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的はずれな学力テスト 大阪大総長

「学力問題」って、なんだ? 鷲田 清一 大阪大学総長、哲学者  新聞案内人12/17  的はずれな学力テストとコラムがのっている。小見出しを拾ってみると・・・○まこと生徒に無礼な学力テスト○孤絶した知識は身につかない○真の知的能力を測れていない
 先日の各紙の社説も「好き」「関心」の低下に一様に注目し、警鐘をならしていた。「学びのレリバンス」~ 学習する事柄と自分との関係に何らかの意味が関連づけられる状態、がないのではないか、と佐藤隆・都留文科大教授は指摘している(フィンランドに学ぶべきは「学力」なのか)。 

 鷲田氏もこの「孤立した問いの無意味さに、ああまたか、と疲れるだけだろうとおもう」と指摘してる。
また、佐藤氏は、競争のリアリティーを問うといって、かつての「終身雇用・年功序列」「新規一括採用」など従来の日本型雇用が崩れ、「ある程度かんばれば人並みに進学、就職できる」という実態がなくなった今、「限られた勝ち組」をめぐる競争は、「文化的・経済的資本」を持ち合わせている人々の競争となり、早くから「競争からおりる」子どもが増えていると、PISAやTIMSSの調査に示される低学力層の増加、二極分化、レリバンスの低さ、自由記述形式の無回答の多さなどから、解明している。
高知県も高知市も「学力対策」として、4年後に全国学力状況調査の平均点を全国なみにすると単元テストの導入などいろいろ「努力」しているが、「解けるけれど分からない」「苦役のとしての勉強」という従来型の「日本型高学力」のいっそうの強化でしかないのではないか。
子どもたちは本当は何を望んでいるのかという大事なところが抜かったまま゜対策」が進んでいるように思う。

【「学力問題」って、なんだ? 鷲田 清一 大阪大学総長、哲学者  新聞案内人12/17】  この国の頂点にいるはずの人がくりかえしやってしまった漢字の読みまちがい、その記事が連日出るなかで、わたしは正直なところほっとしていた。これで論議は政治家たちのそれに移り、小中学生の「学力問題」についての論議はしばらくおさまるだろう、と。  それにおまけと言ったらなんであるが、これによって小中学生の漢字能力も少しばかりはアップしたとおもう。「踏襲」を「ふしゅう」と、「頻繁」を「はんざつ」と、こんなふうに読むひともいるのよと、多くの家庭で話題になったはずだから。  が、予想はみごとに外れ、生徒の「学力問題」を扱う記事はいっこうにおさまる気配がない。全国学力調査の結果公表をめぐるやんやの騒ぎのあと、こんどは文部科学省が国際数学・理科教育動向調査の結果を発表し、学力低下に歯止めがかかったと自己評価したものだから、ここでまた異論が噴出した(朝日新聞、12月10日朝刊)。  くわえて「『ふしゅう』はなぜ間違いか」の分析まで(読売新聞、12月13日朝刊)。そうした記事を読みながら「ふしゅう」「ふしゅう」と口にしているうち、冗談ではなく「ふしゅう」と読みかけた。くわばら、くわばら。

○まこと生徒に無礼な学力テスト
 「学力問題」へのコメントがいろいろ載っている。が、そこに生徒たちの感想は登場しない。子ども自身の感想をできれば訊いてみたいのだが、見あたらず、そこでわたしが試験を受けさせられた生徒なら、という前提で考えてみることにした。
 まこと無礼だなあ、というのが最初の感想である。
 「学力問題」というと、まるで能力の欠損といった深刻な事態が子どものなかに生まれているかのように聞こえる。けれどもこれは何をどのように教えるべきかという教科内容と教育方法の問題として、教える側がデータをもとにいろいろ熟考するための調査だったはずである。
 生徒たちはそのだしに使われた。そして誤答をした生徒は、追って総理大臣たる者が「学力」不足だと、ふつうなら再起不能と思われる仕方でからかわれているのをまのあたりにし、自分もあんなふうにいたぶられるために試験を受けたのかと、ほぞをかむはずである。
○孤絶した知識は身につかない
 そのデータそのものも怪しい。たとえば、葉緑素以外に光合成に必要な要素を二つ問う設問がある。この問いに答えることになんの意味があるかは問うまい。学ぶ意味など学んだ後にしかわからないからだ。
 それよりも、この孤立した問いの無意味さに、ああまたか、と疲れるだけだろうとおもう。設問として孤立していること、いいかえれば、何のために考えるのか、答えが分かったら次にどうするのかという、生活に連なる脈絡がこれらの設問にはない。
 そのような孤絶した知識は生活の場面で使用されることがなく、だから身につくことがない。知ったところで意味のない設問につきあわされるのもしんどいことだろうとおもう。
もっといらつくだろうと想像されるのは、これは日々の授業においてもそうなのだが、知らないわたしが問うのではなくて、答えを知っている側がわたしに問うているという事実である。ふつう質問というのは、知らない者が知っているであろう者に懇願するようにして向けるものだ。「後生だから教えて」、と。
 が、ここでは、知っている者が知らない者に問うている。これは、知っているか知らないか、相手を験(ため)すことである。つまり、不信ということが前提としてある。こうした不信を前提とする場では、大事なことは伝わらない。当たった、外れたという当てもんの感覚が残るのみである。相手に信用されていないと分かっていて、本気で答えようとする者がどこにいるだろうか。
 学校という場がこうした不信を前提としてなりたっていること、そのことのほうが「学力」問題よりもよほど深刻であるとおもわれる。

○真の知的能力を測れていない
 そもそも、人類の知的能力というのは何十年単位で進歩したり急速に劣化したりするものではない。ひょっとしたら千年単位でも変わらないかもしれない。手取り足取り教えられていないものを、「学力」がないと責められたりしたらたまったものではない。
 「道徳」もその一つだが、自分たちが見果てた夢を過去の幼児期にあったかのごとくでっちあげ、そのユートピアがいまの子どもの世界にないと嘆かれても、答えに窮する。
 ほんとうの知的能力とはたぶんそのようなものではない。
 なんの脈絡もない知識をどれほど修得しているかではなく、それらの雑多な知識を生きることのなかにどう位置づけ、どう使ってゆくかということ、つまりは知識を生に照らしあわせてきちっとマッピングし、そして何がほんとうに大事な問題で、何が大事な問題でないかのたしかな遠近法をもつこと、それがほんとうの知性であるはずなのに、「学力テスト」はそういう知性を測ってはいない。

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