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虐待死事件と教育の成績主義

 南国市の虐待死事件で最もとわれなければならない本質はなにか…それは教育現場に、成績主義が導入され、教師集団が分断されて結果だと思う。06年2月議会で、国の管理教育の方向に巻き込まれる県の教員行政について、吉良前県議はこう指弾している。
 「(校長が)常に教職員の言動を見張るかのように、勤務時間を情報収集に費やしているところには、もはや、教員を励ます教育の専門家としての校長の姿はなく、ただ評価を下す傍観者としての姿があるのみで、背筋が凍る思いがします。教壇実践や困難を抱える子供を前に思い悩む教師集団とともにじっくり話し解決に向かい歩む姿など、早晩、高知の学校からは消えてしまうでしょう。」「協働と同僚性によって成り立つ学校教育の営みに冷水を浴びせかけ、わざわざ対立させ萎縮させているとしか思えません。」「この評価結果を賃金・処遇とリンクさせることは、ますます学校から自由と温かい風はなくなってしまいます。」 この指摘のとうりではないか。
 

ある先輩から、かつては、職員会議に、給食の調理員、用務員も参加して、こどもの姿をみんなが共同してとらえる努力があったと教えてもらった。それが成績主義が入り、問題を言えなくなった。言えば「そんな解決能力もないのか」と「評価」される。「いじめゼロ」と隠蔽する報告が問題になったが、それも、成績主義のなせる業だ。(この点も吉良氏がさらに突っ込んで06年12月議会で質問しています。)
 事件のおこった学校でも職員会議は、事前に議題にされたことしか、発言が出来なかったという。そうした教師の同僚性を壊し、教育を崩壊させるトップダウンの運営を国は進めている。新自由主義の教育をもっとも進めている東京では、学校経営の「適正化」と称し、職員会議の挙手、採決を禁止し、意見交換もほとんどない職場に変えられていっている。そして、結果は、個別の教師の「評価」とリンクする。こうした職場で、どうして問題を共有し、打開できる力がうまれるのか・・「もう一歩ふみこめたら」という「決意」の問題でなく、踏み込めなかった状況を作り出したものに迫らないと解決にならない。
 尊敬する元教員の先輩がこう言っていた。「子育て、教育は、工場で缶詰をつくるのとは違う。マニュアルは無益、いや有害だ。導く側の成長、心のゆとり、そしてその彼(彼女)をささえる集団をなくしては、一人ひとりの発達、成長の芽をきちんととらえて、育てることはできない」「成長というのは、失敗を繰り返すこと、学校は失敗していい場所。失敗がゆるされないという缶詰工場とは違う」と語っていたこちが思い出される

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