでもあり」「人並みに一生懸命に暮らしている人」が「さまざまな不利な条件(資本、人間関係、器用さ、自信、そして運など)が重なった結果」、この「ほかに方法がない選択をする」「生きていけなくなるまで追い込まれる」社会状況を問題にしている。

◆「貧困が見える」とき/自己責任論が発動するとき
・「ほかに方法がない」という経緯が見えることを「貧困が見える」
   → 経過が見えないと「結果」からのみ判断する ~ その現実は
  「40歳にもなって、ネットカフェでその日暮らし」「働きさがりが路上でゴロゴロしている」
→「何やってんだよ」との舌打ちとともに「自己責任論が発動」する(大事な視点!)
 例) 3人の子を持つ35歳が5万円の収入(派遣で寮、20万の給与で残るの5万、生活保護も「働ける。論外」とウソをつかれ拒否される。派遣になったのは、妻に対する親の暴力から「夜逃げ」。住所も明かしてない
~ 「ほかにどうすればいいのだ」という気持ちになるのは当然ではないか?

◆奪われる〝溜め〟
・自己責任論は自由な選択可能性が前提
  コーヒーと紅茶どちらがよいか、それは自己責任だろう。選択が可能な条件がなければ虚構となる。
例) お金があれば、トンカツもエビフライも、「自己責任」で選ぶことができる。しかし、お金がなければ、コンビニのおにぎりかマックのハンバーガーか、という選択しかない。
親など頼れる人がいなければ、「保証人が必要なアパートか、保証人不要物件か」の選択の自由はない
 学歴の低い人は「大企業正社員か、フリーターか」の選択の自由はない
 家のない人は「家で寝るか、ネットカフェで寝るか」の選択の自由はない。

・アマルティア・セン(ノーベル経済学賞) 
~ 選択の自由を可能にする基礎的条件を「潜在能力」と規定/湯浅の言う「溜め」とほぼ同義
   ただ「溜め」には、精神的な条件(がんばれるかどうか)という点も織り込んでいる
  貧困状態とは、選択の自由がなく「自己責任を問う」前提が欠けている。
   → このことが、世間一般では、必ずしも議論の前提となっていない。
~ そこから問題意識。「潜在能力」「溜め」は
①誰のものか ②社会に求められているのは何か ③それを増やす現場の運動に必要なものは? /にある。

◆〝溜め〟を失った社会が〝溜め〟のない個人をつくる
・貧困問題における個人と社会の相関関係は、センの「潜在能力」概念が活用しやすい
 ~ 「潜在能力」は個人と社会との相関関係で決まるから
例) NYのハーレムの住人が40歳まで生きる可能性はバングラデシュより低い。
~長く生きるという「福祉-善き生」を実現する「潜在能力」が奪われている状態。個人だけでは解決できない。個人をとりまく社会・経済・政治状況の改善が必要

・「自由」も、「潜在能力」と深く結びついている。
例)地域のバリアフリー  徹底した地域なら、障害者も不自由しない
  このとき「自由」「不自由」は、個人の属性でなく、社会との相関関係で決まる
 ~ 福祉・善き生のための自由を増やすとは、バリアフリー化であり、それにより「地域で暮らす」という福祉・善き生を実現するための「潜在能力」が高まったと、表現できる
→ これが、センのいう「開発」。

・〝溜め〟とは
   溜池のイメージ~日照り(トラブル)が続いても、作物を育てる(福祉-善き生を実現)ことができる 
   溜池がないと、ちょっとした日照りでも、作物は枯れる。
この溜池は、地域の共有財産だった。溜めを失った社会は、溜めのない個人をつくる。

◆「貧困は人にはない。社会にある」
・貧困に追い込まれた〝溜め〟のない個人の回復~ 相関関係である以上、社会の〝溜め〟を増やす必要

・双方が「税金泥棒」と呼び合う福祉の現場
   「水際作戦」 行政が適切な執行をおこなってないこと ~ 被害者が「税金泥棒」と非難する
   一方、生活保護受給者の急増で、職員は過剰な労働を強いられている
     旧厚生省 ケースワークの上限「市部80人、郡部60人」と決めているが、実際は百数十件
       → 一人ひとりの「自立の助長」ができる状況になく、集団検討・対応というノウハウの継承や個々の職員の「バーン・アウト」を予防する方策をとる余裕もない
       ~ 生活保護申請者を「義務を果たさない人」「税金を無駄使いする税金泥棒」と考える
 ⇒ 公務員バッシングの中で〝溜め〟を失った職員が、そのストレスを主犯格(政府)に向かって跳ね返すのではなく、より弱い立場の者の〝溜め〟を奪う方向で噴出させ、相互の不信感を増幅させる。
   ~ こうした相互不信は、あらゆる場面で認められる/正規と非正規、若者と高齢者、主婦と働く女性

・改善の方向は… 生活保護受給者と福祉職員が、いっしょに生活保護予算の増額を求めるしかない。
   「要保護者にやさしい行政」でなく、自分自身にやさしい行政をめざせは、弱い人の〝溜め〟を作れる

・社会の責任としてとらえる
   障害者は、社会の不自由さの結果として現れ、社会の責任としてバリアフリー化が必要
   貧困も、社会自身の貧困(〝溜め〟のなさ)の現れであり、社会自身の責任が問われる
    ~ 社会的排除に対しる社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)は、〝溜め〟の回復によって初めて可能となる

◆「ほかに方法がなかった」実態を知らせる
~ 運動に何が必要か
 そのヒント) 奥谷礼子発言「会社を休めたはず。過労死も自己責任」(07.1)に対する世間の反応
   ~ 典型的な自己責任論。大きな批判。「自己責任論」が蔓延しているのに何故か
→ 「実態がわかっていない」と批判した。「休むに休めない」実態ある
  ~「ほかに方法がなかった」ことをみんなが知っていたから

・これは「すぐれて運動的な課題」だと、重要な指摘をしている。   
   → 政策的課題とするためにも「ほかに方法がなかった」実態を広く伝えていくことが必要
   ~ NHK「ワーキングプア」など一連の報道 
→ しかし、まだ社会的に明らかにされてない問題がある/「自分自身からの排除」

◆「救済に値する人」「値しない人」というデッドロック
・NHKスペシャルが典型 ~ 最大限がんばってるのに貧困から抜け出せない姿を放映し共感を集める
  → これは、その裏に「救済に値しない人は仕方がない」という論理が潜んでいる
   ~ 「値する人」だけ救済するというのは、もはや「人権」ではない! 「恩恵」である!
~ 生活保護が、権利として根付かない日本社会の現状を反映している。

・運動は、このデッドロックをどう乗り越えるか
 実態を、赤裸々にぶつけていくことに尽きる ~ 貧困状態にあえぐ人は24時間、かんばれない。
 「がんばった人だけ救済」という「自立支援イデオロギー」を批判し乗り越えないがきり、
貧困当事者は声を上げられず、実態は明らかにされず、新自由主義イデオロギーに回収されてしまう。
 ⇒ 論文で「自立支援イデオロギー」を批判するのは簡単だが、当事者自身の分断も含めた実践的な障壁はそれだけでは取り除けない。(運動する側の「内面化された自己責任論」の克服!~ 「生きさせろ」「無条件の生の肯定」の持つ深い意味 )~ それが運動の課題、宿題

《中西新太郎氏の発言から 備忘録》
◆自己責任論の機能と構造
・言葉自体がおかしい 自己に責任をくっつけたところに罪深いイデオロギー 
   ~責任の所在が違うと批判するが、むしろ「責任の観念自体を変質させるはたらき」の重視を
 「自己責任論」~ 問題となっているのは「責任を帰せられるか」「責任を主体とは何か」
    「責任はあなた個人」というのが「自己責任論」
  → 「責任を負うべき主体」を特定できる前提は、責任を負うべき能力、または判断力がある、ということ
       ~裁判の「責任能力」も同じ。責任にかんする近代モデル/子ども、精神障害は責任が問えない
         ~ 最近は、そういう人にも責任を問う例が…。これは近代の法的モデルの変化
・「責任能力があるかどうかは関係なく」、それは自己責任だ、という
  → 近代の責任モデルで問えない責任を個人にかぶせ、真の責任を見えなくする。これが非常に大きな問題
*自己責任論は「社会と個人の関係の問題点を隠蔽してしまうイデオロギー的な機能を持っている」
  そのポイントは、「自己」=私的所有者、という把握の仕方にある
   ~ 責任能力があるかないかも、能力を私的に所有しているという枠組み
   → 契約関係、市場関係における私的所有モデルを徹底し、責任観念の近代的前提を破壊
      ~「全部自分で処理しないとダメだ」「がんばらないとダメ」は、市場における人間関係のモデル化
          ~「財産だけでなく、能力も含めあらよるものが個人の所有」という枠組み
             そうした能力をもった個人が、互いに独立して関係を結んでいるというモデル
・「無力」「不器用」がどう扱われるかが大きな問題
   フランス人権宣言 無能者は人のうちから排除
   アダム・スミス 無能で無知な人間は、自由な個人としての責任を負い合える交流関係を結べない
     ~ 近代の市民社会は、能力がない人間を排除してきた。その能力観が、責任能力の限定に関係した。
  → 自己責任論は、私的所有者という想定を絶対化、私的所有の「主体」というただ一点のみで規制
     「無能力」「怠惰」「病気」も、所有として扱うことで、責任の「主体」として扱う
*自己責任論 ~ 人を市場化された存在へと一元化することで、負えない責任を個人に負わせる、とんでもなく倒錯を正当化させるイデオロギー

◆新自由主義政策を正当化する自己責任イデオロギー ~社会と個人の関係の倒錯
・社会と個人の関係の組替え ~ 私的所有者として以外は、人間を見ない現実の進行
   能力がない ~ 社会にコストをかけてしまう存在、という扱い
    アメリカ 病気にかかるリスクの高い労働者 ~ 会社に損害を与えるので解雇されやすい
     ~ もっと徹底すれば、遺伝子検査で、障害や病気にかかりやすく受精卵は排除しよう
    “貧困な人は、社会にコストをかける存在、そういう状態でいる個人の問題”として、社会と個人の関係が、倒錯し変化してしまう。
  → 「わたしがいるだけで社会に迷惑をかけてます」という感覚が人々に浸透
   貧困のカバー、勉強ができないことのカバーの社会の働きかけが、本人からすると「ますます自分はコストをかける存在だということを常に自覚させる行為」となり、「もう、ほっといてくれ」との反応となる

・コストがかからない人間を強制するイデオロギー
負の能力~「何も要求しない」「支援ももとめない」
  → 本来なら、他人の支援、社会へ要求する能力が必要だし、かつ責任の果たし方なのに逆転する
 * そもそも「コストをかけないは、フィクション」
  ~人間は、生まれてから、存在し、そこで普通に生きているとコストをかけるというのは、人が社会的存在であり、相互に依存しあう存在である以上、当たり前の話
 
◆「生の値踏み」状況の内面化とその問題点
保護が必要な状況であるにもかかわらず、迷惑かける存在だからと求めない
 →せめて、何も要らないと言わないと、自己の存在を保てない → 「自己疎外」に最初に追い込まれる

 ~(感想) 「生きさせろ」「無条件の生の肯定」の視点、「ほかに方法がなかった」ことの現場からの告発の大事さ

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